あんな話 こんな話  92
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その5
 
第2章 すばらしい食品加工の知恵 の3
 
 
● 板に乗った魚の話
 
平安時代の『類聚雑要抄(るいじゅうざつようしょう)』には、竹についた蒲鉾の図がのっているが、それは今日の板付きかまぼことは違っていて、竹のまわりに蒲(がま)の穂のように巻いた竹輪であった。
形が蒲の穂に似ていて、その穂は、鉾にも似ているので蒲鉾と呼んだらしい。
 
室町時代の『宗五大艸紙(そうごだいぞうし)』には「かまぼこはなまず本也、蒲の穂を似せたる物なり」とあり、当時の原料はナマズが多かった。
この魚は形相がよくないのでつぶして食べたのが始まりなのかもしれない。
 
だが、ナマズは、当時はあまり好まれた魚ではないらしく、『本朝食鑑』や『当世改正料理大全』には、ナマズは下品な魚なので人前に出す料理ではない」と見える。
そのためか、この時代の『料理之書』や『食物服用之巻』には、鯛や鯉を蒲鉾の原料として礼賛している。
 
その後、江戸の中期から末期にかけては、さまざまな原料魚が登場するが、そのほとんどは淡水魚から海水魚に変わっており、江戸末期の『増補食物和歌本草』や『料理物語』には鯛、ハモ、カレイ、エイ、コチ、アジ、タラ、グチなど、今の高級蒲鉾の原料魚をすでに材料にしていたことが書かれている。
 
蒲鉾は魚をすりつぶして塩、砂糖、酒、その他の調味料を加え、それを加熱固成した食品である。
 
魚を好まぬ人までも抵抗なく食べられるように、骨や皮を取り除いた原料魚の肉をすり身にし、調味や過熱の工夫によって生臭みを消して、食欲を起こす風味としたばかりでなく、食べては舌への感覚が快いなど、魚食民族日本人ならではの知恵の発明品である。
 
加熱の方法も蒸熟、煮熟、焙焼(ばいしょう)、油煤(ゆばい)、燻煙(くんえん)などさまざまあって、それぞれの手法を選ぶことにより蒲鉾、半片(はんぺん)、竹輪、薩摩揚げなどと、その種類を存分に楽しめるようにしてあるのもユニークな発想のためだろう。
 
代表的な蒲鉾は、小田原物のように色が白く、厚板に乗った関東ものの蒸し板蒲鉾である。
江戸時代までは、棒巻きであったのが、明治時代に厚板に乗ったという。
これに対して関西物は、焼き板蒲鉾である。
 
関東は色が白く、足の強いのが好まれるが、関西は色や形より、むしろ味を第一とする。
原料も東と西ではだいぶ異なる。
例えが東ではグチを高級品の原料とすれば、関西はハモが高級原料のひとつである。
 
ほかに新潟蒲鉾、仙台の笹蒲鉾、富山の昆布巻き蒲鉾、和歌山のなんば焼き、福井の焼き蒲鉾、鳥取、豊橋、三陸地方の竹輪、四国の白天ぷらや皮天ぷらなど、日本全国にはそれぞれの地域に名品が揃っている。
 
蒲鉾の類に入る半片や伊達巻も工夫ものである。
半片は魚介肉のすり身に、ヤマノイモの粉末とデンプンを加えて蒸したもので、蒲鉾の「硬」に対して「軟」がうれしい。
伊達巻は、魚のすり身に卵黄を混ぜて厚焼きとし、渦巻き状に巻いたもので、濃い目の味に、どっしりとした風格は、異色の蒲鉾として人気も高い。
 
また、蒲鉾は、縁起のよきものとされたり、料理の色づけ役としても大切である。
純白の肌に、鮮やかな赤や朱色をつけた蒸し板や鳴門巻きは、幕の内弁当やラーメンにこの切片がないと、なんとなく落ち着かぬほどの存在感を持っている。
 
そして、魚食民族・日本人の発明したこの嗜好品は今日、その型を焼き板家、蒸し板などから少しずつ変身して、「蟹足」や「蟹棒」といった風味蒲鉾を生み出し、外国では大変な人気を博している。
かまぼこでありながら、本物の蟹足に似せた味と色と形。
日本人の知恵は、外国の食卓にまで広がり始めている。
 
 
 
● 佃煮に秘めた知恵
 
徳川家康は魚が大好物だった。
江戸に入来したとき、江戸城及び江戸市民の魚をまかなうために、摂津国(今の大阪府)の佃村の名主、孫右衛門以下数十人を、無名の小さな離れ島に連れてきて、漁業を起こさせた。
 
彼ら一族が中心の漁民は、かなり優れた漁の技術を持っていたうえ、小魚の一匹をも、無駄にしない加工法も持っていた。
 
家康は、ここで取れる白魚を、ことのほか喜んで賞味したため、この名もなき小さな島は次第に有名となり、佃島と呼ばれるようになった。
 
佃島の猟師達は、大きな生きのよい魚は将軍家をはじめ、諸大名や漬武家屋敷に納めたが、小雑魚は自家用にして保存食をつくった。
 
はじめは雑魚や貝類は塩で煮付けたものであったが、それが次第に醤油に変わり、さらに味醂、ざらめ糖なども加えて、特有の照りを出すようになると「江戸名物・佃煮」となって広まった。
 
材料はアサリ、ハゼ、昆布、のり、白魚、ワカサギ、アミ、小エビなど。
江戸から国に帰る大名や武士たちが、江戸土産として持ち帰るようになったのは、保存がきくためであり、そのおかげで、全国各地に佃煮が広まった。
 
佃煮にはいくつかの巧妙な知恵がある。
その第一は長く保存が利くこと。
その理由は醤油、砂糖、水飴などで濃い味に煮つめるため、佃煮の浸透圧が著しく高く、微生物の入る余地がないからである。
 
第二の知恵は、味が大変濃いから、たとえ少量でも十分に飯のおかずになること。
温かいご飯の上に、さらりと乗せただけで、奥深い味が十分楽しめるし、お茶漬けにもよく合うことなど、早飯くいの日本人には大いに受けることになる。
 
そして第三は、佃煮の手法が材料をほとんど限定しないことで、採れすぎの魚介は、ほとんど材料となるし、茸、牛肉、鯨肉、魚卵、海藻、山菜、蜂の子やイナゴのような昆虫までもが材料となる。
 
ハマグリ時雨煮(しぐれに)、鰹やマグロのさいころ角煮、蕗(ふき)はきゃら蕗、などといった粋な名もあり、うれしがらせる。
 
そして、佃煮の面白い第四点は、その土地の特産物を、ことごとく名物品に加工して、土産に仕立ててしまうことである。
ゴリと胡桃の佃煮といえば金沢、ハゼや小エビ、のりは東京、霞ヶ浦にはワカサギや鮒の雀焼き、山形の鯉、岡山の穴子、広島には昆布、のり、小鯛などと、枚挙にいとまがない。
 
変わったところでは、信州の蜂の子、和歌山のウツボ、静岡のイルカなどまである。
およそ全国の都道府県で、佃煮に類する名物の土産品のないところは皆無といってよいだろう。
まさに、日本列島は隅から隅までが佃煮王国なのである。
 
そして、佃煮に知恵の第五は。無機塩類の栄養補給にある。
生鮮品に比べ、調理加工による栄養成分の損失は免れないが、リン、カルシウム、マグネシウム、カリウム、ヨウ素、鉄分などの供給源として好適で、大半の魚介などは丸ごと食べられるから、粗食であった日本人の食卓にあって、妊婦や小児の大切な食べものとなり、重宝されてきたのである。
 
「昔から、食痛間では、ゴリの佃煮の茶漬けを、茶漬けの王者と称して珍重している。これさえ食べれば一躍茶漬けの天下取りになれるわけであるから、篤志の人はひとつ試みられるべきである」
佃煮の茶漬けは、食聖・北大路魯山人〔明治〜昭和〕にさえこういわせている。
 
 
 
● 饂飩(うどん)となが〜いお付き合い
 
うどんの最初は小麦粉を丸めた団子。
これを箸でつまもうとすると、端がないからくるくるとしてつかみどころがなく混沌(こんとん)としているから、これを煮たものを「混沌」といった。
その後、うどんは食べものであるから、これを食変にあらためて「?飩」となり、温めて食べるから、「饂飩(饂飩)」になったという。
その始まりは奈良時代といわれ、小麦団子に飴(あめ)をを入れた中国渡来の唐菓子がその祖との見方もある。
 
関西地方での麺は、饂飩が主で蕎麦が副。
だから関西に行くと本場だけあって、美味な饂飩が多い。
そして粋な呼び方もうれしく、切って干した形のうどんは切麦(きりむぎ)。
それを熱くして食べるときには熱麦(あつむぎ)、冷やして食べるときには冷麦(ひやむぎ)などと呼ぶ。
 
これに対して関東地方では、饂飩より蕎麦が好まれる傾向もあって、昔は、饂飩のことを「そばうどん」と呼んだ時代もあった。
ただ、その食べ方は西も東も醤油、味醂、ダシ汁などで調味したつゆを下地にしてこれにつけたりかけたりしてすすり込むのは同じである。
 
うどんは小麦粉に食塩、水を加え、ねり合わせてグルテンを形成させ、帯状に切り出したもので、これを生麺といい、茹でたものを茹麺、乾燥したものを乾麺と呼んでいる。
米という粒食主食型民族日本人の食の中にあっては、蕎麦と並ぶ代表的な粉食食品で、その大方は茹でた後、汁とともに食べる線切りものである。
 
小麦粉の団子を煮込んだものが饂飩の原型であったから、本来は煮込み饂飩が古い食法であったが、今では、ほとんどがいったん茹でておいたものを熱湯につけて釜上げし、これに汁だけかけた素うどんや、天ぷら、きつね(油揚げ)、たぬき(揚げ玉)、肉、卵とじ、ニシン、おかめなどの種物(たねもの)になってしまった。
 
この種物うどんでは、うどんを単一食とせず、そこにさまざまな具をのせて食味に幅を持たせたり、栄養の補給や色彩の美しさなどを織り込んだりしてあり、日本人の知恵と感性の豊かさをここにかいまみることができるのである。
 
そして、さらにうどんにかかわる知恵の枝分かれは、全国に名物のうどん地域を作って、米の併食としてうどんを大いに発展させた。
東海道は芋川の立場の平うどん、香川県の讃岐うどん、京や難波、近江の関西系うどん、名古屋のきしめん、群馬は伊香保の水沢うどんなど、北は秋田の稲庭うどんなどのほか、他の地域にも名物うどんは数知れない。
 
原料となるうどん粉の中にまで、工夫を凝らした材料を入れて楽しむのも、日本人の素朴な贅沢からきた知恵のひとつである。
卵の卵麺、ヤマイモの薯蕷麺、葛粉の葛麺、ケシの実のケシ麺、片栗の実の片栗麺、黍の黍麺などは特有の歯ざわりや風味を特徴づける変わり面である。
 
 
 
● 切り干しはひなたの香り
 
切り干し大根の煮付けは、日本人の郷愁心をくすぐる素朴な食べものである。
大根を短冊形や細く線切りにして乾燥したもので、切り方によって繊切り干し、上切り干し、角切り、花丸の四型に大別される。
 
繊切りは長く細紐状に切ったもの、上きりは繊切りより少し太めに短く、角切りは短冊形、花丸は薄く輪切りにして、それぞれ干したものである。
 
東北地方には、切り餅のようにしたものを、藁や縄にからげて凍乾させた「凍大根(しみだいこん)」もある。
寒さの増す12月ごろから早春にかけてのものが最良とされる。
 
切り干し大根には、さまざまな知恵がいくつも潜んでいる。
まず第一は保存性。
乾燥することにより水分が少なくできるから、微生物の増殖が抑えられ、保存性が高まる。
このため、それでなくとも不足する冬場の繊維野菜として重宝される。
 
第二には何といっても栄養成分の濃縮にある。
生大根は水分と繊維ばかり(水分94%、糖度3%前後)で、消化剤としての効果以外、栄養成分としてはかえりみられないが、これを切干にすることにより、さまざまな栄養成分が顕著に高まる。
水分は、16〜17%に減る一方で、糖質が50〜60%にも増え、さらに無機質、とくにカルシウムとカリウムは大幅に高まり、ビタミン群も著しく増加する。
 
第三は、その食味にある。
乾燥することにより、特有の日向香という匂いが生じて素朴な感覚をます。
また特有の歯ざわりは、日本人を心からうれしがらせてくれる。
 
そして第四は、切り干し大根を材料にすれば、さまざまな料理ができることである
三杯酢に漬けた「はりはり漬け」、さっと茹でての「木の芽味噌和え」、そして惣菜用として、油揚げや揚げ豆腐と煮合わせるといった、この田舎料理の代表選手は、日本人を小躍りさせる。
ちょうどかぶるくらいのダシを入れて、弱火で軟らかくなるまで湯煮し、醤油、塩、酒などで淡味とする。
この場合、大根から出る甘味な煮汁で甘味は程よいから砂糖は使うに及ばないであろう。
 
日本には切り干し大根に似た感想野菜はほかにもある。
晴れた日の朝、丸ナスを洗ってヘタを除き、5ミリくらいの厚さに縦切りして、1枚ずつを筵(むしろ)に並べて、3〜四日日干ししてから缶などに入れ、湿気を防いで貯蔵する。
冬の野菜不足の折、水に戻して煮付けたり、味噌汁の具にされて喜ばれる。
またサツマイモを薄切りにして乾燥させると、甘味を大幅に上げることができるから、食用、菓子用、焼酎、アルコール、酢などの製造原料に使われる。
 
乾瓢(かんぴょう)も面白い。
夕顔の果肉を、薄く長くはぎとり、乾燥したもので、甘く淡味に煮付けたものは、巻き寿司や五目寿司に不可欠なものである。
また関東では、干し芋茎(ずいき)、関西では割菜(わりな)と呼ばれるサトイモの茎の乾物も、煮たり汁の実にして、捨てがたい素朴な味がある。
 
これらの切干野菜はには、共通して動脈硬化の防止や利尿、便秘、その他、効果のある成分が含まれているとの報告もあり、その意味でも、もっと食べたい食材である。
 
切干の 香にいてものの なつかしさ  (一透)
 
 
 
● 羊羹(ようかん)抄
 
千葉県成田市にある大手老舗の羊羹会社を見学する機会を得たおり、帰りにとてつもなく美味な製品をいただいた。
 
どっしりとした手ごたえ。
包んである竹の皮をはぐと、仲から眩しいほど色調が美しく、そして鏡のような光沢を持った羊羹が顔を出した。
握る包丁の手の感触もうれしく、茶の友としたが、その味わいや歯応えには、日本人の菓子への憧れが見事に込められている思いであった。
 
この甘味の菓子である羊羹のいわれには二説ある。
そのひとつは中国で古くからつくられていた羊肉の羹(あつもの)のことで、遣唐使によって日本に入り、宮廷や上流社会の料理に登場したものを指す。
雉羹(ちかん)、魚羹、羊羹、猪羹(ちょかん)、海老羹など鳥獣魚介の肉を蒸したものを汁に浮かせた料理。
 
もうひとつは江戸時代の学者が、中国の『金門歳節』という本から引き出した説で、そこは「羊肝?(ようかんこう)は紅豆白糖を以って餅となす」とあり、羊羹とは羊の肝(きも)のこと、?(こう)とは蒸し餅の類、紅豆は赤小豆のこと、白糖は白砂糖のことである。
 
すなわち「羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖で作った蒸し餅」のことで、獣肉食を忌む日本では「肝」ではよくないから、同音の「羹」のしたというものである。
ではなぜ「羊」の字も変えなかったのかという疑問が残るのは別として、とにかく羊羹の最初は中国にあった。
 
日本で初めて羊羹の字が見られるのは、南北朝〜室町初期に成立した『庭訓往来』で、この時すでに汁ものではなく蒸したものであった。
当時はヤマノイモや小豆の漉(こ)し粉、小麦粉、葛粉、糯粉(だふん)(糯米の粉)などを原料として、それぞれに甘味料を加えてこね、これを蒸したものであった。
 
当時、甘味料といえば甘葛(あまずら)で貴重品を使った砂糖を使ったものは特に砂糖羊羹と呼んだ。
このタイプの羊羹は蒸し羊羹で、今日では一般に練り餡にしてからつくるものが多いが、小豆生餡から直接作るものもある。
栗を形のままのせた栗蒸し羊羹、小豆の蜜煮の小倉蒸し羊羹、外郎(ういろう)などがある。
 
このように日本人は、大陸生まれの羊羹を、味も形も製法もすっかり変えてしまって、日本独特の菓子に生み出したが、その後は、この民族の持つ食に対する執念、憧れ、美的感覚などを織り込めながら、そこに得意の知恵を発揮して、羊羹をますます発展させていく。
 
鎌倉時代以降、茶道の発展を見るや、茶の点心(てんじん)として茶席に重要なものとなったのもその例で、その後、天正17年(1589)になって、京都伏見で練り羊羹の原型が創成され、江戸日本橋で寛政2年(1790)に、今日のような小豆餡と砂糖を用いた練り羊羹つくりだされると、羊羹は一気に大衆に広まった。
 
練り羊羹の製法は、まず寒天を水につけてよく膨張させてから水を切り、あらためて水を加えて、加熱しながら溶解する。
そこに砂糖を入れ、沸騰してから一度ろ過した後、生餡とともに加熱し、練りながら糖度70%ぐらいになるまで煮つめる。
これを型に流して固めて製品とするが、小豆の品種や品質、寒天や砂糖の質によって、風味、歯ごたえなどに、明確な差が出てくる。
 
この練り羊羹の出現は、日本人にさまざまな羊羹を生む知恵とヒントを与えた。
小豆の練り羊羹の中に粒小豆の蜜煮を混ぜた「小倉羊羹」・塩味をきかせた「塩羊羹」、黒糖を使った「大島羊羹」、栗の蜜煮を点在させた「栗羊羹」、果物では「柿羊羹」、そして夏の冷夏として人気の高い「水羊羹」。
ほかにもまだまだ多種あって、枚挙にいとまがない。
日本人は甘味文化にも、底知れぬ奥の深さを築いてきたのである。
 
 
 
● 豆腐にみる日本人の発想
 
豆腐がいったいいつごろできたものであるか、定かでない。
最初中国でできたことは間違いないが、大昔、淮南王(わいなんおう)が初めてつくったというのは俗説で、少なくとも6世紀の『斉民要術』には豆腐という字はない。
その後宋の『清異録』に初めて豆腐の字がみえるから、8〜9世紀の唐代中期ごろに発明されたものだとの説がある。
 
わが国では、それからしばらくした平安時代の寿永2年(1182)に奈良春日神社の記録に初めて豆腐の字がみえ、鎌倉時代の弘安3年(1280)には、日蓮の手紙に中に「すり豆腐」がでてくる。
室町時代に入ると、豆腐はかなり普及していたようで、さまざまな文献にひんぱんに登場してくる。
室町後期の『七十一番職人歌合』には女性の豆腐売りが描かれ、この頃すでに一般庶民の味になっていたことがうかがえる。
 
豆腐の誕生国・中国の大豆乳加工品が、豆腐以外に豆乳や乳腐(豆腐を酒や醤油につけて固めたもの)で発展したのに対し、わが国では、豆腐だけが日本人好みのものとして、独自に育て上げられ発展していった。
こうなれば日本人は、得意の知恵をさらに加速的に発揮して豆腐に注ぎ込み、気づいてみたら豆腐の一大食文化をつくりあげてしまっていた。
 
その知恵とはまず、豆腐がたんぱく質や脂質に富み、そのうえ吸収のよい実に優れた食品であることを知って、これを積極的に食卓に上らせたこと(栄養学的知恵)。
第二は豆腐の持つ淡白な持ち味(みかく)や美しい白い色(視覚)などを、さまざまな料理に生かしきっていること(調理額的知恵)。
そして第三は、豆腐を材料にして、いろいろな加工品や保存食をあみだしたこと(食品加工学的な知恵)など、感心させられるものばかりである。
 
江戸時代・天明2年(1782)の『豆腐百珍』には、豆腐の料理を壽常品26、通品10、佳品20、寄品19、妙品18、絶品7の6部門、百種あげており、その続編にも百種の料理法が述べられている。
 
それらの料理ひとつひとつは、豆腐の性状や持ち味をあらゆる角度から研究した実に理にかなった方法によって行われている。
豆腐というあの白くて軟らかい素朴な塊から、200種もの料理を、なんと200年も前にあみだした日本人の知恵には本当に驚かされる。
 
湯豆腐、冷奴、煮物、汁の実などは日常のものとして大いに食しながら、田楽、揚げ出し豆腐、焼き豆腐、煎り豆腐、がんもどき、凍豆腐などからも枝分かれ的に多くの料理を派生させ、それを心行くまで味わっているのであるから、日本人の舌は肥えるはずである。
 
ところで、『豆腐百珍』には今日ほとんど行われていない食法も出てくるから、新しい豆腐食品の開発には、参考となる部分が多い。
例えば続編の28番目に記されている「ろくじょう」というものは、今は京にわずかに残る六条豆腐のことだが、これなどは今日もっと復活させてみたいものである。
 
「俗に六条という。一挺の豆腐を8つほどに薄く切り、塩をまぶし、夏の炎天下に晒すなり。僧家では花かつお代わりに削りて用ゆ」とある。
豆腐を薄く切り、塩をまぶして日干しにして硬くしたもので、鰹節を削るときの要領で削ると削り節のようになり、これを「精進節」と呼んで、酢の物や吸いものの実、おひたしなどにかけて喜ばれた。
 
私は以前、この日干しした硬い豆腐をつくり、それを梅干を漬ける時にでる真紅の梅酢汁に1ヶ月ほど漬け込んでみたら、実に鮮やかな紅豆腐が得られた。
その色彩といい、味といい、誠に結構な珍味となって、ことのほか酒の肴に似合うものであった。

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001