あんな話 こんな話  91
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その4
 
第2章 すばらしい食品加工の知恵 の2
 
 
● 即席全盛
 
インスタントラーメンが最初に街に登場したのは昭和33年のことである。
湯をかけるだけで、ラーメンが手軽に食べられる即席性が受けて、爆発的な人気を呼び、インスタント時代の原動力となった。
 
もともと、アメリカの余剰小麦粉の利用法のひとつとしてあみだされたものであるが、このインスタントラーメンが大ヒットした背景には、日本人独自の食習慣が少なからず影響していたことは確かである。
 
それは、日本人の誰もが好んだ支那なそばの存在と、早飯食いのうえに間食をとり入れる食態とピッタリ合ったものだったからだろう。
また、安価で手軽な点と、折から出現しはじめたスーパーマーケットに、実によく適した商品であったのも一因である。
 
インスタントラーメンやヌードル、そして、インスタントコーヒー(1901年に日本人が最初に発明したといわれる)という、今日では全地球的に普及した食べものを発明した日本には、実は昔から数多くの即席食があった。
 
糒(ほしい)や焼米は、急場には即座に口にすることのできる非常時の主食であり、葛湯や懐中汁粉(乾燥した餡を最中の生地で包んだもので、湯を注ぎ、かき混ぜれば汁粉になる)なども即座の飲みものとなって重宝された。
 
日本人の考え出した最も知恵のある即席食は、味噌かもしれない。
いつまでも、保存がきき、湯で煮られた野菜や芋の汁にこれを加えただけで、立派な副食としての味噌汁ができ、粒食主食型の日本人を大いに助けてきた。
ほかにとろろ昆布、蒟蒻粉、麩など即席食は数々ある。
 
さて、インスタントラーメンを生んだ日本人は、これをきっかけとして、さまざまな即席物をあみだした。
おしるこ、ココア、スナックライス類(即席ご飯)、味噌汁、茶漬け、吸いもの、焼きそば、うどん、蕎麦、スープ類、豆腐、果汁など枚挙にいとまがないほどである。
 
だが、これらのインスタント食品のように、脱水、乾燥したものだけでとどまる日本人ではない。
本格的に調理し、それを間食だけで終わらすことなく、ご飯の立派なおかずとしての即席食を世界に先がけてつくりあげたのも、この民族なのである。
 
その代表がレトルト食品で、「レトルト」とは、缶詰の殺菌に用いる高温加熱機のことである。
 
もともとは、アメリカで宇宙食の開発に研究されたものであるが、缶詰の代わりにフレキシブルな袋(アルミニウム箔とプラスチックフィルムを三層に張り合わせたレトルトパウチフィルム製で高温加熱殺菌が可能である)を用い、これにカレー、シチュー、ミートソース、ハンバーグ、調理済みの和・洋・中華料理などを詰めて殺菌したものである。
 
食用時に、これを湯で温めるだけ。
出来立てのレストランの味が楽しめる即席物である。
市販用として企業化されたのは、1969年の日本が最初であり、今日では年間10万トンも製造されるに至った。
そしれ、今度は加熱調理済みの冷凍食品の登場。
カキフライだろうが、新じゃがのポテトコロッケであろうが、季節を問わずに、年中いつでも新鮮に食べられるようになった。
 
狭い日本、そんなに急いでどこに行くのだろうか。
 
 
 
● 嘗物(なめもの)考
 
日本人は嘗める味が大好きである。
その証拠に「嘗物(なめもの)」などという、日本独特の呼び名を持った食べものもあるほどである。
 
この嘗物、日本には相当古い時代からあったが、その原点にあるのが、「比之保(ひしお)である。
今から約2000年前の弥生時代から大和時代にかけてつくられたといわれている、この発酵調味料には「草比之保(くさひしお)」、「魚比之保(うおひしお)」、「穀比之保(こくひしお)」の3種があり、いずれも塩漬けの食品であった。
 
この「比之保」は「醤」の字に当たることから、そのずっと後の室町時代には「ひしお」は「ひしおゆ」を経て「しょうゆ」と呼ばれるようになり、今日の醤油へと発展していった。
 
従って、醤油のなる前の比之保は「野菜、肉、魚をつける料(かて)」であり、そのドロドロした発酵物を副食物として嘗めたり、調理材料としていたのである。
 
この比之保系統の嘗物と。一線を画してその後に登場したのが味噌系の嘗物である。
その始まりは、中国浙江省の径山寺(きんざんじ)からその製造法が渡来し、和歌山、奈良、京都、大阪を中心とした関西地方で、金山寺味噌という名で広まったというばくぜんとした説しかない。
 
しかし、嘗物はその後、この味噌を主剤としたものに統一されてくる。
味噌は、本来が嘗物そのものであったことから、これをベースにして、さまざまな材料を加えて作った惣菜味噌はなれ味が整いやすく、そのうえ、形状や舌への感覚も申し分ないものだったから、嘗物として大いにうけ、日本人は次ぎから次に多種の嘗味噌をつくりだして重宝してきたのである。
 
嘗味噌には、微生物の力を巧みに応用して醸した発酵嘗味噌と、通常の味噌二具を混ぜて作った加工味噌の2種がある。
 
前者には金山寺味噌〈大豆一升を煎って臼でひき割り、これに大麦一升を混ぜ、蒸し籠で蒸してこれを麹にし、これにナスや白瓜、麻の実、紫蘇、生姜などの刻みものとともに塩を加えて8〜10ヶ月ほど発酵させたもの)や野鳥味噌(キジバト、ウズラなどの野鳥肉を細かに刻んで、麹、味醂、塩で漬け込み発酵させたもの)、鰹味噌などがある。
 
また後者の加工味噌には鯛味噌、鉄火味噌、牡蠣味噌、海老味噌、時雨味噌、胡麻味噌、葱味噌、柚子味噌、胡桃味噌など枚挙にいとまがない。
 
日本人は、この嘗物を上手に食生活に取り入れる知恵を持っていた。
主食の飯や粥にほんのちょっと塗るだけで、もう食欲が起こってくるし、野山の山菜を生で食べるのにも、この味が絶好の役割を果たしてくれ、茶を飲むときにさえ、これを嘗めながらの喫茶は、また格別の風流さがある。
 
そして酒の肴には箸休めの小菜としてなど、実にオールマイティーな副食物なのである。
この嘗物には、日本食文化の奥に潜む質素さと素朴さ、軽さと合理性などが入りこんで共存しているように思えてならない。
 
時雨味噌のつくり方
むき身のハマグリを鍋で軽く炒り上げ、別に味醂醤油を煮立たせた中に、これを入れて味をつけ、さらにハマグリだけをすくいあげた後の煮汁へ、味噌と適量の砂糖を加え、とろ火でよく混ぜながら練り合わせ、やや煮詰まったところへ再びハマグリを戻し、混ぜながらしばらく煮込んで火からおろし、冷やして保存する。
好みで香辛料を加えるとよく、シジミやアサリなどの貝でもハマグリに代用できる。
 
柚子味噌と胡桃味噌のつくり方
柚子のへたのほうを蓋になるように切り、中身をくり抜いて皮の器を作る。
細かく切った椎茸を味噌とねり合わせ、砂糖、味醂などで調味して混ぜてこれを器に詰め、ふたをして金網で焼くと、焼き味噌仕立ての香ばしい嘗味噌ができる。
胡桃味噌は殻を割って出した肉身に熱湯を通して薄皮を除き、フライパンでまず空炒り。
さらに再び油で炒り、味噌、酒、味醂、砂糖を加えて弱火でゆっくりねり上げる、
 
 
 
● 干されて熟(う)むる
 
日本人の考え出した乾物は数々あるが、干し椎茸ほど知恵のある保存食はない。
乾燥することにより、生よりも味や香り、そして栄養価まで高くなるというのだから、まことに珍しい乾物ということになる。
 
椎茸の歴史は古い。
すでに仲哀天皇(日本武尊〔やまとたけるのみこと〕の第二王子〉が熊襲(くまそ)征伐のため、筑紫国に入った時、そこの土地の民が椎の木に付いて育った香り高い茸(きのこ)を献じたことから、その宮の名を「香椎宮(かしいぐう)」(今の福岡市香椎)と名づけたと古書にあるほどだから、相当古くから食用にしていたことがうかがわれる。
 
また、名僧の永平道元による『典座教訓』(鎌倉時代)には、道元が貞応2年(1223)、宋に渡った時、当地の高名な僧から、日本の椎茸を買い求めたいとの商談があったと記してある。
鎌倉初期、干し椎茸はすでに著名な輸出品のひとつであったようだ。
 
江戸時代の元禄年間には豊後(今の大分県)や伊豆地方ですでに榾木(ほだぎ)栽培が行われている。
今日のような大量生産が可能になったのは、昭和10年〈1935)にこれまた日本人の知恵によって、種菌を摂取する人工栽培が行われだしてからのことである。
 
椎茸は、生では貯蔵性に欠けるから、なるべく早く食する以外は大半が干し椎茸にされる。
以前は日光乾燥したものが本格とされたが、今は大部分が火熱乾燥品になった。
 
椎茸にはビタミンD(血液中のカルシウムを一定に保ち、骨の正常な形成に関与する)の前駆体であるエルゴスレリンが極めて豊富に含まれていて、これを日光で乾燥するとき、紫外線の照射によってビタミンDとなる。
 
したがって、今日の椎茸の大部分が火力乾燥となったから、ビタミンDの供給源としての期待は幾分薄くなったが、その代わりに血中コレステロールや血圧を低下させる物質が増加することが見出され注目されている。
 
実験によると、椎茸の水抽出物には、シロネズミの血液中のコレステロールを低下させるエリタデニンという物質が存在していつことが明らかにされているからだ。
また最近では、抗ガン物質の抽出も試みられているなど、健康自然食品として熱いまなざしを浴びている。
 
しかし、椎茸は何といっても、あの味と香りにある。
特有のうま味は5’−グアニル酸と、グルタミン酸などの遊離アミノ酸とが相乗し合っているためで、古来、昆布や鰹節とともにわが国の代表的なダシとして用いられてきた。
 
ダシをとるのに、もっぱら乾燥品が用いられるのは乾燥により味が増すためである。
また、乾燥することによって香りも大幅に高くなるが、これは特有の芳香成分であるレンチオニンが、乾燥中に酵素反応により高められるためである。
 
乾燥した椎茸には、このようにさまざまな特性があるから、使用時に水戻しを行ってから材料にする。
水戻しは、短時間で行うのがよく、長時間の浸漬はうま味成分や香り成分の溶出をまねくから裂けたい。
 
戻す時、少量の砂糖を加えておくと、味の溶出を防ぎ、椎茸にコク身をつける。
戻した水は、うまみの損失を防ぐために煮物汁に使うようにする。
戻した椎茸は主に煮物に使われるが、椎茸料理のコツは弱火に徹することである。
味が茸の組織中に浸透することと、折角の香りを少しでも高く保たせるためである。
 
寒い時、湿度の低い乾燥したした状態で栽培されたものは、肉厚でかさが白みがかり、菊花状に割れているのでこれを「花冬茹(はなどんこ)」といい、やはり低温時に採取して、かさが7分開きのものを「冬茹(どんこ)」、肉薄のかさのものは「香信(こうしん)」と呼んでいる。
かさの表面が白みがかった黄茶色、裏側が黄色を呈していて、茎があまり長くないものがよく、味は肉厚のものが良いとされている。
 
 
 
● 餡(あん)考
 
小豆の植物学的起源はよくわかっていない。
原産地は中国北部という説が多いが、日本では農耕文化が始まったころからの作物であったうえに、今日では世界中で日本人だけに好まれている豆として、特異な存在である。
 
日本人と小豆は昔から、民俗学的にも深いつながりを持っている。
正月の行事に小豆は必需品であり、小正月や11月の大師講(だいしこう)には小豆粥を食べ、庚申(こうしん)様に小豆飯を供えると将来食べものには不自由しないといわれてきた。
節分のときにはこれをまいて穢れを払うなどはほんの一例で、小豆にまつわる民族諸事は実に多い。
 
今日でも、米といっしょに煮たり蒸かしたりして、慶弔時には欠かせない赤飯としたり、餡の原料として、広く日本人に愛用されている。
これらの事を見ても、日本人と小豆は切っても切れない縁にある。
 
また小豆は、日本人が古くからの粒食主食型民族であることをよく語ってくれるもののひとつでもある。
主食の米をそのまま粒状で炊いて食べる日本人は、小豆も粒のまま米と一緒に炊いて赤飯とし、これを神棚にささげるが、赤飯のみならず小豆粥や小豆団子など大昔から年頭の賀儀用の小豆は全て粒状である。
 
小豆を煮てからこした「こし餡」が普及したのは、さらに後のことであり、これらの習慣を見ても、日本人の祖先たちは粒食を基本としたいたことがよくわかる。
 
しばらくして、大陸からまんじゅうの原型が入ってきて、まんじゅう、餅、団子などに包み、あるいはまぶす練物として「餡」が普及した。
茹でた小豆をつぶしたり、こしたりして初めて粉食型の餡が登場したが、当時は塩で味付けした塩餡が大半で、室町時代初期ごろから砂糖の輸入に伴い、甘味の餡も現れてきた。
 
さて、餡を大いに気に入った日本人は、得意の知恵を働かせて、さまざまなタイプの餡を工夫してあみだした。
 
小豆粒をそのまま残し、軟らかく煮あげて味を付けたのが「つぶ餡」。
粒の形を多少残した程度に煮て、皮を除かずに味をつけた「つぶし餡」。
完全に軟らかくなるまで煮てから笊(ざる)に入れ、粒をつぶしてから水を注いで、小豆の主体であるデンプン粒を洗い出し、この汁を布袋に入れて固くしぼってすいぶんをとったのが、生のこし餡である「漉餡(こしあん)」だ。
これを乾燥させたのが「晒餡」。
誠に多彩である。
そのうえ、唐を加える量によっても「並餡」「中割餡」「上割餡」などと作り分けていく。
 
そしてついには、小豆だけでは収まらず、白インゲンや粟で「白餡」を作り、サツマイモやジャガイモで「芋餡」をもあみだした。
さらに芸は細かくなり、さまざまな材料の餡を煮つぶしてとろ火にかけてねり合わせ、「金団」も発明した。
 
また白餡に胡麻、白味噌、抹茶、黒砂糖、栗、柚子などを加合させて作った「胡麻餡」「味噌餡」「抹茶餡」「大島餡」「栗餡」「柚子案」などのような風味豊かな素材があり、しかも美味な餡を自在につくりあげてきたのである。
 
このように、日本人がさなざまな餡をあみだしてきた例を見てもわかるように、たとえその原型が大陸から導入されたものであっても、この民族特有の発想法によっていつの間にか独自の形に作り変えて、自分たちの食生活にあったものへと順化させてしまう。
こうした知恵は日本人の伝統であるようだ。
 
 
 
● 魚食民族の干物文化
 
乾燥した食品類のうち、植物性のものは音読して「乾物(かんぶつ)」、魚類の場合は訓読して「干物(ひもの)」と呼ぶのがふつうのならいになっている。
 
干物は日本人が大変古い時代から重用してきた食べものである。
干すことによって魚介類の水分を減少させると、微生物の繁殖が抑えられる(微生物が生育するためには一定量の水分が必要である)から腐敗することがなく、長く保存できる。
このため干物は、実に重宝な食品であった。
 
太古の昔、干物を初めてつくった民族は定かでないが、今日、干物の種類の数や生産量、消費量の多さでは、わが民族の右に出る国はなく、まさに干物王国・日本なのである。
 
古代日本では、ほとんどが素干し、または焼き干しであったが、平安時代に入り貴族の饗膳が発達する頃には、多彩な削り節(当時、干物は削って食べるものが多かった)が登場してくる。
 
例えば平安時代の『厨事類記』には、削り物として干鳥(乾塩雉)、干鯛(乾塩鯛)、楚割(すわり)(乾塩鮭)、蒸鮑(むしあわび)(乾塩鮑)、焼蛸(乾塩蛸)などが記述されている。
また平安時代の『延喜式』には、都の西の市には数軒の乾魚専門店があったと述べられている。
 
さて、日本人は、例によって、この民族特有の優れた知恵を発揮し、さまざまな干物を次から次へと考案してきた。
今日、市場に出回っている干物を分類してみただけでも、素干し、煮干し、塩干し、焼き干し、調味干しなどと誠に多彩である。
 
素干しは塩を加えずに、そのまま乾燥させるものだから、干物の仲では最も古い形のもので、するめ、サヨリ、身欠き鰊、ごまめなど種類は多い。
 
塩干しは、干物の仲で最も一般的なもので、干物といえば通常はこの類を指す。
塩を少しつけたり、塩水にくぐらせてから乾燥させるもので、いわしの丸干しやめざし、アジやサバ、サンマ、イトヨリ、キンキなどの開きに人気が高い。
 
焼き干しはどちらかというと流水系の魚に多く、鮒、鮎、ヤマメ、ウグイ、ワカサギ、ハゼなどを串に刺して焼き、乾燥したものである。
 
調味干しにはいよいよ知恵が入ってくる。
味醂にさまざまな調味を施した液に、下ごしらえ(内臓を除去した後、水にさらし、水切り後に背開きし、背骨を除去する)した魚をつけて味付けし、乾燥した後つや出ししたもので、焼いて美味に食べられる。
 
サンマ、カワハギ、いわし、サバなどは味醂干しの格好の材料だが、これに白胡麻をまくのは、焼いたときの魚の生臭みを焼かれたときの胡麻の香ばしい匂いが隠してくれるからで、一段と風味をよくするための知恵である。
こういう細かい気遣いが、味醂干しにまで配られているのは、日本ならではの加工方法であってうれしいことである。
 
同じく調味干しの一種であるくさやの干物は、干物の中でも傑作のひとつである。
発酵した塩魚汁を、ムロアジやトビウオに漬け込み、一種独特の匂いと奥の深い味をもたせた干物だが、この風味は好事家を夢中にさせる。
 
シラスには、食塩水で煮熟してから水切り後、放冷し、乾燥してシラス干し(チリメン)とするほか、煮熟しないで水洗いしただけの生の原料を簾(すだれ)に干して、乾燥したタタミイワシもある。
 
同じシラスでもこのようにまったく風味を異にするものをあみだしたが、エビの例でも素干し、煮干し、生むき干し、釜あげなどと、使う料理によって干し方に変化をもたせているのも日本ならではの芸の細かさである。
 
日が照れど 小雨は降れど 目刺干す  (青畝)
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001