あんな話 こんな話  99
 
小泉武夫著  サンケイ出版
『知恵の食事学』
より その12
 
第5章 食風習・味覚文化の知恵 の1
 
● 腐敗を抑えるユニークな知恵
 
自然界には多種多様の微生物が生息しており、中には空気や水といった栄養源のほとんどないところにも、目に見えぬ数多くの生物が生きている。
 
それらの微生物群の中には、酒類や発酵乳製品、化学調味料のような嗜好品、さらに抗生物質やビタミンのような医薬品など、人間にすばらしい恵み物を与えてくれるものもあれば、貴重な食べ物を腐らせたり、病気を引き起こすたちの悪いものもあって、実に複雑である。
 
日本人は昔から、有用な微生物はそれを積極的に利用して、すばらしい嗜好品をつくってきたが、また一方では、それらの嗜好品や食べ物を腐らせてしまう微生物に対しても、さまざまな手段によりこれを抑える知恵もあみだしてきた。
 
食物を塩に漬け込んだ塩蔵品や、太陽や火で乾燥した乾物もあれば、世界中どんな民族でも持った手法であるのに、日本人はそれ以外の方法でも独自の保存法をあみだしてきた。
 
微生物を使って作り出した味噌や醤油に、野菜や昆布などを漬ける日本伝統の漬け物は、食品を保存するだけでなく、保存期間中に風味を濃くすることができるから、一石二鳥であり、塩漬け後、乳酸菌によって発酵させた古漬けの類は、作られた乳酸が腐敗菌の侵入をいつまでも防ぐとともに特有の酸味をつけることになる。
 
また、くさやの例では、魚を単に干物として保存するだけではなく、くさや汁(塩水に何回もつけた塩汁を発酵させ、長期間熟成させたもの)に浸してから干すことにより、素乾(すぼし)の干物に比べて、保存性がいっそう高まり、味の変質を防ぐ一方、特有の風味を付けることができる。
 
さて、これらの例に示した商品の保存方法は、何らかな形で微生物を介在させた巧妙な手法であって「微生物をもって微生物を制す」知恵である。
 
一方、生活の知恵から生まれたユニークな防風法として木灰の使用がある。
ジャガイモを畑の中に埋めて芽を出させるとき、切り口に木灰をタップリ塗(まぶし)てから埋めるのは、灰のアルカリ性が種イモの切り口の消毒に役立ち、土壌微生物からの汚染を防ぐからである。
 
鳴門名産の灰干しわかめが、長期間新鮮さを保って保存に耐えるのも、こうした灰の作用のためである。
また、酒に木灰を入れてつくった悪持酒(あくもちざく)は、酒に特有の赤い色をつける目的のほかに、灰の持つ防腐効果を利用して、製品となってからの腐敗を防ぐためでもある。
 
梅干しを飯のおかずにするだけでなく、その殺菌効果を利用して弁当やおむすびの保存性を高めたのも、また、蕗(ふき)の葉や柿の葉、笹の葉のような植物の葉に、殺菌作用(ポリフェノール成分がその主な有効成分である)のことを体験的に知ると、すぐにこれで食べものを包み、葉の香りをそれに移しながら、その保存力を効かせて持ち歩いたのも、日本人である。
 
このように、わが民族が考え出した食べものの保存法や殺菌法は、単に有害微生物の侵入を阻止するという目的だけでなく、その目的を主としながら、その食べ物をよりよい風味にすることを狙った、きわめて巧妙な手法であることがよくわかる。
 
 
 
● 冷物(ひやしもの)考
 
暑くなると冷たいものを摂りたくなるのは、人間の自然な欲求である。
夏の日本には昔から「冷物」料理があって、今日でも暑い日の食卓に風情を味わわせてくれる。
 
元禄時代の『酌の次第(しゃくのしだい)』に、冷物は「夏の瓜など、また何にても錫(すず)の鉢、あるいは茶碗の物などに入れて、冷やして候て出すをいふなり」とある。
昔から冷物は、夏を彩る風物だったのだろう。
 
じめじめした蒸し暑さの続いた梅雨が明けると、今度はカンカン照りの真夏が来る日本では、他の国に類をみないほど多種にわたって、冷たい料理がみられるのは当然なのである。
 
「冷汁(ひやしじる)」は、味噌汁やすまし汁などを、その器とともに冷やしたものをさすが、正統なものは鳥肉や鯛をあぶり、細末にしたものを煮抜き仕立てにし、生姜、茗荷、浅葱(あさつき)、焼味噌、すり胡麻などを加えてから冷やしたという。
 
「水貝」は、生きた鮑〈あわび〉の肉の正面に塩を振り、それを束子〈たわし)で力強くこすると、肉が締まって、ますます硬くなる。
そこで、貝から身をはがし、ワタは別にとって、肉の方だけなお塩もみしてよく締め、さっと水洗いしたあと、賽(さい)の目に角切りし、キュウリ、桜桃とともに冷水に入れ、山葵(わさび)しょうゆで食する。
コリコリとした歯ごたえは、まさに夏料理ならではの涼味あふれるものである。
 
ご存知「冷奴(ひややこ)」は、冷水に器を入れ、これに氷の破片を浮かせて、分角の方形に切った豆腐を沈めたもので、付けの生醤油には少量の酒を割り、花鰹を添え、薬味に刻みネギ、おろし生姜、青紫蘇、七味唐辛子などを添えてうれしい。
 
「冷麦(ひやむぎ)」は、小麦粉を原料として、うどんと同じ工程でつくられるが、うどんより細い、熱麦(あつむぎ)〈麦とは面の意味〉に対し、氷などを浮かして冷やして食べるので、この名がある。
 
一方、「冷素麺(ひやしそうめん)」は、小麦粉を塩水でこね、これをごま油や菜種油をつけてさらに細く引き延ばし、日光に乾かしたもので、やはり茹でたものを冷水にひたし、冷たい汁をつけて食べる。
 
暑い夏は体の消耗が激しいから、甘いもので疲れをいやそうとする冷菓も多い。
「水羊羹(みずようかん)」は寒天の量を減らした涼味豊かな菓子であり、糯米でつくった「白玉(しらたま)」は、冷水や氷を配して砂糖をかけてよく、「茹で小豆」や「蜜豆」も冷やして、たいそう喜ばれる。
 
冷たい水に離したものを、細く突き出して酢醤油で食べる「心太(ところてん)」も涼味をよぶというものである。
 
日本で、このように冷たい食べ物が、昔から実に多くあるのは、何といっても、世界有数の水の良い国だったからである。
 
地下深く掘った井戸水は、汲み上げられると、夏でも冷えびえとしていて、冷物を数多く生むのに格好だったからにほかならない。
日本の文化というものの大概は、他国に比べて、水との関わりがたいそう深いのが特徴で、食の文化において、その関係は一段と深まる。
 
酒や茶などのあらゆる嗜好食品や料理に至るまで、その善しあしは水によって決まる、といわれるほどである。
良い水を持った民族ほど、高度できめ細かい食の文化を持つのは、当然のことなのである。
 
光るが如く清澄し、冷たくそして美味な水を使って、夏に冷物、冬に暖物(あたたかもの)を味わってきた日本人は、それらの料理を通して、暑さや寒さを良しとしながら、そこに風情をはさんで通りぬけてきたのである。
 
 
 
● 世界に冠たる日本の水
 
ギリシアの哲学者ターレスは、「水は宇宙の根源であり、万物は水から作られた究極には再び水にもどる」という名言を残した。
 
自然現象の大半は水なしには生じないのと同じように、生命もまたすべてが水と関係し、人間にとって、水は不可欠必須の物質である。
2ヶ月も断食して生存した例はあっても、2日と水を飲まなかったら、その生命さえ危ぶまれるものである。
 
人間の体重の60〜65%が水分からなっていることから考えても、水はまさに人間にとっての命綱なのである。
 
さて、その水はといえばわが国は昔から山紫水明の地といわれ、世界有数の水の良い国である。
水を沸かしもせずに、そのままの生水が飲める国など世界広しといえども、そう多くはない。
 
日本の地下水がなぜ良質であるのか。
それは、わが国は世界の年間平均降水量の1.8倍もあり、その豊富な雨水や雪どけ水は杉、松、櫟(くぬぎ)などの林の下に広がる豊かな土地に滲み込んで、常時安定して湧水していることにある。
そして、山の土と地下の岩石の状況は、うまい水をつくりだすのにちょうどよい舞台ともなっているためである。
 
水が良いから、日本の食の文化にはそれを生かした巧みさが全面に出ている。
主食の米を炊くこと自体が水であり、副食の味噌汁も、そしてお茶も水。
 
いくらササニシキといっても、極上の味噌を使っても、とびきりの玉露にしても、水がダメならすべてがまずくなってしまう。
このように、水は口に入るものの基礎であるから、水がよければうまくなるのは当然なのである。
 
その最も良い例が日本料理と日本酒。
特に日本酒の場合、酒造りが適する水には鉄が0.05pm以上含まれていただけで、もう使いものにはならない。
何と1億分の5という極超微量の鉄の存在も許さないこの厳しさ。
 
この存在量をわかりやすく説明すると、東京―大阪間の新幹線のレールの上にウズラの卵が1個のっているといった微量さである。
もし鉄がこれ以上あると、麹から由来した着色前駆対と反応して、たちまち赤褐色の色素をつくり、市場性を失わせてしまう。
 
このような水は、世界中探してもそうあるものではなく、日本酒は水の良い日本だけにはぐくまれてきた民族の酒なのである。
 
水をやわらかくするために汲みためた水を「枯らし水」、酒を薄めるとき使う水は「割り水」、仕込みの水を「種水(たねみず)」などと称する用語は、まさしく良い水を知りつくしてきた日本独特の表現の仕方である。
 
水の言葉といえば、辞書を引いて頭に水の字がつくものを拾ってみただけでも「水かけ論」、「水入らず」、「水を差す」、「水臭い」、「水心」、「水商売」、「水を向ける」、「水明かり」など枚挙にいとまがない。
このことからも日本人がその長い歴史の中で以下に水と密着して生きてきたかがよくわかる。
 
江戸時代の儒者、貝原益軒は『養生訓』の中で、「水は人の天性を左右するものであるから自分の飲む水をよく選べ。それは甘い水を選ぶことである」と訓じている。
飲む水によって、その人の性質まで変わるぞと、実に鋭い訓文を残している。
 
その益軒ほどの人が「水は甘いものを選べ」というのであるから、これは深い意味を持つ。
それはよい水には、口当たりが丸く、そして、甘く感じるものが多いからである。
山の湧き水に似ているが、土臭さがなく、かといって、雨水のようにフニャフニャというものでもない水。
それが名水の神秘なのである。
 
そして世界の数多い民族の中で、水の味覚を「甘い」とか「丸い」とか、賞味する民族は、おそらく日本人だけではなかろうか。
 
稲は水田で水にはぐくまれて米となり、それが良い水で炊かれて飯になる。
日本料理が生まれ、茶道ができ、日本酒、味噌、醤油がつくられ、鮎が清流に泳ぎ、沢には山葵が育つ。
これが水の国日本なのである。
 
 
 
● 音まで食べる日本人
 
食べたり飲んだりする時、口で音をたてるのは行儀が悪い、とさんざん教え込まれたものである。
 
しかし、他の国と違い、日本には音がなくては、味が半減してしまう食べ物が実に多い。
世界のほとんどの料理は、口(味)と目(色)と鼻(匂い)とでその風味を味わうが、日本の料理にはいまひとつ、耳(音)で味わう味覚がある。
 
まず、麺類。その種類を多さを見ても、まさに音を味わう味覚の豊富さがわかる。
音なしで、しずしずと食べる麺など、決してうまくないから。みんなが音を立てて蕎麦、うどん、冷麦、素麺を味わう。
 
ごま塩、焼き海苔、塩昆布、味噌漬け、佃煮、塩鮭、鯛、タラコ、うなぎ、かき餅、霰と繰れば茶漬けに決まっている。
この簡単明瞭、かつ経済的な庶民の味を、気取って音なしで食べてもうまくない。
サラサラ音とともに流し込んでこそ、お茶漬けの醍醐味が味わえるというものである。
 
音を食べる代表的な食べ物に漬け物がある。
沢庵、ラッキョウ、キュウリ、瓜、広島菜、野沢菜などから発する「カリカリ」「シャリシャリ」「パリパリ」という音は、漬け物の種類によって、さまざまな変化があるから、大いに楽しめる。
干し大根を刻んで三杯酢と醤油に漬けた「はりはり漬け」は、かむ時の意感から生じた名称でさえある。
 
水の中からも音の出るものを探し求めて、魚の卵に到達した。
鰊(にしん)の卵、数の子が口中に跳ねる快い音は、煮付けたり、和えたりして実に良い。
味付けしたものをすしで握ると、刺身や生うになど、口当たりのなめらかなほかの大半のすしダネにない音と味が楽しめる。
 
また、卵を腹にタップリ抱えたハタハタは、焼いても鍋にしても、冬の東北の風物詩だが、口の中ではじける「プツン、プツン」という音は、この魚をいっそう美味なものにしてくれる。
 
煎餅や霰、かき餅も快い音を出す。
関東の塩煎餅、醤油煎餅の「カルッ!」とか「パリッ!」といった乾いた音、南部煎餅や京都八橋、卵煎餅、味噌煎餅、瓦煎餅のような「サクッ!」といった軽い音。
ここにも耳で感じる味がある。
 
食べものだけでなく、日本の料理には、下ごしらえの時にまで食欲をそそらせる音がある。
まな板の上で生の大根を「サクッ!」と切る音、にんじんやごぼうをささがきにする音、鰹節を「シヤッ!シヤッ!」と削る音、餅つきの杵の音、大豆を焙烙で炒る音、味噌や牛蒡を擂鉢で「ゴリゴリ」する音、徳利に酒を入れるときの「トクトク」という音。
 
このように、日本人は音の味覚をも味わうほど味に対して繊細な感覚を持っている。
だが、その音に賞味も、最近ではだんだん日本人から遠ざかっていくような気がしてならない。
 
往時に比べれば煎餅の需要は低下の一途をたどり、若者から漬物が遠ざかり、魚卵は200カイリ問題や乱獲がたたって求めにくくなり、鰹節を削る日本人もほとんどいなくなってしまった。
なんとなくさびしい気がしてならず、行儀の良し悪しは別として、他人に迷惑のかからぬ程度に、たまには思う存分、音の味覚を味わうべきかもしれない。

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001