山ちゃんの食べもの考

 

 

その132
 

 飽食とよばれる時代にありながらも、このごろは食べるということさえも難しくなってきている。と、島田彰夫著『身土不二を考える』の中で以下のように述べています。
 「このことは、第二次世界大戦後の食糧難時代には、確かに量的に食べることの難しさの問題はあったが、何を食べたら身体にいいのか、どのようにたべれば健康にいいのか、などという食べることの難しさはなかった。何が難しくなったかというと、食べることにいちいち理屈がついてまわるようになったことである。」
 「これは、戦後の栄養改善運動が先鞭をつけたといっても良い。食糧難といわれた時代が少し落ち着きを見せて、食糧エネルギーが量的に確保されるようになると、質的な改善が叫ばれるようになってきました。その質的改善の内容は、一言でいえば「欧米並み」になることでした。何が欧米並みかというと、栄養素の摂取量であり、ご飯と味噌汁からパンと牛乳に変わることでした。
 栄養改善運動の第一歩は油いため運動で、欧米と比べて脂肪の摂取量が少ないというのが理由でした。しかし、日本人の脂肪摂取量は昔から少なかったのですが、だからといって決して健康でなかったと言うわけではありません。」


 食生活史研究家の鈴木猛夫氏は『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』の中で、第二次世界大戦後における日本人の食生活が急速の欧米化した裏には、アメリカの余剰農作物のはけ口として日本を標的にした戦略であった、と以下のように述べています。
 当時、農業大国アメリカは、小麦、トウモロコシ、大豆等の農産物の過剰生産、在庫が深刻化し国家財政を圧迫していましたが、その膨大な余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本でした。これまでのご飯に味噌汁、漬物という伝統的な食生活に代わって、パンに牛乳、肉類、油料理という欧米型食生活を日本で普及させる活動を密かに行なったのです。それが成功すれば、半永久的にアメリカの農産物が日本で消費されることになると考えたのです。
 日本では、米の増産も軌道に乗り始め、ようやく食糧難時代を過ぎた昭和30年代に入ると、アメリカは余剰農産物輸出促進法案を成立させて、本格的に日本に対する農産物輸出作戦に乗り出し、パン食普及作戦等を広範囲に展開した。主食がパンになれば、おかずは味噌汁、漬物というわけにはいかず、おのずと牛乳、畜産物、油料理という欧米型になる。その食材の供給元はアメリカであり、それを念頭においた作戦だったのです。
 パンの原料になる強力小麦は日本ではほとんど生産することはできません。日本人がパン食を始めれば永久的にアメリカの良いお得意になるわけです。パン職人養成講座やパン食普及活動のための膨大な資金がアメリカから提供され、日本人のパン食は急速に広まった。といいます。


 アメリカは日本の学校給食にパンとミルクを無償援助し、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功しました。子供の時に食べた物が一生の食生活を決めるとも言われています。アメリカはそのことをよく承知した上での戦略であり、それがゆえに学校給食への介入に非常に熱心だったのです。
 肉や卵、牛乳、乳製品などの動物性食品は栄養食品であるという教育を徹底させる必要があり、保健所などに対して啓蒙活動の資金が提供され、栄養学校では欧米流栄養学が教育されました。さらに戦前までは少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動(油いため運動)を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれました。そして、牛や豚、鶏の飼料であり、食用油の原料でもあるトウモロコシ、大豆などの農産物を売りつけることにも成功しました。
 日本における欧米型食生活普及のために、アメリカは官民挙げて膨大な資金を提供し、下工作を展開し、予期以上の大成功を収めました。これを一般に、「アメリカ小麦戦略」といいますが、日本の栄養関係者も、欧米型の食生活普及が日本人の健康向上に寄与するとして全面的に協力しました。


 「アメリカ小麦戦略」の成功で、現在日本で消費される小麦、大豆、トウモロコシの9割以上がアメリカを中心とする外国からの安い輸入に依存しなければならない状況となりました。その結果、食糧自給率は先進国中最低の4割以下でとなり、食糧安保の点からも危機的状況にあるとともに、日本の気候風土や日本人の体質に合わない欧米型食生活への偏りにとって、日本人の健康状態が非常に懸念される事態に陥ってきているのです。
 日本が手本にした欧米型の栄養学、食生活はあくまでも欧米人のためのものであって、風土も産物も体質も違う日本では決して真似すべきものではなかったのです。今こそ伝統的な日本食の良さを再認識すべき時で、戦後の栄養関係者が良かれと思って導入した欧米型の食生活かもしれないが、その路線を早急に見直さなければならない時にきているのです。


 『西日本新聞』2003年12月25日付 朝刊に、特集「食卓の向こう側<9>洋風化 文化変えた米国の小麦戦略」に次のような記事が掲載されました。
 「ついに来たか」――。昨年12月、熊本県泗水町の公立菊池養生園診療所・名誉園長、竹熊宜孝さん(68)は、長寿県・沖縄の異変を伝えるニュースにつぶやいた。
 厚生労働省が公表した都道府県別平均寿命で、かつて全国1位、前回調査で4位だった沖縄の男性のそれが26位に急落。1995年に世界長寿地域宣言をした沖縄の衝撃は大きく「26ショック」と呼ばれる。
 40年ほど前に沖縄の病院に勤務した折、肉やチョコレートなどの米国型食文化に浸り、家族ぐるみで肥満やアトピーなどに悩んだ竹熊先生の脳裏に、27年前の出来事がよみがえった。
 「日本人は米国に餌付けされた。その手先になったのが私だ。自分の教え子たちが、その政策に沿って世界に例のない一億総国際食実験をやっている。いずれ大変なことになるだろう」
 1976年、東京で開かれた「第17回農民の健康会議」。パネリストとして「医は食に、食は農に学べ」と医・食・農の連携を説いた竹熊先生に会議終了後、やはりパネリストの元国立栄養研究所長、有本邦太郎先生(故人)が打ち明けた。
 有本は46年、厚生省(当時)に新設された栄養課の初代課長。それは戦後日本の栄養行政を方向づけた責任者の懺悔だった。「もう私は退官し、力がない。取り返しはつかない…。竹熊さん、あとを頼む」
 「餌付け」とは、戦後の食糧難の時代に始まった「米国小麦戦略」のこと。栄養不足にあえぐ日本の子どもたちの命をパンと脱脂粉乳で救った学校給食の裏には、戦争終結によって輸出先を失い、小麦余剰に悩む米国の仕掛けがあった。政府は全国食生活改善協会などを中心に「栄養改善運動」を開始。56年から米国の小麦栽培者連盟などの資金援助をもとに、栄養士を乗せたキッチンカーを走らせ、全国2万カ所で小麦と大豆(油)を使ったホットケーキやスパゲティなどの粉食を広める「フライパン運動」を展開した。
 さらに「コメを食うと頭が悪くなる」とする説を大学教授が発表するなど、米国型食生活は頭と胃袋の両面から、日本人を“洗脳”した。そして今、パン食に慣れ親しんだ子どもたちが大人になり、食卓の風景は大きく変化した。
 国民一人当たりのコメの年間消費量は63キロと、この40年で半減。肉など食の洋風化(高脂質、高カロリー食)で体格は向上したものの、生活習慣病やアレルギー、アトピーなど新たな病気が急増している。皮肉にも、米国ではヘルシー食として和食への関心が高い。
 10月末、竹熊先生は九州農政局主宰の「九州地域食育推進協議会」の委員になった。暴食で患った肝臓病を断食で克服し、75年に「食で病を治す」養生園を開設。以来、医者百姓として地域医療と有機農業を実践してきた竹熊先生には「教育こそ最大の武器」という思いがある。「戦略的に食育に取り組まねば、子どもたちに命のバトンは渡せない」。命を守る闘いは、これからである。
 26ショック=沖縄県の男性は、65歳以上の平均余命は全国1位だが、それ以下の世代で肝疾患、脳血管疾患、糖尿病などで亡くなる人が多く、平均寿命(零歳児の平均余命)を引き下げた。一方、女性の平均寿命は全国1位を保っているが、平均寿命の延びはワースト2である。


 島田彰夫氏の話に戻ります。日本人は、敗戦で迎えた進駐軍を見て、その身体の大きさに驚いた。日本人も身体を大きくしなければ「欧米並み」になれない。そのためには体位の向上、食べるものも欧米並みに。先ずは栄養素を同じように、と考えたのかも知れない。
 身体の大きさの違いを割り引いてみても、当時の栄養素の摂取で、もっとも差が大きかったのは脂肪であり、食品では動物性食品の摂取量の少なさと、反面、穀類摂取量の多さであった。
 脂肪の摂取量が少なく、油炒めなどという習慣のなかった日本人のために、栄養士や生活改良普及員が、日本の隅々まで、油炒めの講習会をして回りました。欧米人と比べて脂肪の摂取量が少ないから、油炒めでも何でもして、もっと脂肪を摂るようにしましょうというのが、食べることについての「理屈」が全国的に普及した最初のものでした。
 脱脂粉乳には脂肪は含まれていませんが、学校給食から牛乳の普及が始まりました。牛乳は欧米人がたくさん飲むものであり、カルシウムや良質のタンパク質が含まれているから、という「理屈」でありました。
 学校給食にはその後コッペパンが加えられ、<ご飯と味噌汁>にかわる<パンと牛乳>という組み合わせが出来上がっていきました。ご飯と味噌汁のほうが栄養的にははるかに優れているのですが、米の不足分を援助物資である小麦粉でパンを作り補おうという、やむを得ざるものでした。しかし、この<パンと牛乳>の組み合わせは、戦後の日本人に、民主主義とともにある種の新鮮さをもって受け入れられたのです。


 戦後の混乱が落ち着くにつれて、当然のように牛乳や肉類を食べることが推奨されるようになった。もちろんここでも、欧米に比べてということが大義名分になりました。
 牛乳が身体によいものだというような考え方が定着してくると、粉ミルクの方がよいというような不思議な考えが出てきて、たっぷりと出る母乳を捨ててまで、粉ミルクに替えていくような時代になりました。「頭の良い子に育てましょう」などというミルクメーカーの宣伝につられて、産科や小児科の医者までもが片棒を担ぐようになりました。
 最近でこそ、少しずつ母乳が見直されてきましたが、ヒトの子をヒトの乳で育てるという当たり前のことさえもが、「理屈」をつけ、議論を繰り返さなくてはならないようになったのです。
 食べるということにいちいち理屈をつけることが、当たり前のように行われるようになり、そこにいくらかの数字を示したりすると、それがいかにも科学的であるかのように思われるようになりました。真実も含まれていましたが、尺度は常に欧米に求められていたため、日本人やアジア人にとってはおかしいというものや、生活感覚とかけ離れたものも少なくありませんでした。
 このような訓練を20年余りも続けられ、何事も科学的であるかのように錯覚し、真実であるかのように思えるようになってしまったのです。
 そして、長い年月にわたって築き上げられてきた日本人の食生活の体系が崩れて、何をどのように食べたらよいのかのよりどころを失った人々は、そのよりどころをより科学的に見えるものに求める以外に方法がなくなったのです。


 癌の専門家から、脳卒中の専門家から、心臓病の専門家から、いろいろな専門家などによって次々に明らかにされるさまざまな事実や情報は、人々のもっとも楽しいはずの食事の場面に、食べることへの恐怖感をもたらすようになりました。そして、その恐怖感を取り除くために、よりどころとなる「科学的」な説明(理屈)の必要性を、ますます感じさせるようになってしまったのです。
 いろいろな専門分野ごとから指摘される病気と深い関わりを持つ食品や危険とされた食品を取り除いていくと、食卓にはほとんど何も残らなくなる。
 「科学的な説明」に誤りがないとしても、各専門分野からバラバラに提供される情報は、情報の受け手である普通の消費者にとって、何がなんだかわけが分からなくなり、まじめに聞けば聞くほど混乱を起こすことになります。
 ほぼ理想的な食事、完成に近づいていたと言われる日本の食生活体系も、目先だけしか考えなかった「栄養改善」によって崩されてしまったのです。
 そして、島田彰夫氏は、もっとも基本的なことは、できるだけヒトの食性に近い食生活の体系を確立し、季節や時間のリズムに合わせて、形だけではなく実質的な食品を、できるだけよい方法で調理した質素な料理を、余計なストレスから開放されて、楽しく食べることかもしれない。現代の生活の中でもっとも贅沢なことである。と。


 人々は「なぜ、食べることが難しくなったのか?」。島田彰夫氏は言います。。
 本来、食糧を手に入れるのが難しいことはあっても、食べることは難しいことではなかったはずである。スズメの話でも述べたとおり、彼らは本能的に何を食べたらよいかを知っていて、迷わずそれを食べているからです。
 日本人だって、100年位前までは、迷わずに食べることができていたのです。それがいつの間にか難しくなったのは、さまざまな、細切れだが、科学的に見える情報が氾濫したり、商業的な宣伝によって、従来からの食生活の体系が、ある面で否定されたりしらことによると言っても過言ではないだろう。
 ドイツ人医師ベルツが、1876年東京医学校(現東京大学医学部)に赴任着任して間もない頃の日記の一部に次のようなことが記されている。
「……余等欧人教師は、必ずしもすべての欧羅巴文化を此の地に移植するのみでは無く、先ず日本文化域に存する価値多きものを検出し、之を充分な時間と注意を以て、現在と未来の急激に変化せる必要に適合するように為す事である。
 併し――これはもっとも不思議千萬の事ではあるが――今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養のある人士も、過去に引け目を感じているのである。<何も彼も野蛮至極であった>と一人が言った。他の一人は、余が日本歴史に就き質問した時に、明白に<我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ>と叫んだのである。――中略――
 国人が其の固有の文化を斯くの如く軽視する事は、国威を外人に対して宣揚する所以では無い。かかる新興日本人にとり、何処迄も重要なる事は、新奇の従来見えない施設・制度を賞讃すると同様に、自ら古代文化の真に合理的なるものを尊敬することである。斯くしてこそ、日本は外国に対し、全く独自の陣地占拠が可能なのである」
 このような表現は、ベルツの日記の随所に見られる。日本を愛し、日本人を妻とし、30年余りも日本に滞在したベルツには、超エリートの日本人青年とのこのような会話は、耐え難いことであったろう。
 自国日本を卑下し否定する人々が当時の日本の指導者となり、西欧の考え方、やり方を無批判に受け入れ、国民に押し付けていったのです。


 どの民族の食生活も地域の「自然環境を背景として」成り立っています。日本人には日本の、ドイツ人にはドイツの自然環境が、食生活ばかりではなく、生活のあらゆる面の背景となっているのです。その環境下での数千年にわたる生活の歴史の中で、試行錯誤を繰り返しながら、もっとも良い生活の仕方が出来上がってきたのです。
 これは同時に「自然環境の制約を受けて」と言い直すこともできるから、自然環境を一切考慮しない場合の理想の食生活とは、一致していない点があることはいうまでもないことです。その意味で、自然環境が変わらなかったとしても、生産技術や貿易も含めた流通の変化など、社会的な変化の中で、日本人に限らず、ドイツ人も、世界のどの民族でも、改善の余地があることも言うまでもないことではあります。
 日本人の食の営みを難しいものにしていったのは、日本人が築き上げてきた食文化を無視して、アジアには目を向けず、自然環境も価値観も違う欧米だけを目標とした、「食改善」という名の「食生活の誘導」にあったと言っても過言ではないだろう。という。


 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る