■ 「正月」について
本来「正月」とは、本来1月の別名ですが、現在は1月1日から1月3日までの事を指すようになっています。また、1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を二十日正月(骨正月)と呼びます。
新暦の元日を軸とする「大正月」(おおしょうがつ)と旧暦の15日を軸とする小正月(こしょうがつ)と呼ぶものがあります。大正月はまた大年(おおどし)を、男の正月と呼ぶのに対して、小正月を小年(こどし)、女の正月と言うところもあります。
12月8日(関西では13日)を「正月事始め」と称して、正月準備が始ままります。
数え年では1月1日に歳を1つ加えていたことから、正月は無事に歳を重ねられたことを祝うものでもありました。満年齢を使うようになってからはそのような意味合いはなくなり、単に年が変わったこと(新年)を祝う行事となっている。
 
さて、「正月」とは何か・・・、正月には当然のことながら、いろいろな切り口がありますが、まず暦の観点から考えてみます。
暦は、いまや「カレンダー」ですが、これは「暦」ではありません。いまのカレンダーはただ、今日や約束の月日、日付けと曜日の対照、それに祝日を確かめるものにすぎないものになっています。これに対して暦とは、自然の運行を古代合理的に、また呪術的に読み解いたものであります。
 
律令制下では中務(なかつかさ)省に陰陽(いんよう、おんみょう)寮が設けられ、そこには天文・暦・陰陽博士、陰陽師(おんみょうじ)なる職がありました。荒俣宏、夢枕獏氏らの小説によく登場するので、陰陽師としての安倍清明などの名前はご存じの方も多いでしょう。
陰陽寮の職掌はそれらの職名が示す通りでありますが、天文を中心に自然リズムの変異の徴候(日月食がその代表的なもの)を嗅ぎ取って、その意味(天意や何かの予兆)を解読し、密奏することでありました。これに拠って、天皇は元号を改めたり、神仏への祈祷を命じました。そんな彼らの日常業務の一つが暦作りでした。
 
話は横道にそれますが、長らく朝廷のものであったこの暦作りを奪ったのが、朝廷の権限をことごとく奪取した最強の武家政権・徳川幕府です。改元や暦を作るということは、象徴的には「世界」を創ることに等しい、治世者の権威ある政事(まつりごと)だったわけです。
暦作りとその管理は、1684年(生類憐れみの令の綱吉の治世)に設けられた「天文方」という幕府の機関の手に移り、この年、平安時代から800年にわたり使われてきた宣明暦から、貞享暦という「近代的」なものに改暦されたのです。これは西欧天文学を輸入した当時の中国の最新暦書に基づくものでした。
 
さらに興味深いのは、天文方は吉宗の時代(1857年)に「蛮書調所」という機関に改組されます。蛮書とは西欧書物のことであり、すなわちこれは洋学所です。そして明治維新後は開成学校というものになり、これがやがて輸入西欧学問の拠点である東京大学に改組されていくのです。
 
太陽暦以前の暦を旧暦と言いますが、これは太陰暦のことです。この呼び方自体が陰陽思想なのです。太陽と太陰、日と月です。
いまは「太陽と月」で通用していますが、日を太陽と呼ぶなら月は太陰と呼ぶべきでしょう。
太陰暦すなわち暦は、太陰=月のリズム通りに運行していく。
1日は月立ち(ついたち)で、朔(さく)と言う。新月である。
月齢(満ち欠け)は0である(したがって、日付けと月齢は1日ずれている)。
7日ごろが上弦の月という半月。15日ごろに満月、これを望(ぼう)と言う。望月(もちづき)です。
その後、22日ごろが下弦の月。29日か30日に月隠り(つごもり)となる。ほぼ7日単位です。
 
月の満ち欠けの一周期は約29.5日で、暦では30日と29日の月が出ます。これが太陰暦の大小の月です。それにしても、これを12倍しても365日にはならない。約11日足りない。足りない11日を約3倍すると、だいたい1月分になります。乱暴に言えばだが、これが閏月がある閏年(13ヶ月)の発想です。
実際にはもっと厳密複雑で、たとえば先の宣明暦では、19年の間に閏年が7年があるというなかなかに正確なものでした。
 
閏年を用いても困ったことがありました。
平年は354日か355日、閏年は382日か383日となり、月日からは季節がわからなくなってしまうのでした。そこで、太陽の位置(黄経)から別基準を設けることにした。これが24節気というものです。そのうちから周知な節気を拾うと、立春、啓蟄(けいちつ)、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至、大寒などがあります。これらの来る月日は毎年変わります。ここにおいて、「今年の立春はいつだ」とか言うことになります。
 
まとめると、暦の日は太陰の満ち欠けにしたがい毎月不変であり、暦の月は太陽の位置にしたがい24節気に対して毎年前後し(節気の日がずれる)、暦の年は19年周期で季節を保つ、という仕組みです。
これが太陰太陽暦です。旧暦と言っているのは実はこの暦のことです。
 
さて、「正月」とは何かでありますが、この問いの意味は2つある。
第一に、1年の第1番目の月がどうして正月(一月)であるのか、つまり二月や三月ではなくてなぜ一月から1年が始まるのかということ。
第二に、1年の始まりにどういう意味があるのかということ。
 
第一の問題から。1年の始まりは本来、任意です。会社では四月一日をもって年度を始めるところが多いし、日本の学校も四月始まりです。それに対し、欧米の学校では9月始まりです。
暦も同様で、実際、西洋でも紀元前2世紀までのローマでは、マルチウス(英語で言うとマーチ、つまりいまの三月)が「正月」であったし(二月が1年の最後の月であったのです。
いまも残る太陽暦の二月の短さは年末の閏月のなごり)、古代ゲルマン社会では冬至から「正月」が始まりました。
また中国でも漢の武帝が一月を「正月」とするまでは、様々な月が「正月」として存在していました(殷王朝は十二月を、周王朝は十一月をそれぞれ「正月」とした。武帝は夏王朝の「一月=正月」スタイルを採用した。これを夏正と言う)。
 
ここで節気に戻ります。洋の東西を通じて、太陽の盛衰には敏感でした。
節気はその東洋的表現にすぎません。季節の節目としての冬至と夏至、また春分や秋分をともに知悉していました。
これにしたがい1年をまず4等分する。そしてこれを2分すると、それぞれの中間点が立春などの四立(4大節気)となり、四季の区切りが生まれます(さらに12ヶ月と組み合わせるため、いまの8等分をそれぞれを3分すると24節気が得られるます)。
 
西洋に24節気はありませんが、冬至・夏至・春分・秋分、それに立春など四立の概念は共通です。
古代ローマならびに夏正は立春を「正月」すなわち1年の始まりとしました。太陽が最も衰える冬至の、次の季節の節目、これは太陽の復活を意味しますが、これを1年の初めとしたのです。すなわち、立春こそが正月=一月の意味なのです。
太陽暦の正月では冬であるにもかかわらず、年賀状に「初春のお喜びを申し上げます」と書くのは、もちろん旧暦の正月(立春を含む月)のなごりである。
 
二月三日は節分であるが、節分とは四立の前日を言います。いまでは特に立春(太陽暦では二月四日)の前日を指す言葉となっていますが、それは四立の中でも最も重要なものが春分であるからです。つまり節分とは「正月」を迎える前日、いまで言う「大晦日」なのです。(正確に言うとこれは違う。立春などの節気はすでに述べたように月の中でずれます。
一月一日が立春とはならないのです。当然、節分も大晦日と合いません。ここで言いたいのは、1年=太陽サイクルの始まりが「正月」として祝われ、その直前が「節分」として特別視されることです)
 
すでに第2の問題に移っているが、正月は太陽信仰の深さを示すものにほかなりません。日本の主神である天照大神(彼女自身の正体は別として)が太陽神でなければならないのもそれ故です。紀記の天の岩戸神話が何を語っているかはもう言うまでもないでしょう。日食説もありますが、第一義には冬至から立春への、つまり正月の神話であります。
 
キリスト教を受容し、自らの古代ゲルマン信仰を邪教、その神を悪魔として捨て去ったはずのヨーロッパにも、太陽信仰は換骨奪胎してだが生きています。
イエスの誕生を祝うクリスマスは本来、冬至の祭りであり、古代の正月です。だからこそ、1年で最も盛大な祭りであるのです。その意味は太陽の(死と)誕生です。
そしてキリスト教世界でのもう一つの大祭、復活祭とは春分の祭りです。冬が長く厳しいヨーロッパでは、このころ本当に太陽の復活となるのです。
現在は春分を経た満月直後の日曜日(主の日)が祭日ですが、これはもと春分節気の月の「望」の日が祭日であったことを証拠立てるものでしょう(イエスは金曜日に処刑され、日曜日に復活しました。これが日曜日が主の日であることであり、キリスト教の春分祭が日曜日に行われる所以です)。
 
太陽暦全盛の現代において、いまでも太陰暦を固守しているのがイスラム暦(年354日、閏355日)です。「月の砂漠を〜」の歌のとおり、太陰=月を見て暮らしているわけであります。
[主な典拠文献] 広瀬秀雄『暦』(日本史小百科)東京堂出版
 
 
■ お正月行事のいろいろ
そもそもお正月儀式の多くは、元旦に家を訪れる「年神」を祀り、新しい年の幸福を祈るという意味を持つものが多い。門松や松飾りは年神さまを家に迎えるための依り代(よりしろ)であり、鏡餅、おせち料理、雑煮、お年玉も、年神さまへのお供えを食することで1年の健康を祈るためといわれます。
 
現代では25日まではクリスマスの装飾が街を彩り、26日以降はお正月用の飾りに様変わりするが、トラディッショナルな日本のお正月行事は、12月13日に1年の汚れを落とす「すす払い」から始まります。
家をきれいにしたら次は、山から松を切ってきて玄関に飾る「松迎え」をする。そして25日頃に「餅つき」。
 
年が明けると、元旦は若水汲みにはじまり、鏡餅を飾り、おせち料理と屠蘇で祝い、初詣をします。そして2日の事始め、年始回り、7日の七草粥、11日の鏡開き、14日に正月飾りを焼くとんど焼きまで、実に1カ月にもわたってお正月行事が続いていたというから驚きである。
 
お正月の行事の中から代表的なものを取り上げてみよう。
 
若水汲み、お屠蘇に込められた意味とは
年が明けると元旦のまだ暗いうちに、餅や米を水神に供え、井戸から水を汲む儀式が「若水汲み」。若水を汲むのはその家の主人とも年男の仕事ともいわれますが、最近は主婦がその役を担うことが多い。
この若水を正月の「福茶」や「雑煮」に使うと、1年を健康に過ごせるという。
井戸の少ない現代なら、水道の蛇口を清め、水神への感謝とともに新年の若水を汲んでみてはどうだろう。正月の朝、その若水で沸かしたお湯で淹れるのが、「福茶」または「大福茶」です。元旦に飲むと万病をはらうとされます。
煎茶に黒豆や昆布、山椒、梅干しを入れたお茶を、六波羅密寺の空也上人が人にふるまって万人の病を治したことから、毎年飲まれるようになったといいいます。
 
元旦の朝や三が日に飲まれるのが「お屠蘇」
屠蘇の“屠”は退治するという意、“蘇”は病を起こす悪魔を意味し、魔除けの酒として中国から伝わったもの。
酒に浸した肉樹(にっき)、桔梗、山椒、防風、百朮(びゃくじゅつ)など十数種類の薬草は、いずれも胃腸強壮や感冒予防に効くものばかり。
お屠蘇を飲む順番は、若い人から年長者にすすめる習慣があり、これは年長者が若い人の若さを飲み取る意味があるといわれています。
 
「雑煮」や「おせち料理」
お正月を祝う「雑煮」や「おせち料理」は年神さまへのお供えで、そのお下がりを食べることで1年の健康を願うもの。
関西では人の魂を意味する鏡餅にならって丸餅を、関東では四角いのし餅が一般的だ。関東で四角い餅を食べるようになったのは、江戸時代に急激に人口が増え、餅を大量生産するために、一つひとつ小さく丸める手間を省き大きなのし餅を四角く切って売るようになったのがルーツといわれます。
 
正月料理に込められている意味も興味深い。
八つ頭は人の頭に立つように、黒豆はまめまめしく1年丈夫に働けるように、昆布は慶びを表わし、数の子は子孫繁栄、白髪牛蒡(しらがごぼう)は共白髪になるまで長生きできるよう、海老も腰が曲がるまで長生きができるよう、錦卵やだて巻は金運アップなど。
おせち料理を食べるときには、これらの意味を思い出しながら、子供たちにもおせちに込められた願いを伝えたいものです。
 
初詣のルーツ
初詣は、平安時代の祈願のために社寺に籠る「御籠り」の流れをくむ習慣で、正月に初めて社寺に参拝することをいう。大晦日を寝ずに過ごし、深夜12時になってから氏神やゆかりの寺に詣でるのが本来の形です。気持ちも新たに新年の願いを立てる初詣に、家族揃って出掛けよう。
 
お年玉のルーツ
そして、子供が毎年楽しみにしているのがお年玉。しかしお金を贈るようになったのは戦後のことで、元々は年神さまに家族の数の丸餅を供えた後、餅を年神さまからの賜り物として食したのが始まりだったようです。
人の魂になぞらえた丸餅を年神さまから賜り、新年に祝福された魂を分けてもらっていたという。
 
正月の子供の遊びにも、それぞれ年神さまの祭りの意味合いがあった
江戸時代には子供の元気な成長を願って、男の子に弓矢、女の子に羽子板を贈る習慣がありました。
弓矢の鳴る音、独楽が回る音、凧が風に鳴る音、人の笑い声には邪を払う力があると信じられ、羽子板で負けた人の顔に墨を塗り、みんなで笑い合うのも、邪を払い、福を呼び込もうという意味がありました。
 
初夢で一年の吉凶を占う
現代では元日の夢や31日の夜にみる“その年初めての夢”をさすが、本来は2日に見る夢を「初夢」といいました。なぜかというと、かつて宮廷では、2日は仕事を始める事始めの日でした。だからこの日に見る夢で、1年の仕事の成否を占ったのです。
江戸時代には、徳川家康が好んだ「一富士、二鷹、三茄子」が事始めの日に出てくると出世できるといわれました。また、枕の下に宝船の絵や、悪夢を喰うという想像上の生き物、貘(ばく)の絵を入れておくといい夢がみられるといわれました。
 
薬効成分の入った春の七草、浄化作用のある小豆の粥
正月7日には、薬効のある春の七草(セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ)入りの粥を食べる習慣があります。現代でも春の七草をセットにしたものが八百屋やスーパーに出回っています。七草粥にはおせちやお酒で疲れた胃腸を整える効果があり、お正月の疲れを取るための先人の知恵に満ちた粥です。
また、15日には、小豆粥を食べる習慣があります。小豆粥は赤粥、十五日粥ともいわれ、幸運を呼び込む縁起のいい色、魔除けの色と解釈される赤い小豆を入れて炊いた粥を15日に食べると、1年間病気をしないとされました。
11日に鏡開きした餅を小豆粥に入れるのは、堅いものを食べると歯が丈夫になるという歯固めの風習の名残とされます。
 
 
■ お正月に行われる催し物や風習
1月1日
初詣・・・年が明けて初めて「神社」や「お寺」にお参りをする。
年賀・・・親戚や近所、上司の家に行き、年賀の挨拶をする。
2日
初夢・・・この夜見た夢を、初夢として大切にするため、良い夢を見れるように「七福神」の絵などを枕の下に敷いて寝ると良い、などと言われている。
初書き・・・年が明けて初めて書く習字など。
書いた物は、1月15日頃に行われる「どんど焼き」で燃やし、炎や灰が高く昇ると字が上手くなると言われている。
初荷・・・新年初めての商い(商売)荷物のこと。
初売り・・・商売人は、この日から店を開く。
最近は、1日から開店するところも多い。
3日
三が日の終わり・・・七日正月や小正月(15日)などと言われることもあるが、一般社会においては、正月は1日から3日までの三が日だけである。
4日
御用始め・・・公官庁の仕事始めの日。一般会社の仕事始めもこの日が多い。証券取引所の仕事始めである大発会もこの日である。
5日
魚河岸初せり・・・漁師さんが4日から漁に出るため、せりは5日に初めて行われる。
6日
六日年越し・・・七日正月の前夜を「六日年越し」と呼び、七草粥などの用意をする。
7日
七日正月・・・正月の終わりの日で、この日までを「松の内」と呼ぶ。
また、この日は、5節句の中でも一番重要な「人日(じんじつ)」であり、無病息災を祈って「七草粥」を食べたりする。
8日
どんど焼き・・・「どんと焼き」とか「左義長」と呼ばれるもので、場所によっては、15日前後に行われる所もある。
松飾りや注連縄を燃やすのだが、その炎で焼いた餅を食べると一年間病気をしないで居られると言う言い伝えもある。
15日
小正月・骨正月・・・この日が正に正月の最後であろう。
元旦から御馳走を食べ、骨まで食べ尽くして仕舞う頃なので、「骨正月」と言われたりもした。
また、今までの正月は男どもや子供の世話で忙しかった女衆がゆっくりする日ということで、「女正月」とも言われたという。
なお、正月の最後ということで、この日に「どんど焼き」をする所も多い。
 
■ 元日は日本では最も伝統的な祝日です。
これを祝うことは一方で米穀農業に従事していた古代の人々が来る年の五穀豊穣を祈る気持ちと他方で家族の幸運と健康をもたらす縁起物に係わるしきたりに由来しています。
その信仰の起源の多くは古代中国の陰陽道に遡りますが、大半は仏教、儒教、神道それに上着信仰の影響を受け、時には異教との習合の形で様ざまな変遷をたどって来ました。
また、多くのことが言葉の語呂合わせにも由来しています。
正月の風習の謂われについて、みなさんがよく見かけるものの幾つかを挙げて見ましょう。
● 「明けましておめでとうございます」という挨拶・・・
もともとは旧年の物忌みが明けて、新年の年神から新たな霊で活力をもらい受けたことへの祝福を意味していました。
● お年玉・・・
本来は神への供え物のお返しとして年神から家長に下された新たな霊のことでしたが、今では元日に親や主人から子供や使用人にあたえられるお金に変りました。
● おもち・・・
これは新年の年神に供えられたもので、「もち」は「長持ち」に通じます。ここにも縁起をかつぐ語呂合わせが見られます。
● 鏡餅・・・
丸い餅を2つ重ねて三宝という小さな木製の台に乗せ、神に供えられたもので、色々な飾りをつけます。鏡は日本の古代においては御神体を表しました(神道)。飾りつけには次のようなものがあります。
  ○ 橙(ダイダイ)・・
オレンジに似た果物で、その名前の読みが「代々」に通じ、家系の繁栄を意味しています。
  ○ 羊歯(シダ)・・・
常緑の羊歯はやはり自分の家系の末永い繁栄を意味します。歯は長寿を表します。
  ○ 昆布(コブ)・・・
いわれは神道の神話にありますが、俗には「よろこぶ」に通じるものとして知られています。
  ○ 四手(シデ)・・・
伝統的な和紙で作った稲穂のシンボルで、豊穣の願いです。
● 松飾りと門松・・・
家の入り口に松飾りをおく風習は平安時代に始まりました。松の木は元旦に年神の降臨を待つ聖なる樹と信じられていました。松は待つに通じ、常緑樹は繁栄の持続を連想させます。門松をつくるには竹も使い、これも常緑で、真っ直ぐのところが心の廉直さや健やかな成長を表します。
● 初詣で・・・
三箇日(サンガニチ)の間に神社やお寺に詣で、健康や豊穣を祈願します。ここでも日本人の宗教習合が見られます。同じ人がお寺に詣でながら、他方で神社にもお参りしたりします。
● しめ縄・・・
これは正月に限りませんが、神社などにぶらさげられた神聖な縄飾りで、悪霊を立ち人いらせない為のもので、この縄にも前述のシデが吊り下げられます。
 
 
■ 除夜の鐘について
除夜の鐘(じょやのかね)は、日本仏教において年末年始に行われる年中行事の一つ。
12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘(ぼんしょう)を撞(つ)くことを言う。  梵鐘=釣鐘(つりがね)
「梵」は梵語(サンスクリット)の Brahma (神聖・清浄)を音訳したものです。
梵鐘の主な役割は本来は法要など仏事の予鈴として撞(つ)く仏教の重要な役割を果たします。朝夕の時報(暁鐘・ぎょうしょう、昏鐘・こんしょう)にも用いられます。
ただし、梵鐘は単に時報として撞かれたものではなく、その響きを聴く者は一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があるとされます。
日本では第二次世界大戦時に出された金属類回収令により、文化財に指定されているものなど一部の例外を除き、数多くの梵鐘が供出され、鋳潰されました。
これにより、近代や近世以前に鋳造された鐘の多くが溶解され、日本の鐘の9割以上が第二次世界大戦時に失われたといいます。
 
除夜の鐘は108回撞かれます。
この「108」という数の由来については次のような複数の説があります。
1. 煩悩の数を表す
眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう・・・気持ちが好い)・悪(あく・・・気持ちが悪い)・平(へい・・・どうでもよい)があって、6×3=18類。
この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん・・・きたない)の2類があって、18×2=36類。
この36類を前世・今世・来世の三世に配当して、36×3=108となり、人間の煩悩の数を表します。
2. 一年間を表す
月の数の12、二十四節気の数の24、七十二候の数の72を足した数が108となり、1年間を表す。
3. 四苦八苦を表す
四苦八苦を取り払うということで、4×9+8×9=108をかけたとも言われている。
 
除夜の鐘を打つ参拝客
鐘を撞く前には鐘に向かって合掌する。
108回のうち107回は旧年(12月31日)のうちに撞き、残りの1回を新年(1月1日)に撞く。
 
108回の鐘は本来、除夜(大晦日の夜)だけでなく、平日の朝夕にも撞かれるべきものであるが。普段は略して18回に留められている。
 
上野・寛永寺にて1927年(昭和2年)、JOAK(NHK東京局の前身である社団法人東京放送局)のラジオによって史上初めて中継放送されました。
 
NHKによる毎年の年末年始に恒例のテレビ番組「ゆく年くる年」で、日本各地の寺院において除夜の鐘が撞かれながら年が明ける様子を全国中継しています。
初夜の鐘(そやのかね)
 
??? 参考までに「二十四節気」と「七十二候」について ???
* 二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区分手法の一つで、1年を12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられています。なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されましたが、元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もあります。
* 二十四節気
節月      節          中
春   1月   立春(2月4日)   雨水(2月19日)
2月   啓蝨(3月6日)   春分(3月21日)
3月   清明(4月5日)   穀雨(4月20日)
夏   4月   立夏(5月6日)   小満(5月21日)
5月   芒種(6月6日)   夏至(6月21日)
6月   小暑(7月7日)   大暑(7月23日)
秋   7月   立秋(8月7日)   処暑(8月23日)
8月   白露(9月8日)   秋分(9月23日)
9月   寒露(10月8日)  霜降(10月23日)
冬   10月  立冬(11月7日)  小雪(11月22日)
11月  大雪(12月7日)  冬至(12月22日)
12月  小寒(1月5日)   大寒(1月20日)
* 七十二候(しちじゅうにこう)とは、古代中国で考案された季節を表す方式のひとつで、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のことです。
二十四節気       名称       意味
立春    初候  東風解凍  東風が厚い氷を解かし始める
       次候  黄鶯?v  鶯が山里で鳴き始める
       末候  魚上氷   割れた氷の間から魚が飛び出る
雨水    初候  土脉潤起  雨が降って土が湿り気を含む
       次候  霞始靆   霞がたなびき始める
       末候  草木萠動  草木が芽吹き始める
啓蝨    初候  蟄虫啓戸  冬蘢りの虫が出て来る
       次候  桃始笑   桃の花が咲き始める
       末候  菜虫化蝶  青虫が羽化して紋白蝶になる
春分    初候  雀始巣   雀が巣を構え始める
       次候  桜始開   桜の花が咲き始める
       末候  雷乃発声  遠くで雷の音がし始める
清明    初候  玄鳥至   燕が南からやって来る
       次候  鴻雁北   雁が北へ渡って行く
       末候  虹始見   雨の後に虹が出始める
穀雨    初候  葭始生   葦が芽を吹き始める
       次候  霜止出苗  霜が終り稲の苗が生長する
       末候  牡丹華   牡丹の花が咲く
立夏    初候  蛙始鳴   蛙が鳴き始める
       次候  蚯蚓出   蚯蚓(みみず)が地上に這出(はいで)る
       末候  竹笋生   筍(たけのこ)が生えて来る
小満    初候  蚕起食桑  蚕が桑を盛んに食べ始める
       次候  紅花栄   紅花が盛んに咲く
       末候  麦秋至   麦が熟し麦秋となる
芒種    初候  螳螂生   蟷螂(かまきり)が生まれ出る
       次候  腐草為蛍  腐った草が蒸れ蛍(ほたる)になる
       末候  梅子黄   梅の実が黄ばんで熟す
夏至    初候  乃東枯   夏枯草(かごそう)が枯れる
       次候  菖蒲華   菖蒲(あやめ)の花が咲く
       末候  半夏生   烏柄杓(からすびしゃく)が生える
小暑    初候  温風至   暖い風が吹いて来る
       次候  蓮始開   蓮(はす)の花が開き始める
       末候  鷹乃学習  鷹の幼鳥が飛ぶことを覚える
大暑    初候  桐始結花  桐の実が生り始める
       次候  土潤溽暑  土が湿って蒸暑くなる
       末候  大雨時行  時として大雨が降る
立秋    初候  涼風至   涼しい風が立ち始める
       次候  寒蝉鳴   蜩(ひぐらし)が鳴き始める
       末候  蒙霧升降  深い霧が立ち込める
処暑    初候  綿柎開   綿(わた)を包む咢(がく)が開く
       次候  天地始粛  ようやく暑さが鎮まる
       末候  禾乃登   稲が実る
白露    初候  草露白   草に降りた露が白く光る
       次候  鶺鴒鳴   鶺鴒(せきれい)が鳴き始める
       末候  玄鳥去   燕が南へ帰って行く
秋分    初候  雷乃収声  雷が鳴り響かなくなる
       次候  蟄虫坏戸  虫が土中に掘った穴をふさぐ
       末候  水始涸   田畑の水を干し始める
寒露    初候  鴻雁来   雁が飛来し始める
       次候  菊花開   菊の花が咲く
       末候  蟋蟀在戸  蟋蟀(こおろぎ)が戸の辺りで鳴く
霜降    初候  霜始降   霜が降り始める
       次候  霎時施   小雨がしとしと降る
       末候  楓蔦黄   もみじや蔦(つた)が黄葉する
立冬    初候  山茶始開  山茶花(さざんか)が咲き始める
       次候  地始凍   大地が凍り始める
       末候  金盞香   水仙の花が咲く
小雪    初候  虹蔵不見  虹を見かけなくなる
       次候  朔風払葉  北風が木の葉を払い除ける
       末候  橘始黄   橘(たちばな)の葉が黄葉し始める
大雪    初候  閉塞成冬  天地の気が塞(ふさ)がって冬となる
       次候  熊蟄穴   熊が冬眠のために穴に隠れる
       末候  ?魚群   鮭が群がり川を上る
冬至    初候  乃東生   夏枯草(かごそう)が芽を出す
       次候  麋角解   大鹿が角を落とす
       末候  雪下出麦  雪の下で麦が芽を出す
小寒    初候  芹乃栄   芹(せり)がよく生育する
       次候  水泉動   地中で凍った泉が動き始める
       末候  雉始?   雄の雉(きじ)が鳴き始める
大寒    初候  款冬華   蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す
       次候  水沢腹堅  沢に氷が厚く張りつめる
       末候  鶏始乳   鶏が卵を産み始める
 
■ 初詣(はつもうで)について
初詣(はつもうで)とは、年が明けてから初めて神社や寺院や協会などに参拝し、一年の無事と平安を祈る行事です。初参り(はつまいり)ともいう。
 
もともとは「年蘢り」(としこもり、としごもり)と言い、家族の主人が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に蘢る習慣でありました。やがて年蘢りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれていきました。そして「元日詣」が今日の初詣の原形となりました。
 
江戸時代末期までは氏神またはその年の恵方の方角の社寺に詣でる恵方詣り(えほうまいり)が多かったのですが、明治以降では氏神や恵方とは関係なく有名な寺社への参詣が普通になっています。
また現在でも、除夜に一度氏神に参拝して一旦家に帰り、元旦になって再び参拝するという地方があり、これを二年参りといいます。
 
初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治時代中期のこととされています。
明治時代初期までは恵方詣りの風習が残っていたようですが、京阪神において電鉄会社が沿線の神社仏閣をてんでんばらばらに「今年の恵方は○○だ」と宣伝し始めたために、本来の恵方ではない神社仏閣にも詣でるようになり、恵方の意味が薄れ、有名な神社仏閣にお参りするようになったといわれています。
関東においても、京成電鉄や京阪急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社が存在します。
基本的に「年蘢り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣は明治以降広まった新しい風習であり、それも鉄道網の発展による賜物という。
 
寺社へ参拝を行って、社務所でお守り、破魔矢、風車、熊手などを買ったり、絵馬に願い事や目標を書いたりして、今年一年がよい年であるよう祈ります。
昨年のお守りや破魔矢などは、このときに寺社に納めて焼いてもらう。また境内では甘酒や新酒が振るわれ、飲むと厄除けになるとされます。
 
*恵方・・・陰陽道で、その年の干支に基づいてめでたいと定められた方角。その年の歳徳神 (としとくじん)のいる方角。明きの方。きっぽう。初詣も恵方にある神社・仏閣へ詣でると福が与えられると考えられています。
*破魔矢(はまや)とは・・・正月の縁起物として寺院・神社で授与される矢で、破魔弓(はまゆみ)と呼ばれる弓とセットにすることもあります。
正月に行われていた弓の技を試す「射礼」(じゃらい)という行事に使われた弓矢に由来するとされています。元々「ハマ」は競技に用いられる的のことを指し、これを射る矢を「はま矢(浜矢)」、弓を「はま弓(浜弓)」と呼びました。「はま」が「破魔」に通じるとして、正月に男児のいる家に弓矢を組み合わせた玩具を贈る風習が生まれました。後に、一年の好運を射止める縁起物として初詣で授与されるようになりました。
*熊手・・・幸運や金運を「かき集める」という意味を込めて、商売繁盛の縁起物として熊手を飾る事があります。
*絵馬(えま)・・・神社や寺院に祈願するとき、および祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに寺社に奉納する絵が描かれた木の板です。
個人で奉納する絵馬として、小型で馬などの絵が描かれて、余白や裏面に祈願の内容や氏名などを書くものが、寺社で販売されています。
 
■ 年賀(年始まわり)について
年始回りの始まりは、本家と分家に分れた一族がお互いの家を訪ねてお正月を祝ったのが始まり。
「年賀」「年礼」ともいいます。
現在では実家や親類、直属の上司、特にお世話になった知人、仲人の家を訪問するのが一般的です。
 
年始回りに伺うのは元旦はさけ、松の内(1月7日まで)にします。伺う際には、事前に連絡して先方の都合を聞いてから訪問するのがマナー。伺う時間は、お正月は午前中はゆっくりされる家庭も多いですので午前中からお昼の食事時までは避けたほうが無難。午後1時から2時ぐらいを目安に伺います。
仕事先には15日までに。
 
また、お正月はお客さんも多いので出来るだけ玄関先で失礼します。先方に家に上がるようにすすめられてもその時は「これから回るところがございますので…」などとお断りします。もし、すすめられて家に上がる場合も長居はしないようにしましょう。
 
また、お年始回りで子供を連れて行くことは、実家、親戚など以外は控えましょう。お年玉など、相手にいらない気を使わせる事になります。どうしても連れて行く場合は早めに引き上げましょう。
 
贈り物については、のし紙の水引結び目中央上に「御年賀」、中央下にやや小さく名前を書きます。
相手が喪中またはこちらが喪中なら年始回りは控えます。
 
■ 初夢について
初夢について、江戸時代には「大晦日から元日」「元日から2日」「2日から3日」の3つの説が現れました。
「元日から2日」は、大晦日から元日にかけての夜は眠らない風習ができたことが理由とされます。
「2日から3日」の由来ははっきりしないが、書初めや初商いなど多くの新年の行事が2日に行われるようになったのに影響されたためとも言われます。
江戸時代後期には「2日から3日」が主流となりましたが、明治の改暦後は、「元日から2日」とする人が多くなりました。
 
室町時代ごろから、良い夢を見るには、七福神の乗った宝船の絵に「長き夜の遠の眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな」という回文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠ると良いとされてきました。これでも悪い夢を見た時は、翌朝、宝船の絵を川に流して縁起直しをしました。
 
初夢に見ると縁起が良いものを表すことわざにに「一富士(いちふじ)、二鷹(にたか)、三茄子(さんなすび)」というものがあります。
? 江戸時代にに最も古い富士講組織の一つがある駒込富士神社の周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来します。「駒込は一富士二鷹三茄子」と川柳に詠まれました。
? 徳川家縁の地である駿河国での高いものの順。富士山、愛鷹山、初物のなすの値段。
? 富士山、鷹狩り、初物のなすを徳川家康が好んだことから。
? 富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」。
? 富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉。
? 富士は曽我兄弟の仇討ち(富士山の裾野)、鷹は忠臣蔵(主君浅野家の紋所が鷹の羽)、茄子は鍵屋の辻の決闘(伊賀の名産品が茄子)
 
上方では、正月の最初に見る夢を初夢と言いましたが、江戸では商いをする店では、1月2日が仕事始めであったので、2日の夜に見る夢を初夢というようになりました。現在では「1月2日の夜」が一般的となっているようです。
 
● 縁起のよい初夢を見る宝船絵
さて、宝船の絵を枕の下に敷いて眠ると縁起のよい夢を見ることが出来ると言う噂が広まり、「宝売り」という七福神が乗った絵を売り歩く職業が元旦の日に行われました。このことから初夢は「元旦の夜」または「1月2日の夜」とされました。
 
宝船は、金銀財宝と七福神が乗っており、帆には「宝」と書いてある縁起絵。今でもお正月に軸物として飾り、宝船の置物も床の間に飾られています。
 
初期のものは、帆も櫂(かい・船を人力で進めるための棒状の船具)もない稲を積んだだけのシンプルなものでしたが、のちに帆掛け舟となり、打ち出の小槌や金銀財宝、長寿のしるしの鶴亀と、にぎやかに七福神そのものとなっていったのです。
この宝船の絵を敷いて眠るとよい初夢を見ることができ、その上その年は幸運が訪れるという。
 
もし悪い夢を見てしまったらどうするか? 中国に架空の動物「獏(ばく)」がいます。人の悪夢を食べてくれ、その皮を敷いて寝れば疫病を避け、その姿を絵に描くと邪気を寄せつけないという、ご利益の持ち主。
悪い夢を見たときには、このご利益のある動物にちなんで、宝船の帆に「獏」という字を書いて宝船を川に流したり、土に埋めることで災難を除いたとされています。
宝船は初夢に吉となる夢を得るため、また反対に悪夢を見たらそれを取り払ってながしてもらうおまじないです。
 
■ 初書き(書初め)について
書き初め(かきぞめ)とは、年が明けて初めて毛筆で書や絵を書くことで、一般的には1月2日に行われます。吉書(きっしょ)、試筆(しひつ)、初硯(はつすずり)などともいいます。
昔は、若水(わかみず)で墨を摺り、あらたまった気持ちで筆をとり、恵方に向かっておめでたい詩句を書いたと伝えられています。
もともとは宮中で行われていた儀式でしたが、江戸時代以降になって庶民にも広まりました。
書き初めは、1年間の学問への取り組みを確認する上でも、必要不可欠でした。
そして、書き上がった書き初めは、しばらく部屋などに掲げ、自分への戒めとして常に目を向けていたようです。
そして1月15日の左義長(どんど焼き)で火に投じ、燃えて高く上がるほど字が上達すると言い伝えられています。
 
* 若水とは、住古、立春の日に宮中の主水司から天皇に奉じた水のもとを指しました。
後に元旦の朝に始めて汲む水、井戸から水を汲んで神棚に供えることを指すことになりました。若水は邪気を除くと信じられ、神棚に供えた後、その水で年神様への供物や家族の食事を作ったり、口をすすいだり茶を立てたりしました。
元日の朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に会っても口をきかない仕来たりでありました。若水を汲むのは年男の役目とされ、若水を汲む時には「黄金の水を汲みます」など縁起の良い言葉を唱えました。
 
■ 初荷について
初荷(はつに)とは、年が明けて、最初に工場や倉庫など物流拠点から販売店へ向けて商品(製品)が出荷されることを言います。
元々は、初売と同じく1月2日に行われていましたが、今日では官公庁や多くの企業で業務が開始される1月4日に、新年の初出荷が行われることが多くなりました。
その際、昔は「初荷」と書かれた旗やのぼりをつけたトラックが走っていましたが、高速道路などでの安全性の点から、現在ではほとんどなくなっています。
 
 お店に届けるとき、車は紅白で飾り立て、初荷の旗をたなびかせて、お店に着くと破魔矢を差し上げ、御神酒を頂いて、1年間の商売繁盛を祈願しました。
大きな卸問屋場合は、パレードのように複数台のトラックや荷馬車が隊列を組んで移動した。そのまま複数軒回ることになり、帰社する頃にはすでに全社員ができあがり、そのまま全社員で初詣に行き、そして新年宴会へと移動することも多く、また、初荷の後の車はそのほとんどが飲酒運転で、事故も多発しました。
初荷のトラックや荷馬車はバックすることを嫌い、前進あるのみで、対向車があれば「初荷」と言うことで道を空けさせました。
一種の大名行列と同じ風景になって、この風習はとくに中部地方が派手で、街中がお祭り騒ぎになることもありました。
 
? 「痩馬(やせうま)を飾り立てたる初荷かな」  正岡子規
 
 
■ 初売りについて
初売り(はつうり)とは、年が変わって最初に物を売り出すことを言う。
近年は通常、小売店の初売りをさす。
通常の営業と異なり、その年1年間の運試しの意味合いをかねた、福袋が販売されることが多い。
その日に買い物をすることを「初買い(はつかい)」「買い初め(かいぞめ)」などと呼ぶ。
 
1980年代前半までは、官公庁の業務が開始される「御用始」1月4日以降に初売りを行う小売店が多かったが、年中無休で24時間営業のコンビニエンスストアが増えた現在では、スーパーマーケットや専門店での元旦の初売りも珍しくなくなり、元日に休業するほとんどの小売店も1月2日までに初売りを行うようになっている。
ファッションビルや百貨店などでは、近年初売りの後に冬のバーゲンセールを行うケースも増え、店側は正月返上で準備に追われる。
 
明治時代の例えば魚河岸の初売りは、現代以上の賑わいだった。
魚河岸の営業は1年のうち1月1日のみが休みで、1月2日に初売りをした。
店先に積み上げた鯛・鮪・蛸などを求めに料理屋の主人や小売りの商人がいわば義理でつめかけた。その数は数万人といわれる。
 
* 福袋について
古来、日本で言う福袋は、福(幸福、幸運)が入っている袋のことで、代表的なものは、福の神である大黒天が打出小槌(うちでのこづち)・米俵とともに携えている大きな布袋です。
今様の狭義で言う福袋は、近現代の日本における商習慣の一つとなっています。
年始(正月)用の割安な商品として企画販売される、袋詰め商品であり、複数の異なる品が同封されていることが多い。
何が入っているか伏せられていることをコンセプトに、幸福・幸運を引き当てることができる可能性、すなわち、ささやかな射幸性を謳うことを特徴とします。(ただし、近年ではは内容を明かした上での販売が例外的でなくなってきています)。
老舗百貨店の大丸が、江戸時代に端切れなどを袋詰めにして初売りで販売した記録があり、明治40年には、鶴屋呉服店(現在の松屋)が福袋の販売を始めています。また、明治44年には、いとう呉服店(現在の松坂屋)が「多可良函」(たからばこ)の名で福袋の販売を始め、当時の値段は50銭でした。
 
■ 御用始め(仕事始め)について
仕事始め(しごとはじめ)とは、1月2日に年が明けて初めて仕事をすることで、1月2日には普段の仕事を形だけ行い、その年の労働の安全や技能の上達を願います。
 
農村では田畑に鍬を入れたり、縄作りの作業を始め、田の神を祀って米や餅などを供えました。
山村では山の神を祀り、木の伐り初めを行いました。
漁村では、船霊を祀って舟の乗り初めを行いました。
商家では、初売りや初荷が仕事始めに当たります。
 
「御用納め」や「御用始め」の「御用」は、本来は宮中・幕府・政府などの執務・仕事を指すことばでしたが、民間の会社などについても「御用納(始)め」という言い方が1960年代中ごろまで一般に使われていました。
 
しかし、この言い方には、いわゆる「お上の御用(仕事)」という古い感覚が感じられる。もっと分かりやすく親しみやすいものにしてほしい、などの意見や要望もあって、今では民間の会社などに限らず、官庁の場合にもなるべく「仕事納め・仕事始め」を使うようになっています。
 
官公庁では毎年1月4日を官庁御用始めとして初めて執務を行う日としており、一般企業でもこれに準じているところがが多い。
昭和後期までは、着物を着て出社する場合もありました。
 
■ 六日年越し
? 七日正月と六日年越し
七日は七日正月(なぬかしょうがつ)と呼ばれることがあります。
七日が正月なら六日はというと、大晦日ということで、六日年取りとか、六日年越しと呼び祝います。
 
? 「松の内」と外
元日から、七日までを松の内と言います。
松は新年に迎える年神の依り代。この正月行事の期間は、家の中に年神様を迎え入れているわけですから、この間は家自体が神聖な場所となります。
家の玄関などに飾り付ける正月飾りは、この神聖な場所と俗世間を区切るもので、神社などの聖所を示す注連縄(しめなわ)の形を変えたものなのです。
 
七日の朝には、七草粥を食べて一年の無病息災を願いました。
この七草粥はその前日、六日の夜から七草囃子(ななくさばやし)を歌いながら準備するものだといわれました。
こうして七日の朝に七草粥を食べるという行事を最後として、ひとまず正月行事は終了します。
七日の朝以降はこれと言った行事もなく、家は年神様の座所としての神聖な場所から日常の生活空間へと戻って行きます。つまり、松がとれるわけです。
 
■ 七日正月 人日の節句
正月の終わりの日で、この日までを「松の内」と呼びます。
また、この日は、5節句の中でも一番重要な「人日(じんじつ)」であり、無病息災を祈って「七草粥」を食べたりします。
六日の夜を六日年越し、六日年取りといっている所が各地にありますが、かつては七日を重要な折り目と考えていました。
中国の前漢の文人東方朔(とうほうさく:紀元前154頃〜192頃)の「占書」にみられる古い習俗が人日の由来とされています。
古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていました。そして、7日目を人の日(人日)とし、人を尊重する日と定められていた様で、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていました。
 
正月七日は五節供の一つで、「人日の節供」。「七日正月」ともいわれています。
また、この日中国では、七種菜羹(ななしゅさいのかん:七種類の野菜のあつもの)を食し、無病を祈る風習がありました。これが日本に伝わって七種粥となりました。
日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着しました。
江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝いました。
また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われています。
 
 家自体が神聖な場所であった正月も、七日を以てその結界を解き、また日常の生活の場へと戻ります。
 
■ 七草粥
1月7日、中国ではこの日には「七種菜羹」(7種類の野菜を入れた羹(あつもの))を食べて無病を祈る習慣があった。日本でも古くから行われており、『延期式』には餅粥(望粥・もちがゆ)という名称で七種粥が登場します。
餅粥は毎年1月15日に行われ、粥に入れていたのは米・粟・黍・稗・みの・胡麻・小豆の七種の穀物でした。これを食すれば邪気を払えると考えられていました。
その後、春先(旧暦の正月は現在の2月初旬ころで春先だった)に採れる野菜を入れるようになりましたが、その種類は諸説あり、また、地方によっても異なっていました。
 
現在7種は、?芹(せり)・・・消化を助け黄疸をなくす。?薺(なずな)・・・視力、五臓に効果。?御形(ごぎょう)・・・吐き気、痰、解熱に効果。?繁縷(はこべら)・・・歯ぐき、排尿に良い。?仏の座(ほとけのざ)・・歯痛に効く。?菘(すずな=蕪)・・消化促進、しもやけ、そばかすに効果。?蘿蔔(すずしろ=大根)・・・胃健、咳き止め、神経痛に効果、です。
 
この7種の野菜を刻んで入れた粥(かゆ)を七種粥(七草粥)といい、邪気を払い万病を除く占いとして食べます。呪術的な意味ばかりでなく、おせち料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという効能もあります。
 
七種は、前日の夜にまな板に乗せて囃し歌を歌いながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れます。囃し歌は鳥追い歌に由来するものであり、これは七種粥の行事と、豊作を祈る行事が結び付いたものと考えられています。歌の歌詞は「七草なずな 唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に、合わせて、バタクサバタクサ」など、地方により多少の違いがあります。
 
魔よけ、豊作祈願、無病息災祈願…。さまざまな願いがこめられた七草粥は、同時に「医食同源」の知恵を生かした究極の健康食でもあります。
 
■ どんど焼き(左義長)
どんど焼きとは日本各地で行なわれる小正月(1月15日)の火祭りです。どんどさん、どんどん焼、さんくろうなどともいいます。
お正月に使った門松やしめ縄、お守り、破魔矢、祈願成就した「だるま」などを持ち寄って焼き、その火にあたったり、餅を焼いて食べて無病息災を願うものです。お正月にお迎えした神様をお送りする日本の伝統的な行事です。
 
青竹を骨格として、藁を詰めて三角柱の櫓を組み、これに火を投じて松飾りなどを焼きます。豪快に上がった火の中に書初めを投じで、高く舞い上がると上達するなどといわれます。
火力がすこし弱まった頃を見はからって篠竹などの先に餅を刺して焼きます。また、どんど焼きの燃えさしは魔除けになるといわれ、家路につく人は持ちかえり、門口に立てておきます。
 
どんど焼きは神事として神社で行なわれますが、最近では町の自治体で、学校や公共施設で行なうこともあるようです。子供達を集め、餅つきやお汁粉を配ったり、伝統芸能の獅子舞や太鼓演奏をしたりすることもあります。
 
「どんど」とは「尊いもの」という意味があるようです。松飾りやお札は神様が宿っているので「尊いもの」というわけです。
それを焼くのでどんど焼き。また「どんど・どんど」とはやすことからどんど焼きと言うようになったとい説もあります。
 
正確には1月の14日の夜または15日の朝が多く行なわれます。最近は消防の関係で昼間行ない、夜は禁止されることも多いようです。
また、近年ダイオキシンによる環境汚染が問題になっており、ダイオキシンが発生する、塩化ビニール類・プラスチック類は取り除かないと持ち込めません。
 
お納めできるものとしては、お札、お守り、御神矢、しめ縄、しめ飾り、おみくじ、神棚、松飾りなど。持ち込め無いものは、結納品、お人形、衣類、仏具、写真、食品、鏡もち、不燃物、プラスチック類、ガラス製品、陶磁器、塩化ビニール類、缶、その他日用雑貨品、神事に関係ない物です。
 
なお、松送りのどんど焼きと、神事のどんど焼きと区別している神社もあり、また「だるま」など持込を受け付けていない場合もありますので、持ち込むと問題のありそうなものは事前に電話で確かめるなどの配慮をお願い致します。
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001