あんな話 こんな話  86
 
食品添加物のトップセールスマンが明かす
食品製造の舞台裏
知れば怖くて食べられない!
安部司著
『食品の裏側』
より その11
 
 
6章 未来をどう生きるか
 
◆台所にある食材は本当に全部必要か
 
前述のとおり「しょうゆ風調味料」の値段は198円ですが、「本物のしょうゆ」はその5倍ぐらいはします。
しかし、片方は「大豆と小麦」ぐらいしか書いていないのに、もう一方はわけのわからないカタカナがぞろぞろ記されている。
それを考えたら、高いのはどちらだと思いますか?
 
「無添加のものを選ぶと、食費が高くなってしまう」
「うちではお金がなくて、とてもできない」
そんな声もよく耳にします。
たしかに無添加・無農薬有機の食品に変えれば、食費は高くなるでしょう。
しかし、そう言う前に、今一度、台所を見渡してほしいのです。
 
いま台所にある食材は、本当に全部必要でしょうか。
ドレッシングは冷蔵庫に何本ありますか。
しょうが焼きのタレ、すき焼きのタレ、○○の素など「合わせ調味料」がゴロゴロしていませんか。
それらは本当にすべて必要でしょうか。
 
ドレッシングもポン酢も焼肉のたれも、全部手づくりできます。
それほど難しい作業ではありませんし、そもそも手作りしたほうが圧倒的に安い。
添加物もゼロで済みます。
それになんといってもおいしい。
本物のしょうゆと本物の酢、手作りのだしとゆずの果汁でつくったポン酢は、それはそれはおいしいものです。
 
そうやって少し見方を変えれば、本物の食材を使った豊かな食生活を実現するのは決して難しくないはずです。
 
 
◆食の乱れは国の乱れ
 
いま、子供たちの食が壊れはじめています。
どんなものにでもマヨネーズやケチャップをかけて食べる子ども。
お菓子が主食といわんばかりにお菓子ばかり食べている子ども。
レトルト食品やカップラーメンの夕食が当たり前という子供・・・・・・。
 
「お母さんのおにぎりより、コンビニのおにぎりのほうがおいしい」
そう口にする子どもが増えていると聞きます。
添加物まみれの食品でつくる「家庭料理」に子どもの舌が慣らされてしまっているからです。
 
いま、食卓が壊れはじめているのです。
食の乱れは食卓の乱れ、食卓の乱れは家庭の乱れ、家庭の乱れは社会の乱れ、そして社会の乱れは国の乱れ――私はそう思っています。
 
いまの食卓は、市販のハンバーグや出来合いの惣菜を並べるのが普通になっています。
肉だけ買ってきて炒め、レトルトの半調理食品で仕上げる中華風惣菜も同じ。
スパゲティをゆでて、缶詰のミートソースをかけるのもそう。
 
こういう食事は、もはや「手づくり」ではありません。
これで健全な舌が育つわけがないのです。
すべてが添加物の味。
前述の「3点セット」の味を教えているだけなのです。
 
もちろん、出来合いのお惣菜もたまには仕方ないでしょう。
それをゼロにする必要はありません。
ただ、家庭料理に基本は、加工度のなるべく低いものを買ってきて、自分で調理するということにあるはずです。
 
そんなあたり前のことこそが、いま一番大事なことだと思うのです。
もちろんそれでも、添加物ある程度入り込んでくるのは避けられないことでしょう。
しかし、加工食品に頼るのとはレベルが全く違うのです。
 
 
◆食べ物が安易に手に入ると思ってしまう子どもたち
 
安易に加工食品に頼ってしまう危険性は、味覚の問題だけではありません。
加工食品は子どもたちに、「食とはこんなに簡単に手に入るものだ」と思わせてしまうことです。
それを教えてしまう。それが怖いのです。
 
何でもかんでも食べたいものが食べたいときに好きなだけ手に入る――そこには食に対する「感謝」の気持ちが生まれるはずはありません。
 
食べるということは、「命をいただく」行為です。
私たちはほかの生命体の命をいただいて生きているのです。
 
私は農家の出身ですから、子供のころ、鶏を育てていました。
私の仕事はひなにエサをまくこと。
ひなが4ヶ月から半年すると成長して、一人前の鶏になります。
すると親父が今日はあの鶏をしめろというのです。
しめるときはさすがに涙が出ます。
 
次の日、それがかしわご飯になって出てきたときは、そんなことはすっかり忘れていたりするのですが、それでも命の大切さ・尊さは、子供心にも感じ取っていたのだと思います。
 
畑で野菜を作るのも手伝いました。
学校の田んぼで田植え、稲刈り、落穂ひろいもやりました。
動物に限らず、野菜も生きているということを、誰に教えられることなく、肌で感じ取っていたのです。
 
こうした経験を持つのは私だけではないはずです。
少なくとも一昔前の子供たちは、「命をいただく」ということを肌で学ぶ機会があったのです。
 
 
◆食べることは命をいただくこと
 
ところが、いまの子どもたちには、そんなことを学ぶ環境がまったくありません。
牧場に放牧されてのんびり草をはむ牛と、スーパーでパックになって並んでいる牛肉。
子供たちはその「中間」というものを知らずにいます。
 
私は過去に何度も食肉処理場を見学していますが、食肉処理の現場というのはそれはもう壮絶なものです。
一度見たら眠れない、足が震えるような光景です。
人間は食欲を満たすためにここまでやるのかと驚愕するほどです。
 
もちろんだからといって、子ども達にその現場を見せなさいといっているわけではありません。
そこまでやる必要はないけれど、子どもには、そういう経緯を経て自分の口に入っているのだということを、きちんと伝えていかなければならないと思うのです。
 
私たちが美味しい肉をいただくのに、どれだけの命が犠牲になっているのか。
今日の夕食のハンバーグは、空から降ってきたものではない。
牛という生命体があって、その命をいただいているのです。
 
玉ねぎだって、植物という命です。
だからこそ、そこに「牛さんありがとう」という感謝の気持ちを持たなければいけないと思うのです。
 
直接命をいただく牛だけではない。
牛を育てる人、食肉を運ぶ人もいるわけで、そういうことも忘れてはいけない。
 
食べものは本当にさまざまな過程を経て、やっと私たちの口に入るのです。
どの食べ物も簡単に手に入るものではないのです。
玉ねぎだって、農家の人が朝早くから起きて、手間隙かけて、育ててくれたものです。
 
食べ物のありがたさ、手に入ることの難しさ――そういうことを、いまこそ子供たちに教えていかなければいけないと思うのです。
 
 
◆食を軽く見た代償
 
最近、「切れる子ども」が問題になっています。
その原因を、栄養の偏りや添加物の過剰摂取にあると主張する人もいます。
 
たしかに添加物や化学物質が、子どもの脳に影響を与えるというのはあるかもしれませんが、それよりもっと大きいのは、「食」を軽く見たことにあるのではないか――そう私には思えるのです。
 
食べもののありがたみがわからない子どもは、命のありがたみもわかりません。
人の命の重さもわからない。
だから、簡単に人を傷つける子供になってしまうのではないでしょうか。
 
「食べものを大切にする子どもは、絶対に人をあやめない」
私はそう信じています。
だからこそ、まず日常いただく食べものから、感謝の心を教えていってほしいのです。
 
日本語には「いただきます」というすばらしい言葉があります。
これはご存知の方も多いでしょうが、「動物や植物の命をいただきます」ということです。
 
その言葉の意味をちゃんと伝えれば、「食べ残しちゃだめよ」とガミガミ言わなくても、おのずと食べものを大事にし、食べものに対して感謝の気持ちをもてると思うのです。
 
食べもののありがたさを学ぶという意味では、家庭菜園もいいと思います。
庭がなくなったって、プチトマトやねぎなど、プランターで育てられる野菜は沢山あります。
ハーブだっていいでしょう。
 
野菜を育てるのは、虫を取ったり、水を毎日やったり、結構手間がかかるものです。
生育に失敗して枯れてしまったとしても、それはそれでいい勉強です。
 
友人の家に行ったときのことです。
そこの幼稚園の女の子が家庭菜園に水をやっていました。
 
「お手入れ大変だね」 そう声をかけると。
「おじちゃん、何で葉っぱは、水だけでできるの?」と質問されました。
なんと答えようかと思ったとき、「アーツ、だめ!」とその子の大声。
葉に虫がついているのです。
 
「だめよ、みんなの野菜を食べちゃ!」
虫を殺すのかと見ていると、その子はそっと小枝に移してやったのです。
なんともほのぼのとした、心温まる光景でした。
こんな純真な子どもの心を大切にしたいと思ったものです。
 
 
◆子どもに親が料理する姿を見せる
 
子どもに食の大切さを教えるためには、親が料理を作る姿を見せるということも必要だと思います。
 
野菜でも肉でも、それが食卓に運ばれてくるまでの過程を教えてほしいと述べましたが、実際にそれを「見せる」ことはなかなか難しい。
やはり子供に何かを伝えるときには、口で言うよりも、目で見て、肌に触れて体験させることが一番です。
 
だから、料理を作る過程を「見せる」ことが大切になってくるのです。
料理だって食の大切さを肌で学ぶすばらしい機会です。
料理というのは、加工品に頼らず手づくりしたら、1時間、2時間は平気でかかります。
でも食べるのはほんの5分か10分です。
 
それでも、今日の煮物はお母さんが1時間かけてつくってくれたとか、このお寿司は前の晩から材料を仕込んで用意してくれたとか、子ども達は親のつくっている姿を見ています。
それが重要だと思うのです。
 
スーパーでは、ポテトサラダが100g128円くらいで売っています。
でもこのポテトサラダは、業者から買ってきた出来合いのものを、小分けして売っているだけです。
 
業者が、最初からマッシュしてあるポテトと、マヨネーズも本物でない「マヨネーズもどき」を使い、「pH調整剤」「グリシン」「乳化剤」「酸味剤」といった添加物をバサバサと混ぜ込んで作ったものです。
 
そんなポテトサラダばかりを食べていると、子どもは添加物の味を覚えるだけでなく、ポテトサラダはこんなに簡単なものかと思ってしまうのです。
しかし手作りしたら、これは大変な手間のかかる料理だということがわかるはずです。
 
芋を煮て、皮をむき、粉ふきにしてよくつぶす。
玉ねぎを刻んでさらして、きゅうりを板ずりして切って、卵をゆでて皮をむいてみじん切りにする。
それをマヨネーズ、塩、こしょうで和える。
芋を煮る時間を含めたら1時間以上かかります。
 
その過程を見たら、よもや残しても簡単には捨てられないはずです。
ところが、惣菜売り場で買ってきたポテトサラダは、誰が作ったかはわからない。
「情」を持ていないから、食べ残したら平気で捨てられます。
その違いなのです。
 
お母さんが1時間かけてポテトサラダを手作りする。
その姿を見せるだけで、幾多の言葉よりも重いものを、子どもに伝えることができるのではないでしょうか。
 
 
◆子どもには10年かけて教える
 
食事を手作りするといっても、別に難しいことを言っているのではありません。
味噌を手作りしなさいとか、自宅でかまぼこを作りなさい、とかそういうことではない。
普通にご飯と味噌汁があるような、一般的な日本の和食でいいのです。
 
先日、私の甥っ子が12歳になり、我が家で誕生パーティーを開くことになりました。
ところが我が家にやってきた甥っ子は、お祝いの料理を前にして怪訝な顔をしています。
 
それもそのはず、食卓に並んでいたのは、色の悪い手作りのベーコン、竹の子や野菜の煮物、かしわご飯、芋の煮っころがし、煮豆といったものだったからです。
 
誕生パーティーというからには、ペットボトルが並び、タコ型のウインナーとか、人気キャラクターの楊枝をさしたチキンナゲットとか、ハムやチーズなどの加工食品をフルに使った「カラフルできらびやかな食卓」をイメージしていたのでしょう。
 
ところが、うちの料理は地味な田舎料理ばかり。
妻がケーキ屋をやっていますから、手作りのケーキはあったけれども、それ以外は色も地味な「茶色」一食でした。
 
甥っ子は一応料理を食べましたが、自宅に帰るなり、親にこういったそうです。
「おじちゃんの家、貧乏みたいだよ!」
これには私も妻も、まいったと苦笑するしかありませんでした。
 
しかしこの田舎料理は、妻と私が前日から仕込んで、手間隙かけて作ったもの。
娘も手伝いました。
ベーコンは5日前から仕込んだ無添加のもの。
前日から豆をふやかし、朝早く芋の皮をむいて家族で一生懸命調理したのです。
見た目は貧相でじみかもしれないけれど、真心がこもっています。
 
「見た目だけ派手で美しい料理」を出そうと思えば簡単です。
3000円も出せば、フライドチキンにエビチリ、ハンバーグなど「加工食品」が沢山変えます。
 
カラフルなサラダのパーティー用の盛り合わせも売っているし、黄色のジュースも赤いジュースもある。
それを使えばいくらでも華やかにできます。
 
でも、華やかな色とりどりの加工食品を並べた食卓と、家族で作った地味な田舎料理を並べた食卓と、どっちが豊かか。
どちらが心がこもっているか――比べるまでもないのではないでしょうか。
 
しかし、だからといって、いきなり子どもに結論を押しつけてもだめなのです。
「添加物はだめよ」「スナック菓子はいけません」
子どもにそういったところで、なかなか素直には聞いてくれないでしょう。
 
食は毎日の積み重ねです。
それをひとことで教えようとするから無理なのです。
子どもは親の姿を見て学んでいくもの。
親が料理を作る姿を見せ、コツコツと時間をかけて教えていくのです。
それも1年、2年に話ではなく、10年かけて教えようと思えばいいのです。
 
スローフードというのがはやっているそうですが、「スローエデュケーション(ゆっくり教える)」ということも大切なのではないでしょうか。
12歳の甥っ子も、いまはまだ無理でも、きっといつかわかってくれる日が来ると思っています。
 
◆手伝いと片づけが「食育」につながる
 
親が食事を作る姿を見せることが重要だといいましたが子どもが少し大きくなったら、調理を子供に手伝わせることも大切です。
芋やごぼうの皮をむく、キューリを切らせる――そういうお手伝いをするだけでも、食の大切さを学ぶことができます。
 
ごぼうの皮をむくことでも、子どもには小さな発見や驚きがあります。
「なぜ、皮を包丁の背を使ってこそぎとるのだろう?」
「なぜ、ごぼうはいったん切ると、すぐに黒くなるんだろう?」
次々と疑問が湧くことでしょう。
黒くなったごぼうは、酢を入れた水につければ再び白くなります。
日本の伝統的な手法ですが、子供にとってはそれも大いなる驚きのはず。
 
味噌汁にお豆腐を入れるとき、手のひらの上で包丁を軽く入れサイコロに切りますが、子供は「手が切れないか」とびっくりしたりします。
こんな小さな驚き・発見が、食に対する興味を育てるのです。
 
そして片付けも大切。
本当の「食育」とは、その日の料理の話をしながら、調理を手伝うこと、食べた後に片づけをすることなどによって、食に興味を持たせることだと私は思っています。
いまの親は、子供に手伝いをさせなさ過ぎではないでしょうか。
 
「手伝ってちょうだい」お母さんがそう言うと、「宿題があるからだめ」
と子供が言って、それ以上は何もいえないというお母さんが多いようです。
でもここはひとつ、「宿題は後でお母さんも手伝うから、ちょっとお料理を手伝って」
そう言ってみましょう。
 
宿題をさせるのも大切ですが、食べ物に触れさせることのほうがもっと大切なのではないでしょうか。
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001