あんな話 こんな話  89
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その2
 
第1章 食べて体を作る知恵  の2
 
 
● 貝を食して“快”となる
 
日本人が食してきた食材は千数百といいわれるが、そのなかでも貝類の占める割合はケタはずれに多く、日本人は、世界一多種類の貝類を、もっとも大量に食している民族である。
 
二枚貝類では、シジミ、ハマグリ、アサリ、バカガイ、トリガイ、アカガイ、アコヤガイ、カキ、アゲマキ、ツキヒガイ、マテガイ、イガイ、カラスガイ、ホタテガイ、イタヤガイなど約130余種。
 
巻貝ではアワビ、トコブシ、サザエ、タニシ、アマガイ、ヤコウガイ、バイ、ミクリガイ、テングニシなど約170種。
ざっと数えただけでも、約300種類もの貝類を食べてきた国民なのだから、まさに驚きである。
 
大昔、貝のもつ変化の美しさが人の心をひきつけて、それが装飾品となり、原子貨幣の役割を果たしたから、財貨に関係した字には財、賃、貴、貿、貨、貯、購など多くの字に貝の字がつく。
 
貝によって、いろいろな物資を手にすることができたので「貝が化ける」の意で「貨」。
貝は昔から、私どもの生活と切っても切れぬ関係にあったことがよくわかる。
 
このように、貝類は昔から、多量に食べられてきたが、日本人の貝食いの特徴は、食料としての貝でありながら、時には縁起物としての貝、そして、またあるときには滋養としての薬食いなど、貝の種類によって、うまく使い分ける知恵を組み入れながら大切に珍重してきた。
 
その食し方も極めて多彩である。
アワビ、アカガイ、ホタテ、トリガイ、ミルクイ、タイラギ、バカガイのようにすし種として生食する法、あるいはハマグリやサザエのように焼いて食する法、シジミ、アサリのように味噌汁や吸い物にする法。
 
さらに、酢の物、あえもの、鍋物。
そして佃煮にしたり、乾物として、保存食にしたりと、その食法にきりがないのも日本ならではである。
 
あわびは昔から、神祭の供物とされたり、武士の出陣帰陣の吉例として出されたりするほど縁起物で、今日の熨斗(のし)の起こりもこのアワビなのである。
 
全国各地にアワビを祭る神社も数多くあり、貴重な貝を食しながらも、その貝への尊さと感謝を忘れぬ心も、日本人は昔から後世に伝えてきた。
 
また昔からわが国では、貝をも薬にもした。
江戸時代の『和漢三才図絵』に「田螺(たにし)を煮て食すれば大小便を通じ、浮腫(ふしょう)を治し、搗爛(とうらん)せしものは臍(ほぞ)に帖(ちょう)じてまた佳(よし)。汁を取りて痔瘡脇臭(じそうきょうしゅう)に塗り、焼研(やけん)して瘰癧癬瘡(るいれきせんそう)を治する』とある。
 
また別の江戸子文書には「田螺は小腹通熱(しょうふくつうねつ)を解し、脚気衝逆浮腫(かっけしょうぎゃくふしょう)を治する」ともある。
 
タニシのほかに、アサリ、シジミ、ハマグリ、カキなども昔から疲労や酒で弱った肝臓に効き目があり、その食を勧める古文書も多い。
 
最近の研究では、その先達者たちの養生訓話が栄養学的に正しいものであることも、次々に証明されている。
 
たとえば貝類には共通してタウリン、ベタイン、グルコーゲンなどの活力源が多く、必須アミノ酸を多含し、ビタミンもA、B1、B2、B6、B12、C、D、H、コリン、イノシトール、葉酸などが含まれ、ミネラル〈無機質)では、カルシウム、カリウム、マグネシウム、鉄分、ヨード、亜鉛、銅、コバルトなど人間のからだが必要とするほとんどのものが含まれるという。
 
昔の人たちが体験で知ったとはいえ、貝類の栄養素に目をつけ、これを大切に食していた知恵は相当なものである。
 
 
 
● 大豆の「ゆば」と小麦の「麩」
 
湯葉、油波、湯婆。
いずれも「ゆば」と読む。
ゆばは鎌倉時代に禅僧がその製法を伝えたものといわれる。
豆乳を煮るとき、上面に薄膜ができるが、これをすくいとったものが、ゆばである
 
その色が黄色く、皺(しわ)があるので、姥(うば)の顔面に似ていることから「うば」の名が「ゆば」となったとするのは漫言である。
 
豆乳の上に浮かぶ皮であるから豆腐の浮皮(うわ)が濁って「うば」になったとする説と、豆腐の上物(うわも)のを略して「豆腐のうわ」となり、「うわ」が濁って「うば」、そして「ゆば」となったという説の双方が、いずれも正しいようである。
 
ゆばは豆乳を平たく浅い鍋に入れ、ニガリなどの凝固材を加えずに、そのまま煮ると、タンパク質が薄い膜となって表面に張るから、これを棒ですくいとり、数回繰り返して採取して、水気を切ったものを「生ゆば」、乾燥したものを「干しゆば」という。
タンパク質、脂質、各種ミネラルを極めて豊富に含むから、昔からの滋養食品である。
 
ゆばは、中国では「豆腐皮」または「腐皮」と書かれて食べられているが、日本の場合は、ゆばの種類が多彩で、芸が細かく、また食し方にも実にさまざまな方法を持っている。
 
普通のは平たい紙状にゆばだが、ほかに大巻きゆば、中巻きゆば、小巻きゆば、絞りゆば、渦ゆば、島田ゆば、結びゆば、かせゆばなど実に種類が多く、料理の仕方によって、これを自在に選んで使う粋さをもっている。
 
食べ方は、精進料理の必需品として有名で、さまざまな方法で食されるが、一般的には煮物や椀だねの具となったり、油で揚げて酒の肴にもされる。
保存がきくうえに、大豆の栄養成分を濃縮したような食品であるから、、精進料理にあっては、最も滋養性の高い食べものとして重宝されてきた。
 
それが今日、飽食の時代を迎えると、ゆばは栄養摂取という観点とはまったく逆に、自然食品や健康食品として注目を浴び、またその歯ごたえや美しい黄の色彩、形状などを十分に生かした料理の材料として再び見直されてきたのである。
 
日本人はいつの時代にも、社会の変化に適応させながら、食材の持つ特性を自在に生かすくふうと知恵を持っている。
 
大豆タンパク質の滋養食品が「ゆば」ならば、小麦のそれは「麩」である。
小麦粉から分離したタンパク質のグルテンに糯粉(もちこ)を加えて混錬し、蒸したものが生麩。
グルテンに強力小麦粉を加えて混錬し、火で焼いたものが焼麩である。
 
麩はタンパク質を豊富に含み、その上消化がすこぶるよい。
室町時代には、すでにかなり普及していたことは同時代の書物『異制庭訓往来』や『遊学往来』により、知られるところである。
 
とくに京都は当時からの麩の名産地で、麩師と呼ばれた製造業者の集住地域は、今でも「麩屋町通り」の名が残っているほどである。
 
大陸生まれのこの食べものを、日本人は時代とともに独特なものに作り直し、実に多くの種類と食し方をあみだした。
 
まず懐石料理や精進料理に欠かせぬ形や色合いの材料を作るのに、麩を巧みに利用した。
蓬麩、小豆麩、桜麩、梅麩、そして季節の野菜や果物などをかたどった細工麩などは、いずれも料理に美しく、誠に日本情緒あふれるものにしてくれる。
 
また、鍋物の具に使う実用麩も、棒に巻きつけて焼いた越後地方の車麩、板に塗りつけて焼いた山形地方のいた麩〈庄内麩〉、渦巻き型に青海苔を混ぜた観音麩などは料理によって自在に使い分ける。
 
このように、日本人は、大豆の精「ゆば」と、小麦の隋「麩」を滋養食品としての栄養的価値と、舌触りを楽しむ味覚的価値、そして形や色を楽しむ視覚的価値に訴えて、極めて多目的に上手に珍重してきた民族なのである。
 
 
 
● 蕎麦(そば)の正体
 
昔は、そば殻を焼いた灰で古器物を洗えば、多年のあかもたちまち抜けて光沢を増すといわれた。
 
また、金銀細工をするところでは、緊迫を伸ばすのにそば粉を使い、もし金銀粉が散ればそば粉に吸い込ませて寄せたという。
この縁起を担いだのが商家の晦日蕎麦である。
 
蕎麦はまた、五臓の停滞物を除くとのいい伝えから、旧年の穢れを去るための年越し蕎麦となる。
引越し蕎麦は体の汚れを清掃する意味である。
年の瀬も迫ってくると、街の蕎麦屋の店頭には「年越し蕎麦の注文承ります」といった歳時風景が目に付く。
 
蕎麦は日本民族と苦楽をともにしてきた食べものといってよい。
タデ科に属するこの一年生草木の原産地は、東アジアの温帯北部、ソ連のバイカル湖から中国北部に至る冷涼地域といわれ、わが国には中国から朝鮮半島を経て渡来したと考えられている。
 
古い記録としては、奈良時代の養老6年〈722〉7月に、旱魃(ひでり)飢饉に備えるため、蕎麦の栽培を奨励した元正天皇の詔勅が「続日本書記」にみられる。
山地、痩せ地、乾地、冷涼な気候でも生育期間が短くてすむから、救荒作物〈凶作の際にも収穫しうる作物〉として日本人をしばしば救ってきたありがたい穀物である。
 
粒食民族である日本人は、この蕎麦を粒食と粉食の両方で食べてきた。
粒食は簡潔な食べ方に入り、粒のまま煮て食べたり、米と混炊して蕎麦飯とする。
一方の粉食では、はじめは粉に挽いたものを熱湯でこねる蕎麦がきや、これを蒸した蕎麦団子であった。
 
しかし江戸時代初期、つなぎに小麦粉を入れることを知ってから麺状となり、とたんの、日本人を蕎麦好き民族に仕立てた、
粒状のままの蕎麦や蕎麦がきは、なんとなく救荒的性格を持ったイメージだが、これを一転して粋な麺に変身させたのである。
 
蕎麦を麺状にしてからは、日本人は例によって得意の知恵を発揮し、さまざまなタイプを次々にあみだした。
つなぎにヤマイモを用いた薯蕷(しょよ)切り、鶏卵を用いた卵切り、鯛のすり身を使う鯛切り、挽茶での茶蕎麦、柚子での柚子切りなど枚挙にいとまがない。
 
さて最初、救荒用として栽培された蕎麦は、実に栄養価の高い食べものでもあるから、この選択は正しかった。
 
小麦よりもたんぱく質が多く、アミノ酸の構成も良質である上に、ビタミンではB1やB2が豊富で、なかでもビタミンP〈毛細血管の透過性を正常に維持する重要な作用を持つ〉の一つであるルチンが極めて多く含まれている。
 
このことについては、最近とくに関心が高まっている。
このような栄養価価値の高いものを粒食民族の真っただ中に、粉食の麺として取り入れた日本人の知恵はあっぱれであった。
 
蕎麦といえば、なんといってもタレと薬味であろう。
いくらよい蕎麦を打っても、タレが不出来ならば蕎麦の風味が半減するのは当然である。
名代の蕎麦屋は最もここに注意を払う。
 
その定式は、味醂と醤油に砂糖を加えて煮立たせたものを「本返し」と名づけ、これに随時鰹節の煮出し汁を隠し味とともに調合する。
店によっては味付けに秘術があるのがうれしい。
薬味は刻みネギが多いが、おろし大根や七味唐辛子も好みで使い分けると楽しいものである。
 
◆ 蕎麦湯のすすめ
そば粉を薄く溶いた湯や蕎麦を茹でた湯を蕎麦湯という。
蕎麦屋では朱塗りの四角の大きな湯桶に蕎麦湯を入れて茶代わりに出す店が多い。
 
この蕎麦湯には、ミネラルや各種ビタミン、炭水化物などがかなり含まれている上に、そばの香りが濃く残っているから飲まぬ手はない。
タレをそば湯に少々落とし、茶代わりにじっくり味わって欲しい。
テーブルに出ない店でも、注文すれば(多分)無料で持ってきてくれるはずだ。
 
 
 
● 冬至にカボチャは合言葉
 
黄道上の黄経が270度の点を冬至点といい、太陽の中心がこの点を通過した瞬間を冬至という。
現行の暦では、毎年12月22日ごろ起こる。
 
太陽はこの時、最も南に位置し、日本のような北半球にあっては、この日、日中の長さが最も短い。
 
この冬至の日には、昔からさまざまな習俗的習わし、例えば収穫への感謝のための行事や天候占いなどが行われてきた。
この日にカボチャを食べたり柚子湯に入る習慣も広く知られるところである。
 
カボチャを食べるのは、中風にかからないといういい伝えからで、煮付けたり、味噌汁の実にしたり、田楽にして食べてきた。
だがその裏には知恵のある訳が潜んでいる。
 
カボチャは有色野菜の代表的なもののひとつで、野菜がほとんど採れなくなるこの時期には、貴重な栄養食品となる。
糖質(炭水化物)は極めて豊富に含まれ、無機質(ミネラル)も多く、また遊離アミノ酸は100g中に500rも含まれている。
 
そして、なんといってもビタミンAの含有量は抜群である。
ビタミンAは動物の成長、皮膚や粘膜組織の保護、視力の正常化(とくに夜盲症)などに関係するビタミンで、人間にとって極めて重要なものである。
 
寒くて厳しい一日。
日は短くなり、目は疲れる時期でのカボチャ料理は、渡りに船といったところであり、からだが要求する成分を効果的に補給してやるのには誠に理にかなった知恵なのである。
 
カボチャはポルトガル線によって室町時代の天文年間(1531〜1555)に豊後〈今の大分県)に運ばれてきたのが始まりといわれ、「カンボジャ国の瓜」の意がカボチャの名となったらしい。
 
この野菜は、土地を選ばず蔓をどんどん伸ばすほど勢力が強い。
従って多収穫であるから、平時はとかく軽んじられて、「今年はカボチャの当たり年」ともからかわれ、江戸文化期の献立には載せてもらえなかったほどのものだった。
 
それが認識新たになったのは、天保の大飢饉以降の救荒対策としてである。
江戸末期の農学者、大蔵永常は「唐なす(カボチャのこと)飯炊きやう、唐なすを細かに切り、米といっしょに入れ、常の水加減にて塩を入れ炊きあげ、杓子でよくかき混ぜ食して宣し。米一升の手まへにて3、4合はとくぶんなり」と、カボチャ飯を救荒時の主食として勧めている。
 
冬至のカボチャは、飢えに苦しむ数多くの日本人を日本の隅々で救ったに違いない。
 
なお、ついでだが、冬至にカボチャを食べたのは、昔から「ん」のつく字は2つつく食べ物を3つ食べると中風にならないとの言い伝えがあり、きんかん、れんこん、きんとん、はんぺん、ぽんかん、けんちんなどともに、南瓜(なんきん)もその類であったからという。
 
冬至に柚子湯に入ったり、柚子湯に入ったりするのにも理由がある。
5月節句の菖蒲や蓬の湯と蓬草餅、秋の菊の湯と菊酒の如く、匂いを吸ったり食べたりすることにより、体の中の邪気をはらい、健康になろうとする禊(みそぎ)の一種である
 
◆ カボチャまんじゅうの作り方
茹でたカボチャに2割程度のデンプン(片栗粉)か、もしくはデンプンと小麦粉1割ずつまっぜたも野を加え、さらに、少量の塩を加えてよく練り合わせ、それを皮にして、好みの餡を包み、蒸篭(せいろ)で蒸す。
 
 
 
● 粥と雑炊のすすめ
 
「朝早く粥をぬくめて、軟らかくして食べると、腸胃を養い、からだを温め、つばきが出る。寒い月にいちばんよろしい」
とは、『養生訓』での貝原益軒の訓。
日本人は昔から質素な粥を大いに食してきた民族である。
 
粥はもちろん日本だけのものではない。
中国では古く明代に、朝廷で粥を互いに贈呈しあったし、仏教の教えにも、粥は飢えと渇きを除き、大小便を整えるなどの利があるとして、その功徳がいわれてきた。
また現在でも、中国南部の地方では日常食のひとつとして、毎日3食のうち1食は粥食に当てているところもあるほどだから、粥食はむしろ大陸のほうが先輩格である。
 
粥は、米などを水分を多くして軟らかく煮たものであるから、米主食型の日本人は、稲の伝来直後から食べてきた典型的な粒食民族である。
 
ところで、日本人は古くから、米を焼く、煮る、蒸すというさまざまな調理法で食べてきた。
古くは焼いたものを「焼米(やきこめ)」、蒸した物を「飯(いい)」、煮たものを「粥」といったが、大半の食法は大昔から煮熟型、すなわち粥である。
 
粥はその固さによって固粥(かたがゆ)と汁粥(しるがゆ)に分けられるが、今日われわれが食べている飯(めし)は固粥に入り、一般にいう粥は汁粥に入れて間違いなかろう。
 
ただし後者の汁粥の場合、昔から日本ではその濃さによって名称をつけて分けている。
 
すなわち「全粥」とは米と水を重量比で1対5にして炊いたもの、「七部粥」では1対7、「三部粥」は1対5、そして米1に対し水10の割合で煮て、汁だけをこしとったのは「重湯(おもゆ)」、全粥に対し重湯9の割合で混ぜたものは「御交(おまじり)」である。
 
病人食、老人食、離乳食など目的に応じてその作り方を決めているのは、いかにも日本人の細やかな発想から生まれた知恵である。
 
日本の粥には、白米を煮ただけの白粥のほか、昔は麦、稗(ひえ)、粟(あわ)、トチの実、サツマイモ、大根、サトイモ、あわなどの増量材料を入れたものが多かった。
 
味付けも塩だけのものから、茶で煮る茶粥、甘葛(あまずら)の汁で煮たもの、そして正月7日の七草粥、1月15日の小豆粥、8月1日の尾花粥(疫病を除くとした粥で、ススキの穂や早稲の穂を黒焼きにしたもの、またはその代用に黒胡麻を混ぜて食した)など民族伝承としての粥食も多い。
 
一方、日本には粥に煮たものとして、「雑炊」がある。
粥との区別の基準は必ずしも明確ではないが、「御粥」という字がすでに、伊勢神宮の「皇太神宮儀式帳」(804年)に見られるのに対し、雑炊は平安時代末期から室町時代にかけて塩雑炊や味噌雑炊、鴨雑炊などが現れているから、粥よりは後のもののようだ。
 
粥状に米を煮るとき、粟、キビなどの雑穀や、ありあわせの魚介菜藻を混ぜ、また時には蕎麦粉、モロコシ粉などをもねりあわせ、塩、醤油、味噌などで味付けする。
 
米の節約のほか、回復気味の病弱者の栄養補給と消化吸収、そして冬季の保温食など、さまざまな目的により、昔から重用してきた知恵食のひとつである。
 
嗜好の雑炊としては、カキや卵、鶏肉などを加えたりもするが、なんといってもフグチリや寄せ鍋などの鍋物の残汁に飯を加えてつくる雑炊は、その美味さに舌も舞うほどである。
 
なお、雑炊を別名「おじや」とも呼ぶが、これは「煮える」という意味の女房詞(にょうぼうことば)である。
 
唇を 芹雑炊が 焦がしけり (普羅)

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001