山ちゃんの食べもの考

 

 

その131
 

 「日本の飽食は日本農業の発展の中で得られたのではない」と指摘し、島田彰夫氏は以下のように述べる。
 飽食の時代といわれるようになったのは、1980年代からのことである。このようなことは歴史上どの時代にもなかった。人類の歴史の大半は、ようやく人口を維持するだけの食料が得られただけである。言い換えれば、食料の量的な規制が人口を決定する要因となっていたのである。
 飽食とは言っても、それは日本などわずかな国の状態で、世界の大半は現在でも食料の量的な確保に大きなエネルギーを使っている。さらに世界の人口の3分の1以上が飢餓人口であるといわれている。このような状態を認識した上で「食」の問題は考えられなければならない。
 地球規模では、人口爆発とも表現されるように、人口の急増が最大の問題である。当然のことであるが、食糧需給が増加し、飢餓に苦しむたくさんの人々があるなかでの飽食である。
 飽食は日本の農業の発展の中で得られたのではない。工業の発展と、商社の活動の結果としてのものである。世界のあらゆる地域から集められた食料が、身の回りに溢れ、食生活の体系が崩壊されたために、珍しいもの、見かけのよさそうなもの、動物的な食べものに対する勘を失って味覚だけを満足させるものなどをたくさん並べて、「欧米並み」に食生活が豊かになったと勘違いする」
 「食生活の体系をなくした日本人は素直に栄養指導を受け入れるだけではなく、美食や珍味を追いかけることにも熱中したが、工業社会でのストレスの増加や、診断や治療の困難な成人病や花粉症、食物アレルギーに悩まされることになる。そればかりではなく、さまざまな健康に関わる情報の氾濫は、自信をもって生きるというもっとも大切なことを、人々から奪っていった。
 健康を意識することが多くなった。健康は生活環境が良好でなければ、増進だけではなく維持も困難であるが、汚染された大気や水は個人の力では浄化ができない。せめて食生活くらいは自分で何とかできるかもしれないと考えているのが現状かもしれない。」
 

 日本の人口は世界人口の約2%1億2500万人。その日本が世界の食料貿易の10分の1を消費しているのです。1996年の統計になりますが、水産物を除く食糧の輸入額は、世界の食料輸入額の約1割(8.8)を占めています。穀類の輸入では10.7%、食肉の輸入では22%にもなります。また、「水産王国」と言われたわが国の水産物の輸入金額は、世界の水産物総輸入額の3割(29.9%)にもなっています。日本はまさに「世界一の食糧輸入大国」なのです。(小倉正行著『これで分かる輸入食品』)
 世界の穀物自給率(97年)をみると、オーストラリアの332%、フランスが191%、アメリカが135%、ドイツは128%、日本と同じ島国のイギリスは116%です。大人口を抱える中国は96%、イタリアは86%、そして北朝鮮で61%です。日本は世界178か国中の130位で25%です。
 その日本も、1960年には食糧自給率がカロリーベースで79%、穀物自給率が82%であったのです。わずか40年も経たないうちにカロリーベースで40ポイント、穀物自給率で56ポイントも急落させてしまったのです。
 このような現象が起こった国は、世界的に見ても先進国では日本だけで、他の先進国では、みな食糧自給率を引き上げているのです。(同上)
 このように1960年(昭和35年)から2000年(平成12年)までの短期間に、穀物自給率は82%から28%に、供給熱量自給率も79%から40%と大きく低下していった要因には多々考えられますが、高度経済成長にともない、わが国最大の自給品である米の消費が著しく減少しこと。半面、畜産物の消費が急増したことが大きな原因と考えられます。つまりは、日本の気候風土に即応する伝統的な身土不二の日本型食生活を放棄し、反自然的な欧米風の食生活へ大きく転換したことを意味しています。
 

 動物は自分の食性に従って何が食べものであるかを知っていると、島田彰夫氏は以下のように続けています。
 「雪の降るころになると、それまであまり大きな群れを作らなかったスズメが20羽、30羽の群れになって行動するようになる。気温も低く、餌も雪の下に隠れて見つけにくい。スズメにとっては住みよい条件とはいえないが、それでも元気に、自信をもって飛び回っている。」
 「人間はというと、暖房の効いた部屋の中で、眼鏡をかけて、たくさんの食品を使って、暖かく、しかも薄味に調理された料理を、入れ歯を使って食べ、外出するときにはたくさん着込んでコートの襟を立てる。近くても車を使うこともある。眠るときには電気毛布が離せない。このような生活を文明・文化の恩恵として受け止めているのが人間である。夏になれば冷房を効かせて、よく冷えたビールやジュースを飲む。」
 「他のあらゆる動物よりも優れた生活をしていると自負しながら、一方では肥満や高血圧、脳卒中、癌、心臓病など、成人病の恐怖にさいなまれ、タンパク質が足りない、脂肪を取り過ぎた、食物繊維が不足だ、緑黄色野菜を食べなければ、カルシウムをもっと、鉄分が足りない、ビタミンが……と気にしている。そのような食生活をしている人は現実にはたくさんいる。」
 「GNPにものを言わせて、美食、飽食、エスニック料理ばかりではなく、スナック菓子や自動販売機に囲まれて、コマーシャルメッセージの言うがままに、得体の知れないものを口に運んだり、GNPをさらに大きくするために働き蜂となり、1分でも早く食べ終わるようなメニューを選んでいるのでは、筋の通った食生活などは期待することはできないし、健康なんて絵に描いた餅よりも難しい。」
 「人間の生活と密着して暮らすスズメやネズミを見ていても、車で外出するようなペットのイヌやネコと違って、暑さや寒さに適応する能力をもっており、みんな健康そうにしている。よく観察してみても、肥満スズメや肥満ネズミに出合ったことはない、彼らの中に栄養士や医者がいて、そんなに食べるなとか、これを食べなければならないなど理屈を言っているわけではない。自然の動物たちはそれぞれ何が食べもので、何が食べものではないかを知っていて、素直にそれに従っているだけなのです。」


 「現代人の生活では適度な栄養学的知識や医学的な常識を持つことが要求されており、それが少しでも欠けていると不安になり、それだけで病気になる人もいる。知識が要らないといっているのではない。科学的であるかのように装った細切れの知識が、科学としての体系をなさないままで、バラバラに提供されているところに問題があるのである」
 「炭水化物、タンパク質、脂肪、鉄やカルシウムなどの無機質、いろいろなビタミンなどは、5大栄養素と呼ばれている。それぞれの役割もかなり分かってきており、さらに細かく糖類、アミノ酸、脂肪酸についても明らかになってきている。ビタミンや無機質についても、さまざまなことが分かってきている。こうしたことは分析機器や分析技術の進展と深く関わっているが、まだまだ未知の領域も多い。」
 「学問や専門教育の上では、これらはいずれも重要な事柄であることはいうまでもない。しかし、これは一般の人の生活感覚とは別のものである。アミノ酸や脂肪酸あるいはエイコサペンタエン酸などと、ありがたそうな名前を聞いても実感がわかない。普通の人の眼に見えるのは食品であり料理である。カロチンがたっぷりのニンジン、緑黄色野菜のニンジンなど、栄養素が衣を着たようなものの食べ方をするようになると、人間がヒトという動物であることを忘れ、本来持っていた食べものに対する鋭い感覚をなくし、何がヒトの食べものかという視点を失ってしまう」。と指摘する。


 島田氏は健康観について、歴史的に見ても、健康が肉体の健康と考えられた時代から、肉体と精神の健康を問う時代に変わり、さらには、肉体と精神ばかりではなく、生活環境・社会環境をも含めた、総合的な健康でなければならないようになってきている。と述べる。
 しかし、健康に対する概念は曖昧なもので、見方や立場、一人ひとりの価値観や生活経験で違っている。みんなが健康に関心を持ち始めたのは結構なことであるが、氾濫する細切れの健康情報の中で、不安と危険だけが次第に大きなものとなっている。
 そこで登場するのが、この健康に対する不安感や危機感を解消しようといろいろな企業が現れ、直ぐにも健康が得られそうな健康食品やアスレチッククラブや健康器具が登場する。
 食物繊維入りの商品もドリンク剤から、うどんやせんべい至るまである。また、飲み物からキャンデーにいたるまでビタミンCが入り、エイコサペンタエン酸、不飽和脂肪酸などなど、なにやらわけの分からないものまで入って、健康を謳ったものに溢れている。
 世界には飢餓や貧困で苦しんで人もたくさんいるのに、日本人にはそんなことはテレビ「ドラマ」の世界でしかないかのようだ。第二次大戦後、日本にはたまたま直接に巻き込まれるような戦争もなく、その食べものの大部分が輸入食糧とはいっても、飽食の時代といわれるほどの有り余るほどの食べるものがあり、健康食品と呼ばれるものもたくさんある。
 それでいて、私たちの食は本当に豊かであり健康的なのであろうか。


 島田彰夫著『身土不二を考える』からの引用を続けます。
健康の概念が一人ひとりの価値観や人生観によって異なるのは当然のことですが、「健康」というものがこれほど分かりにくくなってきたのは、明治維新に引き続く文明開化によって、多くの欧米の学者などが日本を訪れ、医療や栄養・健康について、西洋の知識や技術とともに、分析的な考え方が導入され、そのような指導を受け、「欧米並み」を志向する日本の指導者によって、欧米一辺倒になったことである。
 明治の文明開化の名の下に、それまで鎖国の中にあって江戸時代に至るまでの長い期間、独自の発展を遂げてきた日本の医学や漢方医学などは、その効果の有無とは関係なしに、法的に排除されました。そして、西洋の、特にドイツの医学や栄養学だけが推進されたのです。
 分析的でなく総合的な考え方を重視するこれまでの漢方医などは法的排除を受けた結果、わずかに鍼灸医学や按摩だけが、視力に障害をもつ人などの生業として残されるに過ぎなくなったのです。
 

 文明開化は医学の世界ばかりではなく、食の世界でも大きなショックと錯覚を与えてしまったのです。
 当時日本を訪れた欧米人の一部は、日本人の食生活に驚き、「日本人の食卓は貧しい」と言った。それまではそんなことを考えもしなかった日本人は、自分たちの食生活がそんなに貧しいのかと錯覚してしまいました。
 しかし、こうした中にあって、現在の東京大学医学部の前身である東京医学校に着任したドイツ人の医師ベルツは、ドイツやヨーロッパの女性と比べて「日本人ほど母乳のでる民族を見たことがない」と指摘しているのです。
 母乳が十分に出るということは、哺乳動物であるヒトが生き残ってゆくための最低の条件の一つであり、当時のヨーロッパ人よりも日本人のほうが、食生活の基本ができていたことの証明でもある。
 ひるがえって、食生活が欧米化され、改善されたと言われている現在の日本人の食生活で、母乳さえも出せなくなった女性がいるということは、基本的な食生活の体系が崩れてしまったことの証明である。と島田彰夫氏はいいます。
 欧米人が表現する日本人の食生活の貧しさは、食卓に肉や牛乳がないということであって、これは彼らが日本に来て食べたいと思っていた肉や牛乳が、手に入らなかったことに対する恨みごとのようなもので、外国を旅行中に日本食がないといって文句を言う日本人と同じである。彼らの嘆きをそのまま受け止めた素直な日本人は、肉を食べ、牛乳を飲むことによって、西洋人のようになれるという考えを持つようになったのかもしれない。髪を金色に染めて、西洋人並みになったと錯覚している一部の若者と同じことである。


 錯覚が錯覚であると気づかないままに、それが定着してしまうところに恐ろしさがある。文明開化から1世紀以上たった現在でも、牛乳にはカルシウムがたくさん入っているからとか、良質なタンパク質の供給源であるからというような理由で、その消化酵素を持たない人々に、体質に合わない牛乳を何とかして欧米人並みに飲ませようとしている。
 良質か悪質かは別にして、牛乳には誰が分析してもタンパク質やカルシウムが入っていることは事実ではあるが、だからといって、牛乳が日本人の食べものとして適しているかどうかはまったく別なことである。場合によっては、牛乳は下剤に過ぎない。肉や牛乳を取り入れた食生活をすることによって、良くなったはずの日本人が、母乳も出せなくなったのはおかしなことである。
 薬にしても食べものにしても、どのような成分が含まれていて、その成分がどのような役割を持っているかということを知ることは、大きな意味のあることではある。しかし、ヒトの身体はそれほど単純なものではなく、それが個々人の身体に入ったとき、1プラス1が必ずしも2にならないということを知っておかなければならない。
 分析的な考え方だけではダメだということは、このごろようやく気づいてきたようだが、食べものについても、身体全体を考えて総合的に判断することが大切である。東洋的な考え方を見直すことが健康の確保には早道かもしれない。と島田彰夫氏は述べている。


 

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生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
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池田 優

 

 

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