■ あんな話こんな話 171
 
自発的治癒とは何か
「癒す心、治る力」
アンドルー・ワイル著 上野圭一訳
角川書店 刊
その2
 
 
■2章 我が家の裏庭で
●寡黙な老医師
1973年に南米旅行から帰国した私は、やがてアリゾナ州のトゥーソンに住みつくことになり、以来そこで暮らしている。
砂漠の自然環境がいたく気に入り、地元の人間や環境ともいい関係が結べるようになったからだった。
親しくなった人の中に、アリゾナ大学で文化人類学を専攻する大学院生、サンディ・ニューマークがいた。
サンディはカタリナ山脈のふもとにあるエスペレーロ・キャニオンの、わたしの家のすぐ近くに引っ越してきた。
やがて文化人類学を捨てて、アリゾナ州中部のホワイトマウンテンズに移り、しばらく畑仕事をやっていたが、そのうちにトゥーインに舞い戻って、医学校に入学した。
いまでは、わたしの子どもたちのかかりつけの小児科医になっている。
 
サンディと臨床心理士の妻リンダの間にはソフィアという娘がいたが、その子は発育が遅れていた。
ソフィアが乳児のころ、ニューマーク夫妻は多くの友人達からさまざまな治療法をすすめられた。
あれこれすすめられた治療法のひとつに、ロバート・フルフォードという、一風変わったオステオパシー医によるものがあった。
フルフォード博士はありとあらゆる小児科疾患の治療にめざましい成績を残しているということだった。
期待をもったサンディとリンダはソフィアを連れて行き、ソフトな「頭蓋療法」を何回か受けさせた。
アリゾナ大学医学校の一年に在学中だったサンディはその療法に興味を持ち、しばらくフルフォード博士にもとではたらくことになった。
 
サンディはことあるごとに、私にフルフォード博士と会うべきだといっていた。
しかし、どうも食指が動かなかった。
理由の一つは、オステオパシーに対する私自身の無知にあった。
医師にありがちな偏見から、当時のわたしは、オステオパシー医を、カイロブラクターによく見られるような、道楽半分に手技をもてあそぶ二流の医師ぐらいにしか考えていなかったのだ。
もうひとつの理由はおそらく、辺境の旅から徒手空拳で帰ってくるという苦い経験をくり返していたにもかかわらず、彼方に異文化にヒーラー兼導師を見つけるというロマンティックな夢想がまだ忘れられなかったからにちがいない。
だが、あまりにも多くの人から何度もフルフォード博士に会えといわれるので、さすがのわたしもついに博士の診察室に足を運ぶことにした。
 
ボプ・フルフォードは当時、70代後半だった。
シンシナイティでの超多忙な診療生活から身をひき、引退生活を送るつもりでアリゾナに移住してきたという。
疲れたからだを癒しながら一年を過ごしたある晩、知人から、子どもが肺炎で重体だという緊急電話がかかってきた。
その赤ん坊は入院中だが抗生物質も効かないというのだ。
フルフォード博士は病院に駆けつけ、応急の手技をほどこした。
翌朝、赤ん坊は危機を脱していた。
それから何時間もたたないうちに、治療をもとめる多くの人からの電話がいっせいにかかりはじめた。
気がつくと、容赦なく引退生活からひきずりだされ、独特のオステオパシー医学の診療に追いまくられる生活にもどっていた。
 
私はまず、フルフォード博士の診療室の簡素さに感心した。
看護婦を兼ねた受付係のいる待合室と治療室が二つ、それだけである。
壁につるされたカンザスシティ・オステオパシー大学の卒業証書の額以外には、これといった飾り物も、診療室らしい器具もなにもなかった。
博士はやさしい祖父といった風情の人だった。
大柄でたくましく、しかもくつろいだ感じで、その手は包み込むように大きかった。
おだやかな声で、控えめに話した。
わたしはかねてから評判を聞いていたことを告げ、自分でも治療を受けてみたいと願い出た。
 
「ほうどうしました」 彼はたずねた。
「たいしたことはないんですが」 わたしはいった。
「首がちょっと気になって、ときどくひどく凝って、痛むんです」
「では、なにができるか、みてみようか」
 
彼は立つように指示すると、わたしの両肩に手を触れながら呼吸を観察した。
それから、私の頭をあちこち動かした。
「その台に横になって」といわれた。
あおむけに横たわったったまま、わたしは彼が長いコードのついた奇妙な器具を持ってくるのをみていた。
それは歯科医が使うドリルモーターを改造した「パーカッション・ハンマー」で、上下に振動する分厚い金属製の円盤がついていた。
フルフォード博士は台のそばのスツールに腰かけると、振動率を調整し、円盤を直接わたしの右肩に当てた。
右半身全体に波動が走るのを感じた。
心地よくリラックスしてきたが、たいした治療だとは思えなかった。
数分後、博士は器具を持つ手を軽く引き、「そら、母さんが動いたぞ」とつぶやいた。
そして今度は、パーカッション・ハンマーを右の臀部に当てた。
そうやって何箇所かに移動させ、20分がたった。
わたしは夢見心地だった。
彼は機械のスイッチを切るとスツールを移動させて治療台の端にすわり、わたしの側頭部に両手をあてて、指をそっと目の上に置いた。
 
それから数分後、わたしの頭を静かにゆすり続けた。
この上ないやさしさで、頭のあちこちをふわっと圧力を加えた。
それはわたしが知っているどのボディワークよりもおだやかなもので、こんなものでなにか効果があるのかと疑わせるほどだった。
と同時に、自信に満ちた練達の手に支えられているという、深い安心感も感じた。
 
治療のその段階が終わると、フルフォード博士は私の四肢の可動性を調べ、上半身を起こすように指示した。そこで背骨をポキッと鳴らす、おなじみの手技を二、三ほどこして治療を終えた。
 
「さあ、これでいい」彼はいった。
「何か問題は?」わたしたずねた。
「たいしたことはない」彼が答えた。
「右肩に多少小拘束があり、それが肩の痛みを起こすんだろう。君の頭蓋インパルスはとてもいい」
 
「頭蓋インパルス」がなんなのかはわからなかったが、とてもいいと聞いて悪い気はしなかった。
「首の拘束」がなにかも、それが首の凝りにどう影響するのかも、サッパリわからなかった。
しかし、それ以上の説明はなく、「時間だ」といわれただけだった。
「見学はいつでも歓迎するよ」ともいわれた。
 
治療費がわずか35ドルだと知って拍子抜けした。
得られたリラクセーションの対価だけを考えても安い買い物だという気がした。
それにしても、あの最小限の介入法が、聞き及んでいた博士の治療の華々しい成功譚にどう結びつくのか理解できなかった。
もう一度いって、じっくり見てやろうという気になった。
 
 
●たぐいまれな手技
 
翌日、私は以外にも疲労感と痛みを感じた。
電話でフルフォード博士に、それが治療の影響でありうるかどうかを聞いてみた。
「そうさ」彼はいった。
「それは完全にノーマルな反応だ。2日ほどつづくかもしれないな」
そのとおりだった。
3日目、私は爽快感を感じ、首の痛みもほとんど気にならなくなった。
だが、それ以外の変化は感じなかった。
 
約1ヵ月後から、私はグランドロードにある博士の小さな診察室で週に数時間を費やすことに決め、治療風景を観察し始めた。
診療室はいつも満員だった。
親子連れが多く、それも白人系・メキシコ人系・アジア人系、都会風・田舎風と、南アリゾナの多様な人口構成の見本のような顔ぶれだった。
全員が治療結果に大きな期待をいだき、博士の顔を見るだけで満足しているようだった。
どう少なく見積もってもフルフォード博士が、その温かみのある存在に接しただけで人々を安心させ、つねに身をもって健康であることを示しつづける、古風な家庭医の卓越した役割のモデルであることは確かだった。
 
博士の診療を観察していて、私はその問診と検査の簡潔さに感銘を受けた。
初めての患者が入ってきても、わずかしか質問しない。
「どうしたのかね」「それはいつはじまった」「子どものころ、高いところから落ちたり、ひどく激しく倒れたりしたことは?」「生まれたとき、どんなようすだったか、聞いているかね」が定番の問診で、後はせいぜい2、3の質問をするだけだった。
それから患者を立たせ、四肢の動きと呼吸を調べ、首を回し、治療台の上に横にならせる。
ほとんどの患者に、私にしたのと同じような治療をほどこす。
パーカッション・ハンマーでソフトな振動をあたえ、何らかのエネルギーが生じるまで(そのとき、器具を持つ手をあげる)からだのさまざまな部位にあてておく。
つぎに頭部にゆっくりと、あるかなきかの微弱な手技を加え、最後に背部のわずかな調整を行う。
 
どこが悪いのか、なにをしようとしているのかについて、自分のほうから説明することはほとんどなかったが、患者に聞かれれば短い言葉で答えた。
ほとんどの患者は何も聞かず。黙って医師の治療に身をまかせていた。
フルフォードの手の中では、だれもがリラックスしていた。
むずかり、駄々をこねる子どもたちでさえ、博士の手がふれるとすぐに静かになった。
 
治療が終わると、博士はしばしば患者に、毎日特定の体操をするように指示した。
それは見たことのない奇妙な体操だった。
たとえば、よく処方する体操はこんな具合である。
両足を肩幅の感覚に広げて立ち、左の手を天に、右の手のひらを地に向けて、両腕を左右いっぱいに伸ばす。
深く規則的な呼吸を続けながら、腕と肩が緊張に耐えられなくなるまで、そのままの姿勢を保つ。
それから、できるだけゆっくりと両腕を頭上に上げ、頭上で両手をつける。
そして両手を下げ、力をぬく。
 
なにを狙っているのだろうか? 博士に聞いてみた。
「胸を開き、呼吸をひろげるためさ」が答えだった。
別のフルフォード体操はこんな具合だ。
椅子にごく浅く腰掛け、肩幅に開いた両足をぺたっと床につける。
前屈して両腕を両足の内側に入れ、両手で両足の裏をつかむ。
そのままの姿勢を2、3分保っていると、脊柱下部をやさしく延ばすことになり、背骨の可動範囲が広がる。
再診の患者を見ながら、博士はよく「体操をしていなかったな」「いいぞ、ちゃんと体操したね」などといった。
患者はいつも、そのとおりだといっていた。
 
患者の手放し方もみごとだった。
「今度はいつくればいいですか」治療台から降りながらそうたずねる患者に「もう来なくていい。きみは治った」と博士はいう。
「でも、仕上げが必要なのでは?」と不安がる患者には、にこっと笑い、首を振りながらこう答える。
「きみのからだのなかのショックはわたしが取り除いた、あとは母なる自然の仕事にまかせようじゃないか」
もしフルフォード博士の患者になにか不満があるとすれば、それはもう博士に会えなくなるということなのかもしれない。
治療の経験はそれほどすばらしいものものだったのである。
 
わたしは徐々に、自分がなにかとてつもなく非凡なものを観察しているのだということに気がつきはじめた。
力強い手を持つこの寡黙な老人は、噂のとおり、じつにさまざまな愁訴をもってやってくる人々を癒した。
それもしばしば、ただ1回の、表面上は最小限の刺激に見える治療によって癒した。
現代医学ではどうしても治らなかった積年にわたる悩みがフルフォード博士の1度か2度の治療で解消されたという話を、私は際限なく聞かされた。
その悩みはたんに凝りや痛みといった筋肉格系の疲労症状だけではなく、ホルモン系・消化器系の症状、不眠、喘息、耳の疾患など多岐にわたっていた。
かくもソフトな治療がなぜあのようにめざましい結果を生むのだろうか。
 
 
●一次呼吸メカニズム
私は博士にその方法の秘密について質問をしはじめた。
方法を支える理論は何か? そもそも彼はなにをやっているのか?
返ってきた答えは、わたしがハーバード大学医学部で学んだこととは似て非なるものだったのだ。
 
ボブ・フルフォードは、ミズリー州カークスビルでオステオパシー医学を創始したアンドルー・テイラー・スティル(1828〜1917)の伝統を継ぐ、生え抜きのオステオパシー医だった。
同時代の人々に「老先生」と親しまれたA・T・スティルは、同僚たちの用いる毒性の強い薬物療法を否定して、骨に加える手技を中心とする非薬物的治療システムに走った、異端の医師である。
からだの機械的な調整によって循環系と神経系を円滑に機能させ、障害部位に自然治癒力をもたらすというのが彼の考え方だった。
1874年に彼が創始したオステオパシーという新しい治療法は、当初は絶大な人気を博していたが、アロパシー医学としても知られる科学的な現代医学の興隆によって、今世紀の半ばごろには凋落していた。
その結果、オステオパシー医たちはスティルの教えを捨て、だんだん現代医学の医師たちと同じ方法を用いはじめた。
こんにち、現代医学の医師資格M・Dとオステオパシー医学の医師資格D・Oとは同等であり、ほとんどのオステオパシー医は薬剤と外科手術にたよって、手技療法を第一義に置く人はめったにいない。
 
にもかかわらずオステオパシー業界はつねに、一切の薬剤を使わず、人体という自然と、そこに秘められた潜在的な治癒力に対するA・T・スティルの洞察をさらに深めようとする少数の伝統的な治療家がいた。
そのひとりがウィリアム・サザランドである。
サザランドは1939年に同僚に向けて「一次呼吸メカニズム」と呼ばれる人体生理にかんする新理論と、のちに「頭蓋療法」または「頭仙骨療法」ととして知られるようになる人体調整の技法を公表した。
彼は公表前に何年にもわたって、自己の理論の正しさを確証するための実験をくり返していた。
しかし激しい抵抗にあい、その理論を受け入れたオステオパシー医はごく少数でしかなかった。
その少数派のなかに、シンシナティで開業したばかりの若きロバート・フルフォードがいたのである。
 
サザランドの洞察は次のようなものであった。
中枢神経とその連合組織とは絶えずリズミックな運動をくり返しており、その運動こそが人間の生命と健康にとって必須の、おそらくはもっと重要な特徴である。
そのメカニズムは以下の5つの要素からなっている。
 
□頭蓋骨の26個の骨を連結する接合部、つまり頭蓋の縫合の運動。
□脳の両半球の膨張と収縮。
□脳の脊髄をおおう膜組織の運動。
□脳と脊髄を浮かべる脳脊髄液内部の流体波動。
□仙骨(尾骨)の微細な不随意運動。
 
サザランドはこの頭仙骨システムのリズミックな膨張と収縮は呼吸運動と似ていると考えた。
しかし、脳脊髄という最も致命的な最重要器官に生じている運動なので、彼はそれを「一次呼吸」と呼び、身体機能のヒエラルキーにおける優先性を指摘すると同時に、胸筋・肺。横隔膜によって空気交換を行う、おなじみの運動、すなわち「二次呼吸」と区別したのである。
そして、中枢神経が他のすべての器官を統制している以上、十全な健康には「一次呼吸メカニズム」の損傷のない自由な運動が必要であり、その運動のいかなる拘束もなんらかの病気につながりうると考えたのだ。
 
サザランド理論のおもな異端性のひとつは、頭蓋骨が動くという立場をとったことにある。
解剖学者は代々、頭蓋の接合部は固定されていて動かないと教えてきた。
現代医学の医師のみならず、たいがいのオステオパシイー医も頭蓋の運動という仮説について考慮することを拒絶してきた。
フルフォード博士はその仮説に賭け、自分の手で人々の頭に直接ふれることによって、頭蓋の運動を感知すべく訓練をはじめたのだった。
 
ミシガン州立大学オステオパシー医学校の研究者がX線透視下で生体の頭蓋が動くことを確認し、サザランドの理論を裏づけたのはつい最近のことである。
その運動は精密な観測機器によって計測することができる。
ポブ・フルフォードなら、一番精密な観測機器は熟練した医師の手だというだろう。
彼は訓練によって、17枚の紙の下にある1本の髪の毛をも感じることができるまでになった。
そして、本気で訓練すればだれでも同じような触覚がえられるようになるというのである。
 
フルフォード博士の指導で、私も自分の手で「頭蓋インパルス」が感知できるようになるかどうか、訓練をはじめた。
最初はおもに自分の手の脈を感じるだけだったが、練習を重ねていくうちに、フルフォード博士が生命のもっとも根源的な表現だと考えている、呼吸に似た微妙な動きが感じられるようになりはじめた。
やがて、「一次呼吸メカニズム」が活発に動いている人のそれならはっきり感じられるようにまでなった。
 
ある女性患者のあたまをさわってみろと、博士にいわれたことがある。
頭蓋インパルスが検出できないというのだ。
その患者は過去に何回か、ひどい事故に遭遇していた。
そのうちの1回は20年も前のことだった。
博士を訪れた彼女は極度の疲労感・不眠・片頭痛・視力低下・消化不良に悩まされ、感染にたいする感受性がますます高まっていた。
あたまはまるでセメント袋のような感触だった。
がちがちで、生命のリズムが感じられなかった。
4、5回の治療で彼女の頭蓋運動はもとにもどりはじめ、それと同時に健康も回復しはじめた。
 
「このシステムに、損傷の原因はなんですか」 わたしは博士にたずねた。
 
「外傷さ」と彼は答えた。
「外傷には3つの種類がある。
第1は出生外傷。
誕生時に最初の呼吸が完全に行われていないと、人生のスタートから頭蓋のリズムが拘束される。最初の呼吸はとても重要なんだ。
長い間診てきたが、明らかにこの出生外傷型がふえているね。いまの産科医学のまずいところだ。
第2は、いちばん多い身体的外傷、とくに幼児期のそれだ。
息が止まるような激しい落下や転倒が原因になって、呼吸サイクルが妨害されるんだ。
一瞬でも息が止まることがあると、それが原因で生涯、一次呼吸メカニズムが制限されることもありうる。
それは手をふれれば判定できるし、手技によってその制限を緩めることもできる。
わたしが“からだからショックを取り除く”といっているのは、そのことなんだ。
第3は、数は少ないが、心理的外傷、これも幼児期のものが多い。
思うに世の中の人の95%は一次呼吸メカニズムになんらかの拘束をもっているんじゃないかな」
 
 
●母なる自然の仕事
フルフォード博士から人体にかんする新しい考え方を教わっているころ、私は一方で、危機的状態にある友人の手助けをしていた。
キム・クリフトンは34歳の海洋生物学者で、1年の大半をメキシコ南部の太平洋岸で過ごし、乱獲のために絶滅に瀕しているウミガメを救う仕事に打ち込んでいた。
世界野生生物基金のプロジェクトリーダーでもあった彼は、ウミガメを海に向かう夏の数ヶ月を除いてはつねに海岸に出て、粗末な食事をしながら危険な仕事に従事していた。
夏になると敗残兵のようなぼろぼろの姿でわたしの家に現れ、冒険譚を語りながら英気を養うのがつねだった。
 
数年前から、彼は消化器症状に悩まされていた。
メキシコで激しい下痢に見舞われて以来、多種の食物が受けつけられなくなり、腹痛が続いていた。
抗生物質と抗寄生虫薬を常用に服用していたが、年を追うごとに症状は頻発し、悪化していた。
その年、やせ衰え、10キロ近くも体重を減らした彼が、わたしに救いを求めてきた。
何か月も下痢が続き、しかも血液便や粘液便が多く、つねに腹痛があり、どんどん衰弱していくというのである。
これではウミガメ保護の仕事がつづけられない、と嘆いていた。
 
キムは腸内の寄生虫を駆除する薬がほしいといったが、寄生虫感染とは思えなかった。
慢性の腸炎、もしくは潰瘍性大腸炎かもしれないと考えた私は、アリゾナ大学メディカルセンターの高名な消化器専門医を紹介した。
キムはニューヨークの肺外科医の息子であり、現代医学への信仰があつかったからだ。
 
しかし、その信仰はすぐに試されるときがきた。
高価につく検査が長期にわたって行われ、大腸の試験切除がすんでも、消化器専門医には病気の本態をあきらかにすることはできなかった。
わかったのはただ、キムの大腸に慢性的なひどい炎症があること、潰瘍性大腸炎の疑いがあるということだけだった。
「もっと幹部の組織を、もっと大量にとることでしょうな」消化器専門医は私にいった。
「そうすれば何か見つかるかもしれない」あまりぞっとしない話だった。
それに、キムは自費で治療費を払っている。
わたしは彼に「ほかの方法を探そう」といった。
そのとき、フルフォード博士のもとに送るという考えが浮かんだ。
 
キムはスポーツ暦が長く、ボクシングもやっていた。
陸軍ではヘビー級のボクサーでもあり、受けた外傷は数知れないはずだった。
そういえば、彼はいつも口で息をしている。
消化器の障害に加えて、腰痛と頸部痛があるともいっていた。
フルフォード博士ならキムの病態の全体像を解読してくれるかもしれない。
だが、問題はふたつあった。
 
ひとつは、フルフォード博士が30歳未満の患者しか診ないと決めてしまったということだ。
アリゾナでの評判が高まるにつれて患者がふえ、手に負えなくなったので、どこかで一線を画さなければならなくなったのである。
「私はもう80歳だ」ある日、彼はわたしにいった。
「疲れ切るまで仕事をするわけにはいかんのだよ。若い人たちを診ていると、こっちも元気になる。若い人は治癒反応が強いからね」
パーカッション・ハンマーを考案したのも、彼自身のエネルギーの節約のためだった。
「同じことは手でもできるが、すごく力がいるんだよ」と彼はいった。
 
もうひとつの問題はキムのほうにある。
現代医学とともに育ち、代替医療に接した経験がないキムが変節をいさぎよしとするとは思えない。
わたしはキムとフルフォード博士の両方に、ふたりがなぜ出会うべきかをこんこんと説き、説得はいちおう成功した。
ただしキムには、オステオパシー医に腸の病気が治せるという理屈はどうしても理解できなかった。
「ただ、症状の逐一をいえばいいんだ」私は彼を追い立てた。
「腸の症状と腰や首の痛みもだぜ」
診療の日、所用で立ち会えなかったわたしは、キムがもどってくるのを心待ちしていた。
 
「やつは食わせ者だ」それがキムの最初の報告だった。
「イや、いい爺さんだよ。でも、何もしてくれない」
「彼はなんといっていた?」わたしは聞いた。
「危険な状態だといっていたね。
昔のケガで頭蓋ことの動きが完全に停止しているとかで、その性で消化器系を支配している脳神経が機能していなんだとさ。
そのけがのせいで、口で呼吸するようになったから、脳に栄養が行っていないともいっていたな」
「治せるといった?」
「ほぼ大丈夫、とかいっていた。3週間後にまたこいだとさ。でも、爺さん、だいぶ弱っているね。神経がピクピクしちゃって。気の毒なもんだぜ。ぼられなかったのがせめてもの救いかな」
「”神経がピクピク”って?」わたしは尋ねた。
「ほらののパイプレーター、あれを使うとき、2、3分おきに手が宙に舞いあがり、全身が痙攣するんだよ」
「ほんとうかね」
「そうさ、哀れなもんだよ」
 
電話でフルフォード博士の見解をたずねてみた。
「クリフトン君は瀬戸際のところだったね」彼はそういった。
「一次呼吸メカニズム全体が遮断されていた。坂道を転がるように悪化するところだった」
「治せますか」
「もちろん、全身の各所から思い切った解放を行い、外傷の痕跡をかなり緩めたら、インパルスの流れがもどった。迷走神経が動き出したら、きっとよくなる。後は気を楽にして、母なる自然の仕事に任せようじゃないか」
 
治療を受けて6時間後、執拗だったキムの下痢が8ヶ月ぶりに止まった。
体重もすぐにもどり、元気を回復した。
腰痛と頸部痛も消え、口で呼吸する癖も治った。
 
 
●中耳炎の画期的治療
「いのちの恩人だよ」ずっとあとになって、キムはそういった。
「あの人がいのちを救ってくれたんだ」
そのとき以来、キムは代替医学全般、特にオステオパシーへの情熱的な改宗者になっていた。
ひじょうに印象的な症例だったので、私は大学の消化器専門医を招いて、フルフォード博士、キムとともに症例検討会をもつべく手配した。
専門医は「おもしろい」といったが検討会には姿をみせなかった。
あとで理由をたずねると、答えはこうだった。
「いいかね、治ったことにけちをつける気はないが、私はただ、オステオパシー療法でそんな結果だでるということが信じられないだけなんだ」
 
それからしばらくして、私はもう一度、フルフォード博士の卓越した技量を目撃する機会に恵まれた。
今度はわたし自身が患者の立場だった。
友人と我が家で庭仕事をしていたときのことだ。
二度と再現できないようなひょんなはずみで、彼が立ち上がろうとした瞬間にわたしが身をかがめ、彼の肩とわたしの右頬がしたたかぶつかったのである。
耳の前の部分だった。
鋭い痛みが走り、口を大きく開けることも閉じることもできなくなった。
あごの一部が脱臼したような感じで、どうやってももとにもどらなかった。
フルフォード博士に電話して、事情を話した。
「すぐいらっしゃい」と彼はいった。
わたしは車を走らせ、彼の診療室に行った。
痛みは続き、まだあごも動かせなかった。
相変わらず患者が行列していたが、博士に招きいれられた私は治療台に横になった。
 
あたまに両手をあてるとすぐに、彼は頭蓋のずれている骨の名前をいった。
そして、じつにソフトな手技を加え始めた。数分後、彼は「ほら、もどった」といった。
何も感じず、痛みにも変化はなかった。
もういい、といわれた。「まだ痛むんですが」私は未練がましくそういった。
「そう、筋肉はしばらく痛む」彼が答えた。「さあ、いそがしんでな」
 
ほんとうにこれでいいのか、大学病院の応急処置室に行ってみるか、そう考えながら、私は診療室を後にした。
しかし10分後、信号待ちで停車しているとき、ふと痛みが消えていることに気がついた。口も正常に開閉できるようになっていた。
信じられない!フルフォード先生、ありがとう! それからこう思った。
もしフルフード博士を知らなかったらどうしていただろうか?
おそらく応急処置室に行き、レントゲン撮影をし、鎮痛剤と筋肉弛緩剤と高い請求書をもって家に帰っていたことだろう。
そして、何週間も何ヶ月も症状が消えなかったかもしれない。
 
私はフルフォード博士に学んだすべてのことから大きな影響を受けた。
と同時に、自分が得た喜びを同僚に伝えることがだんだんむずかしくなっていくことに苛立ちも覚えはじめた。
例の消化器専門医と同じく、たいがいの医師はもはや私の話に興味を失っていた。
とくに、フルフォード式の中耳炎治療について小児科医と話すときは苛立ちが一層ひどくなった。
 
中耳の反復する感染は小児科医の生活の糧である。
あまりに頻発するので、アメリカでは、それが子どもの成長の正常な一部だと思いこんでいる人がふえているほどなのだ。
標準的な治療法は抗生物質とうっ血除去剤の投与、ときには気圧を均等にするために鼓膜に管を挿入する手術ということになる。
くすりによってとりあえず感染の症状は停止するが、やがて新しい症状が、より短い間隔ででてくることが多い。
 
ポブ・フルフォードは、再発をくり返す中耳炎のサイクルを永久的に止める治療にめざましい成果をあげていた。
それもしばしば仙骨をゆるめるだけという、ただ1回の治療によってである。
「尾骨に一発くらわせるだけ」というのが彼のやり方だった。
というのも、彼の見解では、おそらくは出生外傷によって、子どもの頭仙骨系の仙骨側は固定していることが多いからだという。
博士によると、その仕組みは以下のとおりである。
 
「仙骨の動きが拘束されると、一次呼吸メカニズム全体がそこなわれる。
そうなると呼吸のパターンも制限されるようになる。
リンパ液循環の原動力は呼吸の力。
つまり胸部におけるリズミックな気圧の変化にある。
リンパの循環が弱まると、頸頭部に排液がとどこおる。
よどんだリンパ液が中耳に溜まり、そこが細菌にとって格好の培養地になる。
抗生物質を使えばねらった細菌を殺すことはできるが、リンパ液の貯留という根本的な条件をたださないかぎり、細菌はまたもどってくる」
たしかに、無数の子ども・両親・小児科医がそれを経験している。
細菌はまたもどってくるのだ。
 
フルフォード博士煮の診察室では、その簡単な治療によって中耳炎の再発がおさまったという症例をいくらでもみることができた。
治療台から降りてくる子どもの呼吸が変わったのを目撃したこともしばしばだった。
呼気のときの胸がついさっきより大きく、左右対称に広がり、深い呼吸をしているのだ。
ところが、トゥーイン市の医者仲間に声をかけても、フルフォード博士の診療を見学してもいいという小児科医はまだひとりもみつからなかった。
小児科医たちに博士の治療法を説明しても、興味を持つどころか、市場を脅かされているという反応を示すだけだった。
ようやく、イギリス人の女医が見学にやってきた。
自分の患者を送り込み、治療結果に感嘆した彼女は、アリゾナ大学バイオメディカル・コミュニケーション学部と組んでフルフォード博士のドキュメンタリー映画をつくるというわたしの仕事に手を貸してくれることになった。
 
ポブ・フルフォードの仕事ぶりを知るにつけ、私は彼自身のたぐいまれな健康と活力にも目を見張るようになった。
80歳の博士は達者な老人の鑑のような人だった。
あるとき、彼に健康の秘訣を聞いてみた。
「みせようか」彼はそういうと、息をゆっくり深く吸い込み始めた。
それは信じられないほど長く続いた。
胸が異様に大きくふくらんできた。
それから気持よさそうに、ゆっくりと息を吐いた。
吐ききると、「出入りする空気の量が多ければ多いほど、中枢神経にあたえる栄養も多くなる」といった。
「正しい呼吸が鍵だな」
 
 
●5つの知恵
研修医として臨床訓練の期間、またその後の彷徨の旅の期間をつうじて、わたしがずっともとめてきた医学は、ポブ・フルフォードが行っているような医学だった。
それは病気を抑圧する医学ではなく、からだに備わった潜在的な治癒力を発現を助長する、非暴力的な医学であった。
フルフォードは、有名なヒポクラテスの2大訓戒、「まず、傷をつけることなかれ」と「自然治癒力を崇めよ」を良心的に守りぬいている、わたしが出会ったはじめての治療家だった。
 
彼の仕事ぶりを観察し、彼の治療を受け、彼となにげない話をすることだけから、私はじつに多くを学んだ。
質問に対する答えはつねに簡潔な話し言葉で語られ、アカデミックな医学界の標準からすれば素朴とも思われるものだったが、そこには実際に役立つ情報がぎっしり詰まっていた。
以下に、彼から学んだ知恵のうちで、医師としての私自身の仕事に役立つと思ったものをいくつか紹介しよう。
 
□からだは健康になりたがっている。
健康とは、完全にバランスがとれた状態のことである。
そのときすべてのシステムは円滑にはたらき、エネルギーが無理なく循環している。
それは自然な状態であり、何の努力もしていない状態である。
したがって、からだはバランスを崩したとき、自然なからだにもどろうとする。
健康な状態にもどろうとするその勢いは人為的に活かすことが可能であり、また活かすべきである。
それを治療という。
 
□治癒は自然の力である。
フルフォード博士が患者に「あとは気を楽にして、母なる自然の仕事にまかせよう」というとき、博士は、現代医学では失われた概念である、ヒポクラテスの自然治癒力への絶大なる信頼を、民話的に表現している。
ハーバード大学医学校時代、わたしたち学生にヒポクラテスのその言葉の真の意味を教えてくれた教師はひとりもいなかったし、現在でも、医学校でそれを教える教師はほとんどいない。
それこそが現代医学の唯一最大の思想的欠陥である、とわたしには思われる。
その欠陥は、はかり知れないほど大きな損失を招いている。
なぜなら、だれもがかかりがちな多くの病気の、費用に対する効果の効率が最もいい解決法をみつけることができないのは、その欠陥ゆえだからである。
 
友人のリンダ・ニューマークがフルフォード博士からアドバイスをもらったことがある。
夫のサンディが医学生だったときのことだ。
サンディに自然の中での規則的な散歩をさせるようにと忠告した博士は、その理由をこう説明したという。
「大学が彼のあたまにつめこんでいるがらくたの山とバランスをとるには、それがいちばんいい」
 
□はひとつの全体であり、
すべての部分は一つにつながっている。
すべての部分はひとつにつながっている。
フルフォード博士は統合機能システムとしての人体にたいして、きわだった直観的な理解を示した。
たとえば、ひざの痛みを訴えてくる患者に対して、他律的にひざに問題があると結論し、ひざの治療にかかるというようなことはしない。
彼はひざが足関節・股関節の両関節に対する補正関節であることを知っている。
もし古い外傷によって足関節の運動に制限ができているとすれば、足関節は重力と運動に対する正常な対応ができずに、力のひずみを下肢の上方に伝達する。
膝関節は骨盤を正常な位置に保とうとして、そのひずみを補整する。
補整しようとする力の酷使が、ひざの痛みとして経験されることがある。
 
もし、なんらかの理由によってひざが固定されれば、足関節からくるひずみは股関節にまでいたり、腰痛の原因となりうる。
実際には膠着した足関節が原因で生じている問題のために、どれほど多くのひざの手術、腰の手術が行われていることか、とフルフォード博士は嘆く。
パッション・ハンマーで足首をゆるめることによって慢性の膝痛や腰痛を治したケースを、私は何度も目撃した。
 
ポブ・フルフォードは彼のいう「拘束」が筋幕にも生じると考えている。
筋膜とは筋肉を包み込み、体内の空間を分割している強靭な結合組織のことだ。
解剖学者は筋幕が筋肉ごとに分離独立した膜だと教えているが、フルフォードは全身の筋幕が複雑きわまる形態をした一枚の大きな膜であるという前提にもとづいて仕事をしている。
その膜のどこかに拘束が生じれば、膜全体にひずみが起こる。
部分の変化が全体に影響を及ぼすのである。
 
同じ理屈で、キム・クリフトンが腰痛・頸部痛・口での呼吸・慢性の腸疾患を訴えてやってきたとき、フルフォード博士は多様な症状の全体像を観察して、頭部に受けた古い外傷という、全症状に共通する原因を見つけた。
キムの腸しか診なかった消化器系専門医には事態の意味が把握できず、腸に生じた炎症という変化をおさえる薬剤以外には打つ手がなかった。
 
□こころとからだは分離できない。
心理的外傷が中枢神経系の呼吸運動を阻害するという見解と同様に、フルフォード博士は、身体的介入が中枢神経に影響して心理的機能を改善しうるとも考えていた。
彼はよく、頭蓋療法によって学習不能の子どものIQを上昇させていた。
実際、その成績があまりにも良好なので、ルイジアナ州立発達遅滞小児病院に招かれて、年に数週間、出張治療に行っていたほどである。
 
□治療家の信念が患者の治癒力に大きく影響する。
フルフォード博士は自分の治療する患者がきっとよくなると信じていた。
患者の中に眠っている治癒力を一途に、ひたむきに、愚直なまでに信じ、言語的または非言語的なさまざまな方法でそれにはたらきかけた。
かくも多くの人々をひきつける理由のひとつはそこにある。
彼はまた、自分に治せるか治せないかの判定に慎重だった。
骨折の患者がきても、彼はこういうだけだった。
「わたしには骨折は治せない。自然に治ったらまたきなさい。そしたら、けががきみの体に残したショックを取り除いてあげよう」
博士は外科手術が必要なケースなど、緊急事態のときも治療を引き受けようとはしなかった。
 
 
彼は年を重ね、一方で患者の数が増えるにつれて、彼は引き受ける患者の年齢制限の上限を引き下げていった。
30歳未満はすぐに25歳になり、20歳になった。
ほんとうなら小さい子どもだけに絞りたいと思っていた。
「なぜって、子どもの治癒力はすごいからね。
拘束が固着にいたるだけの時間をへていないんだ」
そして、新生児は予防的措置を受けるといいんだが、ともいっていた。
その理由はこうだ。
「大きくなってから起こる病気の多くは出生外傷の、たまりにたまった結果なんだ。
生まれてから24時間以内の骨はゼリーみたいに柔らかいから、簡単に正常な位置にもどせる」
 
フルフォード博士とて治療の成功率は100%ではないが、わたしが会ったどの治療家よりも高い成功率であったことはたしかだった。
 
ついにその日が来た。
あまりにも多忙な診療が負担になってきたポブ・フルフォードが、患者や信奉者の失望をよそに、今度はきっぱりと仕事をやめてオハイオ州の南部に引っ越すと宣言したのである。
宣言は実行された。
しかし、この原稿を書いている時点で90歳の彼は、いまだに精力的に頭蓋療法の指導をしている。
全国を講演旅行して回り、弟子たちに頭蓋療法の技法を教え、真の医師になれと若手の医師たちに鼓舞しつづけているのである。
 
師を求めて世界各地をさ迷い歩いた結果、わが家の裏庭ともいえるほどの近所でフルフォード博士を見つけるようになったという事実は、わたしにとって大きな教訓だった。
もとめているものを得るのに外部に目を向ける必要はなかったのだ。
同じように、治癒を得るのに外部に目を向ける必要はない。
もちろん、最善の治療法を探すにしくことはない。
治療は外部からほどこされれものだからだ。
だが、治癒は内部から起こる。
治癒の原動力は、生きものとしてのわれわれの、本然の力そのものから生じるのである。
 
 
 
《治癒の顔》――ハービーとフィリス
●厄介な脳腫瘍
1992年の夏、50歳と6ヶ月で2度目に結婚をしたばかりのハービー・サンドラーは、突如、たてつづけに厄介な症状に見舞われはじめた。
目がかすみ、冷や汗でびっしょりになって夜中に目が覚め、絶えず尿意をもよおし、インポテンツになった。
新妻のフィルスとはそれまで充実した性生活を楽しんでいたので、特に最後の症状には手こずることになった。
「あせればあせるほどできなくなって」と彼は回想する。
「ベッドで眠るのはやめちゃいましたよ」
それでも彼は一連の症状をストレスのせいにして、医者には行かなかった。
 
フィリスはいう、「プレッシャーはかけまいとしたのですが、そのうちわたしのほうもまいっちゃってね」
金融業者のハービーにある程度、仕事上のストレスがあったのは確かだがフィリップスにいわせると「生活はほんとうにうまくいっていた」という。
数ヵ月後、ハービーはついに医者を探しはじめた。
まず性的不能を専門とする精神科医のところに行った。
血液検査をすすめられ、検査の結果、下垂体ホルモンの異常が発見された。
眼科医からは脳のMRIスキャンを命じられ、その結果、ハービーの両眼のすぐ裏側に腫瘍が発見された。
その位置にある腫瘍は、下垂体の制御センターである視床下部を圧迫し、それが各所の不随意機能に影響していることが考えられる。
視神経への影響も同じ原因らしい。
 
ハービーの担当医は、腫瘍の位置と形状から見て、それが神経膠腫かクラニオファリンジオームだろうと考えた。
いずれにしても良性の腫瘍である。
神経膠腫は神経の支持細胞から発生する腫瘍で、組織成分とリンパ液を含む嚢胞を形成しやすい。
ハービーより若い人たちにみられるのがふつうだが、脳機能に影響するほどの大きさになるには長い時間を要することになる。
 
脳はそこに生じた腫瘍の良性と悪性との差が、他の多くに器官のように、ただちに生死を分ける差につながることのない器官のひとつである。
問題は腫瘍が物理的な障害物となって、重要な中枢器官の密集区域を持続的に圧迫するところにあり、切除するか退縮させるかを迫られる。
 
ハービーとフィリスはニューヨーク中の脳外科医をたずね歩いた。
ほとんどの医師は、脳の永久的な損傷を起こさずに切除することに関して「超悲観的」な見通しを示した。
「やっと、わたしたちが聞きたいことをいってくれる脳外科医が見つかったの」とフィリスはいう。
「その先生は、手術は“朝めし前だ”といったわ。2日の入院でできるって。だから、その先生に決めたわけ」
 
手術は1992年の11月に行われた。
開頭してみると、腫瘍のサイズは小さめの卵ほどで、神経系と視床下部の間に位置していた。
その部位からいって摘出は不可能と判断した外科医は、減圧のために腫瘍から排水を行い、組織標本をとった。
その結果、やはりクラニオファリンジオームであることが判明した。
ハービーは放射線科に送られ、クリスマスのころまで、腫瘍の退縮を狙った放射線治療を都合30回も受けることになった。
 
周囲に期待をよそに、ハービーの症状は治療がすすむにつれて悪化していった。
視力も失明寸前まで悪化し、読書はおろかテレビの画像も見えなくなった。
医師は脳の浮腫を予防するため強力なステロイド剤であるデカドロンを投与した。
ハービーはその副作用で18キロも太り、人が変わったようになった。
「いじわるで怒りっぽく、攻撃的になって、ほとんで眠ってばかりいたわ」とフィリスは回想する。
ハービーの回想はといえば「なにひとつ覚えていない」だった。
貯金はどんどんへり、精神も異常になっていった。
部屋に閉じこもり、幻覚を見てわめきちらした。
「まるで別人だったわ」とフィリスはいう。
医師団は「そんな症状がでるはずはない」というだけで、なんの説明もしてくれなかった。
 
「だれも責任をとろうとしなかったわ」とフィリスはつづける。
「脳外科医は”私はこの病院では大工だからね。もう仕事は終わった“というし、内分泌科は精神科に行け、精神科は内分泌科に行けでしょ、恐怖を感じたわよ』
 
そのころ、重症患者のケアを専門にしていたデボラというカウンセラーが、フィリスを週末の休暇旅行につれだしたことがあった。
留守のあいだにハービーの前妻とのあいだの息子を呼んで、父親の世話をさせようという計画だった。
旅行のもうひとつの目的は、フィラデルフィアに行き、有名な脳外科医であるデボラの兄の意見を聞くことにあった。
カルテを検討したその脳外科医は妹にこういった。
「ハービー・サンドラーは生涯、自分で物事を判断することができなくなるだろう。
回復は不可能だ。その事実をフィリスが受容するように、お前から説得するんだね。
現状が維持でき、これ以上悪化することがなかったら幸運だと思わなきゃ」
デボラから兄の見解を伝えられたフィリスは激怒した。
デボラはこう回想する。
「フィリスは悲痛な声で”治らないなんて、そんなばかな!”って叫んだわ。”大丈夫、わたしがついているわ“とはいったものの、はっきりいって、わたしも回復は信じられませんでした」
 
 
●くるしみは運が開ける証拠
一刻も無駄にできないと考えながら、フィリスは旅行から帰った。
「知っている限りの知識人や人脈の多そうな人に電話をかけまくったわ」と彼女はいう。
「助けてくれっていったの。
世界中で、同じケースをあつかった経験がいちばん多い、ただひとりの医者を探し必要があるんだって。
まあ、雲をつかむような話だけど、それしかなかったのよ。
たくさんのお医者さんに会ったわ。
やっとひとり、頼れそうな人をみつけたら、専門が腫瘍じゃなくて動脈瘤だったなんてこともあったわね。
眼科医からは“時間が勝負です。残っている視力もまもなく消えますよ”なんて電話がかかってきたり。
疲れ切っていて外出をこばむあわれな夫の腕をつかみ、次から次へと医者めぐりをしたわ。
服を着せて、ひきずるようにしてつれて行っても、たいがい診察中に眠り込んじゃうのよ。ふらふらと診察室からでて行って、廊下で失神したこともあったわ。
そしてとうとう、手術してもいいという脳外科医が見つかったの。
同じ病気の手術の経験が豊富で、夫のようなリスクの多いケースにも嫌な顔ひとつしない人でした」
 
2度目の腫瘍切除は1993年2月中旬に行われた。
手術後、ハービーはなかなか目を覚まさなかった。
やっと意識がもどると、こんどは肺水腫を起こし、危篤状態になった。
術後4日目、昏睡状態におちいり、医師は途方にくれた。
 
危機を救ったのはフィリスだった。
彼女は昏睡がデカドロン投与を早くやめすぎたせいではないかと考えた。
デカドロンは脳浮腫の予防にために短期間使われるが、今回の医師団はハービーが前回の手術以来、ひじょうに高単位のデカドロンを長期間使っていたことを知らなかったのだ。
フィリスの指摘を受けて、医師は輸液の中にデカドロンを加えてみた。
翌朝、彼は上半身を起こして話せるまでになった。
集中治療室に2週間、一般病室に2週間いたハービーは、それからゆっくりだが着実に回復に向かっていった。
 
「回復するまでには、丸1年かかったわ」とフィリスはいう。
「2度目の手術までの3ヶ月間は健忘症だったけど、手術後はだんだん体力がついてきて、記憶もある程度もどってきたの。
でも、物の考え方や社会の接し方は一から覚えなおさなければならなかったのよ。
自分の身になにが起こったのかを知り、そのことで恐怖に襲われ、それから新しく生まれ変わったってわけね」
 
デボラはそのころのハービーの苛立ちをよく覚えている。
「彼が病気の経験によって変わることを、周囲のみんなが期待していたの」と彼女は回想する。
「でも、変わったのは彼じゃなくて、みんなのほうだったわけ。
ハービーは恵まれた人でしょう。
お金持ちだし、事業はうまくいっていたし、ハンサムだし、人生を大いに楽しんでいたでしょう。
だから、彼の身に起こったことは、周りの人に深刻な影響をあたえたわけ。
ほとんど一夜にして不幸のどん底に突き落とされたんですから。
脳損傷、肥満に加えて、急に怒りっぽく、口汚くなり、分別を失い、死ぬか植物人間になるかっていうところだったわけでしょう。
”あのハービーに起こったことなら自分にも起こるかもしれない”って、みんないっていたわ。
周囲の人たちが”自分もハービーみたいになるかもしれない”と考えはじめ、行動に気をつけるようになったってわけ。
2度目の手術のあと、自分が周りに影響をあたえているらしいってことを知れば知るほど、ハービーは憤慨するようになったのね。
自分の身に起こったのは魔法でもなんでもないんだって」
 
フィリスは献身的にハービーの世話をし、歩行訓練を助けた。
喧嘩腰になることもあった。
ハービーは彼女がいつもこういっていたのを覚えている。
「どうなのよ。あんなに苦労したんだから、少しは意地をみせなさいよ」
彼の精一杯の答えはこうだった。
「もう一度、テニスコートに立ちたいだけだ」
 
2度目の手術から1年後、魔法が起こった。
以下はハービーの言葉だ。
「自分で考えられるようになったんです。
それまではいつもフィリスの考えてもらい、自分は責任を回避していた。
ところが、腫瘍と手術が、眠っていた私の一部を目覚めさせ、ほかの部分に目覚めたことを教え始めたらしい。
セックスする能力は手術からひと月半で回復しましたが、なぜかセックスのことが余り気にならなくなった。
それまではそのことであたまがいっぱいだったのに。
そのかわり、考えたり、感じたりすることに喜びを覚えるようになったんです。
要するに、バランスがとれてきたって感じ。
ひとことでいえば、人生に責任をとれるようになったってことかな。
病気の前より責任感が強くなり、自分の力を正しく使えるようになったみたいです。
だから、あの病気は、わたしがそれまでもらったものの中で、いちばん大きな贈り物だったと思いますよ」
 
「病気の症状についても、視力はよくなっているし、記憶力は完全にもどりました。
仕事も遊びも生活も、望んだより以上にうまくいっています。
家で過ごす時間をふやすために、通勤しなくてもいいような仕事に変えたし、テニスは毎朝やっていますよ」
 
わたしはこの冒険譚の結末について、フィリスにも聞いてみた。
以下はフィリスの答えだ。
「苦しいときはいつも”これはきっと運が開ける証拠だ。運を逃さずに追っかけよう”と考えていたのを覚えているわ。
あのころ、わたしたちは孤立していました。
ほかの人の意見にはひどく慎重だったわ。
もし、会った医者全員の意見を信じていたとしたら、その悲観的な見解を受け入れてしまって、治る可能性を探しつづけることはできなかったでしょうね。
医者がなんにもわかっていないなんて、信じられなかったわよ。
2度目の手術を引き受けてくれた医者だって、生命の保証はおろか、視力の回復や意識の回復も保証してくれなかったんだから。
その医者もハービーの回復の程度には驚いているわ。
手術から1年たって、彼と奥さんをディナーにお呼びして、みんなでお祝いしたのよ」
 
「ハービーはほんとうに生まれ変わったわ。
自分をつくり直すチャンスを与えられたのよ。
人柄も前よりやさしくなり、人の気持がわかる、向上心の強い人になったみたい。
おかげさまで、私も生まれ変わることができました。
これが冒険譚なら、その恩恵は私たちふたりに、自分のまだ癒されていない部分をこれからも癒しつづけようって思わせてくれたことかしら。
わたしたちはまだ癒しの途中にあり、それを味わっているところかもしれない」
 
フィリスは最後にわたしに、劇的な治癒を目撃したのはこれが2度目だといった。
「じつは、わたしは7年前に、ひどい坐骨神経通にかかったことがあるの。
2年半、痛みぬいたわ。
20人以上の医者に診てもらったけど、どの治療でも痛みがとれなかった。
ちょうど初孫が生まれることになって、わたしは孫の顔をみていたいと痛切に思うようになったのね。
おばあちゃんとして孫の世話をするには、どうしても坐骨神経痛を治さなきゃ、と真剣に考えはじめた。
それで、イメージ法のテープを聞きながら治るイメージをしたり、鍼を打ったり、健康食品を食べたり、ビタミン剤を飲んだりして、自分で頑張ったの。
わずか1ヶ月で痛みは消えたわ。100%。
いちばん効いたのは、腰に血液がめぐっていくというイメージ法だったと思う。
それに、“ほんとうに治りたい”って自分にいい聞かせたことかしらね」
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001