あんな話 こんな話  102
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その15
 
第5章 食風習・味覚文化の知恵 の4
 
 
● 茶もまた天の美ろくなり
 
茶の木はツバキ科の常緑植物で、インドから中国雲南省にわたる山系が原産地とされる。
したがって喫茶の期限は中国にあるといわれ、中国の古い本、たとえば、3世紀半ばごろの『広雅(こうが)』には喫茶の方法が具体的に記述されている。
 
それによると、当時湖北と四川の間の地方では、茶の葉を固めて作った磚茶(たんちゃ)とか、あるいは茶葉を砕いてこれを茶碗に入れ、ネギ、生姜、橙などを刻んだものを加えて飲んだという。
 
その当時はまだ、茶という字はなく、「苦」とか「茗」という字が当てられていたようで、茶は飲んで楽しむというより、解熱、眠気ざまし、心身強壮などの医薬用に使われていた。
 
その後、仏教会では、酒が五戒にひとつとして戒められていたこともあり、飲酒に変わって、喫茶が奨励され、一段と普及していった。
 
わが国でも仏教伝来とともに喫茶の習慣が見られるが、これは遣唐使や留学僧らが中国から茶の苗木を持ち込んできて、これを寺院やその境内に植えたのが始まりといわれる。
 
史書に書かれた最初の茶は、桓武天皇の時代に伝教大師最澄が唐から茶を携えてきて、近江国坂本に植え、その後、弘法大師も帰朝の折に持ち帰って肥前長崎に植えたとされている。
しかし、当時、茶を用いたのは貴族階級や僧だけであって、その使い方も薬用としての性格が強かったため、平安時代からの飲用は一時中絶に近い状態であった。
 
それを復興させたのが、建久2年(1191)、中国から帰国した栄西禅師で、宋より多数の苗木を持ち帰り、肥前の平戸島や筑前の背振山に植えたのが各地に広まった。
 
茶祖の栄西禅師がもたらした茶のつくり方は、茶を粉末にした抹茶方式であったが、賢い知恵者の日本人は、この抹茶の性状を利用して、室町時代には、中国の喫茶方式とはまったく異なった茶の飲み方、味わい方を確立した。
 
茶道の祖・村田珠光や茶匠・千利休といった名匠たちによる「茶の湯」(茶道)がそれである。
茶を単に薬用や嗜好物としてだけの捉え方をせず、茶の湯によって精神を修養し、これを他人と行って交際礼法を極める道にも使ったのである。
 
この雅趣に満ちた高尚な修道確立の背景には、茶の木を育てた日本の肥えた土地と気候風土、そして、よき地下水と湧水など日本ならではの条件がそろっていたからこそ、なしえたわざなのであろう。
江戸時代初期には、煎茶の飲用も広まった。
 
緑茶は、紅茶の発酵茶、ウーロン茶の反発酵茶と異なり、非発酵茶である。
また、中国の緑茶は、釜いり法であるのに、日本の煎茶、玉露、番茶、玉緑茶(嬉野茶と青柳茶だけは例外で釜いり)は蒸し製法であって本場とは異なる。
 
これは天文3年(1534)、山城国(今の京都府の南部)湯屋谷の永谷宋円が嫩葉(わかば)を蒸して揉(も)み、乾燥して捻(ひ)ねるという画期的な製法を発明したためである。
 
これによって、茶の品質は著しく改良され、長く風味を保つことができるようになった。
そして、上品な味と香りを持った日本独自の茶が誕生し、日本の茶は庶民の茶として広く普及するに至った。
 
茶の上手な入れ方
お茶は味と香りが生命である。
よい茶は減速として低温で、時間をかけて浸出する。
玉露は50〜60℃で2〜3分、抽出煎茶は80℃で1分程度抽出し、香りや味を十分引き出すようにする。
番茶の場合は、100℃の沸騰した熱湯で、しかも短時間抽出して、すぐ茶碗に注ぐとよい。
 
湯の温度が高すぎると、香りが早く逃げてしまい、逆に渋み成分が急速に出てくるから、上質の茶には低温湯がよいということになる。
番茶は香りが乏しいから熱湯で香りを出し、短時間にして、渋みの溶出を最小限にとどめるのがコツ。
 
 
 
● 「重さ」と「軽さ」
 
日本の料理や食べものには、「濃と淡」、言い換えれば「表と裏」、はたまた別の視野から見れば「重さと軽さ」といったような、妙味ある対比がしばしば見うけられる。
 
例えば、醤油には濃口(こいくち)と淡口(うすくち)があるし、味噌には赤だしのような濃い味の赤系のものと、西京(さいきょう)のように淡い味の白系ものがある。
 
日本人のこのような「重さと軽さ」の食文化の背景には、粋な感覚が色濃く感じられるのである。
そこには「表と裏」とか「吸気と呼気」のような一体性のものや、「本音と建前」といった洒落た感覚さえも、潜んでいる気がしてならない。
 
例えば、豆腐と油揚げ。
豆腐は色が「淡」であり、油揚げは「濃」。
豆腐には味の「軽さ」があり、反対に油揚げは「重さ」がある。
豆腐はさっぱりした明るさがある「表」通りだが、油揚げは人情味あふれる「裏」通り。
豆腐が「本音」であれば、油揚げは「建前」なのである。
 
こうした見方をすれば、味噌汁と吸い物の対比にも面白さがある。
一方は濁って、不透明、具はゴロゴロ入っているが、他方は澄み切って透明。
味もあっさりしている。
肝心な味のつけ方も、味噌汁が「重み」のある味噌汁なら、吸い物は「軽く」塩味でかわす。
 
魚のすり身を調味して、これを蒸したり焼いたり、油で揚げたりすると、蒲鉾や薩摩揚げとなる。
特有の弾力と歯応え、そして、うまみの強さが特徴だが、これを「重さ」とすれば、半片は、その重さに対抗して意識的に作った「軽さ」である。
魚のすり身だけでは、味が濃いとし、これに淡白なヤマイモの粉や、片栗粉(ジャガイモデンプン)を加えて軽さを増す。
それらの粉はまた、起泡性を保つ役割をするから、半片は多孔質状に固まり、歯に軟らかく当たる。
 
玉露や煎茶は、味や香りの濃さに「本音」の感があるのに対し、番茶は淡さで「建前」の感覚。
古漬けが「重さ」なら、浅漬けは「軽さ」。
日本酒に甘口あれば、辛口があって、辛口は味にキレのよさがあり「軽さ」を持ち、甘口には芳醇なコクが豊かで「重さ」が良い。
 
焼酎にも、はっきりした重さ軽さの区別がある。
旧式蒸留機で蒸留した乙類は、味も香りも高く濃型。
これに対し、新式蒸留機での甲類は水とエチルアルコールだけという単純な構成なので淡型。
 
刺身にさえ、日本人は重さと軽さを区別する。
赤身の刺身は味も色も濃く、口に入れると、口中がうま汁で充満するから濃型。
白身は味も色も淡白で、軽く上品な舌触りは淡型である。
すき焼きとしゃぶしゃぶも、鰻の蒲焼と白焼きも、塩辛の黒作りと白造りも、重さと軽さの対比物なのである。
 
このように、日本には、同じ食材や食べものの中に、互いに相対比させながら、重さと軽さの双方で食する食性があるのは、実に面白いことである。
この粋さの背景には、ただの混じりけのない湯さえも「白湯(さゆ)」といったり、水の量も多くして、米を炊いた時の糊状のものを「重湯(おもゆ)」などという、日本人ならではの表現感覚が潜在しているためであろう。
 
このことはまた、日本人特有の対比文化に影響されたところが大きいためと思われる。
 
 
 
● 垂汁(たれ)を守る気質
 
垂汁。「たれ」と読む。
煮物や焼き物に用いる。味の濃い調味料のことである。
もともとは味噌や醤油の原型である「未醤(みしょう)」の垂れた汁から始まった言葉で、「味噌タレ」「生タレ」などの語があり、また醤油の元祖とも言うべき「たまり」(大豆のみを原料とした色と味の濃厚な醤油)という名は「タレの溜(たま)ったもの」の意を持つ。
 
鰻の蒲焼の匂い。
あの食欲をそそる匂いは、鰻の脂と身とタレが、火に焙られて、焦げたものである。
 
したがって、鰻の開きだけを焼いて出るという簡単な匂いではなく、これにタレをつけて焼く時のみ発生する芳醇さを持った匂いである。
日本人好みの焼き物にタレがいかに必須で重要な役割を果たしているかが、発生する匂いからもよくわかる。
 
古くから、鰻屋の生命はタレにかかっているというほど、大切なものとされ、タレの年齢で、店意の暖簾(のれん)の格が決まるとまでいわれた。
だからこそ、年期を終えた職人が、新たに暖簾を分けてもららう時には、主人から、わずかのタレを「種ダレ」として、分けてもらうことが最大の祝儀だ、とも言われてきた。
 
普通、タレは醤油と味噌を半々に混ぜ合わせたものに、調理時に出た頭や中骨などをさっと焦がして、これに入れ、沸騰直前まで加熱したものを冷やして原液とし、この原液に日本酒や水飴などの秘事物をほどこしてつけ汁とする。
 
毎日、この漬け汁に具の「漬け焼き」が続くと、濁ったタレには、鰻のうま味が豊富に混じっていくから、決して、捨てることはなく、古くなるほど美味となり、永く保存しながら、減った分だけ補給する。
 
タレは、鰻の蒲焼だけではない。
焼き鳥のタレにも、秘伝じみたノウハウがあり、照り焼きにも、貝の串焼きにも、タレがなくては始まらない。
 
醤油と味醂という、日本独特の調味料を実にうまく混ぜ合わせたこの液は、他民族とは比較にならぬほど焼き物好きの日本人を育て上げてしまった。
 
鰻の蒲焼や焼き鳥のタレと同じく、多年にわたりつけ込まれながら使い古されたものが珍重されるものに「くさやのつけ汁」がある。
新島や大島といった伊豆七島の近海は、昔からムロアジ、トビウオの好漁場で、その上、干物を作るのに絶好の干し場(白砂地)があったから、干物の製造は盛んで、江戸時代の末期には、すでに上質の塩干し魚がつくられていた。
 
一方、この地方は食塩を年貢として幕府に納めていたが、その塩の取立てが厳しく、そのため、塩干し魚製造のための塩にも制限があった。
そこで、窮余の策として、一度、塩漬けして残った塩汁を、何回も繰り返し使っていたところ、そのうち、塩汁が発酵して異様な匂いを持つ汁となった。
 
しかし、この塩汁には発酵によって生まれた捨てがたいうま味があって、それに匂いも独特であったので、この汁につけた魚を試しに江戸に送ったところ、江戸の食通の間で大変珍重されるようになり、「くさや」が誕生した。
匂いが大変臭いので、そのまま「くさや」の名がついた。
 
クサヤムロ、ムロアジ、マアジ、サバ、タカベ、トビウオなどの原料魚を腹開きにし、エラや内臓、血合いを除き、樽の中で2、3回水洗いしたあと、くさや汁に数時間漬け、簀の子に並べて日干しし、これを幾度か繰り返して、べっこう色に仕上げる。
 
このくさや汁は、くさや製造業者の最も大切とする原料のひとつで、新たにこの汁をつくる時には天然水(雨水や井戸水)に土地の粗塩を使い、長年、漬け込まれてきた汁を種汁として加えて発酵させ、特別のノウハウにより、馴れをよくしてから、大切につけていく。
 
己の暖簾に誓って、タレや漬け汁をあくまでもかたくなに保守し続けて、自らの味に伝統と誇りを持って、堂々と業を営んでいる。
そんな人に合う時、日本人特有のすがすがしい頑固さをいつも感じるのは筆者だけではあるまい。
 
 
 
● 串に浪漫を見る
 
「串」は、細くて小さく、線のような棒だが、日本人の食生活にとっては、実に大きな役割を果たしてきた裏方役者である。
そこには、串を介しての日本人のさまざまな知恵と発想が理にかなって潜んでいるから面白い。
 
大体、日本ほど串を使った料理が多い国は珍しい。
その代表が鰻の蒲焼。
この日本人好みの食べ物をつくるのに、串がなかったことを想像したことがあるだろうか。
串がなければ、実に心細くなってしまうものである。
 
開いたものを、形よく広げたまま、一様に蒸したり、焼いたりするには、打った3本の串の役割は誠に大きいのであり、そしてその串を持って、さっとタレにつけてまたあぶり、ひょいと裏返しにする。
これを箸でやっていたのでは、肉はたちまち崩れて形が損なわれるだろうから、イライラのし通しとなる。
 
焼き鳥も、あれが箸で食べるものだったら、情緒はまったくなくなる。
肉や臓物を串に差して、これに日本だけのタレ(日本酒、味醂、醤油など日本にしかない材料で作るのがうれしい)をつけて、木炭(すみ)火でつけ焼きするあの純日本的風景。
 
もうもうと快香を持った煙、脂ぎった赤提灯、黒い煙でヤニだらけの天井の下。
そんな雰囲気の中で、串をつまんで焼き鳥を食うとき、まことにここは日本であることを実感する。
 
そしてなんといっても箸など使うことなく、あのアツアツの串を手に持って、口にくわえて、グイと引き抜く快感は、まさに日本人としての実感を語るにふさわしい一場面である。
 
串料理といえば、田楽焼きも舌と心を躍らせる。
豆腐、こんにゃく、ナスなどを串に刺し、味噌をぬって、焼き上げる。
魚を用いたのは魚田、大根、蒟蒻、タコ、魚肉練り製品を材料とした煮込み田楽は、通商「おでん」(関西では関東煮)として人気が高い。
 
代表的な豆腐田楽では、豆腐を厚さ3〜4分の長方形、または扇の地紙型に切り、一本串なら縦に、日本くしなら手元に節をつけて散り松葉のようにつくったものを、末広型に開いて横にさす。
 
ほかに団子、串揚げ、たこ焼き、鮒やワカサギの雀焼き、川魚の塩焼き、イカ姿焼き、貝焼き、竹輪、きりたんぽ、ろばた焼き、ネギ、ギンナン、きのこの串焼きなど、串慮料理にはこと欠かない。
 
串にはまた、焼いたり煮たりするときの支えとしての使い方のほかに、日本には別の大切な用途もある。
鮎や鯛などの魚を塩焼きにするとき、姿よく焼き上げるために行う「串打ち」。
これは日本ならではの串術である。
また「うねる串」とは、アジやサンマなどを焼くとき、ぴんと体を張らせるための支串(ささえくし)である。
 
このように、日本で串が大いに発達してきたのは、串料理に合う食材が日本国中の山海に極めて豊富にあったこと、そして串料理の味付けにピッタリと合う調味料(日本酒、醤油、味醂、味噌など)が昔から醸しだされていたこと、さらに串そのものの材料となる植物、とりわけ竹がだれにでも手の届くところに自生することなどの理由からだろう。
 
串刺しの 鮎まだ濡れて 火を囲(め)ぐる  (瀧春一)
 
 
 
● 憧れのにぎり飯
 
にぎり飯は、米を主食とする日本人にとって、常に郷愁を抱かせてくれる食べものである。
 
一昔前、熱い炊き立ての飯をフーフーいいながら手で丸めていくエプロン姿の母親、それを腹をすかせて今か今かと待つ子供たち。
この白くずっしりして、丸く温かく、そして軟らかいにぎりめしには、母親の素朴な愛情が握りこまれているようで、うれしいものであった。
だから、この白い飯の塊に、塩や味噌で味付けするだけで、もう十分に美味なのであった。
 
昔はこのにぎり飯を「屯食(とんじき)」ともいった。
江戸時代の『貞丈雑記(ていじょうざっき)』には「屯の字をアツムルと訓(よ)み、強飯を握りかためて鳥の子の如く丸くしたるをいう也。今も公家方にてはにぎり飯をトンジキという由、京都の人物語せり」とある。
 
飯を握るから「にぎり飯」、結ぶので「むすび」といったが、新井白石の『東雅(とうが)』には、古事記の「産巣日(むすび)」(万物を生み、成長させる神秘で霊妙な力を持ったもの)についての条(くだり)もある。
 
にぎりめしは、江戸では円形ないし三角形に作る。
この素朴で簡易な飯のかたまりには、昔から、日本人を大いに重宝させてきた知恵がある。
 
その第一は、主食の米をただ塩や味噌で握るだけで、野良仕事や旅の携帯食としてだけでなく、火事や水害などのさまざまな災害時の非常用炊き出しとして、抜群の即席性をもった主食としたこと。
 
第二は、この飯のかたまりを即席食だけにとどめずに、飯の中に梅干し、削り節、タラコ、鮭、塩辛、漬物、佃煮などを詰めたり、表面をのりやとろろ昆布で覆ったり、醤油や味噌を周りにつけてから、こんがりと焼くなどして工夫することにより、粋な定食のひとつともしたことである。
 
こうすれば、食器はほとんど使うことなく手間が省けるうえ、手からもうまさが伝わってくる。
そして、場所を選ばず、座って食べても、たって食べても、時には歩きながら食べても、さほど行儀悪く思われないという不思議な主食ともなるのである。
 
ここ数年の外食店の繁盛で、街のいたるところにおむすび屋ができた。
「米は本場のササニシキ」とか、「コシヒカリのおむすび」とかいった銘柄米を使い、おむすびの中には削り節や鮭、タラコなどが入っているから、まずかろうはずはない。
 
だが、買って食べてみると、どうも昔食べたおむすびの味とは少し感覚が違う気がする。
型はまさしく機械か型器で成形していて、はだがきちんとそろいすぎて、どうみても昔のような、どっしりとした感じがない。
昔のおむすびを知っているものにとっては、いささか物足りない気もする。
 
にぎり飯では両手に水をつけ、粗塩を塗りつけ、ご飯をとりあげてかたく結ぶとき、両手の温かみとか湿り気とか塩気が、飯の神秘ともいえる芳香と相まって、微妙なうま味が引き出されるからなのだろう。
 
なつかしのおにぎりのつくり方
 
■ 焼きおにぎり
三角に握った結びを焼き網で香ばしく焼いて、さっと醤油を塗る。
あるいはフライパンに油大さじ1を熱し、これにおにぎりをのせて焼く。
全体に焦げ目がついたら、醤油大さじ1を鍋肌にそっと入れて、おにぎりにからめる。
醤油の代わりに、味噌をからめて網で香ばしく焼くのも、素朴な味が楽しめる。
 
■ 茶漬けむすび
青菜の塩漬け(高菜、広島菜など)一枚広げてこれに三角むすびを握ってつつむ。
青菜の代わりにとろろ昆布で包むのもよい。
 
■ 赤紫蘇むすび
梅干しをしんに入れた三角むすびに、薄く味噌を塗り、この両面に紫蘇の葉をつけ、焼き網にのせて軽く焦げ目がつくまで焼くと、昔なつかしの香味をもった素朴な焼きおにぎりができる。
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001