帯津良一・幕内秀夫 著   三笠書房
「なぜ「粗食」が体にいいのか」  より その12
■この食べ方が「あなたの自然治癒力」をさらに高める!
帯津良一先生のお話
 
● 生命場のポテンシャルを高める!
ーー健康を維持し、病を克服する基本
 
私も、ホリスティック医学について考えるようになってから、やっと隙間に目が行くようになったわけです。
すると、何もなくはないということに気づいたんですね。
 
体の隙間には、たとえば電磁場があります。
地球上にいたるところと同じように、目にはみえなくとも、電磁場はあるわけです。
さらに、電磁場だけではなく、まだ発見されていない、もっと生命に直結する物理量があるのではないかと考えることもできるわけです。
 
それは中国医学でいう「気」のようなものかもしれません。
「気」については、科学的な検証を今世界中でやっていますが、正体はまだ誰もつかまえていませんね。
だから、そうした正体はまだわかりませんが、「気」のようなものがあるかもしれません。
 
そして、もし体の隙間に命にかかわる物理量があるとすると、それを「生命場」と呼んでもいいのではないかと考えたわけです。
それで、私は、体の隙間にあるかもしれない場のことを、「生命場」という言葉を使って言い表したんです。
 
その生命場のポテンシャルを高めるということによって、健康を維持する、あるいは病を克服するということが、ホリスティック医学の基本になっているのではないか。
 
むしろ、生命場のポテンシャルを考えることが、臓器の血管が詰まったとかガンができたといって手術することよりも、もっと大切で基本的なことではないのか――。
こう考えて、体の中の場というものに注目するようになったわけです。
だから、生命場を見ていくことこそ、ホリスティック医学なのだと考えるようになったわけです。
 
前東大薬学部教授の清水博先生が、『生命を捉えなおす』(中公新書)という有名な本を書いていらっしゃいます。
この本の中で、生命というものの定義として、「生命とは自ら秩序を作り出す能力である」ということを言われています。
つまり、この説に従うと、みずから秩序を作り出すという能力の有無が、生命と命のないものとの分かれ目だということになるんですね。
 
たとえば、机や壁などの命のないものは、自ら秩序をつくりません。
自分で秩序をつくり出し、どこかが壊れても、それを自分で修復しようとします。
この性質が生命の本質であり、同時に自然治癒力だろうと考えられるわけです。
 
自然治癒力というものについては、西洋医学の中にはこういう概念がありませんし、中国医学にもしっかりした定義がありません。
ですから、まだよくわからない概念なんですが、秩序性の高い方向に自然に進んでいく生命という場の持つ特性のことを、自然治癒力というんだろうと想像できます。
 
 
● あなたの生命場を高める食事とは?ーー
「土地のもの」を食べる
 
こうした考えに立つと、生命場に思いをやり、生命場を整える方法のひとつとして、食事というものが出てくるわけですね。
 
なぜかというと、人間全体を整えていくことには、人間の活動のすべてがかかわってくるからです。
呼吸をすること、食べること、頭で考えること、動くことといった人間の活動の基本が、全部、その人の場を高めるか低めるかにかかわってくるわけです。
 
では、生命場を高める食事というものをどう考えるか、ということになります。
先ほども言ったように、私の場というのは自分の部屋とつながり、さらに東京の大地とつながっているわけです。
また、大地の持っている場と私の場は、距離や時間が近いほどきめ細やかに交流しているわけです。
 
北海道の場よりも東京の場のほうが私に近しし、半年前よりも昨日のほうが近いわけです。
だから、今日、東京の大地が生み出してくれた食べものは、現在の東京の場を持っていて、3ヶ月前に北海道が生み出した食べものより私に近いだろうということになります。
 
このように、食べものは、自分の暮らしている土地でとれたものがいいし、今とれたものがいいということになるわけですね。
 
こう考えると、幕内さんがよく言う「土産のもの、旬のものを食べる」という考え方が正しいとわかるわけです。
 
それから、場の考え方という視点で農業というものを捉えたとき、地球の場を高める方法の一つが農業だと思います。
農業というのは、作物を土から収奪してくるものという考えが一時ありましたが、そうではないと私は考えています。
 
荒地を耕し、緑を植えて、緑一面の地球にしていくことが、地球の場を高めることになると思います。
作物をとることは二の次なのです。
 
それよりも、大地の場を整えて大地のポテンシャルを高めることが、農業の大切な働きだと思います。
そして、大地の場を高めた結果として、作物が生み出され、その作物を人間が食べるわけです。
 
その作物はポテンシャルが高いですから、食べた人の生命場も高めることになります。
この循環が農業と食の関係だろうと思うんです。
 
今、農林水産省が、リフレッシュビレッジ構想という計画を進めています。
これは過疎地にリフレッシュビレッジというものを作るという計画です。
リフレッシュビレッジというのは、もともと過疎地だった村を、都会生活で疲れた人が訪れて心身を癒せるような場所に変えるというものです。
 
農水省が推進しているこのプロジェクトでも、私は先ほどのよなことをお話したことがあるんです。
このように、色と農というものは、土地の場を通じて、人の場に関係してくるんだと思うんです。
 
 
● 「植物を食べること」は
「大地の恵みをそのまま受け取ること」です!
 
動物性のものよりは、植物性のもののほうが、大地の場をそのまま直接受け取っているわけですから、いいに決まっています。
動物性のものも悪いわけではないんですが、大地の場を一度別の動物の場に置き換えてから人が食べるわけですから、どうしても純粋ではなくなるんですね。
 
植物のよさについては、たとえばこんな実体験もあります。
私の病院の婦長が、メキシコにあるゲルソン研究所の病院に入院したことがあるんです。
昔、ゲルソン療法が患者さんの間で人気があったものですから、とにかく確かめるために、ゲルソン研究所へ婦長を入れてみたわけです。
 
婦長はガンでもなんでもなのですが、私に言われて1週間、入院してきたんです。
帰ってきて、彼女が最初に言ったのは、「人間はやっぱり植物を食べるようにできています」ということだったんです。
 
入院して、動物性のものを一切食べずに暮らしていたら、大便がものすごくよくなったというんですね。
太さ、臭い、硬さ、どれをとってもほれぼれするような大便が出たそうです。
ところが、ゲルソン研究所を退院すると、いろんなものを食べますから、とたんに普通の便に戻ってしまったというんですね。
 
だから、この例から考えても、また、私の場の考え方から行っても、動物性の食品より植物性のもののほうがいいだろうということになります。
 
大地の場をそのまま取り入れるには、添加物や農薬というものは、もちろんよくないに決まっていますね。
大地の場の純粋性を余計な物で汚してしまいますから、当然よくないんです。
添加物の実際の害ということを除いても、大地の場を何かで汚してしまうということはよくないわけです。
 
幕内さんも、添加物や農薬がよくないといっていますが、これも場の考え方から理解できるわけです。
 
また、精製したものよりも未精製のものがいいと幕内さんが言っていますが、これもそのとおりだと思うんです。大地のポテンシャルをそのまま持ってきた玄米のほうが、精製した白米よりいいと思うんですね。
 
このように、幕内さんの食生活についての考え方は、どれも私の生命場の考え方で、正しいことを裏付けることができるんです。
その意味では、食生活の改善のために、大いに役立つだろうと保障できます。
 
 
● 「自分自身を高める」
という気持ちで食事をすることが大切
 
これも幕内さんの考えにあることなんですが、生命場を高めるということが究極の目的ですから、いいポテンシャルを持った食べ物を食べるだけではダメなんです。
 
「自分自身を高める」という気持ちがないと、うまくいかないんです。
 
食事だけでなく、自分の心の力で生命場というのは高まるわけですから、美味しいとか、感謝の気持ちを持って食べないと、ダメだと思うんですね。
 
いくらいいものを食べても、苦虫を噛みつぶしたように食べていたのでは、心で下げてしまいますから、その効果を相殺してしまうようなものです。
 
だから、やはり喜びとか感謝がないといけないと思うんです。
その辺が食事のむずかしいところです。
 
極端なことを言えば、心が高まるのなら毒を食べてもいいんです。
たとえば『魂が癒されるとき」(創元社)という私の本があるのですが、ここでは関西気功協会の津村喬さんと対談したときのことを書いたものです。
対談の時は神戸の割烹旅館のような所へ行って、夕食をしながら話したんです。
 
津村さんという人は、よく食べるんですよ。
彼とは話が合うものですから、私もうれしくなってきました。
私はうんと食べる人が好きなんです。
飽食は一番いけないんですが、津村さんのように、「うまい、うまい」といって食べる人は好きなんです。
 
だから、こちらもうれしくなった、満腹で動けないくらいたくさん食べたんですが、これは私にとって別に養生に反したわけではないんです。
 
彼と話すことによって、こちらの心は湧きたっていますから、満腹になろうが、毒を食べていようがいいわけです。
そういう風に、食事というのは、心の問題が非常に大切だろうと思うんですね。
 
話が横道にそれますが、私が大学に入ったころ、大学の食堂のメニューというのは、カレーとラーメンとメンチカツ定食しかなかったんです。
これはどれも実にうまかったですね。
ですから、今でも私はカレーライスとラーメンとメンチカツ定食が大好きなんです。
 
幕内さんの理論から言うと、メンチカツは余りよくないんですが、食道にメンチカツ定食という札が下がっていると、どうしても食べたくなってしまうんですね。
食べながら、「ああ、これは体に悪いものを食べてしまったな」と少し反省もしますが、「自分が喜びを持って食べているから、これはいいんだ」と弁解するんです。
 
それに、食べものというのは作る人の気が入っていると、いい生命場になってしまうのではないかとということですね。
 
作る人が心を込めて、美味しいものを作ろうと思っているとき、その人のポテンシャルが入ります。
だから、美味しいものを作ろうと努力してくれた料理というのは、素材は体に悪くても、食べていいのではないかという感じがします。
 
食べものというのは、いろいろ複雑な要素が絡み合っていて、「どんなものがいい」と簡単にいえるものではないのです。
突き詰めれば、やはり生命場を高めるものがよいということになります。
 
ですから、疫学的な統計に左右されるというのは、こと食べ物に関してはおかしいんです。
たとえば、ある地域に長生きする人が多いからといって、その地域の伝統的な食べものがいいと考えるのは短絡的です。
 
なぜなら、そこに生きている人の心とか、歴史的な習慣などがかかわっているわけですから、食べものだけをとり出して良し悪しを論じても意味がないのです。
 
 
● 「なぜ肉体は滅びるのか」を考えると・・・・・・
一つの真理がある!
 
そう考えると、ホリスティック医学というのは、臓器一つを見るだけではなく、生命場というものをきちんと見ていく医学だということになるでしょう。
 
もう少し詳しく言えば、自然治癒力を育てて、その能力を十分発揮させるようにすることが、ホリスティック医学と考えられるわけですね。
すると、生命場というものがじつは、皮膚で覆われた孤立した存在ではないということの気づくわけです。
 
なぜかというと、皮膚は穴だらけだからです。
つまり、体の内と外はどこからでも交通ができるわけで、しゃべったり呼吸したりするだけで、外界のものが体の中に始終出入れするわけです。
 
そうすると、生命場というのは周りの場と交流しているんだということになります。
たとえば、私と同じ部屋にいる人たちは、同じ場にいることになりますし、
場のつながりを広げて考えていくと、私と交流している場とは、東京都の場、日本の場、地球の場、宇宙の場へと広大に拡がっていくわけです。
 
このように、場はいたるところとつながっているわけですから、ホリスティック医学というのは、一人の場を見ているだけではいけないわけです。
ですから、一人の健康や病気についてだけ見るのではなくて、コミュニティーの場も見なければいけないし、地球の場も見なければいけないということになるんです。
 
今、地球の場が大変乱れています。
世界のどこかで絶えず戦争や紛争が起こっています。
これらはやはり地球の場の乱れということになるだろうと思います。
このほか、地震などの天災も含め、地球の場の乱れは大変なものになるんですね。
こういう地球の場の乱れも、ホリスティック医学の対象となるのではないかということです。
 
また、場の空間的なつながりだけでなく、時間的なつながりの問題もあります。
場というものは物理的な存在的な存在ですから、何もないところから生まれたり、完全な無へと消滅したりするものではありません。
たとえば、私の場がどこから来たのか考えてみると、宇宙が始まる前からあったと考えられるわけですね。
 
この地球に私が生まれたということは、宇宙の始まりからあった私という場に肉体を与えられたということです。そして、何十年かの期間、私は自分の努力でその場を高めて、その後に死んで肉体が滅びます。
 
そうすると、場だけがまだ残ってしまうわけですね。
ところが、生前に場を求めていたときの勢いがありますから、それでまた、ふるさとへ帰っていくのではないかと想像できます。
 
だから、こう考えると、死というものもホリスティック医学の対象になるんです。
 
どういう死がいいかということや、死後の世界も対称になりますね。
死んでからふるさとへ帰っていく復路の問題も、ホリスティック医学の対象になるということです。
 
そうすると、やはりこれからの医学は、ホリスティック医学が大きな位置を占めるように思えます。
西洋医学や中国医学も含めて、今までの医学というものは、死についてまったく考えてこなかったんです。
これが現在の医学、医療に対する不満のおおもとになっています。
 
私は、死を対象として取り込まないかぎり、どんな医学を持ってきても不満は残るだろうと感じているんです。
だから、死後の世界も取り入れていくホリスティック医学が、やはり次代の医学にふさわしいと考えているわけです。
 
 
● 「粗食」の力ーー
腹の底から喜びがわきあがってきます!
 
学生時代のこと、日曜日の午前11時頃。
誰もいない七徳堂(大学の道場)で小一時間、空手の一人稽古で汗を流したあと、さわやかに気分と空腹を感じながら赤門から出て、電車通りを横切って。“落第横町”に入る――すると、向こうから旧友のN君が着流しに高下駄の音をとどろかせてやってくる、という情景がいつものことでした。
 
“落第横町”というのはむろん通称で、学生たちに馴染みの寿司屋、中華そば屋、バーなどの間に、八百屋、豆腐屋、肉屋などの店が並んでいる小路のことです。
 
「おい! 昼飯を一緒に食わんかい」――N君は大声の鹿児島弁です。
昼飯を一緒に食うといっても、そのあたりの食堂に入ってというわけではありません。
彼の下宿に行って食べる、彼の手製の昼飯のことなのです。
 
「おお! 行こう」と、こちらは渡りに船です。
それから八百屋でもやしを買い、豆腐屋で油揚げを買い、最後に肉屋で豚肉の細切りを買います。
全部でいくらでもありません。学生の目にも随分安いなと思ったものです。
 
“落第横町”を突き当たって左に折れてすぐのところにN君の下宿があります。
部屋に入って、書棚の本をめくったりしているうちに、昼飯が出来上がります。
炊き立ての白飯と、“落第横町”で買ってきたもやし、油揚げ、豚肉の細切れの具沢山の味噌汁です。他には何もありません。
 
これががじつにうまいのです。
腹のそこから喜びが湧き起こってきます。
栄養学的なバランスとか、食材をいちいち吟味しているわけではありません。
 
「粗食」といえばこれ以上の「粗食」はないでしょう。
しかし、とにかくうまいのです。
もやしと油揚げと豚肉の細切れという取り合わせの妙というのか、具沢山なのが豊かに気持ちにさせてくれるのか、作り立てだからうまいのか――。
 
私の内なる「生命場」が躍動しているのがわかります。
自然治癒力の発揮もぐんと加速がかかったようです。
私の食事学の原点とも言えます。
おわり
 
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001