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『食は生命なり』 【91】
南清貴著 講談社インターナショナル刊
『究極の食』 より その13
第4章
オプティマル・ヒューマン・ダイエット 3
● 栄養素が満ち足りると感覚が鋭敏になる
満ち足りた栄養を摂るということは、消化に必要なエネルギーを余分に使わないということでもあります。
消化に使うエネルギーは、実は膨大なものです。
必要な栄養素を必要な分だけ摂っていると、必ず空腹の時間ができてしまいますが、この空腹の時間が重要で、心地よい時間だということはすでに解説しました。
人間というのは空腹の状態が続くと、血中のブドウ糖の値が低くなり、そのままだとエネルギーがなくなりますので生命を維持できなくなる時が来ます。
が、肝臓には約30日分、何も食べなくても生きていけるだけのエネルギーが蓄えられているといわれますから、単純に考えても、30日は死なないのです。
少なくとも一日のうちの食事と食事の間に空腹の時間があったとしても、絶対に大丈夫なのです。
むしろ空腹の時間こそ至福の時なのだと発想を変えていただきたい。
空腹の時間は本当は気持ちがいい。
ただ、現代生活ではどこでも食べものがあふれていますので、本当の空腹ではない段階でもうものを食べてしまう。
気持ちのよい空腹の時間を楽しむための条件は、満ち足りた栄養素を摂っておくことです。
オブティマル・ヒューマン・ダイエットの公式に添って食事をすればよいのです。
きちんとした栄養素を摂っていると、空腹が飢餓感に結びつかず、絶対に恐怖を伴いません。
あくまでも心地よい状態となるのです。
そういう状態が続くと、自分が感じられること、察知できることがどんどん増えていきます。
その結果、それこそ「衣食足りて礼節を知る」ではありませんけれども、他者に対する配慮、気配りが自然と生まれるものです。
言い方を変えると、自分以外の他人に興味を持つようになります。
それは「愛」の表現でもあります。
よく、愛の反対語は憎しみとか、怒りだという人がいるのですが、愛の反対語は無関心です。
無関心というのは、突き詰めるとその人が存在していないと見ることですから。
感覚が鋭敏になるというのは、他人が持っている気配だとか、その時に発している気のようなものを察知して上げられるということなのです。
それは年がら年中人の目を気にするとか、他人に依存して他人の思惑で生きてしまうとか、そんなケチくさいことではありません。
人様のことに興味を持つ、人様のことを大切に思って気配りをするということは、実は自分がしっかりしていないとできないことです。
もっと深いことを知りたい、今の自分よりもっとすばらしい自分になりたい、という心の表れでもあります。
だから向上心とか、自分を成長させようとするエネルギーが、他人の行動に対する気配りになるのです。
もっとよいことをしたい、もっと喜んでもらいたい、それが、また次の自分の表現に?がっていく。
なぜなら人間は社会的動物だからです。
どんなことであっても、人間がその表現をするということは、同時に他人に評価してもらっているのです。
小説でも、絵でもそうですが、私はこういうものですと作品を借りて表現したこと、あるいは会社の仕事として作り出した表現が、他人の役に立っているから成立しているのです。
それは深く考えてみると、人に対する気配りになるのではないでしょうか。
こういうものがあったら便利なのではないか、こういう本が、あったら喜んで読まれるのではないか・・・・・・気配りの連続だと私は思うのです。
もし一角の者になりたいと思うのであれば、自分が何を得意としているのかをまず知る必要がありますし、人様が何を望んでいるのかを察知する必要もある。
そこのマッチングが一番重要なのではないでしょうか。
私は、料理が得意なのだということにある日突然気が付いたために、おいしい料理を求めている人たちの感覚に鋭敏になることができたのです。
料理を食べてくれる人たちの感覚を察知して、試行錯誤しながらさらにブラッシュアップをかけてきたことが今の私に?がっている。
自分が本当に満ち足りて、心地よく過ごしていなかったならば、人様のことを考えることができずに、努力も上辺だけだったり、料理に不必要なことを付け加えるようなことをしていたかもしれません。
ぜひとも、きちんとした食生活で満ち足りた栄養素を摂って、空腹の時間を気持ちよく過ごしてもらいたいです。
鋭敏になることで成長し、その過程で自分が本当にやりたかったことが見えてくるかもしれませんし、今まで隠されていた自分の能力を発揮することができるようになるかもしれません。
逆に排除してもらいたいのは化学物質です。
化学物質は感覚を鈍らせる働きをしますので心を狂わせ、人様への心配りができないような自分になってしまいます。
我々はつい、自分が考えていることは自分のオリジナルだと錯覚してしまうのですが、不必要なものを削ぎ落としていくと、本当の自分の考え、本当の自分らしさというのが見えてくるようになります。
そうすると、それまで自分が考えていたこと、自分の思考が何かに支配されていたり、何かの強い示唆を受けた結果の産物であることがわかってくることがままあります。
それはとてもいいことです。
育ってくる過程で、身近な人の考え方を受け入れてしまって、それが自分の考え方だと錯覚してしまうことはよくあることなのです。
身体が整ってピュアになればなるほど、それが本来の自分の考えではないということに気付いてしまうことがありますが、それはそれでいいのです。
親は先生なり、その考えを自分に植え付けた人に対して否定的な感情を持つ必要はありません。
ましてやその考えのもとに暮らしてきたそれまでの自分に対して罪悪感や嫌悪感を持つ必要もない。
これが自分らしい考えだったな、ということに気付いたら、その日からそれを実践すればいいだけのことで、それ以前のことは新しい自分をこの日この時に作り出すために必要なプロセスだったのだと理解すればよいのです。
● 体にいいことは地球にもプラス
現在、世界の人口は約60億人と推定されています。
そのうち毎日平均一万人以上が飢餓しているという事実があります。
ところが、我々が身体にいいことをきちんと実践していくと、飢えの問題は解消できてしまうのです。
ここでは、地球にとってもプラスになる身体にいいことを、これから大いにやっていきましょうという提案をしたいと思います。
例えば、1kgの牛肉を生産するのには、なんと7kgから8kgの穀物飼料を必要とします。
つまり1kgの牛肉を作るために7倍、8倍の餌がいるということです。
豚肉1kgの場合には4kgの穀物飼料が、鶏肉1kgのためには2kgの飼料が必要になります。
我々が一日に必要としている動物性たんぱく質の量は、先にも触れましたが勧告量では50gを切りました。
1960年ぐらいには110gとか、120gだったのが、年々減って、今はもう50g以下。
実際には30gから35gぐらいでよいのではないかと言われています。
それも魚で摂るほうがよいと言われているぐらいなので、肉食をやめても何ら困ることはないのです。
自分の身体に適切なものをきちんと食べるように心掛けると、動物性たんぱく質の量は自ずと減りますから、これをみなが実践したとたんに、飼料になっていた穀物があまり、原理的には一気に世界中の飢えがなくなってしまうのです。
ですが、これがどこの国の政府も取り組もうとしませんので、日常生活の中で気付いた人が個々に実践していく以外にないのです。
大上段にふりかざして「飢えている人々を救うために肉を食べない」なんていう必要はありませんし、「地球環境を汚さないために肉を食べない」ということを大声で叫ぶ必要もありません。
自分の身体のために、動物性たんぱく質の摂取量を減らしましょう、減らす人が増えれば増えるほど同時に地球環境にとってはよいことが起きます、ということです。
先日、たまたま料理教室の準備をしながらテレビを見るともなく見ていましたら、経済評論家が食料自給率をテーマに話していました。
フランスでは何年前こうだったのが今こんなに上がっている、アメリカではもう100%を超えているのだといって、日本も食料自給率を上げるような努力をしないといけない、こんなだから中国の餃子のような問題が起きるのだとまで言っていました。
30年ほど前、日本では工業製品を輸出しておればよいので、田んぼや畑など作る必要はない、食糧は全部輸入したっていい、と堂々と言っていたのと同じ人物でしたので、やや呆れました。
それはともかく、私は終始一貫、自分たちが食べているものは自分たちの国で作るべきだと主張してきました。
ここで言う国というのは、地域、民族を束ねる一つの形式としての国です。
その地域では珍しいもの、普段食べられないものを輸入することで食べられるようになったり、それで相手国の文化を知ることができたりするのはとてもよいことだと思います。
しかし、国の根幹である食料は、きちんと自分達で作り、近い距離でやりとりがされるべきだと思うのです。
そのほうが利便性が高い。
食料の自給率がぴったり100%なんてことはありえませんから、110%の国があれば、90%、80%の国もあるかもしれない。
でも、40%というのはあまりにもひどい数字です。
今からでも、きちんと生産を増やしていかなければなりませんが、生産量を増やすということは農業に従事する人たちの数を増やすということで、それはとりもなおさず農業で生活が成り立つようにしておかなくてはならないということです。
今は農業だけでは暮らしが成り立ちません。
こんな状態のままで食料の自給率だけを上げろなどということはできないのです。
自分達が食べるものを身の回りで作ってもらうためにはそこに当たり前のお金を投じ、そうすることでまずその環境を整えなければならない。
それが自分の身体にとってよいことに繋がり、ひいては地球にとってもプラスになることに?がっていくのです。
私たちの国は、水田を中心に国を成り立たせてきたのです。
水田は、もちろん米を作るために欠くべからざるものではありますけれども、平地が少なく山坂の多い地形をうまく利用しながら米の収量を増やしてきたわけで、日本人の知恵の源でもあったのです。
治水灌漑事業でもあり、文化を育む場でもあった。
ただ自給率を上げるというだけでなく、こういった部分も見逃してはいけないのです。
例えば、水田のまわりにはたいてい大豆が植わっていました。
マメ科の植物は根っこに根粒菌という菌を発生させますので、それが空気中の窒素を固定し、稲の窒素栄養素になって循環していたのです。
これもひとつの文化ですし、受け継がれてきたシステムをきちんと大事にしなければならないのに、そこには目を向けずにただ食料の自給率を上げることだけに血道を上げると、結局は工業製品化という方向に進んでいかなければならなくなり、農業自体を大規模農業に変革していこうという動きになってしまいます。
それはそれでもしかしたら収量を上げるために必要なことかもしれませんが、しかし山坂の多い日本では、そもそも本格的な大規模農業は不可能です。
効率が悪いことを承知の上で農業のあり方を模索しなければならない国なのです。
やはり百姓仕事は大変ですから、機械化したり、科学的な肥料で収量を上げるなど効率化を図ることもある程度は必要だと思うのですけれども、必要以上に合理化してしまうと間違いも起きます。
人間はロボットではありませんので、食べものを工業化すればするほど食べる人間の健康レベルが下がるのです。
そこに消費者がきちんと目を向けて、労働に見合った対価をきちんと払うという姿勢を持たないと、今後の農業は育っていかないと思います。
ですが、自分の身体によいことを実践するという態度をとり続けていけば、それが結果的にはわれわれの身体を整えることに繋がり、飢えている人たちを救うことになり、という発想の広がりを持てるようになるのではないでしょうか。
遠い国の民族がどうなろうと自分とは関係がないと勘違いしてしまいがちですが、この星で一緒に住んでいる以上、やはり一体だと思います。
もっと広く、この宇宙に存在しているものは、どこかで必ず有機的な繋がりを持って生きています。
自分の国だけ、自分の地域だけ、自分の家族だけ、又は自分ひとりよければいいということは通用しませんし、そういう時代ではなくなる。
もっともっと視野を広げて、整った身体で自分に与えられた使命をまっとうし、表現することが即、他の人の役に立っているという生き方を学ばなければ、地球上の平和な暮らしは守っていけないのではないでしょうか。
今も、富と貧困のバランスが大きく崩れてきていますし、その歪みはある力を持ち始めます。
それが炸裂する前に、政治的な力で抑え込むのではなく、日々の暮らしの中で、当たり前のことを当たり前にすることによって世の中の平和を守る、そういう主体的な意識を持つことが重要な時代が来ていると考えます。
私がオブティマル・ヒューマン・ダイエットを提唱するのは、この公式を多くの人が実践するだけで、よい環境が生まれ、必然的に地球上の平和が実現されると信じているからでもあります。
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