あんな話 こんな話  101
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その14
 
第5章 食風習・味覚文化の知恵 の3
 
 
● 美味は視覚から始まる
 
日本の食文化の中で発展した献立の形式に「本膳料理」「懐石料理」「会席料理」「精進料理」「普茶料理」などがある。
これらの料理のそれぞれには、食に対する日本人の基本的な考え方や、理にかなった料理内容と形式などが実によく表されており、日本文化の奥に潜在する侘びとか寂のような哲学感さえ抱いて構成されている。
 
これらの日本料理において、その最も重要とする共通点のひとつは、視覚からの「味付け」である。
盛る料理によって、食器の絵付けや模様、色彩、形、深さ、感触などを選び出すことは、その美味しさを一段と目から誘い出すこととなり、料理の価値をいっそう発揮させるのに不可欠なのである。
 
もちろん、西欧料理や中華料理でも料理の逸品逸品に色彩の取り合わせを重要なポイントにしている。
しかし、日本料理の場合は、配膳の仕方全体を例にするとよく理解できるのだが、多岐にわたる料理の一品ごとに、配色を考えながら、献立全体に通じるような、調和の取れた色彩を盛ることを常に心がけている点が特徴的である。
 
その色彩の演出は食欲のみならず、料理の材料にも慎重に工夫をこらす。
豆腐、サトイモの白、えだまめ、山葵、銀杏の緑、梅干し、赤かぶ、紅紫蘇の赤、菊の花、カボチャの黄、煮豆、昆布の黒、ナスビやとさかのりの紫、煮海老の紅白など自然の色を巧みに操っている。
 
うま味を引き出す演出では、常に脇役として存在する「つま」または「けん」も忘れてはならない。
 
「つま」とは、料理全般へ、あしらえとして添える物のことで、古い料理書には「つま」という字に、「妻」「具」「連身」「交」「配色」などが当てられているところを見ると、「取り合わせ」「あしらえ物」の意味を持ちながら、「彩(いろど)り」をも含めているようだ。
 
また、刺身や膾(なます)などのつまを「けん」と呼ぶが、これは「間」とか「景」から来た語とも思われている。
江戸時代の『料理献立抄』(1764〜72年)には、「権(けん)はなますのけん、俗に見なり」と解説しており、食べるというよりも、見るもの(彩り)に主眼が置かれている。
 
その「つま」や「けん」には色とりどりの材料を用いる。
さらしネギ、青紫蘇、菊の花や葉、うどの千切り、三葉、茗荷、分葱、葉生姜、大根やキュウリの千切り、生姜、にんにく、柚子など枚挙にいとまがない。
 
これらは、いずれも色彩の表現と敗色の調和をとるのに似合うものばかりであり、その上香りを持つものや口当たりや歯ごたえが快いもの、薬効を持ったものなどがほとんどであるから、みて楽しんだ後、食べて味わえる。
 
刺し身のけんである大根の千切りを例にしても、大根特有の匂いは、魚に生臭みをやわらげ、ジアスターゼを主体とした消化酵素を豊富に含んでいる。
また「シャリッ!」とした歯ざわりは、刺し身のなめらかな口当たりと対照的であるから、その感触の差は、その刺し身の持つきめのこまかさをいっそう引き立たせた上、大根の持つ水のような淡白味は刺身の肉の味を一段と高める。
したがってそれらを交互に食べるところに、味の奥義があるのである。
 
そして、赤みの刺身の色をいっそう鮮やかに引き立てさせながら、大根の純白さはあくまでもひかえめな脇役に徹するのである。
 
このように、日本伝統の形式料理をその配膳の仕方から考えてみると、それは食べて美味しく、見て美しいという生理的なもの(ハード)と、間や対比、粋といった哲学的なもの(ソフト)が、実にうまく調和していることがわかる。
 
 
 
● 燗(かん)酒考
 
わが国の清酒は燗をして飲む酒で、世界の多くの種類からみると、たいへん珍しい飲み方に入る。
 
日本でいつごろから、燗をして飲むようになったかについての正確な時期はわかっていないが、平安時代の『延喜式」にある「土熬鍋(どごうなべ)」とあるのは、燗をするために使われた燗鍋(銅鍋)であるとの見方が強く、このころからすでに熱い酒を飲んでいたことは確かのようである。
 
平安時代にはまた、徳利によく似た「瓶子(べし)」もあった。
当時、酒の燗は季節によって行われたらしく、多くの古文書には「煖酒(あたたざけ)重陽(ちょうよう)宴より初めて用うるよし」とある。
すなわち重陽説である陰暦9月9日の菊の節句の秋入りから、翌年3月3日の桃の節句の春入りまで燗酒を飲んだようである。
 
燗のいわれについて定説はないが、江戸時代の『倭訓栞(わくんしおり)』には「煖酒は熱からずまた冷たからず、その間のものなり」とあり、また他の文献には酒を徳利に入れて、湯の中で間接的に温めるから「燗」としたとある。
これらを総合すると、燗とは、酒器に酒を入れ、湯でちょうど良い温かさに加温することから来た語なのだろう。
 
今日のように、一年中にわたって燗をするようになったのは、瀬戸ものの猪口や徳利がしきりに文献や絵に登場しだした江戸中期と見られている。
 
ところで、燗をする目的であるが、昔は秋から冬の間にだけ燗を行っていたことから見ると、寒いときに早くからだが温まるように燗をし、夏の熱い酒はさらに暑さを呼ぶから、大徳利に入れて井戸水で冷やした冷酒を用いたという単純な理由が第一だろう。
よく、酒の中にある悪酔いする成分を追い出すためとの説もあるが、これは当たらない。
 
燗する第二の理由は、客を接待するとき、燗をして酒を出すという行為が、酒に手を加えてから差し上げるという振る舞いとしての習慣を作り上げ、手を加えない冷酒を出すことは失礼なことであるという、礼儀上の必要から生じたことと考えられる。
 
そして、第三の理由は、酒飲みの知恵から生まれた酔いの速さと深さのコントロールである。
冷酒は口当たりが良いから、ついついピッチも早くなり、短時間に多くの量の酒が体に入る。
そのため酔いが飲酒量に追いつかず、しばらくしてから急激にくるから「冷酒と親の意見は後から聞く」などと皮肉のひとつもいわれることになる。
 
これが燗酒だと、アルコールが鼻にきつく感じ、また味も強く感じるから、そう急激には飲めず、ついつい、チビリチビリということになる。
このような飲み方であるとい飲酒の速度と酔いのきかたがよくかみ合って、突然に深酔い気分になることはない。
すなわち、燗をすることによって、飲む間隔と宵の速度をうまくコントロールしているわけである。
 
さて今から30年も前に、ある衛生学者が興味ある研究報告を発表をした。
「わが国の酒宴の席では、互いに杯のやり取りをする風習があるが、あれは衛生学上甚だ面白くない。病原菌の口移しがないとは誰が保障できようか」としたうえで「だが諸君、安心されよ」として発表したものが、たいそう酒客を喜ばすものだった。
 
その発表とは「冷酒の中にチフス菌、コレラ菌、赤痢菌を入れると、各々の菌は20〜90分間もその中に生きていたのに、ぬる燗(40℃前後)では4分以内に全滅。ややぬる燗(45℃くらい)では則しまたは1分以内に全滅。熱燗(55℃)では即全滅した」というものであった。
盃をやり取りする酒宴の燗酒は、殺菌効果という意味で衛生学上からも理にかなったもののようである。
 
 
 
● 鍋がとりもつ一家団欒
 
現在の鍋、釜の祖先は土器であった。
粘土をこねて器をつくり、それを焼いて、素焼きの壺や鍋を発明した時から、人間は食べ物を煮炊きして食べるのが主流となった。
今から1万年も前に中近東で始まったことだといわれている。
 
それまでは、直接、火にかざして焼いて食べるか、また竹筒のようなものに入れ、熱い灰の中に埋めて食べるしかなかった。
わが国では、縄文時代早期の遺跡から尖底土器(せんていどき)と呼ばれる底のとがった煮炊きするのに使ったと思われる土器が発見されている。
 
そのような土器が長い間続き、奈良時代に移ると、寺院や宮廷では鉄や銅を使った鍋や釜が使われだしたが、民衆はまだ素焼きの土器がほとんどであったようだ。
 
平安時代の『延喜式』には、大和や河内から、鉄鍋が貢進されたとあり、また、鎌倉時代初期の『続古事談』には「銀にて鍋を作りて」とあるから、このころには鍋を作る技術は相当進んでいたようである。
 
江戸時代後半の安永年間(1772〜81)には、鉄製の浅い鍋が民衆にも出回るようになったが、これは日本人の食卓の場に「鍋を囲む」と言う団欒的雰囲気を取り入れるのにかっこうのものとなった。
 
それを裏付けるように、この浅い小鍋の出現と符節を合わせて天明年間(1781〜89)以降の多くの料理書には、それまであまりなかった鍋料理が、さまざまな種類とともに盛んに登場してくる。
 
鍋料理が広まってくると、鍋にもまた多くの種類が登場し、料理によって、使い分けられるようにもなった。
 
湯豆腐や寄せ鍋などには陶製の土鍋、すき焼きや肉鍋には広口の鉄鍋、味噌汁やけんちん汁、茹物(ゆでもの)には、浅くもなく深くもない中間物。
そして、うま煮や煮込みには、長時間加熱しても水分が蒸発しにくく、一定の温度が保てる深底鍋、炊飯や硬いものを煮るには、鋳物製で落し蓋になっていて、蒸気を逃さぬように工夫された鍋など、調理を考えての理にかなったなべが知恵と工夫から考案されてきた。
 
かように、わが国には水炊き、寄せ鍋、かき鍋、蟹鍋、湯豆腐、土手鍋、ふぐちり、すき焼き、ちゃんこ鍋、おでんなどがあり、それも土地にあった鍋が勢ぞろい。
まさにわが国は、この地球上で、もっとも密度の濃い鍋料理天国でもあるのだ。
 
世界一の鍋物大国に至った要因はいくつかあろうが、まず第一には日本の食の場が「囲炉裏」や「釜場」から出発していて、そこには必ず鍋があり、火を囲んで家族同士が食事にのぞむ習慣があったこと。
 
第二は四方を海に囲まれ、鍋物の材料となる山海の恵み物が豊富であったこと。
そして、第三に、わが国特有の調味料である醤油、味噌、日本酒、味醂などが鍋料理にうまく適合していること(ソースや多くの香辛料で調味した鍋物を想像しただけでもうんざりする)。
 
そして、第四には箸の使用で、熱く煮えたぎったものをつまみ上げ、口元でフーフーと息を吹きかけて食べる痛快さなどがあげられる。
 
このように、数多い鍋料理に共通するものは、その温かい雰囲気、一瞬でも早く飛びつきたくなるような強力な食への誘い香、そして、耳から来るコトコトグツグツという音。
これらがそろえば、もう不幸せなはずはない。
 
 
 
● 「粒食(りょうしょく)・粉食(ふんしょく)」比較考
 
穀類や雑穀類を、そのままのかたちで煮炊きして食べることを、粒食という。
これに対し、それらを挽(ひ)いて、粉にしてから調理するのを、粉食という。
 
例えば、日本人は、主食の米をそのままのかたちで炊いて食べる、粒食主食型民族であるのに対し、西欧のように、小麦を粉にしてから焼いてパンにする民族は、粉食型である。
 
後期石器時代である2、3万年前には、すでに原始的な臼(うす)のようなものがあったというが、石臼が発達して次第に粉食が開化したのは、氷河時代が終わって、人類の活動が活発になる紀元前1万年ごろからだとされている。
 
日本での石臼は『日本書紀』にある「碾磑(てんがい)」が大陸から伝わったこと、及び、考古学的発掘では、鎌倉時代中期のものが最古であるところから見て比較的新しいものとされている。
 
臼の伝来により、わが国の食生活はいくぶん多面的となったが、食の主役に置かれたのは米であったから、粉食は粒食に従属した形として発達した。
 
日本の粉食の最初は、米を挽いてその粉をこね、丸めた団子のようなものだったらしく、古くは「団粉」とも書いた。
この団子という言葉は中国にもあり、「粉を集めて丸めたもの」の意味を持つところから、団子のような粉食法は外来法であるのは確かなようである。
 
さて日本人は、粒食と粉食とを実に巧みに使い分ける珍しい民族である。
酒造りのためにつくる米麹は、蒸した米に麹菌を繁殖させた散麹(ばらこうじ)であり、また味噌や醤油をつくる時の麦麹や大豆麹も粒体型であるのに、中国や他のアジアの国々の麹のほとんどは、穀類を粉体にしてから麹を作る粉体型である。
 
日本の酒、味噌、醤油が、粒体状の麹でなければうまくいかないことを、古くから知っていた日本人の知恵であろう。
 
粒食と粉食を互いに持つ日本の餡(あん)も、その使い分けは面白い。
「つぶ餡」ならば、粒食だが、これを「こし餡」にすれば、粉食となる。
自分達の好みで食べる時は、こし餡がいいとしながらも、年頭の賀儀用として供(そな)えるのは、決まってつぶ餡である風習を見ると、日本人の祖先たちも粒食を本流にしていたことが想像できる。
 
日本人の大麦、小麦の食べ方も、これを、粒食、粉食の視点からみれば面白い。
大麦は、調理して食べるとなれば、そのほとんどが米との混炊である麦飯であって、粒食される。
だが、これが小麦となると、これを粉にして饂飩(うどん)、冷麦(ひやむぎ)、素麺(そうめん)など麺に加工しての粉食となる。
大麦と小麦との成分特性を、よく知りぬいた知恵からの使い分けであろう。
 
また蕎麦(そば)も、日本人が最初に食べたころのものは、粒そのものを飯に炊き込んだり、雑炊(ぞうすい)にしたりという、米の増量材としての粒色であった。
粉食となったのは、その後、これを粉にして湯でこね、「蕎麦掻(そばが)がき」として食べたのが始まりで、今日のように麺状になったのは、江戸時代に小麦粉をつなぎに使うことを知ってからのことである。
 
日本人が粒食型であることは、鍋や釜を見てもよくわかる。
日本では、粒物を多量の水で煮る必要から、底が深くて丸い釜や鍋の発達が進んだが、反対に西欧のような小麦粉中心の粉食地域では、水分の少ないことを特徴とする調理に適するように、そこが浅くて平たいフライパンが発達してきたのである。
 
粒食形か粉食型かによって、またその民族の主食の違いによって、調理法や料理の道具が異なるのは、その民族の食の伝統と知恵とが決めることなのである。
 
 
 
● 「食の文化」に国境なし
 
12月25日はクリスマスである。
「外国ではこの日に、七面鳥を食べる週間がある」などと、小さいときに教えられたものだ。
よく調べてみると、アメリカにわたったイギリスの移住民が、収穫祭用に供したのが始まりらしい。
 
デコレーションケーキも、クリスマス・イブには、日本では飛ぶように売れる。
このようなクリスマスの風習が、いつ、どういう過程で入ってきたのかは知らないが、すでに大正の初めには、銀座かいわいでクリスマス・イブ用のデコレーションケーキが売られていたという。
 
このごろでは、日本人の家庭にも、クリスマスが定着した感がある。
そして、ケーキを売らんがための大声が、街中に響くのを耳にするとき、クリスマスというより、「今年も暮れるな」という歳時記のような、そしてまた、商店街の歳末大売出しの幕開け宣言といったような、感覚がわき起こるのは筆者だけではあるまい。
 
イブの夜には、日ごろ忙しい父親でさえデコレーションケーケイキを土産に持ち帰り、待っていた家族らと久しぶりの一家団欒を過ごす。
ケーキをテーブルの中央に置き、すき焼きか水炊きなどの鍋料理を囲み、妻や子供らは(アルコールの含まないような)シャンパンを、父親は日本酒か焼酎のお湯割りチビリチビリとやって、和洋折衷宴が広げられる。
 
さて、筆者は最近、その「和と洋」の食べものをさまざまに比較してみて、おもしろいことに気がついた。
 
四方を海の囲まれた島国日本。
そして歴史の中で、文化の発展上、最も大切な数百年間、他国との交流がほとんどない孤独国だった日本。
そのような環境の中で、生まれ育った日本の食べ物が、実はよくよく観察してみると、外国に既存する食べものと、あまりに似ていることに気づいたのである。
 
その例をいくつかあげてみよう。
洋のエスカルゴに対して、和に田螺(たにし)があり、以下、スパゲティ・マカロニ=うどん、蕎麦、サンドイッチ=おにぎり、キャビア=イクラ・筋子、ロブスター=伊勢海老、ロックフォールチーズ=くさや、干しぶどう=干し柿、メロン=瓜、オニオン=ねぎ、ソース類=醤油、バーベキュー=焼き鳥、ビッツァパイ=お好み焼き、胡椒=山椒、カスタードプリン=卵豆腐、ハム=蒲鉾、鶏がら=鰹節、マッシュルーム=キノコ、アンチョビソース=塩魚汁(しょっつる)、ポタージュスープ=味噌汁、紅茶=緑茶、ワイン=日本酒、ウイスキー・ブランデー=本格焼酎、ウオッカ=新式焼酎、マールブランデー=粕取り焼酎・・・・・・まだまだ、枚挙にいとまがない。
 
このように、日本人が古くから持っていた食べものは、実は日本以外の国にあるものと、基本的にはそう大差がないのである。
だが、これは単なる偶然に一致なのではなく、日本人が長い間、知恵をしぼって価値ある食べもの、うまい食べものを、あくなく求め続けてきた結果に基づく当然の帰結なのだ。
 
すなわち、食の方法こそ、民族によって異なるが、そこで作り上げた食の文化の究極とするところは、どんな民族でも同じということなのである。
 
人はいつの世にも、うまいものを求める。
国が違っても、民族が違っても、それを求める心に差がなく、そして、得られたものの本質とするところは、これまた同じところに帰結するのである。
 
 
 
● 言葉も味のうち
 
日本人の味覚に対する表現や、料理に使う粋な言葉には、うっとり感じ入るほどの妙味を持ったものが多い。
 
料理の基本となる水を例にしても、「甘い水」といった表現があったり、調理言葉にもたとえば、料理に使う水を「種水(たねみず)」といったり、水で薄めるのを「水で割る」、水を除くのを「水を切る」などという。
これに熱が加わって、湯になっても「白湯(さゆ)」とか「湯がく」「湯引く」などの語ができている。
 
「両手の掌(たなごころ)をちょいと濡らして、粗塩(あらじお)をつけ、軽く塩を振る」などという表現の粋(いき)さには、今、目の前で料理が行われている感覚にさえ誘われる思いである。
 
その塩には「波の花」といったきれいな異名を持たせたり、「化粧塩」とか「塩塩梅(しおあんばい)」のような、洒落た語をつけて粋な料理法とする。
 
醤油もそうである。
濃口(こいくち)」、「淡口(うすくち)」、溜(たまり)のような種別をあらわす語のほかに、「紫」の異名を持ち、「割りしょうゆ」「照り醤油」「卸し醤油」「割下(割りした)」といった調理用途別の呼び方まで持っている。
 
日本人がこれらの粋な言葉や的を得た心にくいばかりの表現を数多く作り出したのは、それらの言葉や表現を通して、日本料理の繊細で高度な技を、正統な手法により後世に正確に伝えるための知恵と手段だったからだ。
 
「笹掻(ささがき)」といえば、牛蒡などを笹の葉のように薄く削ることだが、そんな説明抜きでも、この言葉だけで誰でもそのように削り込めるし、「薬味(やくみ)」といえば、何もいわなくても、料理によってその出し物が決まる。
 
そして、「造り」と言う魚の生食は、「ああせい、こうせい」などといちいちそのつくり方を説明したくとも、糸造り、薄切り、平造り、はね造り、洗い、叩き、削身(そぎ身)、鹿子(かのこ)造りなどといったほうが、より正確に理解できるのである。
 
このように、味覚に対して、驚くべき繊細さを持った日本人は、その感覚や方法を実に正確に、そして味のある言葉に置き換える能力を持っている。
 
面白い例をひとつ紹介してみよう。
日本酒を利(き)く(実際には口に含んで風味を評価する)時、匂いについての評価についての用語には麹香、吟醸香、老(ひ)ね香、酸臭など実に80種もの表現があり、酒造現場ではこれを実際に嗅ぎ分けているのである。
 
匂いだけではない。
味でもコク味、まる味、重い味、軽い味、雑味、若い味、老ねタ味、渋み、酸味、辛味、甘味、苦味、くどさ、切れ味など、これも70数種にも区別して表現し、実際に利き分けているのである。
 
色とても同じで、照り、さえ、ぼけ、濁り、山吹色、コハク色など20余種に区別できる能力を持っている。
 
ひとつの香、味、色を、200位階表現に区別して聞き分けている国など、日本以外の国には見当たらない。
 
この日本酒をはじめ、味噌、醤油、焼酎、漬け物、製茶、のり、鰹節、蒲鉾など、日本で生まれ育った嗜好品をつくる際の古くから伝わる独特の専門用語を集めたならば、その言葉や語句には、おそらく数千種にものぼるだろう。
 
日本人が料理ヤ嗜好品を通して、日本人だけに通じる言葉を多数発明したのは、日本人の奥深い知恵と繊細な感覚、そして粋な表現能力によるものである。
このすばらしい食の言葉や表現をいつまでも守り続けていくことこそ、日本料理を今後も伝統ある文化として継承していく、大切な要素のひとつなのである。

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001