■ 薬膳が教える伝統食のススメ その1
 武鈴子さん  食養研究家  有限会社東京薬膳研究所代表。
 
1.食生活を蝕む問題を目の当たりにして
食の問題、東洋医学、薬膳――長年にわたる実践と研究に基づく理論を裏づけに、日本の伝統食の素晴らしさを説いて全国行脚を続けてきた武鈴子さん。
先達との出会いを振り返りながら、健康を育み、老化を防ぐ和食薬膳の魅力を今語り始めます。
 
● 数学者岡潔に憧れた少女時代
=まず武さんがライフワークとする「食と健康」の世界に入るきっかけから伺いたいと思いますが、お生まれはどちらですか。
鹿児島県の生まれですが、高校時代から心は奈良に向かっていました。
というのは、数学者の岡潔(おかきよし)先生が大好きで、先生は奈良に住んでいました。
奈良に行けば先生のお話を聞けると思っていました(笑)。
当時、岡先生は奈良女子大の教授で、数学の神様といわれていました。
 
=少しあとのことかと思いますが、文芸評論家小林秀雄さんとの『対話 人間の建設』なども話題を呼び、幅広く活躍されていましたね。
そうです。数学者として、教育者として、人間として素晴らしい方でした。
ところが、岡先生の大学に行こうと勉強しているうちに、奈良女子大を卒業する学生たちの就職先のほとんどが高校の先生であることがわかりました。
私は学校の先生になるのが嫌でした。
でも当時(1955、56年ごろ)のことですから、選べるような就職先がたくさんあるわけではありません。
大学を出たら就職先が学校の先生に決まっているなら、それは私には合わないし、弟が2人いましたし、裕福な家でもありませんでしたから、受験自体をやめてしまいました。
 
● 興味半分で受験してみたら
なんとか自立はしなければいけませんので、地元の鹿児島で第一生命に就職しました。
しかし、入社して働いてはいたものの、同じ仕事をするのなら首都で仕事をしたいという気持ちがしだいに強くなってきました。
当時は親戚でもいなければ単身で東京に行くことなどとんでもない時代でした。
たまたま大阪にいる知り合いが新聞社にいるのを知りました。
もともと読んだり書いたりするのは好きでしたので、新聞社で働いてみたいと思いました。
 
大阪に赴いたのは4月の終わりで、就職シーズンはすでに過ぎていましたから、就職は果たせませんでした。
でも、知りあいが6月には中間異動があるから、それまで待っているようにとのことでした。
じつはちょうどその頃、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが来日していました。
カラヤンは大好きなので、大阪フェスティバルホールで公演があるというので、毎日のようにフェスティバルホールに通いました。
彼が来日すると東京、大阪含めほとんど全国に行っていたほどです。
 
=たいへんなファンですね。
そんな中、関西ではどんなところが人の募集しているのだろうと新聞の求人欄を見ていたら、八幡製鐵所が募集をしているのが目にとまりました。
それを見て半官半民の天下の八幡製鐵所(現新日本製鐵株式会社)の試験ってどんなものかと、興味半分で受験してみました。
入るつもりはまったくなかったのですが(笑)。
 
ところが試しに受けてみると、定員1名のところに私だけ受かってしまいました。
ちょうど八幡製鐵所が堺製鉄所をつくるところでしたので、発想を転換してみました。
まあ、若いうちはいろいろ経験してみるのもいいのではないかと、とにかく入社することにしました。
しかし、製鉄会社でこのまま働き続けることでいいのか、と思うようになって結局3年半で退職することにしました。
 
● 念願の東京勤務が叶い
それからやはり編集関係の仕事を探していたら、大阪にある新時代社という新聞社が募集していました。
業界紙でしたが、採用され勤め始めました。
でも、やはり首都の東京で働きたいという当初からの想いは募るばかりです。
しかし東京に行く手づるがありません。
ところが、ちょうど東京本社のほうからから人出が足りないから上京するようにという連絡があり、これぞチャンスとばかり東京に赴任することができました。
ちょうど東京オリンピックの年(1964年)で、新幹線が開通した年でもありました。
 
東京本社で働くようになり、仕事は面白かったですね。
その新聞には「この人」というコーナーがありまして、いろいろな方に取材することもできました。
たとえば、女優の東山千栄子さんや演劇界で活動している方、婦人運動をしている方などを紹介していました。
しかし、社長と編集部の編集方針が合わず、私も含め編集者たちは大挙して辞めてしまいました。
 
● 柳沢文正先生との出会い
辞めたあと、他の大手一般新聞社の知りあいの方々から新しい仕事のご紹介をいただきました。
とてもありがたかったけれど、私自身は広く世の中に役立つ仕事がしたいなと思い始めていました。
そこでせっかくでしたが、お誘いを断り、納得いく仕事を探してみようと、自力で就職活動を始めました。
 
そんなときに、知りあいから声をかけていただきました。
それは、都立衛生研究所の臨床試験部長だった柳沢文正という先生がいろいろ執筆されていてたいへん忙しそうにしているから、その仕事を手伝ってはどうか、というお話でした。
調べてみると、先生は、『健康食入門』『長生き健康法』『薬になる食卓料理』『日本の洗剤その総点検』他、食物と健康についてたくさん本を出版され、とても素晴らしい活動をされていることがわかりました。
そこで、先生のいらっしゃる東京都立衛生研究所に勤め始めることになったのです。
 
=それが「食と健康」の世界に入るきっかけになったのですね。
柳沢先生は食べ物と健康をテーマにして、全国を回って講演をされ、多くの本を書いていました。
そこで、私もそれをお手伝いすることになりました。
先生が本を書かれるときは、先生が骨子を作り、私が枝葉の肉付けをするという流れになりました。
ですから私自身も、仕事を通じて自然に勉強させられました。
 
● 食と健康の情報が集まる場所に
先生は臨床試験部長という仕事柄、いろいろな研究をしていました。
当時は食品添加物全盛時代です。
たとえば、神田精養軒の望月社長さんが無添加のパンを作りたいと週3日も相談に来られることがありました。
ドイツのクネッケというパンを作って、その上にカテージチーズを載せたいと。
 
そうすると、先生はパンの上にはカテージチーズもいいけれども、ひじきの煮物など日本人の体に合う日本食を載せたほうが体にいいと提言したりしていました。
公害問題に敏感な方々も、先生のもとにたくさん訪ねてきました。
 
また、先生は変わった医者でしたので、健康管理をアドバイスしてほしいと、たくさんの方が相談に来ました。調子が悪くなると先生のところに訪ねてくるわけです。
 
=食と健康に関する情報がどんどん集まってくるわけですね。
こんなこともありました。
当時カルシウムイオン水を作る機械が出ました。
ある人がそのミニチュアを持って先生のところに訪ねてきて、カルシウムイオン水を作りたいというのです。
 
先生は、それは面白いということで、実験を重ねました。
一方に蒸留水、他方に炭酸カルシウムを入れて、間にフィルターを置いて電気スイッチを押すと、水がフィルターを通って移行する。
そしてカルシウムイオン水ができあがります。
 
● 製造元が押し掛ける騒ぎに
あるとき、私がその装置に蒸留水の替わりに酢を入れてみました。
すると、通常は10回ほど実験してからフィルターを交換すればいいのですが、酢の場合、2、3回やるとフィルターがボロボロになりました。
酢の中のカルシウム量がたくさん溶けこんでいたからです。
 
それを知った先生は面白いということで、市販されている酢を全部買ってきて実験をしました。
毎日同じ条件で実験を重ねました。
すると、醸造酢はカルシウムをどんどん吸収するけれど、合成酢はほとんど吸収しない。
それでデータを公正取引委員会にもっていきました。
当時は合成酢と醸造酢の法的定義がまったくありませんでした。
そこで、この実験データをもとに、日本で初めて醸造酢、合成酢の区分けの規則ができあがりました。
そうしたら二十数社ほどの製造元の会社が、「何を根拠にそんなことを」と押しかけてくる騒ぎになりましたから、データをすべて見せました。
 
そんな中で、一緒に実験をしたいと言ってきた企業がありました。
ミツカン酢の研究室の方で、しばらく研究室の同じテーブルで同じ実験をして、それで納得したようです。
 
法の規制が実際に始まって間もなく、ミツカン酢が新聞に全面広告を出しました。
たしか「当社の酢は100%醸造酢です」と……。
ただそれだけを謳った広告でした。
先生はそんなふうに、食のさまざまな問題を先駆的にとりあげ、また社会に広めていった方でした。
 
● キャベツで潰瘍が治った
あるとき、50代の女性が柳沢先生のもとへやってきました。
胃の調子が悪いとのことで、青白い顔をしていました。
 
先生は、「キャベツ3枚を毎日食べるように」と勧めました。
キャベツの中には潰瘍を防ぐ成分が豊富だからです。
ちなみに私たち研究室員は、キャベツが体にいいことがわかっていましたので、昼食になるとキャベツをたくさん食べていました。
 
研究室には、先生から健康管理を受けていた方々から蕎麦や素麺などいろいろなものがお礼として届けられていて、たくさんありました。
当時、研究室には研究員が7名ほどいましたが、毎日皆で麺類の昼食を作って食べていました。
そのときにキャベツ1個を7人で必ず食べていました。
キャベツの葉を手でちぎってボウルに入れ、塩水を上から多めに入れて、手でぎゅぎゅと押して、即席のサラダができあがります。
それにレモン汁を絞りかけて、毎日おかずにしていました。
 
じつは私は新聞記者時代に胃潰瘍になったことがあります。
当時は丸山ワクチンがガンに有効だと話題になっていました。
血液を培養したのが丸山ワクチンで、一方、尿を培養したのが蓮見ワクチン。そ
の蓮見先生のところに取材にうかがったとき、君もレントゲンを撮ってあげると言われ検査を受けたのですが、そうしたら胃に潰瘍が二つ見つかったのでした。
当時、自覚症状としては猛烈な偏頭痛がときどきあったのを覚えています。
 
持病かなと思っていましたが、のちに研究所の職場で毎昼キャベツを食べるようになってからは偏頭痛がまったくなくなりました。
そこで再度胃のレントゲンを撮ったら、潰瘍がきれいになくなっていました。
キャベツがいいのは私の実体験でもあります(笑)。
 
● 「必ずしも無害ではない」で大論争に
話を戻しましょう。
胃の調子が悪くて相談に来られたその方が1ヵ月後再びやって来ると、状態がさらに悪くなっていました。
他の人は皆さんよくなるのに、その方だけは顔に吹き出物ができたりして、かえって状態が悪くなっていたのです。
 
驚いて先生が尋ねてみると、「先生から生のキャベツをできるだけ食べなさいと言われたので、前夜に市販の洗剤の液に浸けておいたキャベツを毎朝食べました」とのことでした。
そこで先生は早速、市場に出回っている合成洗剤を集めて、調査を始め、実験を重ねました。
 
その結果を、1962年1月に学会で「合成洗剤は必ずしも無害ではない」という論文を発表しました。
当時、厚生省(現厚生労働省)では「合成洗剤は無害である」という宣言をすでに出していました。
そんな中で、「必ずしも無害ではない」と発表したわけです。
しかも、柳沢先生の弟で免疫学が専門の柳沢文徳先生(当時東京医科歯科大学教授)も同じ趣旨の発表をしました。
大学と衛生研究所の両方でそういう発表がありましたので、社会に与えた衝撃はとても大きかったのです。
 
=なるほど、そこから大論争が始まったのですね。
これが日本での公害問題の発端です。
国会でも論議されるほど大問題になりました。
 
 
2.食は医であり薬である
● 作家有吉佐和子も訪ねてきた
前回 お話しましたが、以来衛生研究所では合成洗剤に使われる界面活性剤の実験研究が進みました。
消費者運動も起こり、日本消費者連盟の方々も毎日、研究所に来ていました。
皆さん、柳沢先生のところに来ていました。
 
調べると、日本の基幹産業ではほとんどのところで界面活性剤が使われています。
ですから製造販売を禁止することはできません。
たしかに、界面活性剤は水と油を容易に融合させるほどの威力があります。
魔法の働きをしますから、いろいろなところに使われていました。
 
作家の有吉佐和子さんも先生のところに話を聞きに来ました。
そのあと朝日新聞に、1974年10月から翌年6月まで『複合汚染』が連載されました。
これが環境問題に警鐘を鳴らすことになり、大いに話題になりました。
 
こうして、先生の行った研究は日本の公害問題の端緒になりました。
私から見ると、消費者運動をやっていて、柳沢文正先生、弟の文徳先生のお二人の名を知らない人はモグリだと思っているくらいです(笑)。
 
● つねに警鐘を発していた
それでも、工場からは界面活性剤の廃液がずっと流れ、海水や湖が汚染されてきました。
河川には家庭排水が流れ、汚染されてきました。
 
生前先生は、「日本人がミネラルウォーターを買うようになったら、この国の健康が脅かされてしまう。世界一美味しい水の国にいながら、ミネラルウォーターを買うようになったらダメになる」といつもおっしゃっていました。
国が崩壊すると危機感をもち、いつも水の汚染への警鐘を発していました。
 
そんな危機感から公害問題にもいろいろ取り組んできたわけです。
農薬、イタイイタイ病、化学肥料など、さまざまなことについても、柳沢先生が関与していますが、はっきりものを言う方でしたから、どこへ行ってもたいへんな圧力を受けてきました。
それでもめげずに活動をしてきました。
 
● 「黙って座るとぴしゃりと当てる」
定年で都立衛生研究所をお辞めになったとき、柳沢先生は以降は趣味の絵筆をとるゆっくりした生活を考えていたようですが、それまで先生にお世話になった方や、健康管理を受けていた方々から、「他にも困っている方がたくさんいるから、何とか助けてくれませんか」という声が湧きあがってきました。
 
そこで、先生は柳沢成人病研究所を立ち上げることになり、私もその発足から一緒に活動をさせていただくことになりました。
先生は一人の患者さんを診るのにじっくり1時間かけます。
まずじっくり顔を見ます。
顔を見ているだけで、患者さんがどんな病気に罹っているかがわかります。
そして、その原因まで探ります。
 
先生の前に座ると、なんの検査もしないのにわかってしまう。
「黙って座るとぴしゃりと当てる」ということで、有名になってしまいました。
実際に検査すると、先生が診たとおりのデータが出てきます。
 
一人の患者さんとじっくり話すので、1時間くらいかかります。
ですから、1日に3〜4人のお客さんしか診ることができません。
 
● 「一にも二にも三にも四にも食」
診察を終えると最後に、先生は1枚の紙に○印と×印を付けた食べ物の表を渡します。
食べていいものと食べていけないものに印を付けるわけです。
 
食生活を変えれば、病気は治るというのが先生の考えです。
私も20年近く先生のそばにいてわかりましたが、食生活を改善すれば、病気は80%までは治ると確信しました。
先生はいつもおっしゃっていました、「一にも二にも三にも四にも食です。そして五番目に注射や薬などの医療が手助けしているんです」と。
「日本人は昔から食べてきたものを食べればよい」といつも先生はおっしゃっていました。
 
当時は、タラコも真っ赤なものしか店に並ばない、買わない時代でした。
合成着色料、防腐剤などが入っている、文字通り添加物浸けの時代でした。
 
添加物はみな、石油、石炭が原材料です。
ですから、先生は講演でいつも問いかけていました、「あなたたちは石油を飲みますか、石炭を囓りますか」と。
 
ですから、「日本人は昔から食べてきたひじきを煮たものや切り干し大根、ホウレンソウのお浸しなどを食べていればいい、主食はすべて麦飯に」と自説を語っていました。
 
● 糖尿病には麦飯がよい
農林省(現農林水産省)の中に、日本人の食構成を検討する委員会がありました。
あるとき、そこから都立衛生研究所の先生の所に麦飯についての調査依頼がありました。
 
そこで柳沢先生は、ある実験を始めました。
 
糖尿病のウサギを二つのグループに分けます。
白米だけを食べさせるグループと、大麦(押し麦)だけを食べさせるグループです。
そうすると、白米だけを食べているウサギは血糖値がどんどん上がります。
一方、大麦の方は血糖値が上がりません。
 
そのデータを委員会に提出すると、それから麦を食べる運動が全国で展開されることになりました。
ですから、成人病研究所に来診された方には、先生は主食を白米から麦飯に替えるように勧めていました。
とくに糖尿病の人には麦飯に切り替えるように指導していました。
 
健康な人にとっても、大麦はB1、B2、カルシウムのほか、食物繊維が豊富に含まれていて、体内の老廃物や余分なコレステロールの排泄を促し、高脂血症を予防する。
そして、消化がよいのが特徴で、白米の三分の一の時間で消化されるので胃腸の弱い人には最適な食材です。
中国では古代から「大麦は五穀の長」と呼ばれています。
そのことを聞きつけた新聞社の人がやって来て、麦健康法の本も出したほどです。
 
● 薬膳との出会い
柳沢先生は1985年に亡くなりまして、私も成人病研究所を退きました。
結局、衛生研究所と柳沢成人病研究所の両方の時代を通じて、私自身「食と健康」をテーマにした世界にずっといたことになります。
 
退職してしばらくは図書館通いを続けて、「水」についての本ばかりを読んでいました。
 
あるとき、疲れたので息抜きにと思い、水以外の書棚を眺めていて、『漢方健康料理』という全集が並んでいるのを見つけました。
あとで考えれば、薬膳の本ですね。
 
=それが薬膳との出会いですか。
 そうです。
二つの研究所時代を通じて、食べ物は魔物だとつくづく思っていました。
食こそが健康を改善する力をもっていることを目の当たりにしていたからです。
そこで、その魔物の正体をもっと調べたくなりました。
それを調べて何かのかたちで役に立てれば、柳沢先生への恩返しにもなります。
「食は医であり、薬である」という考えを実践されてきた先生が、生きていればさらに果たしたであろうお仕事のお手伝いが少しはできるかもしれない、そう思いました。
 
● 中国の薬膳レストラン厨房に入り勉強
『漢方健康料理』の本を読んでいたとき、ちょうど新聞の記事で、中国から孫蓉燦(そんようさん)という薬膳の先生が来日することを知りました。
早速、孫先生の講演を毎日のように付いて回り聞きました。
 
しばらくして先生が帰国するとき、私のことを気にかけてくださり、「日本には生薬も材料もありません。もしほんとうに薬膳を勉強したいのなら、中国へいらっしゃい」と声をかけていただきました。
そこで、2週間後にはもう中国へ渡りました。
 
=たいへんな行動力ですね。
先生は、薬膳発祥の地である四川省成都の薬膳レストランの長でした。
日本から薬膳料理視察の人たちが初めて訪中したとき薬膳料理を提供されたのも孫先生で、彼は中国でも薬膳研究の第一人者でした。
 
私は、先生が長を務める薬膳レストラン「百草園」のメニューを毎日厨房に入って勉強することができました。
厨房に入り技術を学んだのは外国人では私が初めてでしょう。
そこで薬膳理論や薬膳料理技術を学ぶことができました。
そのころ日本の民放テレビでは、中国の宮廷薬膳料理を紹介する番組をずいぶん見かけるようになりましたが、紹介された薬膳料理はすべて私が成都滞在中に勉強していた内容でした。
 
● 普通の家庭で作れる薬膳料理こそ
成都で勉強していたとき、新華社が取材に来ていました。
取材記者が、私が中国まで薬膳の勉強に来たということでいろいろ質問してきました。
私は、「いま日本では公害問題が大きな社会問題になっている。中国には日本のマネはしてほしくない、土を汚染してほしくない」と答えたことを覚えています。
その折、日本消費者連盟が作った、公害に関する本を成都の科学技術研究所に20冊寄付しました。
「日本はこうなってしまった、中国はマネをしないでください」というつもりでした。
 
でも、結局中国は今やそこに警告された通りになってしまいました。
残念なことです。
成都から帰ってくると、新華社の東京支局長から電話が入りました。
新華社と合弁会社を作って一緒にやりませんか、と提案をいただきました。
「新華社は中国全土に53の支局を持っているので、どんな生薬でも入りますよ」と言われました。
 
でも私は、「薬膳の勉強はしていますが、生薬を入れた料理を作ろうとは思っていません。一般の誰もが家庭でできる料理を作りたい。そういう家庭料理を勉強しています。なかなか手に入らない生薬を使うような料理を手がけるつもりはありません」とお断りさせていただきました。
                 (次回につづく)
 
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001