山ちゃんの食べもの考

 

 

その130
 

 「身土不二」について農民作家・山下惣一さんは、その著『身土不二の探求』の中で、次のように述べています。
 「人の命を支えているのは食べものである。食べものは土が育てる。海産物だって海底の土や森林から運ばれる諸要素によって生きているから、もとはといえば土が育んでいるようなものだ。したがって土が人の命、命は土、人間は土そのもの、すなわち「身土不二」ということになる。
 明治時代の作家で思想家でもあった徳富廬花は『みみずのたはごと』と題する随筆の中で、≪人は土の上に生まれ、土の生むものを食って生き、而して死んで土になる。吾らは畢竟土の化け物である≫と書いている。」
 山下惣一さんは、まさしく人間は、「歩く土、考える土、語る土、恋する土なのである」次ぎのように述べています。
 「動物も植物もすべての生き物は、その置かれた環境の気候風土やその土壌条件によって左右され、その住む地域ごとに違った形質・形体のものになってきます。したがって、長い歴史の中で環境と同化し、他の動植物や微生物とも一体のものとなって共存関係にあるわけですから。その土地から生み出された旬のものを食べるのが一番いいわけです。」と。


 『ニンジンから宇宙へ』を表した赤峰勝人さんは、あらゆる生き物は、そして人間も、“命のつながった土の化け物”だ、と次のように述べています。
 「食べることは生きることです。命をつなぐために私たちは食べています。他の生き物の命をいただいて、自分の命をつないでいるのです。私たち人間だけではなく、この地球上に生きているものはすべて万に一つの例外もなく、他の生き物の命を食べることで、その命をつないでいます。
 土から草や木が生まれ育ち、その草や木の実を草食動物や小鳥が食べ、その草食動物を肉食動物や猛禽類が食べ、それを人間が食べる、そんなふうに生きるということは、食べることで他の生き物の命をつないでいくこと。さらに、鳥や動物たちの糞尿や死骸、草や木の実の朽ちたものもまた、微生物や銀バエたちの食べ物になって土に返り、そして、その微生物や銀バエの死骸もまた土に返り、やがて草や木の食べ物になります。こうやって命は連鎖し、循環しているのです。海の中の命(食べ物)も同じように循環しています。
 こうして考えてみると、ニンジン一本、トマト一つをとってみても、そこにはミミズや銀バエや雀や豚・・・・・・数え切れないほどたくさんの命が含まれていますし、土から生まれて土に返っていくのですから、土の化けたものとも言えます。そして、野菜や米や魚をいただいて命をつないでいる私たち人間もまた、土の化け物であります。
 あらゆる生き物は「食物連鎖」という大きな命の循環の中に生きているのです。私たちは私たちの食べたものでできています。食べ物の生きた命によって生かされているのです」
 そして、赤峰さんは、人間の体細胞は周期的に生まれ変わっていて、半年前の自分と今日の自分とは別の人間といってもいいほど、食べものによって入れ替わっている。その食べものがどんな食べものであったか、生きた健康な命がいっぱい詰まったものであったか、それとも食品添加物や農薬、化学肥料などの化学合成物質がいっぱい詰まったものであったか。飽食の時代だといわれ、何不自由なくなんでも好きなものが簡単便利にたべられる今日ですが、はたして毎日の食べものが、元気な命のたべものなのか、それとも病んだ命の食べものなのか、生きた本物の命をいただくことの大切さを説いています。


 微生物のいのちも食物のいのちも、そしてあらゆる動物のいのちも土を通してすべてつながっています。人間の体は約60兆個の細胞からなっていますが、細胞のひとつは、私たちが毎日摂取する食べものによって新陳代謝を繰り返し、次から次へと生まれ変わり、日々新しいいのちが吹き込まれて、私たちの生命活動が維持されているわけです。私たちの生命を生かす源は、日々の生命の食べものにあります。そして、その生命の食べものの源は農であり、土にあります。すなわち、土の生命が食べものの生命となり、食べものの生命が、私たちの生命となるのです。
 つまり、土の生命と食べものの生命と私たちの生命とは一体であり、健康な土の生命から健康な食べものの生命が生まれ、健康な食べものの生命によってのみ人間の健康な身心が育まれているのであります。
 土が病めば農(作物)が病みます。農(食べもの)が病めば、人間が病みます。まさに「人は土の化身」でありまして、良いも悪いも、健康であるも病弱であるも、「身土不二」であります。
 第二次大戦後、高度経済成長時代を迎え、近代化の名の下に、農業にも経済性や生産性効率を追求する工業的な社会価値観が国を挙げて推し奨められてきました。そのため、それまでの日本各地の土地や気候風土に即応した有機的で伝統的農法はあっという間に崩壊しました。そして、農業にも経済性や効率性を重視する化学的農法と称する農薬や化学肥料、抗生物質やホルモン剤などの化学的物質に依存する近代的農業に急変しました。
 強力な殺菌・殺虫剤による防除対策は、田畑か河川の小動物を一網打尽にし、タニシやコブナ、ドジョウやメダカ、トンボやホタルといった数多くの生き物たちを絶滅の寸前に追いやりました。そうした化学万能主義、経済優先の農業システム、食べもの生産システムは、現代社会に、“その土が病み、食べものが病む、そして、それを食する人間が病む”という悪循環を招いてしまいました。


 良いも悪いも、まさしく≪身土不二≫で、私たちの生命と土の生命とは切り離して考えることのできない一体のものであります。
 宮崎大学教授の島田彰夫氏は、『身土不二を考える』(無明社出版)のなかで、
「身土不二(しんどふじ)」について以下のように解説しています。
 『広辞苑』にも「身土不二」の項目はない。考古学の概念でいう「遺跡テリトリー」というのは、食料を含めた日常生活に必要な物資を入手するための範囲、生活圏を表している。農耕民のように定住が原則の場合には半径5キロメートル、徒歩1時間程度、採集狩猟民の場合は半径10キロメートル、徒歩2時間程度が日常の生活圏だという。結婚の相手は日常生活に必要な「物資」とはいえないが、通婚圏もこの範囲にあった。
 身土不二は遺跡テリトリーと似た概念で、主として食生活に使われる。日常の食生活に使われる食品材料は、自然環境を反映した身近なところ(土)で得られ、ある地域に住む人(身)が、その地域に確立した食生活の体系のもとで育まれ、長い歴史のなかで身体もその地域の食生活に、よく適応するようになっている(不二)ことを表している。
 ヨーロッパ人のように、寒冷で作物の収穫が期待できない地域に住む人が、乳類を利用した長い歴史のなかで、高いラクターゼ活性を継続する、離乳期を持たない人に変わったのは、身土不二のヨーロッパ版であろう。
 欧米をモデルとした「食生活改善」が行われ、輸入食糧が多くなり山海の珍味を常食とし、都市への人口集中によって「身土不二」から「身土分散」になっているのが、現代日本人の食生活である。
 

 また、島田彰夫氏は『身土不二を考える』を著す上において、「身土不二」という言葉をあえて表題に用いたわけを、次のように述べています。
 「身土不二という言葉は、それほど一般的ではなく、初めて目にする人も少なくないだろう。一言でいえば身体(身)と環境(土)とは不可分(不二)だということであるが、俗に、住んでいるところの一里四方のものを食べて暮らせば健康でいられる、というように使われていることが多い。しばしば食の信条として、また思想としても用いられる言葉である。そのために科学的な表現ではないという人もいる。確かに科学として体系づけられていないという点は認めなければならない。それも食文化という言葉がもつ響きと同じで、身土不二という表現を文化としてのみとらえ、そこにヒトが存在することを忘れた議論であったからである」
 「しかし、曖昧さをもつ身土不二という言葉であるが、生活の歴史的な実績を正確に評価するためには、身土不二が実践されていたという事実を無視することはできない。近年のようにめまぐるしく食に対する風潮が変わる中で、世代を重ねてもなお変わりにくい動物としてのヒトの食性と、人間の食文化とのかかわりを考える上で、もっともふさわしい言葉だからである」と。
 

 続けて、島田彰夫氏は、「“身土不二”は日本人ばかりではなく、世界のそれぞれの地域に住む人が実践してきたことである。ヨーロッパに生活圏を拡大させた人々は、その地域での、身土不二を実践することによって、乳肉食に適応するヒトだけが生き残ったということができるだろう。これは日本人もヨーロッパ人も、ヒトとして同一の種であるといっても、その素因にはかなりの違いがあることをも示している。
 日本人にとって幸いであったのは、日本の風土がヨーロッパのように寒冷ではなく、中近東やサハラのように乾燥した地域でなかったことである。人口密度の高さは豊かな自然に恵まれていたことを表している。
 豊かな風土で育まれた日本人の食生活の体系を捨てて、欧米化を目指してきたことによって生じたさまざまな矛盾が、現在の健康問題の根源にあるといってもよいだろう」
 「日本人にとって、食の欧米化を目指すことがどのような意味をもっているのかを問い直し、輸入された食糧があふれるなかで食生活の体系を再構築することは大きな困難を伴うことであろうが、目先の健康ばかりでなく、それぞれの世代が、それぞれの孫の世代の健康を考えて行動しなければならないことを意識しておくことである」
 

 人間の身体は、その住んでいる土地(気候風土、空気、水、動植物、微生物などあらゆる環境条件)とは切り離すことのできない一体のものであって、その地域で四季折々にとれるものを食べることが健康な生命とってもっともよいものだという“身土不二”の食理論は、長い人類(生き物)の歴史が証明する曲げてはならない“自然の法則”であります.
 世界の人々は、それぞれその住む地域で、健康に生きるためにもっとも相応しい食べ物や食べ方を、何百年あるいは何千年もの長い時間をかけて、構築し継承してきました。そして、それぞれの地域で生み出され、受け継いできた伝統食や郷土料理などは、先人の尊い経験に裏打ちされたきわめて科学的で合理的な食体系なのであります。
 しかし、現代の私たちの食生活は、飽食日本といわれ、世界一の長寿国といわれていますが、私たちの祖先が営々として築き上げてきた “身土不二”という“自然の法則”を自ら放棄してしまっているような感があります。
 自ら汗して耕すことを止め、食料自給率は40%まで下落、日ごろの食べ物の60%もが、気候風土もあらゆる環境条件も違う外国産の、身土不二とはまったく異質な食べものに依存してしまっているのです。
 いまや片田舎の子どもたちまでもがファースト・フード店やコンビニエンス・ストアにたむろしてにぎわせています。農家の食卓でさえもが米の消費量が少なくなり、パン食が広がり、インスタント食品や加工食品、出来合いの惣菜が主流をなしつつあるといいます。日本人の日常食から伝統的な食材や手づくりの郷土料理が姿を消しつつあります。
 こうした“身土不二”と乖離した食のあり方は、身体の健康ばかりではなく、心の健康をも蝕み、飽食が崩食となり、豊国が崩国とならねば、と心配されているのです。


 人々にとって食べものとは、本来それが地域や季節など、地域の自然環境や条件にに限定されたものでありますが、しかし、それらを食べることによって健康に生きることができるのというのが自然の法則であるわけです。
 ところが、現代の日本人は、直ぐ近くのスーパーに出かけると、地域も季節も問わず、世界中のあらゆる食べものが、何時でも何でも手に入るという、古今東西に類のなかった恵まれた状況下にあるのです。実は、その類まれなる不自然な「豊かさ」や「楽しさ」、「美味しさ」や「珍しさ」、「便利さ」や「多様性」がおかしいのです。その超豊かさ、超便利さ、超贅沢さが、私たち日本人の食を狂わせ、人々の心までをも狂わせているのです。
 現代の狂った飽食社会は、その土地にその季節に取れたものを食べるという食の大原則を壊し、長い歴史の中で先人が命がけで生み出し蓄積してきた食文化の知恵を粉砕しています。自然と調和する秩序を歪めた乱食は、老人や成人ばかりでなく青少年や幼児にいたるまで生活習慣病というわけの分からない身心を冒す現代病に陥れているのです。
 平気で季節外れのものを食べる(食べさせる)、無頓着に外国のものを食べる(食べさせる)。真冬に、熱帯産のトロピカルフルーツを食べる。トマトやキューリ、レタスのサラダを食べる。常夏の国の料理屋飲み物を食する。真夏に冬の温室みかんや外国産のりんごを食べる。温暖湿潤な国に住みながら寒く乾ききった北欧風の食を好んで食べる。そんな秩序のない狂った食の世界です。そしてそのことに、私たちは何の違和感も感じていないのです。
 世界中のものを買い集めていつでも何でもありのもの豊かさを誇っていますが、日常の食卓から伝統食や郷土色など、食文化の知恵を失った日本人の食は、それでも豊かだといえましょうか?


 世界のどの民族もがそうであるように、日本人は日本という気候風土、環境条件のなかで、日本人にとっての最も理想的な食文化を形成してきました。そして人々は、長い年月の中で、気候風土、環境条件に最も適応するように、その土地でとれる食物にもっとも適応する身体が形成されてきたのです。
 寒い地域に住み、やむなく肉食をせざるを得なかった北欧の人々は、老廃物を早く排泄しないとその毒性で健康を守ることができないため、腸が短くなっていますが、一方、日本人など温暖で作物が豊かに実る亜熱帯に生を受けた人々は、植物繊維の多い穀菜食を主とし、その消化吸収に時間がかかるために腸が長くなっています。だから、肉類などを多食すると体に負担をかけることになります。
 同じ穀菜食を主とする日本人であっても、縦に長い日本列島ですから、北海道と沖縄では随分と気候風土が違い、当然のことながら、とれる産物や旬にも少しずつ違いがあり、各地に伝わる伝統食や郷土料理にも違いがあります。
 寒い北海道や東北に住む人々は身体の温める必要から、どうしても塩分の摂取量が多くなりますが、暖かい南の地域に行くにつれ塩分摂取量は少なくなります。反対に暖かい地方では体を冷やすための糖分・甘みを多く摂取するようになります。
 人は、その土地のその時期にとれる食べものと一体化しており、それがいかに理に適ったものであるかが、その地域に伝わってきた食べ物を見るとよく理解することができるはずです。
 そこには、自然の法則「身土不二」の原理が貫かれているのです。地球上のすべての生物は、例外なくこの「身土不二」の原理に従って、何百万年も生き続けてきたのでした。
 人間とて、“これまでも”そして“これからも”、その例外ではありません。



 

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生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

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池田 優

 

 

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