■ 小泉武夫の 食の堕落と日本人
〜この国の食の堕落をいかに食い止めるか〜
東京農業大学教授 小泉武夫
その1−驚異的、絶望的な日本人の食文化の激変ぶり
日本人の食の堕落の現状をさまざまな角度から眺めながら、思うことを述べてきた。
これほど食の周辺が激変しているのはこの国だけかと、大学で「食文化論」を講じている私は、とにかく近隣のアジア各国や遠くアメリカ、北欧などを回り歩いて食事文化をつぶさに見てきたのだけれども、やはりどの国も日本ほど急激な変化を遂げてはいなかった。
 
韓国では、多くの外資系ファーストフード店が至る所に進出しているというのに、相変わらずキムチやニンニクの消費量は不変で、若者から老人まで国民は自国の料理や食べ物を満喫していた。
中国では、北京や上海、重慶といった巨大都市でさえビルの谷間の中央通りから少し裏に入った路上には、いわゆる昔ながらの自由市場が今でもしっかりと存続して活気に満ちている。
そこでは泥の付いた野菜や生きたナマズやコイ、フナ、ドジョウ、カエル、ヘビなどが売られていて、客はケーケーと悲鳴を上げて鳴いているニワトリを片手にぶら下げ、一方の手には根に泥は付いているものの、緑色の濃いしっかりした野菜を持って家路につく光景が今でも毎日繰り返されている。
都会でさえこれだから、保守的である地方に行ったらそれこそ食生活の変化や食べるための手抜き、堕落といったものは微塵も考えられないのである。
 
一方、アメリカやイギリス、フランス、イタリアといった欧米も、しっかりと自国の食文化を守っていて、なかでもアメリカなどは、自分たちの食文化を守りつつも、逆に最近では日本食の素晴らしさを積極的に取り入れて、それを実践している人も少なくなかった。
 
また、北欧のデンマークやフィンランド、ノルウェーあたりに行くと、他国の食べ物が入っていく隙間などまったくないほど、自国に昔ながら受け継がれてきた伝統の食文化をしっかりと守っていて、変化や堕落などのひとかけらも見つけることはできなかった。
 
これに比べると日本人の食の変化は、これまで述べてきたように驚異的かつ絶望的なものであり、その中でも食材をつくること(農業、漁業を含めて)や、料理をこしらえることなどでの手抜きや曖昧さは、堕落性をどんどんと助長させてきた。
 
その2−なぜこうも食の堕落に陥ったか
この国の人たちが、どうしてこうも食の堕落に陥ったかについてはさまざまなことが考えられるが、その第一は、食糧生産を管理指導する農政の歯車が根本的に狂っていたことであろう。
 
戦後日本人は、この敗戦国を一日も早く立ち直らせようと、国民が総動員して力を合わせた結果、奇跡的に経済が復興し、国民総生産は世界のトップを走るほどとなり、外貨の蓄積も世界一の富める国になった。
その反面、農業に対してはその将来を真剣に分析せず、たとえば農薬を多量に使って米が取れ過ぎれば、すかさず減反だといって米の生産量を抑える。
 
今度は冷害とか干ばつといった天災で米が取れなくなると、減反して地力の弱くなった水田はすぐにはよみがえらないので使えない。
しかし富める国なので金はうなるほど抱えていたために、米を外国から買えばいいといった堕落に結びつく安易な考えに走って、農家の主人は農業への希望や魅力を失って会社勤めをする。
こうして専業農家は兼業農家へと移り、そしてしばらくして農業から離れて転業をする。
 
当然、食糧自給率はどんどん低下し、ついに嘆くべきこの現状を迎えたのである。
水産業とて同じで、二百海里経済水域の一件のときに、堕落は急激に始まった。
農産物と同じく、漁獲高が減るなら金で魚を買えばいいじゃないかということになって、どんどん魚を買った。
 
そして今は、この堕落さのために世界一の魚食民族の食べている魚の6割は外国から買ったものである。
あの時、なぜ将来のことを考えて、魚が獲れなくなるのなら、魚の稚魚を養殖したり栽培したりして、それを海にどんどん放流して近海の魚を豊かにしておかなかったのかとつくづく思う。
 
ところが、魚の値段がどんどん高騰していくと、さらにカネになればそれでいいとばかりに、全国各地にある漁業協同組合の中でもひどいものになると無差別無制限に「底引き網」をやり、悪質なものは網だけじゃなく巨大な鉄のアームで海の海底を掘り起こしながら網を入れるものだから、稚魚も卵も根こそぎ網にかかり、資源枯渇に陥らせても平気の平左。反省の心など微塵もなく、なお現在も悪質な底引きをやっている。
それを止められない漁協も漁協だが、その現状を横目で見ながら指導すらできない行政にはもっと腹が立つ。
みんなが堕落すると、自分たちの首を自分たちで締めていくことにつながることを多くの人は気がつかない。
 
そこで、食の堕落した日本をいかに再生するかを考えて、それを列挙してみると次のようなことになろう。鈍い私の頭でさえこのように幾つも浮かんでくるのであるから、今の日本の病巣の根は相当深いと考えてよいであろう。
 
その3−農・水産業に魅力を感じさせる行政を
農業の再生には土づくりが基本となる。
生ゴミなどを原料にしてそれを現代の発酵学で短期間に堆肥をつくること
(前述したハザカプラントの場合、25日間の発酵で完璧に完全熟成した肥沃な土・堆肥ができる。昔はこれをつくるのに5年もかけていたのだから、驚くべきことである。25日間の発酵温度は摂氏95〜98度である)。
この肥沃な土を大量に畑や水田に撒いて農作物をつくると、化学肥料を大幅に節約できるかまたはまったく使わなくても、すばらしい農作物ができる。
前章で述べたが、この土で収穫したトマトやスイカなどは水に入れると沈んでしまう。
 
こういう農作物は市場価値が高くなるから農家の収入は上がり、農業を魅力的に考えるようになる。
また、この場合、酪農業から出る大量の家畜糞尿も大切な堆肥の原料になるから、これも使って行うことだ。
こうすることにより、一般家庭から出てくる生ゴミや食品会社からの有機性廃棄物、酪農家からの家畜糞尿などは堆肥の原料となり、直面する環境問題も一挙に解決することになる。
このような土づくりからの農業再生は、行政が大胆にして細やかに動かなければ実現はほど遠い。
 
土づくりから農業を再構築しようとする農家に対しては、村も町も県も国も、親身になって指導し、補助してやるなど支援しなければならない。
残念ながら今の行政は、この私の考え方に聞く耳をほとんど持たないから、不幸なのである。
多くの役人は、これだけ今の日本農業が深刻な現状を迎えているというのに、真剣に勉強をしてないからついてこられないのだ。
一日平穏で何もなければそれで月給がもらえる、といった役人根性では、何ひとつこの国は良くならない。
 
私にこれだけ言われて腹を立てて怒っている暇があるなら、直ちに動くべきである。
悔しかったら魅力ある農業づくりに立ち上がって燃えてみるべきである。
水産業も、今からでもいいから稚魚の栽培をどんどんやって将来獲る魚介を増やしていくことだ。
もちろんこれも行政の確固たる主導があってこそなせるものであり、一日早く事を起こせば一年早く結果の出るのが生態系なのである。
 
その4−国は農・水産業を「生命維持産業」
と位置づけて、その基盤を強化すること
人は食べなければ生きていけない。食べ物がなくなれば死ぬ。
その食べ物は誰がつくるのかといえば、医者でも学者でも会社の社長でも町の商店主でも先生でも会社員でも家庭の主婦でもない。農家である。
古くは「士農工商」といわれて、武士の次に偉いのは農民であるなんて持ち上げられていたが、実際は百姓呼ばわりされて地位は高く見なされなかった。
そのような風潮がこの国には何百年と続いてきたおかげで、今日でも農業の重要さを理解せずに、逆に軽視している人も圧倒的に多くいるのである。
 
しかしよくよく考えてみよ。今一度考えてみよ。
食べるものがなかったら生きてはいけないのだ。
いくら医者が多くなったからといって、医者が人を生かしているのではない。
農民がつくった食べ物で人は生きることができるのである。
医者だって、農民がいなくなったら死んでしまう。
 
つまり、農業や水産業は「生命維持産業」であり、農民は「生命維持産業従事者」である。この生きていることの原点を、国も国民も、もっとよく理解して、この大切な産業を昔のように一日も早く復興させるべきである。
国は医者を優遇しているのと同じく、農家も優遇すべきである。
私は何も金をばらまけ、などと言っているのではない。
ばらまき行政なんて砂場に建てた高層ビルのようなもので、そんなこと論外だ。
 
この場合の優遇とは、農業・水産業の周辺をよく理解し、いかにしたならば魅力ある生命維持産業がつくれるのかを、その生命維持産業従事者とじっくり話し合い、それが建設的なものであれば物質的に支援するといったことを積極的に行うことである。
 
そのためにはたとえば、生命維持産業後継者(農業後継者)を新たな視点から教育し直し、彼らを魅力ある農業をつくり上げるための先駆者たちと位置づけて活動してもらうなどである。既存の農業高等学校とか農業大学校といったものをそのために再構築すればいいというのではなく、新しい世紀の「農の騎士」をつくりあげ、とくに精神的な面を鍛えながら未来を見据えられる農の指導者を育成することである。
 
21世紀は「農の時代」といわれ、「アグリビジネス」の時代といわれるのに、それに対応できる農業の指導者、人材がいないのでは机上の空論で消えてしまう。
行政がなかなかそのようなことをしないものだから、私は自分でやってみようと、山形県米沢市に「農業塾」を開塾しようと今、準備中である。
そこでは農業に従事する者、これから農業に従事しようと志す者、農業を理解したい一般市民、行政者などを塾生として、農の大切さを説いていくつもりだ。
 
その5−教育を通して「社会に生きる個人」の意味、
     「食」の意味を教えること@
戦後の日本において、行政的に失敗したものは、正直言って農政と教育であると私は常々思っている。言い換えれば、少なくともこの二つの分野における行政のあり方は間違っていたのだと言っても言い過ぎではない。
 
これまで述べてきたように、今日の農業の有様を見れば、農政の失政は誰から見ても明らかであり、教育もまったく同じことである。
見よ、今日の教育の現場を。
小学校においてすでに学級崩壊が始まり、登校拒否は全国的問題に発展し、いじめや校内暴力は日常茶飯事、学校で教わることより塾での受験対策が主となり、先生は先生でやれワイセツ罪だ、それ酒酔い運転だといって捕まる。
こんな教育を良しとして改めもせず、先生たちの言うがままに野放しにし、荒れに荒れた教育の現状をつくってきたのも国の教育行政の失政である。
熱血先生は消え、正論派は消され、先生たちが所属する組織と組織は思想の違いから絶えずいがみ合い、教育の現場はその醜い争いの場になった。
「教育」という二文字を解体して、その意味を問い直せば、「教える」ことと「育てる」ことである。ところが「教える」ことは学習塾のほうがレベルが高くなり、「育てる」ことに至っては行儀やしつけを見てもわかるとおり、家庭でも学校でももうほとんどできなくなってしまった。
 
こうして、学校から「教」と「育」が消えてしまったのであるから、どうしようもない。
いい例のひとつに運動会がある。
ひと昔前は、「百メートル競争」とかいうのがあって、「ヨーイドン!」で生徒は一勢に全力で走る。そして速い者から順にテープを切って、一等、二等、三等などに順位が決まると、一等はノート二冊、二等はノート一冊、三等は鉛筆三本なんて賞品がもらえた。これがほしくて、昔の私たちは一生懸命走った。
ところが今は、これが教育的配慮から考えて駄目だという。一等、二等、三等などと順位をつけると、それは差別化になるからいけないのだという。
馬鹿言っちゃいけない。子供たちには、負ける悔しさというものも体験させてやらなければいけないのだ。それをバネにして奮発して、強くなって行くのである。このようなことになったのは、子供たちに問題があるのでなく、教育指針をつくる大人たちに責任がある。
 
こんな小学校の話も聞いた。修学旅行とか夏休み、冬休みなどで集団で外泊する時、男子生徒が何十人も一緒に入浴する場合、全員が持参した海水パンツ(水泳パンツ)をはいて風呂に入るというのである。
いったい何でえ? 昔の私たちはそれこそ全員がオチンチン丸出しにして、裸の付き合いで湯に入り、湯をかけ合いながらキャーキャーと風呂を楽しんだものだ。
先生たちは風呂の中ではオチンチンを隠すのがエチケットだとでも思っているのだろうか。何か間違ってるなあ、今の先生たちは。教育関係者たちは。
これでは、社会における集団の付き合いという意味を子供たちに教えられないよ。
 
その6−教育を通して「社会に生きる個人」の意味、
    「食」の意味を教えることA
そこで今、教育に何が早急に必要かというと、まず、道徳教育の復活を行うことである。それを通して子供たちに礼儀、作法、善悪の区別、恥じること、誇れることの意味、人を敬うこと、人のためになること、社会に貢献することなどの大切さを教えるのである。
また、IT時代だといって、小学生からパソコン教育や実習などを導入したならば、とり返しのつかないことになる。小学生や中学生の時は、友人と友人の付き合いによって生き方や考え方などが形成されてゆくのである。
これが機械を相手にして自分の生き方や考え方を覚えていったのでは、将来この国を背負って立つ人間はどんな心理を抱いて育っていくのであろうか。そんな育て方をしていると、オウム真理教事件のようなことの再現をも危惧される。まったく恐ろしいことである。
 
次に集団生活をできるだけ多く体験させることである。今の学校や家庭の仕付けでは、甘やかすことが多く、あまりにも自己中心主義的性格を持った人間に育ってしまう。
そこで、仲間たちと集団で生活を共にして協調心や友情、互助精神などの心を育てる教育もしてほしいのだ。夏休みには仲間たちと十泊ぐらいの旅に出るとか、冬休みには皆で何泊もスキーに行ったり、社会奉仕に出たり、サークルに入って積極的に合宿に参加するとかである。そういう場を通して、人と人との付き合い、集団の中の個人の立場、協調性、進んで行う奉仕活動などを教えていくことである。
この期間はもちろん、厳しい生活、厳しい仕付けを行わなければならない。
 
さらに、「食べることの意味」を小さい時から教えなければならない。人はなぜ食べるのか、ということを教育の場を通して小さい時から教えていかなければならない。
食べ物をつくる大切さをも教育していかなければならない。食べ物をつくる大切さを教えながら、それを食べていく大切さも教育していかなければならない。
食べたものからはエネルギーが得られる。そのエネルギーをさまざまな生産活動に生かして、社会のため、日本のため、人のため、家族のため、自分のために有効に使わなければならない。
それが食べるための意味であり、食べ物を腹いっぱい食って、何もしないで漫画の本ばかり読んだり、遊びほうけていたり、元気なのに寝てばかりいたのでは、「ウンコ製造機」に変わりない。
 
教育の場で食糧の生産、とりわけ農の大切さも教えなければならない。とくに中学生や高校生といった自活できる年齢になったならば、すべての学生に、土づくりからはじまり、田植えや稲の栽培、野菜づくり、家畜の世話などを授業として義務づけることも効果があるだろう。
普通高校では三年間のうちの半年間は近くの農業高校に通わせ、農の体験、とりわけ食べ物を自分たちの手でつくらせる体験をさせてやるなど思い切った発想の転換が必要である。
 
その7−医学教育に食事学を
● 医学教育に食事学を
今日の医学教育では、「食」の大切さを医師となる人たちに十分教えていない現状にある。逆に言えば、心身ともに健康な体をつくるために食が重要な要素であるというのに、これを軽視している風潮にある。
「医食同源」の考え方をもっと国民に理解してもらい、実践してもらうためにも、これからの医療の中心となっていく若い医師たちは食と健康の大切さをしっかりと学ぶべきである。
 
● とにかく食料自給率を上げること
今日、日本の食料自給率(エネルギー換算)は政府発表で41%、実際には40%を割り込んでいるのではないかとの見方もあり、このままいけばこの国は国家の存亡を賭けて生きていく、というほど深刻な状況に陥ること必定である。
国はとりあえず45%まで戻そうと、2年前に「新農業基本法」を緊急に制定したが、自給率低下に歯止めはかかっていない。
政府は早急に抜本的対策を立てて食料自給率の上昇を計らなければならない。
それには、新たに農業に従事する者への積極的支援や、既存農家同士の合併による生産力および経営力強化のための指導と支援、都会企業から方向転換して地方農業に転業する希望者への支援と、それに伴う土地や税制の優遇などを積極的に進めることである。
また新たに農業に従事した者へは特別奨励金制度を設けるなども一案であろう。
こうして、一人でも多く農業従事者を確保し、農産物の自給率を高めることである。
また、「都道府県対抗食料自給率王座決定戦」といったような農作物生産競争を奨励し、肥沃な土地を造りながら田畑のさらなる拡大をめざすのも一考であろう。
一方、漁業では、栽培漁業施設や稚魚育成施設の新設や拡張を進め、得られた稚魚を近海に放流して、獲る魚介を増やしていくことが急務であろう。
そして、行き過ぎた底曳き網によって資源まで枯渇した海域での操業は、底曳きを含めて資源回復まで即刻休漁させることである。
 
● そして最後に
くどいようだが、国家や国民は今こそ「農」を生命維持産業と位置づけ、その旗印のもとに、これまで述べてきたさまざまな方策を実践し、日本農業を再構築することである。

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001