あんな話 こんな話  90
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その3
 
第2章 すばらしい食品加工の知恵 の1
 
 
● 塩辛にみる日本人の発想
 
日本は、四方を暖流と寒流の交差する海に囲まれた島国のうえに、山紫水明の地であるので、海も川も美しく、そこには昔から魚介類が豊富であった。
 
その魚介類を追い続けてきた日本人は、漁のほうも伝統的に巧妙となり、その結果、魚を実に多く食べる民族となった。
また、日本人はその食の歴史上で長く獣肉を忌み嫌う風習があったために、動物性タンパクシツ源を魚介類に求めたのも、世界一の魚食民族となった一要因である。
 
魚の扱いに慣れた日本人は、当然の結果として、バラエティーに富んだ魚料理や魚介類の加工法を多彩にあみだしたが、そのなかでも傑作のひとつは、なんといっても塩辛であろう。
この塩辛造りには、日本人の貪欲なまでの魚の利用法と美味追求心から生まれた知恵が盛り込まれているのである。
 
日本の塩辛によく似たものとしてタイのナムプラー、フィリピンのパティス、中国のシャージャンなどがあるが日本の塩辛のように高級な珍味のイメージを残しながら肉片や腸(わた)を食べるのは独特である。
 
塩辛製造の原理は、原料魚の内臓にある自己消化系の酵素、とりわけ、タンパク質分解酵素の作用が主体となっている。
この酵素は、漬け込まれた魚肉中のタンパク質を分解して、うまみの主体となるアミノ酸を作り出し、そのうえ原料特有の生臭みを分解し、なれた塩味を誘起してくれる。
 
日本人は昔から、食に対しての無駄を極力避けてきた民族である。
だから、魚の腸にあるうま味を出してくれる何物かがあることを知るとそれまで捨てていた価値なきものを、今度は丹念に取り出しては、きめ細やかな風味を持った価値ある嗜好物に変える工夫を模索した。
その結果、いつの世でも食に対する好奇心と研究心の盛んな日本人は、さまざまな塩辛をあみだしたのである。
 
鰹の腸を利用して、その肉片や筋(すじ)を漬け込んで「酒盗(しゅとう)」をつくり、ナマコの腸からは「海鼠腸(このわた)」を考え出し、鮎の腸や卵からは「うるか」を、ウニからは「がぜ」を、さらに、アイゴの子からは「カラス・グワー」、イカの腸では「白作り」や「黒作り」を、また、鮭の背腸(せわた)や腎臓からは「めふん」をつくった。
 
そして、どこまでも貪欲な知恵者に至っては、空を飛ぶ鳥から「つぐみうるか」(今では幻の塩辛となったが、野鳥のツグミの腸を肉片とともに塩漬けしたもの)までつくりだした。
 
これらのさまざまな塩辛からは、日本人の食に対する異常なまでの執念を実によく観察することができる。
 
塩辛がこれほどまでに多彩に作り出されたのは、わが民族が魚の扱いに慣れていたこともさることながら、日本人の食生活の特徴のひとつが塩の文化に支えられてきたためでもあった。
 
奈良時代、すでに、塩辛の元祖ともいうべき穀類や魚菜を塩漬けした発酵品「比之保(ひしほ)」があり、それが一部は塩魚汁(しょっつる)へと派生し、一部は塩辛に移っていった。
 
「今昔物語」卷28に、「鯵の塩辛、鯛の醤〈ひしほ)などの、もろもろに塩辛き物ども盛りたり」とあり、平安朝、塩辛が「慣れ塩味」系の嗜好品のひとつとしてすでにあったことがわかる。
 
かくして日本人は、この塩文化の生んだ一品、塩辛を大切に味わいながら、質素な食卓を充実させる役割にこれを重宝してきたのである。
 
 
 
● 擬(もどき)のテクニック
 
雁擬。「がんもどき」と読む。
豆腐を主材として、これを崩して水気を去り、なかに細かく切った人参、キクラゲ、麻の実などを加え、丸めて油で揚げたもので、関西では日龍頭(ひりょうず)とも呼ぶ。
 
このがんもどきの名は、昔から鴨とともに賞味されてきた野生の食用鳥・雁の肉に似たもの〈もどき〉という意味からきた。またひりょうずは、水でこねた小麦粉に、豆腐や野菜をくわえて油で揚げた料理が、揚げる時、その塊の中から衣が飛び出して、角のような形になるものが多く、それが飛んでくる龍の頭に似たためといわれている。
 
いずれにしても、味や形などが本物に似たものがあったからこそその名がついた。
 
日本では昔から、素材をまったく異にする材料を使用して、本物に似せた食べものが、かなり多くつくられてきた。
 
がんもどきはその代表的な例で、ほかに海産物のコノシロを頭から骨もろともにたたいて鴨肉団子に似せた「鴨叩(かもたたき)」、豆腐に食塩を塗って、風通しのよいところで乾燥し、保存食として鰹節の代用に用いた「精進節(しょうじんぶし)」、海に遠い山国で、魚の塩辛に似せるため、野鳥のツグミの腸(わた)を材料とした「つぐみうるか」という塩辛など、まさに珍品の勢ぞろいといったところである。
 
しかし、これらの食べものに共通しているところは、本門ににせてだまそうなどという目的は毛頭なく、ほんものが持ち合わせていない部分、例えば味の淡白さとか栄養のバランス、歯ごたえ、風味、経済性などを補おうとする点にあり、そこには、理にかなったさまざまな知恵が織り込まれて、つくりあげられているのである。
 
だが、この本物に似たすばらしい日本の伝統的な味の数々も、物の豊富な時代となってからは、次第に姿を消してしまったものが多い。
そして、今日の急激な化学の発展は、「食」の周囲にもさまざまな形で、興味ある現象を現してきた。
 
その最たるものは、現代科学の応用を背景として、日本人が独自につくりあげた新規の知恵物である。
熱湯をかければ、即座にラーメンや蕎麦が食べられ、味噌汁、スープ、炒飯(チャーハン)ができるなどの、インスタントものの発明から、いわゆる「コピー食品」と呼ばれる食べものの登場に及んでいる。
従来、日本に伝わってきた擬食品とは、似ても似つかね完全摸造品の登場である。
 
大豆タンパク質を原料とした人造肉は、焼肉、肉団子、ハンバーグ、メンチカツ、コロッケ、シューマイなどに混ぜられ、また、その大豆タンパク質でエビの肉身までつくられている。
 
すり身の魚肉を原料にした蟹足肉や、帆立貝柱に至っては、その色、味、匂い、歯応え、裂け方など、どれをとっても、本物に酷似したものがつくりあげられている。
海藻成分とサラダ油などを使ってのイクラは、玄人でさえ見分けがつきにくく、すし屋のイクラ軍艦巻きなどにも使われている例もあるというからびっくりする。
おそらく、これだけ器用に模造品をつくれる民族は、日本人だけかもしれない。
 
これらのコピー食品は、ダイエットの面や経済性から見ても、有利な点が多いとされる。
だか、本物に比べて成分やコスト、値段が同じでは、それこそだましのテクニックであって、コピー商品の良しとするところではなくなってしまう。
この種の食品の使い方と価値こそ、使う人、嗜好する人の決めるところである。
 
 
 
● 厳冬が与えてくれた恵みもの
 
日本人は、この民族特有の食の文化を通して、まことに理にかなった発想を展開し、多岐にわたる知恵をめぐらしては、ユニークな料理法や調理の道具、そして食べものを独自にあみだしてきた。
 
そのなかでも、厳しい冬の寒さを利用してつくったいくつかの保存食には感心させられる。
 
その代表格が「寒天」である。
テングサ、フノリ、ツノマタ、オニグサ、オゴノリなどを原料そとして、これを洗浄し、アク抜きした後、約12時間ほど煮熟してこし、これを一定の木型の枠に入れて放置すると、藻から抽出された粘質状の多糖類が固化する。
 
それを冬の寒い夜、外に出すと凍結するから、日中は太陽の暖気を利用して融解し、夜また凍結することを繰り返すと、そのたびに、水とともに不純物が除去されて、次第に乾燥した製品となる。
使用した原藻から、平均して25%前後の寒天が得られる。
 
この寒天の始まりは、江戸時代中期に京都伏見の旅館の主人が心太(ところてん)の残りを冬、寒さ厳しい夜の戸外に捨てておいたところ、それが脱水乾燥して、干物状となったのが最初の発見だともいわれている。
 
残っている記録では、江戸時代の明和年間(1764〜72)に宮田半平という人が信州でその製法を研究し、その後、諏訪玉川村〈今の長野県茅野市)で製造が開始されたとある。
その後、角型の棒寒天は長野県で、また紐状の糸寒天は岐阜県で主に生産され、今日に至っている。
 
その主な用途は、食品加工(羊羹、ゼリー、ジャム、乳製品など)、工業用(塗料、湖料など)、医薬用〈緩下剤、医薬カプセル、オブラードなど)、化粧品用(シャンプー、乳化剤など)として多岐にわたっている。
 
豆腐を厳寒の晴天の夜に外屋で凍結させて脱水し、これを繰り返してから、最後に日干しして得た保存食は「凍豆腐(こうりどうふ)」である。
別名を紀州高野山でつくられたとされての「高野豆腐(こうやとうふ)」。
東北では凍(し)みた豆腐だから「凍み豆腐」ともいう。
 
一説にはすでに11世紀末に高野山で作られたとされる。
江戸時代の「本朝食鑑」〈1697〉には、寒夜の屋外で凍みらせてつくる手法が記述されているが、今日のものは、大部分が人工凍結法による製品である。
 
成分の50%はタンパク質で、栄養価は高く、普通の豆腐4丁分が凍み豆腐1枚分に相当する。
また、消化がよい上に、一種独特の素朴な風味が有るから煮物にして人気がある。
 
蒟蒻(こんにゃく)を薄く切って、やはり凍みらせて脱水、乾燥した保存食は、江戸時代によく食べられた「凍みこん」である。
水で戻してから白和えや汁物などの精進料理に用いられたが、今では姿を解消してしまったようだ。
 
ほかに、蕎麦を茹でてから寒夜に凍結させた「凍蕎麦(こおりそば)」は長期の保存に耐え、また餅を凍みらせた後に乾燥させて保存する「凍餅(しみもち)」は、急場の保存食として重宝された。
 
さらに東北地方では、大根を凍みらせたものを藁(わら)につるして乾燥させ、これを「凍大根(しみだいこん)」として煮物で喜ばる。
 
穀類などを寒中に晒すことを「寒晒(あいざざらし)」というが、その代表が白玉粉・菓子や団子の原料で、糯米(もちごめ)を挽き、その粉を寒水で洗い、毎日水を替えて晒し、1週間して脱水、乾燥すると、脂肪が減じてきめ細やかな粉ができる。
 
また「煮凝(にこごり)」は膠質(にかわしつ(ゼラチン質)に富んだ魚を煮て身をほぐし、寒夜に晒して凍らせたもので、飯のおかずや酒の肴に喜ばれる。
これらいずれの食べ物も、自然の威力を巧みに利用して作り出した知恵に産物ということができる。
 
 
 
● 大豆加工の巧みな知恵
 
日本人は、豆とは切っても切れない深い関係を持った民族といえる。
例えば、豆類のなかで最も栽培の歴史が古い中国原産の大豆にしても、日本人はこれを太古の昔から食していた。
その証拠には、秋田県小森山遺跡、山口県安田岡遺跡、静岡県伊場遺跡などから大豆が出土しており、弥生時代後期にはすでに栽培されていたことがわかる。
 
豆の「ま」は丸いこと、「め」は実が転じたもので、小豆(しょうず)(あずき)に対しての呼称である。
 
豆類と穀類の最大の違いは、含まれている栄養成分にある。
豆類はタンパク質と脂質とが極めて豊富である。
穀類のタンパク質含有量は、平均7%であるあるのに、大豆では30〜35%も含まれている。
これに対し、穀類ではデンプンが主体となっている。
この違いを日本人は、実に巧みに食生活に応用した。
 
米を主食とする民族にとって、大豆は栄養上、重要な意義を持った補助食であることを体験的に知ると、これにさまざまな知恵を働かせて、味噌や納豆など付加価値の高い食べ物を次々とつくりだしていった。
 
もし、この優秀な植物タンパク質と植物油脂とが手近になかったら、それでなくとも粗食で質素であった日本人の食生活はいっそう単純になっていたろうし、栄養学的なバランスにも失調をきたしていたに違いない。
 
『日本書紀』の「神代記」に、大豆を作る「豆田(まめふ)」の記述があるほどだから、大豆は当時から、かなり大がかりに栽培されていたようである。
日本では、豆といえば、大豆をさす国柄であるから、その加工法や調理法には、古くからわが国独特の技術を持っていた。
 
豆乳や豆腐、油揚げなどは、中国伝来のものだが、日本人はそれらの外来物を超えるほどの高度な知恵物を作り出した。
 
その代表が味噌と醤油。ともに大豆を主原料と市、これの麹菌を増殖させてたんぱく質からアミノ酸を溶出させ、さらに酵母や乳酸菌で発酵させた、わが国独特の嗜好品である。
 
味噌は汁にし、また漬物の漬け床とし、さらに食品の保存用に使って重宝し、醤油は煮物、焼き物、生もの、漬け物など何でもござれである。
互いに古くから日本の食文化の中心に君臨してきた重用品である。
もし醤油がなかったら、刺身も湯豆腐も、卵賭けご飯も、鰻丼も、にぎり寿司も、おでんも、照り焼きも、何もかも不味になってしまい、考えただけでもぞっとする。
 
大豆よ今日もありがとう。
そういえば、英語でさえ、大豆こことを醤油豆(Soybeans)という。
 
納豆も大変な発明で、粒食民族が作り出した一大傑作というべきものである。
納豆には、浜納豆や大徳寺納豆のように糸を引かない古典型と、水戸納豆のような糸引き型とがある。
しかし、いずれも微生物の応用が見られるのは、高度な知恵の現れである。
煮たままの大豆に比べ、納豆の消化率はぐんと高く、その上納豆菌が生産したビタミン群は、日本人にかけがえのない必須栄養素を供給した。
 
さて、日本人は今、現代的な知恵と工夫によって、大豆からこともあろうに肉を作り出してしまった。
大豆から油を搾りとり、その脱脂大豆から、たんぱく質を高濃度で取り出し、それを原料にして人造肉を誕生させたのである。
名づけて「畑の肉」。
ハンバーグやコロッケ、シューマイなどに使われている。
この民はなんとこうも臨機応変なのだろうか。つくづく感心する。
 
 
 
● ウスターソースと日本人
 
ソースとは、本来は西洋料理に使われるさまざまな複合調味料をいい、煮込みなどの料理をつくるときの素材として用いるのが一般的。
だから、西欧には、原料の選択や調合の仕方などによって、さまざまなソースがあり、その種類は優に2千種は超えるといわれている。
 
ソースの名は、ラテン語の「塩」を意味する「サルス」に由来するから、日本ではさしずめ味加減を言葉にした「塩梅(あんばい」」にあたるといったところだろうか。
 
だが、日本では、ふつうソースといえば、ウースターソースやトンカツソースを指し、フライ、コロッケ、トンカツ、ハムサラダなどの西洋料理に、手当たりしだい、これをかけて食べる調味料的嗜好物の性格を持ったものとなっている。
これは、日本の醤油が食卓には欠かせない必主賓であって、その使い方の週間がソースにまで及んだためだろう。
 
日本の食卓で、最も幅をきかせているソースはご存知、ウースターソースである。
 
イギリスのウースターシャー州のウースターという街で作られたタイプのソースで、タマネギ、にんじん、トマト、セロリなどの煮熟液にタイム、セージ、シナモン、コショウ、ニッケイなどの香辛料や酢、砂糖、塩、カラメルなどを加えて、6〜12ヶ月ほど熟成させたものを正統とする。
 
この正統ウースターソースが、日本に伝わってきたのは、明治27年ごろといわれる。
当時、わが国の食卓といえば、醤油以外の調味料は何も知らない時代であったから、このよそ者のソースには「新味醤油」とか「洋式醤油」あるいは「洋醤」などという名がつけられて売られた。
 
しかし、当時は焼き魚やおひたしにまでこの「洋醤」とやらをかけたので、その大半は「薬くさい」とか「舌がしびれてかなわぬ」などと敬遠し、広くは普及しなかった。
 
やがて肉を食べる機会も次第に多くなり、西洋料理が少しずつ街に出始めた大正期に入ると、いわゆるハイカラ族が好んで、これを用いるようになった。
しかし、特有の匂いと味に一般大衆が慣れるのには、このソースの大幅な改良、すなわち正統のウースターソースから離れて、日本人の口にあったジャパニーズソースへの転換が必要であった。
 
そうなると、日本人は、またもやここで知恵を発揮することになる。
日本人の口に合い、日本人好みの風味に仕上げるには、何が必要かを、日本人のこれまでの嗜好性から精巧に分析し、従来のウースターソースを大幅に変えた新種をあみだしたのである。
 
野菜にはたマネギ、ニンニク、人参、トマト、生姜を使い、これに桂皮、丁子〈ちょうじ〉、コショウ、ういきょう、山椒、タイム、唐辛子など20種の和洋香辛料を使った。
 
また調味料には、アミノ酸液(大豆タンパク質を分解した醤油のようなもの)や昆布のダシ汁、乾魚の煮汁〈にぼし汁や鯖節の煮汁〉、赤糖、酢などを用いたのである。
これなら、日本人の口に合いやすく、うまいのが当然だから、その後、このソースは醤油と並ぶ卓上調味料として、日本人に受け入れられたのである。
 
かようにこの民族は、外国生まれの伝統ソースまで、わが国に帰化させてしまうほどの貪欲さを持っているのである。
最近は、西欧から入ってきたドレッシングでさえ、醤油風味や味噌風味のタイプが見られたり、「醤油味ステーキのタレ」、「バーベキューソース・醤油味』、醤油味コンソメスープ」、「テリヤキソース」などが次から次へと、マーケットに並ぶ時代となった。
 
外国のものを、いかにも日本人的に食べてしまおうというこのような発想は、ある意味では、伝統的にはぐくまれた日本食文化の底力を誇示する一端なのかもしれない。
 
 
 
● 美味は卵巣にあり
 
世界一の魚食民族である日本人は、魚の卵を巧みに利用する知恵を持っている。
 
まず、鮭の卵を塩蔵したものに筋子がある。
塩引き鮭を製造するとき(その頃の鮭は、産卵期までにまだ少し時間があるので、川にのぼる前に、河口やその近くの海で回遊しているものを捕獲したものが多い)、腹を割いて卵のうのまま摘出し、塩蔵したものである。
江戸時代の寛文9年(1669)の『津軽一統誌』には「干しからさけ」、「塩干しさけ」として、塩ざけが紹介されているから、筋子も、その頃にはつくられていたとみてよい。
 
一方、川にのぼった産卵期近くの鮭から、手で絞り出して粒状の魚卵としたのがイクラである。
ロシア人が、キャビアの代用品としてつくったものが、明治時代中期に日本に輸入されてきたもので、そのため、このようなロシア語がついている。
 
日本では、古くからこのイクラのことを「鮭の?(はららご)」と呼び、これも筋子と同様、昔から日本人が賞味してきた魚卵塩蔵品である。
保存のために、ちょうどよい加減に塩蔵してあるから、そのまま飯のおかずにしたり、味醂醤油に漬け直したり、椀種にしたり、飯に炊き込んだりして、珍重してきた。
 
数の子は、鰊(にしん)の胎卵を乾燥するか、塩漬けにしたものである。
ニシンから卵巣を取り出し、海水を満たした容器で一昼夜浸した後、形を崩さないようにすくい上げて、簀(す)の子に広げ、淡水を注いで汚物を洗い去り、水切りして塩蔵し、1週間ほどしてから乾燥する。
 
鰊が多くとれた時には、飢饉の際の救助用に蓄えたり、タンパク質やビタミンが豊富なところから、滋養強壮食にしたりして、日本人に重宝されてきた。
卵の数が多いから、子孫繁栄の縁起物として、新年の献立に欠くべからざるものとされている。
日本の料理や食べものには、口当たりの軟らかいものが多い中で、卵膜特有の硬さを上手に生かし、噛むと、心を弾ませてくれる破裂音が、口いっぱいに広がる。
こうした数の子は、日本料理の中では、異色の食材ということができる。
 
スケトウダラ(めんたい)の卵も、塩蔵品として加工され、多量に食べられている。
一般に「たらこ」といえば、このスケトウダラの卵のことで、その塩蔵品の代表がもみじ子や唐辛子をからめた「辛子明太子」である。
 
魚卵を材料とした食べもののなかで、知恵と工夫が折り込められているのは、塩辛の類であろう。
腸(わた〉や、その他の臓器にあるタンパク質分解酵素を実に巧みに使って、魚卵を塩とともに漬け込み、なれ味を持たせたこの嗜好物はまさに傑作のひとつである。
 
鯛の子塩辛(鯛、ヒラメ、スケトウダラなどの卵を混合して塩漬けし、麹を加えたもの)、卵うるか〈鮎の腸とともに卵を塩漬けしたもの)、ガゼ(ウニの卵巣の塩辛)など、全国にはこの手の珍味が広く分布している。
いずれも、保存食として長く保つことができ、その特有の風味は、上戸下戸の差別なく、飯のおかずにも珍重されてきた。
 
ボラの卵巣の塩蔵品を清水で塩抜きし、圧しながら干し固めた物がカラスミである。
カラスミの原型は、古く中国にあるといわれ、できあがった形が、ちょうど唐の墨に似ていることから、この名がついた。
 
日本人がボラの卵を原料にして、今の形をつくったのは、江戸時代の延宝3年〈1675)といわれている。
元禄時代の『本朝食鑑』(1695年)に、その製造法が詳しく述べられているから、歴史は古い。
 
このカラスミに、大変よく似たものが、南フランスのプロバンス地方にあるブータルグ(ボラの卵巣の塩漬け乾燥品)だが、洋の東西を問わず、互いに大型のボラの卵巣に目をつけ、それを保存できる珍味につくり変えた知恵の偶然の一致さには、感心させられる。
 
だが、奇妙なナマコの卵巣にまで手を伸ばし、そこから名品「くちこ」(このこ)をつくり上げた日本人の方が、魚卵の食法にかけては数段上である。

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001