帯津良一・幕内秀夫 著   三笠書房
「なぜ「粗食」が体にいいのか」  より その9
 
 
● 尿療法の真相・・・・・・
「1回飲むだけで10年来の胃腸病が治る」からくり
 
私の考え方が徹底的に変わったのは、尿療法に出会ってからです。
尿療法そのものはずいぶん前に耳にしていました。
そのときは、「また例によって話題性だけで本を売ろうとしたものが出たな」程度にしか考えていませんでした。
 
ところが、その後、あと数ヶ月しか生きられない、それがわかっていながらイキイキとしている末期ガンの患者さんに出会ったんです。
実にイキイキしているんです。
その患者さんが実行しているのが尿療法だったのです。
 
その後、胃潰瘍に痛みが10数年も続いていたのが、本当に1回尿を飲んだだけで治ってしまったという患者さんにも出会いました。
 
もちろん、「本当かな?」と疑問を持ちました。
そして、尿を飲むというのは食事療法なのかなど、さまざまな疑問はありましたが、その療法を紹介した宮松宏至氏の『朝一杯のオシッコから』『尿を訪ねて三千里』(現代書館)を読んでみたのです。
 
なぜ排泄物が体によいのか、いくら読んでもわかりませんでした。
しかし、よくなっている人がいることは事実なんです。
 
そこで、とりあえずやってみようと実行しました。
毎朝、尿をコップに1杯とり、一気に飲み、すぐさま水を飲む。
ただそれだけのことです。
実に簡単なことですが、前の晩は夢にうなされてしまいました。
そして、最初のときは、コップを片手にジーっと考え込んでしまいました。
飲んだ瞬間嗚咽がおき吐きそうになり、涙が止まらず、思わず鏡をのぞき込んだものです。
 
そして、臭いの強いことと塩気の強いことにはびっくりしました。
その日は電車に乗っていても、揺れるたびに嗚咽が起きました。
しかし、はくまではいきませんでした。
そんな日がどのくらい続いたでしょうか、気がついたら両膝の裏側が湿疹だらけになっていました。
 
結局、半年あまり実行しましたが、慣れるということはありませんでした。
「朝が怖い」というのが実感でした。
私にとっては大きなストレスでしたね。
 
結局、自分の尿を飲むという「とんでもない冗談」、あるいは「自分の体には自分の体を治す薬があるというもっとも自然な行為」は半年で終わってしまいました。
 
半年で結論出そうとすること自体に無理があるのかもしれませんが、実際になんら結論らしいものは出ませんでした。
ただ、今になって思うことは尿を呑んでよくなった人がいつことは事実だろうし、全然よくならない人もいるだろうということです。
 
しかも、それは尿でなくてもよかったんだろうと思います。
冗談ではなく、ウンコでもよかったのではないかと考えています。
これはけっして不真面目でいっているわけではありません。
 
 
● 「苦いものは良薬」と考えてしまう人間心理
 
私の好きな本の一冊に「人間はなぜ治るのか」(日本教文社)があります。
著者はアリゾナ医科大学のアンドルー・ワイル博士で、博士はその本の中で次のような話を紹介しています。
 
「ある看護婦が教えてくれた話だ。
・・・・・・注射器や針が使い捨てになる前の時代に、彼女はある外科病棟で働いていた。
・・・・・・患者の一人で、胆のうを手術した気むずかしい中年の婦人がいた。
・・・・・・その婦人は強度の不眠症だったので夜中によくその注射をしたが、患者の反応は思わしくなかった。
 
ますます目がさえて、一晩中文句の言い通しということがよくあった。
ある晩、注射をしたとたんに、例の婦人が大声を上げて飛び上がった。
後で針を調べた看護婦は、その先端が丸くなっていることに気づいた。
明らかに研ぎ忘れだった。
しかし、その番、患者は始めてぐっすり眠った。
・・・・・・それから1週間、彼女は1晩おきに鋭い針と丸い針を使って注射をし、その効果が注射時に痛むかどうかにかかっていることを突き止めた」
 
つまり、注射が効くのは注射器に入っている薬よりも、注射の「痛み」であり、
「良薬は口に苦し」ではなく、「苦いから効く」場合が大いにありえる、と述べているわけです。
 
痛く、苦いほうが「治療してもらった」「治療した」という実感があるため、患者の確信が強まるというわけです。
 
そこからワイル博士は「不合理な理論に基づく治療法が往々にして効くこともなんら不思議ではない」と述べています。
 
その意味では「尿を飲む」という行為は、良薬は苦しどころではありません。
何しろ、私自身30数年の人生の中で、嗚咽が起きて涙が止まらないほどの感動、ショックを受けたことなどなかったからです。
 
尿に何らかの有効な物質が含まれていることを、すべて否定するつもりはありません。しかし、尿を飲んでまでも病気を治そうとする心、わかりやすくいえば、清水の舞台から飛び降りる心境、あるいは火事場のバカ力・・・にこそ意味があるんだと思います。
背水の陣で、心底信じるとき、そのような力が出てくるのでしょう。
 
私のように健康なものが興味本位で実行しても何も起こらないのは当然なんです。
脅威なのは尿ではなく、人間の治そうとする力、信念の力なんですね。
 
アンドルー・ワイルは「明敏な学者は、医学の歴史は実はプラシーボ(偽薬)の歴史であることを見抜いている。私も同感だ」と述べています。
 
 
● 効果のある「食養法」、効果のない「食養法」
 
玄米菜食、マクロバイオティックといっても、それぞれの指導者で指導内容はずいぶん違います。
 
ただし、厳しい指導者は肉、牛乳、乳製品はおろか、魚介類、煮干し、かつお節さえとらない。
生野菜、果物、豆腐さえとらない。
結果として、玄米に味噌汁、たくあん、ひじきの煮付け、カボチャの煮物程度で十分といった指導をします。
 
同じようにゲルソン療法、甲田療法なども非常に厳しい。
 
前にも述べたように、マクロバイオティックもゲルソン療法も内容的に見ればかなり違います。
しかし冷静に考えてみると「厳しい」ということが共通すんですね。
私はそのことにこそ、民間食養法の本質があると考えるようになったんです。
 
それは、宗教における戒律を考えることによって、理解できるのではないでしょうか。
たとえば、厳しい修行で知られる修験道は、室町時代後期までに、次のような「十界修行」という形でまとめられたと言われています。
 
@地獄行=床堅(とこがた)
A餓鬼行=懺悔(ざんげ)
B畜生行=業秤(ごうひょう)
C修羅行=水断(みずたち)
D人間行=閼伽(あか)
E天の行=相撲(すもう)
F声聞行=延年(えんねん)
G縁覚行=小木(こぎ)
H菩薩行=穀断(こくだち)
I仏=正灌頂(しょうかんじょう)
 
これらの修行を経ることによって、験力(けんりき=超能力)を獲得する。
あるいは仏に変身(即身成仏)すると言われているわけです。
 
十界の中の、Cは文字通り、水を断つことなんです。
飲むことはもちろんのこと、洗面、口をすすぐことさえ禁止されます。
Hは、穀物を一切口にしないことです。
 
あるいは、真言宗の修行者木喰上人(もくじきしょうにん)と呼ばれる行者がいます。
木喰とは、木の実や果実のみを食べる“木喰会”という戒律に基づいて修行する僧のことを意味します。
また、イスラム教をはじめとして、多くの宗教が断食を行ってきたことはどなたも知っているはずです。
 
それでは、なぜ、穀物を断ち、水を断ったりするのでしょうか。
そこに、栄養学的な意味を見出すことは難しいのではないでしょうか。
むしろ、厳しいこと、難しいことを克服する心の修行と理解するほうが無理がないと思うのです。
 
私には、非常に厳しいマクロバイオティックやゲルソン療法などは、食事療法というよりも修行と考えたほうがわかりやすいのです。
その本質は、容易に実行できそうもない、厳しさにこそ意味があると思うのです。
従って、厳しい民間の食用法がお互いに辻褄が合わないとしても不思議ではないのです。
 
 
● 粗食生活が、比較的簡単に実践できる
「これだけの理由」
 
私などの提唱している食生活、指導している食事療法は比較的実行しやすいと思っています。
 
しかし、それは、私が考えているだけで、患者さんによっては非常に厳しく感じる人もいます。
そのような患者さんの中には、必死で実行することによって考えられないことが起きることがあります。
 
ある高齢の末期がんの患者さんですが、病院から退院してほとんど寝たきりに近い状態の方でした。
娘さんが相談に見えたんですが、年齢も年齢なので「なるべく本人の好きなものを食べさせてあげたほうがいいんですよ」とアドバイスしたのですが、娘さんは「やれることは何でもやってあげたい」といいます。
そこで、かなり積極的な食事療法のアドバイスをしました。
 
それから、10日ぐらい断ったときに娘さんから電話がありました。
何と、患者さん本人がすべての食事を作っているといいます。
しかも、見違えるほど顔色もよくなっているというんですね。
家族もびっくりしているといいます。
 
これは現実に合った話です。
もちろん、ガンそのものが治ったというわけではありません。
おそらく、病気の状態もよくなかったのでしょうが、それよりも病院から退院しても何もすることがなく希望を失っていたのではないでしょうか。
 
それが、今までとはまったく違った食事をする。
そこに、大きな希望が見えたのかもしれません。
そのような例はけっして少なくありません。
これなども、私が指導した食事そのものよりも、積極的に食事療法に取り組もうとする心の力、希望の力の結果だと思いますね。
 
厳しい食事療法であればあるほど、その働きが大きいわけです。
多くの宗教はそのことを理解して、修行に断食などを取り入れてきたんでしょうね。
 
このように述べてくると、厳しい食事療法ほどよいのではないか。
なぜあなたはそのような指導をしないのか―という疑問が出てくるかもしれません。
 
ところが、そうは行かないんです。
たとえば、私が厳しい食事療法を真似して指導してもそう簡単には行きません。
 
というのは、民間の食養法の指導者にはもう一つ大きな特徴があるんです。
たとえばゲルソン療法のマックス・ゲルソンは偏頭痛、マクロバイオティックの桜沢如一は胃潰瘍、二木謙三は慢性腎炎だったということです。
 
つまり多くの民間食養法の指導者は、自らの病気を自ら考えた食事療法で治した人なんです。
おそらく90%以上がそうなんです。
従って、自己体験がからんでいるので絶対的な自信のある人たちが多いんです
前にも述べたように「どんな病気でも1週間で直る」などという指導者もいますが、商売で言っているのではなく本気でいっている場合が多いのです。
 
同じ言葉でも、私が真似して言うのと、本気で言うのとでは患者さんへの伝わり方がまったく違ってきます。
心のそこから指導者が信じ、患者さんも信じきることができたとき、奇跡に近いことが起きるのでしょう。
 
しかし、「1週間でどんな病気でも治る」といわれても99%の人は心の底から信じることができません。
したがって、極端な食事療法でうまくいく例は1000人に3人と考えるべきなんです。
そして、続けることのできなかった997人の人たちは、かえって調子が悪くなってしまう場合も少なくありません。
また、そのような人たちは2度と食生活には関心を向けなくなります。
 
その点、断食などは、指導者も指導された側も長期間実行するものだとは思っていません。
私自身も断食をする施設で働いていたことがありますが、厳しい割には問題は起こらないものです。
 
 
● 厳しい食事療法」は結局、「ただの編食」なのです!
 
厳しい食事療法の一番の問題点は、栄養学的に考えれば、きわめて偏食だということです。
ところが、民間食養法の指導者は、自分の方法が栄養学的に見ても正しいと勘違いしている人が実に多いのです。
したがって、断食やゲルソン療法、甲田療法などを栄養学的にみて「タンパク質が少なすぎる」などと批判するのは筋違いなんです。
 
たとえば、偏食は短期間にしなければならないのに、長期間実行させてしまう指導者もいます。
以前話題になった本に、宮本美智子氏の『世にも美しいダイエット』(講談社)があります。
宮本氏の提唱する食生活[7つのルール]をまとめてみると、次のようになります。
 
@あらゆる糖分を避ける――砂糖、乳糖、はちみつ、加藤などを避ける。
Aお腹で腐りやすいものはとらない――牛乳、乳製品、およびそれらを使った料理は禁止、ただし、バターは体内で他の物質に変わらず直接エネルギーになるので十分とってよい。
B野菜を「主食と考え、たんぱく質と炭水化物は「副食」とする――青菜を食事の中心とするというふうに頭を切り替えること。
そのためには野菜料理のバリエーションを工夫する。
生では量をこなせないし、体は冷えるので、できるだけ油(べに花油やバターなど)を使ってボリュームのある野菜料理を食べる。
C油脂類はべに花油とバターの2本立てでたっぷりとる――油脂類を野菜に次ぐ準主役と考える。
かつてのカロリー減であった、ご飯などのでんぷん質を油脂類で代替させる。
D水を大量に飲み、塩分もそれに応じてとる――夏は5リットル、冬は3.5リットル、中間の季節でも4リットルを目安に飲む。
水に塩を薬0.5%の割合で溶かして飲むと飲みやすい。
E体を毎日、十分に動かすこと。
F食べたものは速やかに出す。
 
きわめて簡単にまとめてみれば、ご飯を減らし、油脂類でカロリーを取り、塩分と水分をたくさん取れということになります。
驚くべき内容ですが、宮本氏自身が3ヶ月で8キロ減量し、きわめて体調がよくなったといいます。
また、読者の中にもさまざまな病気が治った人がいるといいます。
 
おそらく、それは本当だと思います。
さらに、これを実行することは修行なのです。
やはり厳しいことに意味があります。
 
ところが、宮本氏は、なぜ、油脂類を多く取るのか、ご飯がよくないのか、自分なりの栄養学的な説明を加えています。
当然ですが、偏食などとは考えていません。
したがって、長期間実行しても言い食事だと考えています。
 
宮本氏自身も6年間も実行しているといいます。
しかし氏の本の中には「厳密にやれば、すぐに効果が現れる」と書かれています。
 
ところが平成8年5月、宮本氏自身が脳内出血で倒れてしまったのです。
もちろん、氏の提唱した食生活に問題があったために倒れたとはいえません。
講演活動などで休む暇もなかったということなので、過労などもあったのだろうと思います。
 
しかし、宮本氏の提唱した食生活を本気で長期間実行したら、病気にならないほうがおかしいと言わざるをえません。
 
厳しい偏食は短期間にすべきものを、栄養学的に正しいと考えたことに無理があるわけです。
自己体験がからむと、客観的に考えられなくなってしまうんです。
それが民間食養法の大きな特徴です。
 
 
● 無理はしない。
「当たり前の食生活」が体に一番いい!
 
私は雑誌の取材などを受けることも多いのですが、「先生の食生活の考え方は何と呼べばよいのでしょうか」とよく聞かれます。
玄米菜食でもなし、何といっていいのか非常に悩むんです。
 
しいて言えば、「当たり前の食生活」「当たり前の食療法」としか言いようがないんです。
また、「幕内式」などというほど、私の主張には独自性も特徴もありません。
 
私の尊敬する先生に、都内の吉祥時で小児科医院を開業している真弓定夫先生という方がいます。
あるいは、京都高雄病院の江部康二先生、三重県の赤目養生所の藤岡義孝先生などもいます。
これらの先生の提唱している食生活にも名前がつかないんですね。
たとえば「真弓式」とか「江部式」といった名前の食事療法はありません。
 
やはり、食生活に関してすばらしい本を書かれている、宮崎大学の島田彰夫先生も同じです。
これは偶然ではないと思います。
 
民間食養法には、「○○式」とか「玄米菜食」とか「生野菜」とか、名前のついたものがたくさんあります。
なぜかといえば、これまで述べてきたように、制限することが多いため主義主張がはっきりしているからです。
わかりやすいといえるかも知れません。
 
ところが、真弓先生や江部先生や藤岡先生は、意味のない制限をしません。
ですから、一口で表現できるような簡単な特徴がありません。
 
それらの先生は大きな病気をしていません。
したがって、自己体験が入らず、理想的食生活を追求しています。
非常に客観的に考えています。
 
当然ですが、食生活だけで健康や病気が語れるものではないと考えています。
それらの先生の提唱している食生活も、ていねいに見ると微妙に違いますが、私には同じように見えます。
違いとはいえません。
家を建てるときで言えば、土台や柱、屋根、壁などはほとんど同じです。
違うのは、せいぜい灰皿やカーテンの色程度です。
どうでもいい部分のように思います。
 
今、民間食養法の世界は大きく2つの流れになりつつあるように見えます。
1つは自己体験を基に、極端な主張をする食事法。
もう1つが、当たり前の食生活を取り戻すことこそ大切と考える食事療法です。
 
再度繰り返せば、極端な食事療法は1000人のうちの3人しか実行できるものではありません。
そして、必ずリスクがあります。
それよりは、当たり前の食生活を見直していただきたいと思います。

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001