あんな話 こんな話  94
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その7
 
第3章 微生物の巧みな応用  の2
 
 
● 濃い酒の使いみち
 
筆者は最近、約300年前に書かれた江戸時代の「本朝食鑑」(1965年)に記されている当時の日本酒造りを、そのまま再現してみたところ、できあがった酒は、今日のものとはあまりにも程遠い、驚くべき酒であった。
 
まず、成分の違いを比べてみよう。
今日の日本酒は、アルコール分16%前後、酸度(酸味)1.5ミリリットル、アミノ酸度(うま味)1.4ミリリットル、糖分(甘味)3〜4%。
これに対し、300年前の酒は、アルコール分17%、三度五ミリリットル、アミノ酸度6ミリリットル、糖分にいたっては、なんと18〜20%という驚くべき濃厚な酒が得られたのである。
 
こんなに甘味が強く、味の濃い酒など、今日ではとても飲めたものではない。
では、なぜ、当時はこういう酒をわざわざつくっていたのであろうか。
それにはどうやら2、3の巧妙な知恵が含まれている。
 
その第一が、酒は「飲む」ばかりのものとせず「食べる」ものともしていたこと。
当時日本では、砂糖の大半は輸入品であったから、大変に高価でそう簡単には手に入らなかった。
そのため、一般的な甘味料といえば、甘葛(あまずら)や干し柿の粉、干しイモの粉、水飴といった日本でつくり得るものの方が多かった。
 
中でも水飴は、麹菌を扱うことのできる日本人にとって得意なものであった。
蒸した米に麹菌を繁殖させて米麹をつくり、これに、油を加えて温かいところにおけば、一夜の後には甘酒ができる。
これをそのままにしておけば、発酵して酒になるが、水飴をつくるには、この甘酒を発酵させずに布でこし、その液を煮詰めれば出来上がる。
この水飴は菓子や佃煮のような保存用煮物に多く使われていた。
 
一方、酒にはアミノ酸といううま味成分と、上品な産物があるから、これを料理の隠し味とするのは、昔からの方法であった。
そこで、どうせ酒のうまみを料理の味付けに使うなら、その酒のうま味を多くすれば、うま味や酸味、香り付けだけでなく、料理にも甘味が付けられることを思いついた。
それが『本朝食鑑』の酒であり、飲んでも食べても良い酒であった。
米麹だけでつくりあげた強い甘味と、うま味を持った味醂は、この考え方からでた調味料である。
 
濃い酒を造った第二の理由は、最近、筆者が当時の飲酒記録などから明らかにしたところである。
それは、酒を水で薄めても、味を薄く感じさせない巧妙さである。
 
この時代の酒豪たちは『水鳥記(すいちょうき)』(慶安元年。大酒の飲みくらべ合戦)や『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』(元禄時代の尾張藩畳奉行・朝日定右衛門の日記)、その他多くの当時の著書などからもわかるように、一人が4、5升の酒を、さほどの苦痛もなく飲んでいたのである。
 
では、昔の人たちは現代人に比べなぜそのように強かったのか。
これは、長い間の疑問とされてきた。
 
大体、300年前のあのような濃い酒をガブガブ飲めることさえ不思議である。
そこで再現したこの酒に、水を加えてみて驚いた。
約4倍の水を加えても、酒が薄まってしまったという感覚はなく、イクラでもうまく飲める。
 
酒に甘味や酸味うま味などのボデー(酒の中にあって酒の味に幅をつける役目の成分)が多く存在するから、水で割っても、薄く感じないわけだ。
水を加えることにより、アルコール分は5〜6%ぐらいと低くなるから、あのように多量の酒を飲むことができたのだ。
水で薄めると量を増やすことができ、その上、低アルコール酒となるから、体にも負担が少なくなるという、「知恵の酒」であったのである。
 
なお余談だが、その時代の居酒屋では、良く「村さめ」という名の、評判の悪い酒が横行していた。
酒が水で薄められ、あまりの薄さから、飲んで村まで帰れば、もう醒(さ)めてしまった酒のことである。
 
だが、このような濃い酒を作れば、造り酒屋では適当に水で割り、問屋でも「少しぐらいいいだろう」とまた水を加え、「よし俺も!」と小売り屋も水を加えて酒量を増し、それを買ってきた居酒屋までも「みんな混ぜれば怖くない」とばかりに酒に水を入れるといった、うそのような話も昔はあったそうだ。
 
 
 
● 「あんパン」考
 
日本に来て間もない外国人が、ハンバーガ用にと、丸い形のパンを買って帰った。
さて台所で二つに割ってみたら、なんと中から餡が出てきてびっくりした、とは本当の話である。
パンの中に、餡やジャム、クリームなどを隠したようにそっと入れた、一見丸い形をしたパンなど、外国ではまったくお目にかかれぬから、間違ってしまったのだろう。
 
日本人が初めて、パンを知ったのは室町時代・天文年間(1532〜55)で、ポルトガル人による。
しかし「パン」としての名が文献に登場したのは、江戸時代・1715年の『和漢三才図会』である。
「蒸餅(じょうへい)とは、餡なしのまんじゅうのことで、オランダ人は、パンと呼んで常食している」とある。
ここで注意しなければならないのは「蒸餅」とあることで、これでは中国式の「饅頭(まんとう)」、すなわち蒸しものであったことになる。
 
本来、パンは蒸すものではなく、酵母で発酵させた後、焼いたものであるから、「蒸餅」をパンと同じものとみていたことは、当時のパンは中国の方法の影響をかなり受けたものであったようだ。
 
ところが、それから3年後の享保3年(1718)に出された『御前菓子秘伝抄』には、びっくりするようなパンの作り方が書かれている。
「小麦粉を甘酒でこね、それを適宜の形にしておくとふくれてくる。一晩ねかせてフルメントをつくる。これを、土を厚く塗りたてた釣鐘型のかまどに並べ、たきぎを燃やしながら焼く」という内容である。
 
フルメントとは、ポルトガル語のFermento、すなわち発酵のことである。
まさに、蒸餅という中国系の蒸しパンに対して、ヨーロッパ系の発酵パンがここに述べられていることは、実に興味深い。
そして、何といっても貴重なのは、甘酒を加えている点であって、これは相当な知恵の証でもある。
 
甘酒は米麹の糖化液で、これには極めて旺盛に酵母が増殖し、発酵する。
酵母が十分いて、発酵が理想的にすすめば、焼き上げてからの風味は大変良く、そのうえ甘味も付与できるから、美味なパンができあがったはずである。
 
ただし江戸時代にこのような文献があっても、当時、ヨーロッパ系のパンが焼かれていたという証拠は見つかっていない。
だが、甘酒という日本独特の発酵助材を使うことや、日本に見られるかまどを使うなど、かなり具体的な記述であるので、実際には一部で焼かれていたのであろう。
小麦粉に酒種を加え、発酵させた酒饅頭との折衷品だったのかもしれない。
 
さてあんパンの話に戻ろう。
あんぱんを初めてつくったのは、明治9年、木村屋初代の木村安兵衛で、米麹を使ったパンに、餡を入れたのが最初といわれる。
その後、次第に日本人の間に広まっていき、明治末期には、全国で一日に数十万個ものあんパンが売れるという大当たりの商品となった。
 
このあんパンの出現は、これまでの日本人の粒食主食型(米職)一辺倒に、うどんや蕎麦に次ぐ粉食の導入という点で、日本食文化史上、意義あることであった。
ちょうど、明治以前になかった牛肉食を、すき焼きという形で根をおろさせたのとよく似ており、パン食という異文化の主食を、日本人にぐっと近づけたのは、このあんパンのおかげである。
 
あんぱんという純日本型パンが、日本人に人気を博したのは、餡ものといえば、大概はおやつであるものが、パンを土台にすれば、食事的要素が入ってきて即席性を持ち、また軟らかく、温かく、そして甘く、手にちょうど納まる型などが、この民族にピッタリだったためなのだろう。
 
 
 
● 日本人による日本人のための納豆
 
大豆を原料とした日本独特の発酵食品といえば、味噌と醤油はその代表だが、これに次いで著名なのが納豆である。
 
だが、納豆といっても正確に言えばこの日本にはまったくタイプの異なる二種類の納豆があって、そのひとつが寺納豆と呼ばれる「塩辛納豆」、他方は私たちが日常ご飯にかけて食べるあの「糸引き納豆」である。
 
塩辛く、糸を引かぬ納豆は、糸引き納豆よりもずっと古い歴史を持ち、その原型は大陸から伝えられたとされる。
奈良時代、すでに宮内省の大膳職でつくっていた大豆の塩漬け発酵食の「?(くき)」は、この納豆のことである。
京都では大徳寺、天竜寺といった寺院つくることが多かったから、寺納豆とも呼ばれ、後に浜名湖畔の大徳寺でも作られ、それが名物化したから、浜納豆としても名がとおった。
 
その製法は、煮た大豆に麹菌を繁殖させた大豆麹をつくり、これを塩水に浸して3〜4ヶ月放置し、主として酵母と乳酸菌で発酵させた後、これを乾燥したものである。
知恵者の日本人はこの黒くて、そのうえ奥行き深い風味物を理にかなった事由から飯のおかずや酒の肴(さかな)にした。
 
第一にこの寺納豆の一粒一粒には、驚くほどのタンパク質があって、栄養豊富な自然食品であるからデンプン主食型の日本人の食卓には、栄養のバランスをとるのに最も適するもののひとつであった。
 
第二は味が極めて濃いから、2、3粒という少量でも十分に飯のおかずとして役立つことができ、質素な日本人の食生活に重宝されたことである。
麹カビ、乳酸菌、酵母という三大有用微生物での発酵物であるから、香味に不足があるはずはない。
 
そして第三は保存が利くから、即席の副食物としてもまさに理想のものであった。
 
糸引き納豆は、寺納豆とはまったく製法の異なる日本人の発明物である。
大豆を煮て、これを稲藁(いなわら)の苞(つと)に詰めて保温すると、藁の中に生息していた納豆菌が大豆上で猛烈に繁殖し、あの特有の匂いを持ったヌラヌラの納豆ができあがる。
今から1000年も前の驚くべき知恵である。
今日では藁に包むことは少なく、培養した納豆菌を添加して大規模につくられている。
 
糸引き納豆の発明にも、日本人の目に見えない日本人の知恵と計算があった。
煮ただけの納豆に比べ、納豆菌の繁殖によって、糸引き納豆にはビタミンB12が5〜10倍も増加し、ほかにB1、B2、ニコチン酸などのビタミン類も大幅に増えるなど、豊富なタンパク質とともに栄養バランスは理想に近いものとなる。
 
さらに煮た大豆と比べると、納豆の方がはるかに消化と吸収が速やかで、それでなくとも粗食であった日本人には格好の滋養食品となり、多くの日本人から絶大の愛され方をしてきた。
 
糸引き納豆が日本人の食事にぴったり合致したいまひとつの理由は、日本人の食態とよく符合したからである。
 
日本人は、主食の米をそのまま粒の形で炊いて食べる粒食主食型民族であるのに対し、西欧のように麦を粉にしてから焼いて食べる民族は粉食主食型である。
この食体系からいくと、納豆は完全なる粒食型食品であって、粒食民族日本人の作り出した傑作のひとつということができる。
 
その粒食民族の主食である米に、やはり粒食の副食物である納豆をかけて食べるのであるから、何らの抵抗もなく、理にかなった食味が味わえるわけである。
そのうえ、質素で早飯食いの日本人には、この取り合わせはうってつけであって、粒飯に納豆をかけた食べるとき、ヌルヌルのために良くかまずに飲み込んでも、そう心配はない。
糸引き納豆にはタンパク質やデンプンを分解するなどの消化酵素が豊富に含まれているから、好都合にできているのである。
 
 
 
● 熟(じゅく)して熟(う)れる
 
10月1日は「日本酒の日」である。
なぜこの日が「日本酒の日」かというと12支の第12番目の酉(とり)に由来する。
この「酉」という字は、口の細い酒壺を描いた象形文字で、酒に関する字として用いられるため、その酉の月の最初の日を日本酒の日に決めたのである。
また、冬に出来上がった酒が、真夏の暑さの中でも、涼しい酒蔵で静かにじっくりと夏を越して熟成し、風格ある古酒となり、それが出回る最盛期も、ちょうどこのころである。
 
白玉の歯にしみ通る秋の夜の酒は静かにのむべかりけり
 
牧水の歌にも象徴されるように、日本酒は10月に入ると、さらにうまくなる季節を迎える。
 
この数ヶ月の熟成期間中に、酒は大きく変化する。
新酒特有の硬さは軟らかさに変わり、荒々しかった舌当たりは丸く濃醇さを増し、麹の匂いは落ち着いた芳香に変わり、搾りたての水のような色も、琥珀の色を増す。
日本酒にとって、この熟成こそ大切な成長の期間なのである。
 
さて、日本には、この日本酒の例のみならず、長期間熟成させて至上の風味を製品に付与する嗜好物が驚くほど多い。
多分、世界の国々の中でも、わが国は、その筆頭といっても良いだろう。
 
もその代表的なもののひとつで、仕込から発酵を経て、熟成させるまでには1年以上を要する。
この期間中、醤油は香味を一段と丸くしながら色を濃くし、風格を増していく。
味噌にいたってはなんと3年もの間、じっくりと熟成を行わせる商品もある程だ。
 
ほかに米酢、味醂、乙類焼酎、泡盛、鰹節、塩魚汁(しょっつる)、漬物、鮒鮓(ふなずし)のような熟鮓(なれずし)、山葵(わさび)漬け、梅干し、塩蔵品なども、数ヶ月から数年間、じっくりと寝かせて製品の価値を高めていく。
 
ところで食品を熟成させるとは「熟させて風味が十分できあがること」。
すなわち「なれ」させることだが、その「なれ」が導かれるのは、一般的には熟成期間中に物理化学的条件が加わることによる。
 
例えば、ブランデーやウイスキーは、樽の中で長期間保管することのより、わずかに空気と接触しながら、一定の温度が加わる物理条件と、酒そのものが樽材と反応して、さまざまな香りや色を樽から引き出す化学条件が相まって、馥郁(ふくいく)たる酒を誕生させる。
またチョコレートやキャンデーは、加熱するだけで熟成反応が著しく進み、風味が一段と落ち着いたものになる。
 
ところが、日本の多くの嗜好食品の熟成は、その大半が酵素の作用による熟成や、微生物の活動による熟成といった、生物化学的条件が加わって進行することに一大特徴をみる。
 
たとえば、清酒や味醂は、米麹由来の酵素によって熟成は大いに進むし、鰹節や塩辛、塩魚汁、古漬けなども、微生物の酵素や魚の消化酵素によって熟成が進む。
また醤油や味噌、寺納豆、鮒鮓のような熟鮓、各種塩蔵品などは、微生物の活動そのものにじっくりと熟成をゆだねている。
 
このように日本人は、昔から美味な食べものや飲みものをつくる手段の一つとして「熟成」させることを重要な手法として、大切な工程のひとつに加えた。
そしてそこに見ることの不可能な微生物や酵素の力を応用して、極めて緻密で複雑な「なれ」のメカニズムを巧みに実践する高度な知恵を持った民族なのである。
 
 
 
● 熟鮓(なれずし)
 
「すし」は、粒食民族日本人の代表的嗜好食品のひとつである。
このすしの字に「鮓」と「鮨」とが当てられている。
街で見る「寿司」の字は縁起をかついだあて字だ。
 
この両者の使い分けは昔から明瞭ではなく『倭名鈔(わめいしょう)』(937年)には鮨、ほぼ同じ平安時代の『延喜式』には鮓ででている。
有力な説では、鮓は魚と米で作った熟鮓(馴れ鮓とも書く)のこと。
鮨は魚と塩でつくった塩辛のことだという。
 
さてこの日本には今日、大別すれば二種類のすしがある。
そのひとつは極めて大昔からの「熟鮓」。
他方はそれに比べればたいそう新しい「早ずし」である。
ここでは熟鮓について紹介する。
 
熟鮓とは、魚を飯(めし)とともに重石で圧し、よく熟れさせたすしのことで、その原型は中国や東南アジアに古くからあったものである。
これがわが国に伝わってからは、例によって、日本人の知恵が随所に入り、日本独自の塾鮓が作り上げられてきた。
 
日本の熟鮓の最も古い方法のひとつは、和歌山県の新宮市、海草郡、有田郡一帯に見られる鮓で、材料の魚には鮎、アジ、カマス、鯖などが用いられる。
 
まず、腹を開けて内容物をとった後、塩をを詰めて桶に詰め込む。
1ヵ月後、これを洗い上げてから、今度は腹に飯を詰め、竹の葉に包んで鮓桶に漬け直し、圧石をかけて二ヶ月間も発酵させたものである。
 
琵琶湖を中心とした鮒鮓は、4〜5月ごろの産卵前の源五郎鮒を塩に漬け、7月土用になったら鮓桶に飯と鮒とを交互に漬け込み、強く重石をして正月ごろから食する。
 
青森県や秋田県のハタハタ鮓は、ハタハタと飯、米麹での熟鮓、石川県の蕪鮓(かぶらずし)はブリと蕪、飯、米麹での塾鮓である。
全国にはこれらのほか、鰯、鰊、鯖、ハモ、ボラ、アジ、ウグイ、鰻、鮭、マス、ハヤなどを材料とした塾鮓がたくさんある。
 
このようなさまざまな熟鮓には、極めて深い知恵がある。
それは保存性にあり、この食べものこそ、日本で最古の保存食品のひとつなのである。
魚を飯や麹などと漬け込んでいる間、乳酸菌は飯に作用し、発酵して乳酸をつくり、酸味が強くなって、水素イオン濃度(pH)を下げるから防腐効果を持つことになる。
 
この乳酸発酵の際、魚のタンパク質はアミノ酸に変化するから、うま味が強まり、特有の魚臭は、乳酸発酵の初期に活躍したプロピオン酸菌や酪酸菌の生成した特異な匂いに打ち消されてなくなってしまう。
そして、発酵することによって熟鮓には豊富なビタミン類が存在することになる。
 
また、この鮓を食べることにより、そこに多量に生息する腸内作用に良い細菌類が体内に入り、腸内にすみついて、異常発酵菌や腐敗菌の侵入を阻止したり、そこで各種のビタミンをつくるから、人はそれを吸収して、栄養バランスをも補うことができたのである。
従って熟鮓は、食味を楽しみ、保存食品として重宝し、自然の滋養食品としても珍重したという、大変に価値の高い食品なのである。
 
鮓になる 間を配る 枕哉
 
この一茶の歌には、鮓が熟れるまで寝転んで待つといった、のどかな風情がよく出ている。
 
 
 
 
 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001