■ 野菜・果物と健康 (139)
 
農薬から見える日本の食卓
「踊る食の安全」
松永和紀 著  家の光刊   その6
 
 
第4章 農薬は環境破壊なのか?
 
1、ドリン剤――この負の遺産
 
第3章で、農家が自分たちの仕事と健康を守るため減農薬に努めていることを紹介しました。
さらに農薬を無駄に使ってはいけないもう一つの理由として、環境への影響があります。
 
第1章で取り上げたレイチェル・カーソンの指摘を受け、環境残留性の強い農薬は使用禁止となりましたが、ほかにも懸念されているものがあり、国による規制も、より生態系への影響が小さくなるように精密に検討する方向にあります。
 
この章では、環境への影響という点から、問題と解決手段を考えていきましょう。
 
かつて使われていた農薬の中に「ドリン剤」という有機塩素系殺虫剤があります。
ディルドリン、アルドリン、エルドリンの3種があり、1954年に登録され、年間30トン以上が野菜などに使われました。
しかし、毒性が強いうえ土壌残留性が極めて高く、75年には登録が失効しました。
 
ところが、このドリン剤がいまだに野菜から検出されるのです。
東京都農業試験所の橋本良子さんが2005年、「日本農業学会誌」30巻4号で発表した論文によると、東京都内814箇所の土壌のうち85試料からデルドリンが検出されました(アルドリンは、環境中ですぐにディルドリンに変化するため、残留するのはディルドリンです)。
濃度は0.01〜2.6ppmでした。
また都内で生産されたキュウリ330件を検査したところ、12試料からキュウリの残留基準(0,02ppm)を超えるディルドリンが検出されました。
最もディルドリン濃度が高いものは、0.1ppmmもありました。
 
「無登録なのに農家はまだドリン剤を使っているのか」と早合点しないで下さい。
ドリン剤は世界的に見ても使用が禁止されているため、新たに入手は困難です。
したがって今もその物質が検出されるのは、30年前まで使われていたドリン剤が土壌に残っているためなのです。
 
化学物質の分解しやすさは、量が半分になる時間の長さ(半減期)で表します。
現在使われている農薬の多くは、半減期が10日以内です。
ところが、ディルドリンの土壌中の半減期は約1年なのです。
つまりもとの量の100分の1になるのに約20年かかります。
現在の農薬分析は非常に能力が高く、100万分の1ミリグラム程度の濃度は十分にはかかれます。
そのため、ディルドリンはまだ検出されるのです。
 
また、キュウリが問題になるのはキュウリがディルドリンを吸収しやすいためです。
ほかの作物を植えても、キュウリのようにディルドリンを吸収するわけではなく、基準を超えることはありません。
ただし、なぜキュウリが特異的にディルドリンを吸収するのか、そのメカニズムはまだわかっていません。
 
このため、東京都は土壌を分析し、ディルドリンの濃度が高い農地の場合には、キュウリを植えず転作するように促しています。
都やJAもキュウリの検査を頻繁に行って濃度の高いキュウリが市場に出回らないように努めています。
 
同様のことは、山形県など他産地でも起きており、各自治体が東京都と同じような対策を講じています。
 
念のため付け加えれば、ディルドリンの残留基準を多少超えたキュウリを食べても、健康への害はまず考えられません。
第2章で説明したとおり、残留基準は各食品に設定されており、キュウリを食べたからといって、ディルドリンの1日許容摂取量を越えることはありません。
ディルドリンは、キュウリ以外から検出されることはまれなので、心配しなくても大丈夫です。
 
しかし、過去の誤った化学物質の使用が、長期に人や環境に影響を及ぼすことを、ディルドリンは如実に示しているといえるでしょう。
 
 
 
 
2、ダイオキシンは農薬由来だった
 
現在環境中に残っているダイオキシンの多くが、昔使われた農薬由来であることをご存知ですか?
これも、農薬の「負の遺産」といえるでしょう。
 
ダイオキシンは、化学物質の中で最強の猛毒物質といわれ、がんを引き起こすなどさまざまな毒性が確認されています。
ベトナム戦争で米軍が散布した枯葉剤にも不純物として含まれていたために、南ベトナムの住民に先天的な異常がある子供が多く生まれたといわれています。
 
1997年ころ、ごみ焼却時に発生するとして社会問題化し、旧厚生省はダイオキシンの85%が生活系のごみ焼却炉から排出されていると発表、ダイオキシンが発生しない焼却炉の整備を決めました。
 
また、99年にはテレビ朝日のニュース番組「ニュース・ステーション」が、ごみ焼却場の乱立していた埼玉県所沢市の農作物を調査、民間の研究機関の分析結果を基に「所沢産野菜が高濃度のダイオキシンに汚染されている」と報じ、ホウレン草が暴落する騒ぎとなりました。
(この件はその後、ダイオキシン濃度が高かったのは野菜ではなくお茶だったことが判明し、生産者がテレビ朝日を裁判に訴えました。
1、2審は生産者の損害賠償請求などを退けましたが、最高裁が破棄し、東京高裁に差し戻しました。
結局、2004年にテレビ朝日が、農家に謝罪し、和解金1000万円を支払うことで和解が成立しました)。
 
しかし今では、環境中にあるダイオキシンの発生源はごみ焼却場だけではなく、昔使われた農薬も原因であることがわかっています。
中西準子・横浜国立大学教授(現産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センター長)らの研究で明らかとなりました。
 
中西さんが書いた『環境リスク学 不安の海の羅針盤』(日本評論社)によれば、中西さんらは90年代に、東京湾や宍道湖、畑や水田などに堆積している土を筒で取り、ダイオキシンを分析しました。
筒で採取した土を輪切りに薄く切ってそれぞれ分析すれば、何年ごろの土にダイオキシンがどの程度の量含まれていたかがわかります。
 
その結果、水田除草剤PCP(ペンタクロロフェノール)とCNP(クロロニトロフェン)の使用量の経年変化とダイオキシンの量の推移がかなり一致していることが判明しました。
中西さんらは、60年代のダイオキシンはPCPに、75年ころのダイオキシンはCNPに含まれていたもので、80年代のダイオキシンはごみ焼却炉に由来しているものではないか、と考えました。
 
ダイオキシンは、意図して作られた成分として農薬に含まれているわけではありません。
化学物質を有機合成する段階で、どうしても微量のダイオキシンが合成され不純物として含まれてしまうのです。
60、70年代は、ダイオキシンは重視されていなかったので、そのまま農薬とともに環境中に広がったのではないか、と中西さんらは考えました。
 
ただし、量の相関があるだけでは、「ダイオキシンの蓄積の主犯は農薬だ」と断定することはできません。
とりわけ、CNPのデータには矛盾がありました。
というのもダイオキシンには有害なタイプと無害なものがあり、中西さんらが、販売されているCNPを分析したところ、含まれていたのは無害なタイプだったのです。
一方、水田に高濃度に蓄積していたのは有害なダイオキシンでした。
単純に考えれば、水田のダイオキシンをCNPのせいだとはいえません。
 
そこで中西さんらは「過去のCNPは、有害なダイオキシン濃度が現在の製品よりもずっと高く、企業が製造方法を変えた結果、ほとんど含まれなくなった」という仮説を立て、過去のCNPのダイオキシン濃度を調べてみようと思い立ちました。
有害なダイオキシンの濃度が高ければ、直接的な証拠となります。
 
ところが、農薬企業や農業関連の研究所は協力してくれません。
そこで中西さんらは農家を尋ね、農家にあった古い農薬、64年制のPCPと75年制のCNPをもらってきて分析したのです。
 
その結果、PCPとCNPの両方から、有害なダイオキシンが高濃度で検出されました。
中西さんらは、人間の体にはダイオキシンがあり、それらのかなりの部分は農薬起源のダイオキシンで、ごみ焼却場からの新規の排出の割合は小さいと結論付け、そのことを1999年1月に発表しました。
 
この発表は衝撃的でした。
中西さんによれば、当時、CNPの製造企業の担当者は学会で「告訴する」と息巻き、農水省の職員も市民団体の懇談会で、「あのデータは信用できない」と発言したそうです。
そこで、中西さんは物置から見つけ出した農薬の袋の写真を、インターネットで公開しました。
すると、農水省の反論は止まったそうです。
 
中西さんの発表から半年後、CNPの製造企業は記者会見を開き、CNPにダイオキシンが含まれていたことを発表しました。
中西さんは、農薬として散布されていたダイオキシンの3分の1はまだ水田に残っていると推定しています。
 
この事件の農業業界への影響は、かなり大きかったように私には思えます。
企業が、学会という公の場で「告訴する」と発言し、しばらくしてから、その発言を撤回して有害成分が含まれていたことを認めたのですから、市民団体などの間には「やっぱり、農薬企業は信用できないものだ」という印象が広まってしまいました。
 
一方、この問題が教訓となり、農薬に不純物として含まれるダイオキシンは厳しい規制を課せられることになりました。
農薬は同じ製法ならば、毎回製造するたびにほぼ同じ量のダイオキシンを含んでいます。
そこで、農薬登録時にしっかりと調べ、一定基準以下になる製造方法でなければ登録を認めない仕組みとなりました。
この基準も、非常に低く設定されています。
 
また、水田中に残っているダイオキシンの挙動については、独立行政法人「農業環境技術研究所」が詳しく調べました。
その結果、イネは土壌中のダイオキシンをほとんど吸収せず、可食部(玄米)中のダイオキシン濃度は極めて低いことが分かっています。
 
農薬は現在、不純物も含まれた商品ごとに毒性試験などが行われ、一定の安全性が確認された上で登録されています。
したがって、今後はダイオキシンのような問題は生じにくいでしょう
 
 
量から見えたこめのダイオキシン
中西さんの研究の特徴は、生活者としてのアイデアをフルに活かして世界最先端の研究をするところです。
農家の物置から古い農薬を探し出す離れ業は、普通の研究者にはなかなかできることではありません。
 
農薬とダイオキシンの関連を調べるために、中西さんはもう一つ、非常に面白い材料を使っています。それは畳です。
 
農薬にダイオキシンが多く含まれていた頃のこめの稲藁中に、ダイオキシンがどれだけ含まれていたかを調べたい、と考えた中西さんは、一軒の畳店に注目したのです。
その畳店は、自分の田の稲藁で畳を作っていました。
そこで中西さんはその店の畳と顧客のうちの一軒の民家の畳をほぐして調べたのです。
 
畳替えの記録が残っていたため、54年、62年、70年、74年、81年に作られた畳をほぐし、稲藁と米粒を採取しました。
また、現段階の試料として2000年、同じ田んぼで植わっていたイネから、稲藁と米粒を直接採取しました。
こうして、一つの田んぼで栽培された約50年にわたるダイオキシン濃度変化を調べ上げることができたのです。
 
この研究の様子、成果を、中西さんは自分のウェブサイトで写真付きで紹介しています。
やはり、ダイオキシン濃度と農薬の使用量との間には、相関関係がありました。
 
なお、中西さんはサイトで次のように書いています。
「稲藁の採取は容易だったが、米粒の採取は、古い年代では分析に供するほど採取できなかった。
最近になると、実のついた稲穂がたくさん見つかるのだが、古いのはそうはいかなかった。
その当時は、一粒でも無駄にしなかったのだと思う。
したがって、玄米の分析は1970年以降だけだった」
 
ダイオキシン研究は思いがけなく、米を粗末にしている今の日本の姿もくっきりと照らし出したのです。
 
 
 
3、自然と共存できる農業へ
 
ここまで、残留性の高い農薬の問題について具体的に紹介してきましたが、このあたりで、使われた農薬環境中をどのようなルートで移行し、生態系に影響を及ぼすか、整理しておきましょう。
そのルートは実に複雑なのです。
 
まず、農薬は使用されると、大まかに3つに分かれます。
(1)作物に付着、吸収されるもの
(2)空気中に拡散していくもの
(3)土壌に移行するもの
 
(1)の作物に付着したものは、そのまま残留したり空気や光によって分解されて別の物質に変わっていきます。
吸収されたものも、食物内にそのまま残ったり、代謝され分解されたりします。
 
(2)の空気中に拡散したものも、一部はそのまま空気中に漂い、一部は分解消失していきます。
 
(3)の土壌中に移行した農薬には、土壌に吸着して残留するもの、微生物などの力で分解され消失するもの、だんだんと空中へ揮散していくものなどがありますが、ここではまた別のルートが現れます。
それは水系への移行です。
川や地下水脈へ移った農薬は、やはり水に溶けて残り、ちがう土地へ運ばれたり分解されたりします。
 
難しいのは、個々の農薬、気象条件や環境条件、関わる生物種などによって、影響の度合いが大きく異なるということです。
 
過去に使われた有機塩素系農薬やダイオキシンは、非常に分解されにくい物質で、土や水、植物などに移行して残留します。
そのため、現在は分解されにくい物質は農薬として認められません。
分解されやすさは、前述したとおり、半減期というその物質が分解されて半分になる期間で表しますが、ディルドリンの半減期は約1年、ダイオキシンの半減期は7〜8年。
現在使用を認められている農薬は、数日から長くても100日程度です。
 
さらに、環境中にはさまざまな生物がいて、農薬に敏感な種や鈍感な種がいます。
また、農薬の種類によっても、敏感な生物種と鈍感な生物種は異なります。
 
このように農薬の環境影響は実に複雑で、すべての環境や生物に対してどんな作用を及ぼすかを調べるのは不可能です。
また、仮にすべてを調べられたとしても、対策を講じ影響をゼロにするのは無理でしょう。
 
一方で、農薬には生産性を上げたり、省力化に結びつくなどの長所も数多くあります。
そのため、農薬を使用した時の便益(ベネフィット)を大きくし、リスクを小さくするような新しいタイプの農薬開発が行われているのです。
 
リスクを小さくする目安として、法律に基づいて環境影響に関する基準も設けられ、この基準を満たすもののみが農薬として使われることになっています。
基準は、年を追うごとに増えています。
 
とはいえ、「基準の設定がおかしい」という疑問の声もずっと続いてきいました。
環境中には、水に生きる魚や土壌中で生きる小動物、虫、植物などさまざまな生き物がいて、農薬散布によって何らかの作用を受けます。
ところが、日本ではこのような人間のリスクとは関係がない生物は軽視されがちでした。
環境影響を調べるといっても、農薬が水系に移って、人間が飲料水として飲むはめになったらどうしようか、というようなことしか考えられてこなかったのです。
 
本来生物多様性は人類の生存を支え、人類にさまざまな恵みをもたらすものなのですが、わが国では欧米に比べて、生物多様性を守るための制度の整備は、かなり遅れているのが実情でした。
 
状況が変わってきたのは、最近のことです。
環境省は98年、「農薬生態影響評価検討会」を設置して識者を集めて議論し、2002年に報告書を作成しました。
それには、次のように書かれています。
 
農薬は、農作物生産に必要な病害虫等防除のために、生理活性(病害虫等の防除効果)を付与させた化学物質を田畑などの解放系で使用するものであるため、農地周辺の野生生物および生態系に何らかの影響を与えている恐れは否定し得ない。
自然共生型の社会の構築に際して自然と共生できる農薬について考えを深めることは、避けて通れないことである。
 
わが国における農薬登録制度の事前評価では、昭和38年に導入されたコイの急性毒性試験が、約40年の間、用いられてきているが、野生生物や生態系に対する影響、いわゆる生態影響といえるほどの幅広い生物を視野に入れて評価するシステムはいまだに整備されていない。
 
一方、欧米各国では、農薬の登録段階でこのような生態影響を評価する仕組みが整備されている。
わが国においても登録に先立って農薬の環境動態および生態影響を事前に評価するとともに、適切な事後評価制度も導入することにより、有害な影響を回避することが重要となっている。
 
反省の意がこめられた率直な文章です。
環境省は、この報告書に基づき、まず、水域での影響をきちんと評価する新たな仕組みを2005年4月から始めました。
具体的には、農薬登録時の事前評価としてコイの試験だけでなくミジンコや藻類を使った試験も必要になりました。
また、陸域での評価手法の検討も続けています。
 
 
 
 
4、環境ホルモン騒動とは何だったのか
 
農薬の環境を語るうえで、環境ホルモンの騒動を欠かすことはできないでしょう。
環境ホルモンの正式名称は、内分泌撹乱化学物質と言います。
これは生き物の内分泌系に影響を及ぼし、ごく微量で有害な影響を引き起こす化学物質のことです。
生き物の内分泌系はホルモンが体の中にある受容体と結合することで作用します。
ちょうどホルモンが鍵、受容体が鍵穴のような関係。
生き物はさまざまなホルモンを体の中で作り出しますが、特定のホルモンが特定の受容体と結びついて働きます。
 
ところが、外部から摂取した化学物質が、ホルモンの代わりに受容体に結びついてしまい、正常な作用を撹乱してしまうのではないか、と考えられたのです。
それが、環境ホルモンです。
 
1996年頃から米国で話題になりはじめ、日本でも98年頃、社会問題化しました。
内分泌系は、ごく微量のホルモンによって動くので、ホルモンの代わりを務める化学物質もごく微量のはず。
そこで「これまでの科学の常識からは考えられないようなごく微量の化学物質があるだけで、生き物は影響を受け、オスがメス化したり、先天異常などを起こしたりする」「子供がキレる原因となる」といった事柄がマスコミをにぎわしました。
 
環境省は98年、内分泌撹乱作用を有すると疑われる物質リスト(環境ホルモン戦略計画SPEED’98)として67物質をまとめ、調査を始めました(2物質は予備調査で影響なしと判断されてリストからはずされ、最終的には65物質のリストとなりました)。
この「容疑者」リストが環境ホルモンリストと勘違いされ、関連商品の不買運動なども起きました。
 
しかし、その後の環境省による研究でも、人に対する環境ホルモン作用が確認された物質はありません。
哺乳類でも確認されておらず、メダカで4物質の作用が確認されたのみです。
しかも、環境ホルモン作用は、人の尿に自然に含まれた下水処理場で処理した後に川に放出される女性ホルモンよりも、はるかに低いのです。
 
つまり、現実に問題となり規制が必要だ、というような物質はまだ見つかっていないのです(2006年3月現在)。
 
環境ホルモン騒動が以下にあやふやなものであったかは、SPEED‘98にもリストアップされたジコホルという農薬の例でも分かります。
 
ジコホルは殺ダニ剤で、日本を含めたくさんの国で使われていました。
ところが80年、米国アポプカ湖近くで農薬工場の事故が起こり、ジコホルが湖に大量に漏れた結果、ワニのメス化や卵の孵化率減少、個体数減少が起きたというのです。
 
環境ホルモンの恐怖を訴えた本には、事例として必ず載っているもので、ジコホルがSPEED7‘98に上げられたのも、この事件が理由です。
 
しかしこの話、よくよく考えるとおかしいのです。
なぜなら、もしこの湖にジコホルが大量に流れ込んだのなら、ワニはかなり大量のジコホルの曝露を受けたということになります。
これでなんらかの被害が出たとしても、化学物質の通常の流出事故の結果であり、微量で影響を及ぼす環境ホルモン作用の例には当たらないでしょう。
 
また、ジコホルはDDTと類似構造を持っており、当時のジコホルは不純物としてDDTを10%以上含んでいました(現在は、米国の基準で不純物0.1%以下)。
もしかすると、ワニに影響を及ぼしたのはジコホル以外の不純物だったかもしれません。
 
さらに不思議なことがあります。
ジコホルを製造販売していた企業によれば、事故を起こした農薬工場では、当時、ジコホルを作っていなかったというのです。
そして、工場被害を受けなかった近くにある別の湖でも、ワニのメス化が観察されており、アポプカ湖では工場事故から20以上たった現在でも、ワニの異常がまだ見つかるそうです。
 
今となっては、何が真実なのかよく分かりません。
ジコホルは「濡れ衣」を着せられていたのかもしれません。
ただし、ジコホルは環境中への残留性が高いことなどから、企業は2004年、農薬としての販売を中止しています。
 
農薬の一部が環境ホルモンではないかという疑いをかけられていたとき、実は農業関係者は比較的平静でした。
というのも、農薬はすでに、2世代にわたる繁殖試験などでしっかりと生殖能力への影響を調べ、問題がないことを確認したうえで使用することが認められていたからです。
 
ほかの化学物質の中には、よく調べられないまま使われているものもあり、産業界などの中には代替物質探しに走ったところもありましたが農薬業界は慌てませんでした。
 
ただし、研究者は、「これまでの動物を使った繁殖毒性などの試験のやり方に問題はなかったか」「これまでの試験は、外見に現れる異常をチェックするものだったが、それでは「子供がキレる」など脳への影響を見出すことができないのではないか」という疑問に立ち、研究を行っています。
 
今のところ「これまでの試験では足りなかった」という研究結果は出ていません。
環境ホルモン騒動はさまざまな調査研究の結果、今のところ杞憂であろうという見方が有力です。
 
しかし、科学研究が進めば、環境ホルモン騒動のときと同じように、今まで気がついていなかった問題が、また浮上するかもしれません。
今度は深刻な影響が明らかになる可能性だってあります。
農薬企業や研究者は、常に新しい視点で見直しを重ね、そのことを情報公開してほしいものです。
 
 
 
5、メダカがいなくなったのは農薬のせい?
農薬のせいで農村からメダカがいなくなった・・・・・・。
これは、私たちがよく耳にするフレーズです。
そういわれると、なんとなく納得もしてしまいます。
でも、本書をここまで読んでくださった方ならわかるはずです。
そうです。
魚毒性は農薬を登録する時に試験されており、メダカが消えるほどの影響がないはずなのです。
 
この“メダカ神話”が本当に生きているのか、実際の田んぼで農薬を使用して調べた研究会があります。
本山直樹・千葉大学教授や中筋房夫・岡山大学教授などのグループです。
 
調査地点は、茨城県や千葉県の計4ヶ所。
茨城県北浦では、湖の周辺の田んぼにイネを植え、最近の稲作における使用平均回数と同じように農薬を使用しました。
田植え前の苗をまとめて育てる育苗箱段階で殺菌剤と殺虫剤を使い、田植え後の1〜2週間後に除草剤を散布したのです。
 
そして、田植え前の4月中旬から7月末まで毎週、水田から北浦に流れ込む排水路計20本の水を分析したり、そこにいるメダカの数、群れの大きさなどを調べました。
 
その結果、農薬はあまり検出されませんでした。
出たのは3本の排水路で計4回。
濃度は0.13〜0.80ppbと非常に低いものでした(ppbというのは、10億分の1という意味。つまり1ppbは、水1キログラムに農薬1マイクログラムが含まれる濃度のこと)。
本山さんは「この濃度では、メダカに影響があるとは考えにくい」といいます。
 
また、千葉県山田町では、友人ヘリコプターによる農薬散布後に川と用拝水路の2箇所で農薬濃度を調べました。
しかし、最も高かった農薬でも3.7ppbしかなく、散布の前後で生物の密度に大きな変化はありませんでした。
 
結局、メダカの成育に最も影響を与えるものは、水路の水位であるというのが研究会の結論でした。
水がなければメダカは死んでしまいます。
ある程度の水位があり、植物が生えることができるような水路でないと、メダカは繁殖もしにくいのです。
 
土の水路であれば、冬でも水が湧き出して水枯れしません、
ところが、昨今の水路はコンクリートで護岸されています。
泥が溜まっていればまだよいのですが、きれいに掃除されているとイネの生育時期以外は水がないのです。
その結果、メダカは死んでしまいます。
さらに、農薬よりも住宅地の排水のほうが、洗剤などが入っており、生物に与える影響が強いという結果も出ました。
 
”メダカ神話”は根拠のないウソといっていいでしょう。
しかし、その一方、農薬が原因で鳥などが死ぬ例もやはりあります。
 
2002年に北海道女満別町で死んでいた2羽のタンチョウの死因を環境省などが調べたところ、主にイネで使われる有機リン系殺虫剤であるMPP(フェンチオン)を食べたことによる急性中毒であることがわかりました。
 
これをきっかけに、それまでに死体が見つかり釧路市動物園で冷凍保存されていた5体も調べたところ、そのうち2対からMPPが検出され、1体は直接の死因である可能性が高いこともわかりました。
 
環境省は、このほかに死体で見つかり冷凍保存されていたタンチョウ6体やオジロワシ3体、オオワシ5体も調べましたが、ここからはいずれからもMPPは見つかりませんでした。
 
これらの結果から、環境省は「北海道で野生鳥類に広くMPPが蓄積されているという状況は確認できなかったが、使用方法によっては野生鳥類に影響を与える可能性を否定できない」としています。
環境省は2005年7月、この結果を通知し、特に広域で空中散布する場合は十分に気をつけるよう求めています。
 
また、同年には岩手県南部で、ミツバチの大量死も続きました。
死骸を調べたところ、イネにつくカメムシ防除のために使用された殺虫剤クロチアニジンが検出されました。
地元紙「岩手日報」は9月29日付朝刊で、「9市町の25戸の養蜂家が受けたハチの直接の被害は約2500万円で、生産への影響を合わせると被害総額は3000万円になる」などと伝えています。
 
農薬メーカーは、検出された殺虫剤がミツバチに強い毒性を持つことを公表しており、表示もしていました。
前年までは、この殺虫剤を使用するような指導を件などが行っていなかったのですが、この年は県が、使ってもよい農薬を示す「防除基準」にこの殺虫剤も盛り込んでいました。
その結果、イネ作農家は近くに養蜂家が巣箱を置いていることに気づかないまま散布し、被害が出たようです。
 
この殺虫剤は、ターゲットとなるカメムシなどへの殺虫効果が高い一方、これまで使われてきた有機リン系殺虫剤に比べて生態系への影響は小さいとされており、選択毒性が高いネオニコチノイド系と呼ばれる新しいタイプの農薬の1種でした。
 
ミツバチに十分注意を払った上で使えばよかったのですが、うまく使いこなせなかったのです。
「岩手日報」は記事の中で、岩手大学農学部の鈴木幸一教授の話として、
「消費者団体からの要請もあり全国的にネオニコチノイド系に移行しつつある。
トータル議論が必要だ」
「言い値作農家からの事前通知に加え、養蜂家からも巣箱の場所の通知があるべきだ。
双方の情報が蜜になる仕組みを築いてほしい」というコメントを紹介しています。
 
農薬の生態系への影響がかなり綿密に調べられているのは事実ですが、やはり一定の毒性はあるだけに、使い方によってはターゲット以外の生物も殺してしまう場合があるのです。
 
農薬の環境中での移行経路や影響は非常に複雑なので、今後も問題点が浮上するケースがあるかもしれません。
農家には、表示を十分に読んで、なるべく他の生物には影響しない使い方をしてほしいと思います。
また、問題が起きたときには、2度と同様なことが起きないように冷静に調査分析し、連絡の齟齬などをなくすシステム作りが求められます。
 
 
 
6、暮らしの中にある“農薬”の影響
 
2005年12月にさいたま市で開かれた日本農薬学会農薬レギュラトリーサイエンス研究会シンポジュウムでのこと。
講演を行った半農薬東京グループの代表、辻万千子さんが、「実は、この会場にこられなかった人がいます」と話し始めました。
 
前年の同研究会のシンポジウムで、農薬によりアナフィラキシーショックを起こすお子さんを持ち、自身も農薬に過敏な体質の女性が講演したのですが、この人がこの年は会場の市民会館の前まで来たものの、中には入れなかったというのです。
理由は市民会館の消毒でした。
 
シンポジウム開催2日前に2種の殺虫剤が散布されていたのです。
女性がそのことを知ったのは開催前日で、それでも当日、議論に参加したいと来たけれど入場できなかった、とのことでした。
 
建築物衛生法の関連省令では、建築物は6ヶ月以内ごとに1回、ネズミや昆虫などの調査を行い、発生を防ぐために適切な措置を講じることが義務付けられています。
その際、必ずしも薬剤を使って防除する必要はありません。
 
ところが、辻さんによれば「6ヶ月に1回の薬剤散布が義務付けられている」という誤解が広がっており、ネズミやゴキブリなどが見られないのに機械的に散布されいる建物が多いのだそうです。
 
この研究会は、研究者や一般市民などが集まり、殺虫剤をはじめとする農薬の毒性や規制のあり方など、さまざまな問題点を考える場です。
しかし、当事者がまさにその理由で参加できず、当事者不在のまま議論が進みました。
問題の解決がいかに難しいかを浮き彫りにするエピソードでした。
 
 
殺虫剤には3種ある
従来、消費者は自分たちが口にする作物に付着する残留農薬には非常に厳しい眼を向けてきましたが、生活の中で薬剤を吸い込むことによってもたらされる毒性には、気がついていませんでした。
辻さんと環境問題研究者の河村宏さんは、2004年に「暮らしの中の農薬汚染 食べ物・水から住まい・街まで」(岩波ブックレット)を出版し、シロアリやゴキブリ駆除のために有機リン系殺虫剤などが使われている現状を告発しています。
 
ただし、この問題が複雑なのは、生活の中で使われている殺虫剤などの薬剤は、農薬と同じ成分であっても、農薬ではないということです。
建築物内で使われる殺虫剤は、薬事法により認められた防疫用薬剤(医薬品であるか医薬部外品)で)なければなりません。
農薬取締法によって農薬として登録されている商品は使ってはいけないのです。
 
つまり、殺虫剤には3種類あるのです。
(1)農薬として登録されている商品
(2)防疫用として認可されている薬剤
(3)家庭用品として売られているもの
効果をもたらすのが同じ成分であったとしても、3つに分かれ、規制する法律も監督官庁も異なります。
 
農業現場で使われるのは農水省の管轄、食品や飲料水への残留は厚労省と食品安全委員会、土壌や水域は環境省。
生活環境は主に厚労省と環境省の管轄です。
関わる民間業者もそれぞれ異なります。
結局「縦割り」なのです。
 
そして興味深いことに、防疫用薬剤としての承認審査の仕組みは、農薬取締法の登録審査よりもはるかに甘いようです。
辻さんらの著書に寄れば、2001年に、ある殺虫剤について情報公開を求めたところ、室内でどのくらいの濃度になるか、どれくらいなら人が吸っても安全か、というデータを、厚労相が持っていなかったというのです。
 
翌年、厚労省は「殺虫剤指導指針等の改定に関する検討委員会」を設置し、03年に「殺虫剤の室内空気中の濃度測定ガイドライン」を通知しました。
こうして防疫用殺虫剤を新たに申請する場合は、室内空気中の濃度に関するデータを求められることになりました。
 
家庭用品として区分される殺虫剤になるとさらに甘く、薬剤としての登録制度や許認可制度はありません。
業界の自主基準はありましたが、それだけではあんまりだ、ということで、厚労省は2005年9月、安全確保のマニアルをまとめています。
 
したがって、防疫用薬剤や家庭用の殺虫剤について、いくら「農薬の害」と批判されたとしても、農水省や農薬企業では対応できないのです。
 
 
同じ薬剤でも、反応は人さまざま
さらに話を複雑にしているのが、この説の冒頭で紹介した農薬の過敏なお母さんのような、薬剤に感受性の高い人たちの存在です。
 
生物には個体差があります。
第3章で、害虫が個体によって農薬抵抗性に違いがあることを説明しましたが、人間も同じ個人差があります。
医薬品の場合患者の遺伝情報であるDNA塩基の配列がたった1つ異なるだけで、投与した医薬品の効果に大きな違いが出る、というケースが知られています。
農薬などの薬剤でも、普通の人には何の影響もないけれど1部の人には症状が出るというような場合があります。
 
このように書くと、「感受性の高い人たちは、化学物質過敏症にかかっているんだ」と受け止める人が多いかもしれません。
しかし、多様の化学物質に、ごく微量であっても反応し、症状を起こしてしまうという「化学物質過敏症」は、一部の医学者などによって提唱されていますが、医学会で正式に認められた病気ではありません。
環境賞が設置した研究班の8年間にわたる調査研究でも確認されておらず、「心の病ではないか」という説を唱える研究者もいます。
科学的な解明はまだこれからです。
 
多種の微量化学物質に反応する人がいるかどうかはともかくとして、特定の薬剤に過敏に反応する人が存在するのは確かです。
そして、農薬取締法で厳しく規制されている農薬製品は、登録され残留基準が定められる段階で、感受性の個人差も検討され、それも勘案して基準が定められています。
一方、防疫用薬剤や家庭用の殺虫剤になると、農薬よりも規制ははるかに甘いのですから、感受性の高い人たちへの対応は不十分といわざるを得ません。
 
普通の人たちの日常的な生活において、これほど化学物質が増え、濃度が高くなる時代がやってくるとは、法律も国の制度も想定していなかったのでしょう。
研究者や市民団体のどの指摘を受け、国は最近、この暮らしの中の化学物質への対応を強化し始めています。
 
国土交通省は2003年7月に建築基準法を改正し、シックハウス対策を講じました。
家の建材などからホルムアルデヒドや有機溶媒が大量に揮発したら、居住者は化学物質の濃度の高い空間で長時間、過ごさなければなりません。
それを防ぐために、一定の規制が設けられることになったのです。
このとき、クロルピリホスという有機リン系殺虫剤をシロアリ駆除に使うことは禁止されました。
 
また、東京都は、有機リン系殺虫剤であるジクロルボス(DDVP)に注目して研究し、2004年、製品を室内で使うと室内に高濃度に残留する場合があると発表。
これを受けて、厚労省は専門家を集めてさらに調査検討を行い、ジクロルボスを吊り下げて使用するタイプの防疫用薬剤については、高い室内濃度で毎日24時間曝露した場合に安全域を上回る恐れがあるとして、使用場所を人が長時間留まらない場所に限定することとしました。
 
今後は、家庭用品などについても科学的な研究を重ねて、問題があれば一定の規制をかけてもらいたいと思います。
 
また、一つの物質が、農薬や防疫用薬剤や、家庭用品として総計でどの程度使われ、人や生き物の摂取量はトータルでいかほどか、ということについても。ぜひ調べてほしいものです。
 
行政は縦割りでも、私たちの体は「これは農薬、これは防疫用薬剤、あれは家庭用殺虫剤」と分けて取り入れるわけではありません。
結局のところ、一つの化学物質に過ぎないのです。
別々に規制されていると、一つ一つは安全圏内でも足すと危険、ということにもなりかねません。
 
トータルで、限度を超えた摂取をしていることがはっきりした場合には、担当省庁間で「交通整理」をして摂取量を減らす必要があります。
現在、独立行政法人「産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センター」が、人間の健康への影響が大きく、生産量や輸入量が多い化学物質を選び出し、このトータルでの摂取量や健康影響の程度などに関して国内外のさまざまな調査研究データを集め、一つ一つ「評価書」にまとめはじめています。
こうした基礎データは、まだ未解明の部分が多い「化学物質過敏症」について、本当に効果のある治療法を確立することにも役立つでしょう。
 
暮らしの中で問題になっているこれらの薬剤の多くは、有機リン系殺虫剤です。
有機リン系は神経毒ですが、歴史が長く効き目も確実なので、農業現場だけでなくさまざまな場面で利用されているのです。
 
確かに昔は、パラチオンのように人間をはじめ哺乳類への影響が大きいものもあり、使用禁止となりました。
現在使われているものは、選択毒性が研究され、哺乳類への影響は少ないとされています。
ただやはり、使い方によっては問題が生じてしまう場合があるのです。
 
米国やEU諸国でも同じことが問題になっており、多くの国がクロルピリホスやジクロルボスの室内での使用を規制し、農業現場での使用を認めながら、さらに詳しい研究を進めています。
 
残念なことに日本では、有機リン系殺虫剤について一部の週刊誌が「地下鉄サリン事件でばらまかれたサリンと同種の物質」などと書き、恐怖感を煽っています。
しかし、有機リン系化合物といっても種類はさまざまで、選択性の程度もまったく異なり、すべてを一緒にして語ることはできません。
 
症状を訴える人がいる一方で、農薬や防疫用薬剤、家庭用殺虫剤などの化学物質を必要とする人たちもいます。
科学的な研究を重ね、双方が納得できる仕組み作りをしていくことが重要ではないでしょうか。
 
 
 
7、「沈黙の春』への批判
 
第1章で、レイチェル・カーソンが40年以上前に書いた「沈黙の春」が、農薬を改善する大きなきっかけになったことを紹介しました。
しかし一方で、今、「沈黙の春」には批判も向けられています。
 
カーソンは、農薬の中でもとりわけDDTを批判しました。
生態系では、小生物をほかの生物が食べ、それをさらに別の生き物が食べるという「食物連鎖」の現象が見られます。
食物連鎖によって、分解しにくい農薬などがより高次の生物に蓄積されていく現象は生物濃縮と呼ばれます。
 
カーソンは、DDTが難分解性で環境中に長く残留することから、生物濃縮によってDDTが鳥に蓄積し、卵が孵らなくなるなどの被害が出ていると記しました。
また、DDTを使った人ががんになったり肝臓を冒されているとして、警鐘を鳴らしました。
 
この本を受けて、DDTへの批判は大変強くなり、多くの国がDDTを禁止しました。
ただし、それはがんなど健康被害との因果関係を認めたのではなく、DDTが非常に分解しにくいことが、禁止の主な理由であったようです。
 
ところがその後、DDT禁止には大きな問題があることが判明しました。
マラリア感染が発展途上国を中心に増えてしまったのです。
 
マラリアは、マラリア原虫を持つ蚊が媒介します。
感染すると、高熱が出て意識障害、腎不全などを引き起こし、体は抵抗力を失い、子供の多くは死亡します。
 
昔は、アジアやアフリカ、米国やヨーロッパなど多くの国で、患者が発生していましたが、DDTが1945年から商業的に製造販売されるようになり、蚊の駆除に使われるようになって、マラリアは激減しました。
 
DDTが1960〜70年代にかけて各国で販売禁止になった後も、米国やヨーロッパ、日本など比較的衛生状態がよい国では、もうマラリアは発生しませんでした。
しかし衛生状態が悪く蚊が発生しやすい国では、DDTが使えなくなったことによって再びマラリアが増えてしまったのです。
 
例えば、スリランカでは、DDTの使用開始前の46年には280万人もの患者がいたのに対し、DDTが使われていた63年には、患者はわずか110人まで激減しています。
ところが使用禁止後の68年には、再び100万人もの患者が発生したというのです。
その後も毎年、200万人を超える患者が発生しているといわれています。
 
WHO(世界保険機関)によれば、世界では現在、年間に少なくとも3億人がマラリアにかかり、100万人以上が死亡しています。
その多くが子供です。
そのため、アフリカなど一部の国では、やむなく今もDDTを使い続けているのです。
家の内壁にDDTをスプレーしておけば、蚊の活動が活発になる夜中に蚊に刺されず、マラリア感染を防ぐことができるからです。
 
しかし、DDTを使用しているということは、その国の生産物がDDTに汚染される可能性もあるということです。
そのためEUが、DDTを使用している国からの食品輸入にストップをかけ、人権団体が批判する事態も起きています。
 
こうしたことから、欧米では今、DDTの見直しが進んでいます。
英国の著名な医学誌「ランセット」は、2005年8月27日付で、DDTのこれまでの多くの研究成果をまとめて紹介する「総説」を掲載しました。
それによると、DDTの人への発がん性を示す確たる証拠はなく、神経系や内分泌形への影響も実験結果がさまざまで、はっきりしたことはわかっていません。
 
「ランセット」は、DDTがマラリアを防ぐのに大きな効果があることも伝え、「マラリアのコントロールにおいては、ベネフィットとリスクのバランスをとることが重要だ」と記しています。
 
ベネフィットは、DDTが安く効果的で、しかも聞く期間が長いということです。
DDTの代わりの農薬が使われたこともあるのですが、蚊がすぐ耐性を獲得してしまい効かなくなってしまいました。
その点、DDTは耐性が出にくく頼りになります。
 
WHOは、DDTを家の内壁にスプレーする代わりに、蚊帳の中で寝ることで蚊に刺されるのを防ごうという運動も進めています。
しかし、蚊帳は高価で、アフリカの人たちの生活習慣にも合わず、なかなか普及していません。
今のところ、DTTがもっとも効果的な手段なのです。
 
一方、DDTを使う場合のリスクも確かにあります。
DDTは環境中に長く残りなかなか分解しません。
それに、揮発性が高いため、すぐに空気中に拡散し、アフリカで使われたものが全世界に広がってさまざまな生物に吸収され残留します。
「ランセット」は、十分な調査をしながら慎重にDDTを使っていく必要性を訴えています。
 
また、2005年2月、英国の新聞「ガーディアン」は「不注意な科学は命を失わせる」と言う記事を掲載しました。
 
そこでは、DDTが約20年間に約5000万人を死から救ったというWHOや米国科学アカデミーの推定を紹介し、カーソンが「沈黙の春」で書いた発がん性などがいまだに確認されていないことを伝え、「彼女の動機は純粋だったけれども、その科学は間違っていた」と痛烈に批判しています。
 
欧米では近年、多くの新聞や雑誌がこのDDT問題で、相次いでカーソンの責任を問い始めています。
「レイチェル・カーソンの生態学的大虐殺」というショッキングなタイトルの記事を掲載した新聞まであります。
 
しかし、だからといって、カーソンの本の価値が損なわれることはないでしょう。
科学研究は大きく進んでいきますから、40年前に、その時の科学的な根拠を基に推測したことが、今となっては違うのは当たり前です。
問題は、40年も前に「沈黙の春」で書かれていたことを、何の検証もせずに真実だと思い込んで行動している現代の私たちではないでしょうか。
とくに日本では、「沈黙の春」をめぐるDDT論争がマスメディアに取り上げられることはほとんどなく、多くの人がその事実を知らないままです。
 
カーソンが今、生きていたら、はたしてどのように言うでしょう。
当時の科学的なデータを尊重して、冷静な筆致で将来起きるかもしれない危険を描いた彼女です。
現在の人々の「「沈黙の春」は正しく、科学農薬は悪だ」という思い込みをもっとも悲しみ、現在わかっている科学的な事実に基づいて有効な対策をとってほしいともっとも強く願うのは、実はカーソン本人ではないか、
私にはそう思えてなりません。