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人間は食べるものによって決まる!
冷涼な高原で丹精しました!
安全安心のおいしさを!
長野県川上村 ナチュラルファーム
関 拓二さんの
有機栽培白菜
有機栽培キャベツ
「人間は食べるものによって決まる。
野菜を作っていると、
土に入れるものや作り方によって、
野菜の味は変わってくる。
それと同じで、
人間も食べるものによって
健康になったり病気になったりしてしまう」
生産の匠・関拓二さん言葉です。
野菜本来の旬を大切に、
安心・安全な農産物を通して、
食の重要性を伝えていきたいという。
関拓二さん、川上村で有機JAS認証を取得している高原野菜生産者です。
20年前から無農薬栽培に挑戦し、レタス・キャベツ・ほうれん草等を栽培されています。
まずキャベツと白菜をスタッフみんなで生で食べてみました。
甘味が多く、爽やかな美味しさに、試食したみんなが感動の声を上げました。
さっそく、当日の昼食のおかずに。
キャベツは大きめにざく切りにし、自然塩を振ってバリバリ食べました。
白菜は無添加の有機味噌でお味噌汁に。
「美味しい、美味しい」と笑顔で話が弾みました。
有機JAS認証を取得している関さんは、
「慣行農法に比べると、有機栽培だと確実に虫がつきにくいと思う。たとえ虫が発生しても広がらない。
農薬を使ってしまうと虫が危険を察知して、子孫を残そうと一面に広がってしまう」
「有機農法の魅力を伝え、今後も、安心・安全な野菜づくりを続けていくし、そういう野菜を求める人たちのもとへ届けていきたい」という。
■ 八ヶ岳ナチュラファーム
そもそも川上村でレタス栽培が始まったのは昭和30年代。
戦前の日本にはサラダを食べるという習慣がなかったが、戦後マッカーサーの指示のもと食の欧米化が進み、レタスの需要も伸びた。
標高が高く冷涼な気候の八ヶ岳はレタスやキャベツといった葉物の栽培に最適で、年間気温差50度という寒暖の差が美味しさを生む。
中でも川上村は品質も良く、一番の産地に。
夏の間、畑仕事に精を出せば、冬の間は温泉で暮らせるというほど収入も良く、ブランドとして定着した。
しかし産地ということはそれだけ安定供給を求められ、単一の作物に頼る栽培を続けるということでもある。
昔は一作だった栽培が年二回になり、連作障害を防ぐために大量の化学肥料と農薬の投入が必要とされる。
年によって変動する価格に対抗するためには数量で勝負しなければならず、農家はリスクを減らすため機械的に防除の散布を行う。
「でも、土壌消毒剤も化成肥料も植物が根から吸うもの。洗っても落ちない。人の口に入るものを、そんなふうに作ってしまっていいのだろうか、と。」
そういった同じ想いを抱く川上村の生産者5人が集まって、JAの中で『有機部会』が発足したのが今から約15年前。
その後独立し、高原野菜の有機・特別栽培農産物に取り組む生産者連合『八ヶ岳ナチュラファーム』は誕生した。
「有機に切り替えれば、今はほぼ100%の出荷率が確実に70%には落ちる。
そのリスクに耐えようとは思わないのでしょうね。」
しかも近年の異常気象で、高地と言えども今後病害虫が発生するリスクは高まるだろうし、露地栽培のレタスは雨に弱く、キンカク病等の細菌にやられやすい。
そんな中、農協から離れ、自らの生活を賭けて「本物」を追求する生産者は、決して多くはない。
「有機栽培にとって、一番の防除は土づくり。
ここは標高1300〜1500メートルはあるため虫の被害はほとんどなく、そういった意味では恵まれているんです。
だからこそ化成肥料に頼らず、有機質肥料(ボカシ)や堆肥で土づくりをして、いいものを作りたいと思う。
自分でいいものを作ろうという意識があると、それが味にも出てくるんです。」
関さんのレタスも、畑によって味が違うと言う。
きっとその時々の関さんの想いが反映されているのだろう。
有機栽培の関さんの畑では、様々な命が共存し、それがいいエネルギーとなって場を包み込んでいるようだ。
「この間もね、畑のマルチをはったところでヒバリが卵を産んでたよ。
やっぱり居心地がいいのかなあ、ってさ。
農薬で追い出された虫たちが、他の畑からここに集まってくるのにはちょっと困るけど(笑)」
高原野菜発祥の村
川上村は 標高1,100m以上1,500m位の千曲川の源流高冷の地に八つの集落で形成されています。 往時よりこの村はわずかばかりの水田と畑に依る農業及び林業とによりなりわいをなしていましたが 高冷地の宿命として常に冷害に脅かされ 窮乏な生活を余儀なくされていました。 現在この村の高原野菜の生産量は全国一を誇り 農家一戸平均収入も全国最高位とされ 昭和48年には朝日農業賞56年には天皇杯を受賞するなど高原野菜の村として比類なき実績を誇っております。
この栄誉の陰には 春風秋雨の永きに亘って不毛の地をたがやし厳しい気象とたたかい幾多の困苦にもめげず,営々として郷土の発展をねがい乍ら高冷地農業を実践してきた多くの先輩篤農家達又ついに報われること無く長逝された先駆者 更に日夜を分かたぬ熱意をもって川上農業を導いた指導者など 数多くの人達の実績があったことを とこしえに忘れることはできません。
いま深甚なる意を表するものであります。
■ そろそろお鍋はいかがですか?
● 豚肉の白菜鍋
体がぐんと温まります。
白菜の量を控えて、白菜キムチを加えてもおいしいですね。
白菜の甘さが引き立つシンプルな鍋です。
《材 料》 (4人分)
豚薄切り(肩ロース)・・・500g 白菜・・・1/2株 昆布・・・10cm
酒・・・1カップ 塩・・・小さじ1 水・・・適量 ポン酢・・・適量
七味唐辛子・・・適量
《作り方》
1、白菜は土鍋の深さに合わせた長さに切る。 2、土鍋に昆布をしいて、白菜を縦に差し込んでいく。
かなりぎっしり詰めるのがコツ。白菜の間に肉を詰めていく。
3、酒を注ぎ入れ、全体に塩をふり、土鍋の七分目まで水を注ぐ。
4、土鍋にフタをして中火にかけ、煮立ったら弱火にして15分くらい煮る。
5、ポン酢、七味唐辛子をかけていただく。
● 常夜鍋(じょうやなべ)
毎日食べても飽きないという鍋でこの名がついたという。
《材 料》 (4人分)
白菜・・・8枚 ほうれん草・・・1/2束 豚バラ肉・・・300g 豆腐・・・1丁 生姜・・・適量 ねぎ・・・適量 だし汁:しょう油・・・6:4の割合
酒 昆布・・・適量
《作り方》
1、鍋は、下に昆布を入れ、白菜、ほうれんそう、豚の順に入れ、また、この上に 白菜、ほうれんそう、豚、豆腐を入れる。
2、(1)に酒1/3ぐらいの量を入れ、火にかける。
3、だし汁[6]:正油[4]のつけ汁に生姜・葱の薬味で食する。
《ヒント》
豚にはビタミンB1が豊富なので、疲れた時などによい。 体があたたまり、リラックスできる。 ● 白菜と柚子七味の味噌汁
《材 料》 (2人分)
1、白菜・・・目安は大きな葉1枚ですがお好きなだけ 2、だし汁・・・カップ2.5
3、味噌・・・(出来れば赤味噌と白味噌をあわせたもの)大さじ1.5 4、柚子七味 《作り方》
1、白菜を一口大にカットする (芯の部分は薄切りか少し小さめに)
2、出し汁で白菜が柔らかくなるまで煮、火を止めてから味噌をとかす 3、器に盛ってから、柚子七味をかけて出来上がり 《ポイント》
・ 味噌汁に共通して言えることですが、味噌をいれてから沸騰させては味噌の風味が飛んでしまいます。
味噌をとかしてすぐ火を止めるか、火を止めてから味噌を。 ・ 柚子七味がポイント
柚子の風味と、ぴり辛が、白菜の味噌汁にぴったりです。 ■ 平均年収2500万円の農村
― 長野県川上村
JUGEM より
■ 1.「信州のチベット」が「明るい農村」に
山梨県、埼玉県、群馬県との県境にある長野県川上村。 西に八ヶ岳連峰が聳え立ち、東、北、南もそれぞれ2千メートル級の山々に囲まれ、かつては陸の孤島、信州のチベットと呼ばれていた。
村の平均標高は1270メートル、真夏でも平均温度20度前後、冬はマイナス20度近くまで冷え込む寒冷な高地である。 そのため稲作や果樹の栽培には適さず、昔は猟や林業で細々と生計を立てていた。
千曲川の源流もここに発し、島崎藤村は『千曲川のスケッチ』で川上村を「信州の中で最も不便な、白米はただ病人にいただかせるほどの貧しい荒れた山奥の一つ」と記していた。 その村がいまや平均年収2,500万円もの豊かな農村に生まれ変わっている。 年収ばかりではない。 多くの農村が過疎と高齢化に悩まされている中で、川上村の出生率(一人の女性が一生に生む子どもの人数)は1.83と、全国平均の1.34どころか、県別トップ沖縄県の1.75すら上回っている。
川上村では、農業を継ぐ若者も多く、農業従事者のうち、30代、40代が約37パーセントと、全国平均の9.4パーセントを大きく上回っている。また7割の嫁が東京などの
都会から嫁いできて、3、4人の子どもを生み育てている例も多い。 日本全国の農山村が川上村のように活気ある「明るい農村」に生まれ変わったら、我が国もどんなにか住みやすくなるだろう。 今回は、川上村の変革がどのようになされたのか、追ってみよう。
■ 2.期待、安心、そして夢を運ぶ村営バス 川上村の変革をリードしたのが、村長・藤原忠彦さんである。 藤原さんは昭和13(1938)年、川上村の農家の次男として生まれた。
父親が若くして亡くなり、長男は東京の大学に進学したばかりだったので、藤原さんが高校を中退して農業を継ぐ事になった。
「家の犠牲になった」という意識もあって、東京に出ては遊び回っていた時期もあったが、昭和36(1961)年に転機が訪れた。
農林省による寒冷地対策事業の一環として、大型トラクターが導入され、その運転手として村役場の臨時職員に採用されたのである。
機械好きで、村では珍しく大型特殊免許を持っていたのが、幸いした。
藤原さんはトラクターを運転するのが楽しくて、村中の畑を耕した。
その姿を見て、当時の村長が正規職員にしてくれた。
昭和57(1982)年、藤原さんは44歳で企画課長に昇進した。
この頃、村では人口減少と過疎化が進んでおり、唯一の民営路線バスも赤字続きで、廃止が決まっていた。
「路線バスが廃止されれば、村の安心感がなくなり、過疎に拍車がかかる、なんとか存続させたい」と藤原さんは考えた。
そこで路線バスを村営化し、さらにスクールバスや幼稚園送迎バスと併用することで黒字化する、という案を作った。
しかし路線バスは運輸省管轄、スクールバスは文部省管轄と監督省庁が異なり、前例もないので、なかなか認可が下りなかった。
藤原さんは関係部局に夜討ち朝駆けの説得を行い、やがてその意気に感じた役人が、遂に認可をしてくれた。
この方式で村営バスは黒字化に成功し、以後、全国的にも「川上方式」として有名になった。
藤原さんが幼稚園の卒園式に招待された時、一人の子どもが「ぼくは大きくなったら村営バスの運転手になる」と言った。
これを聞いて、藤原さんは、「バスは単に人を運ぶだけではなく、人々の期待や安心、そして夢をも運ぶものなのだ」と実感した。
■ 3.ケーブルテレビで農村の情報化 企画課長として、次に取り組んだのが、農業の情報化だった。 川上村は、食生活の欧風化の波に乗って、レタスの出荷を行っていたが、東京市場では新興産地のレタスに価格面で後れをとりつつあり、何らかの対策が必要だった。
その柱が情報化だった。
正確な気象情報があれば、的確な農作業が可能になり、また市況情報により価格が高いときにタイムリーに出荷できる。
川上村は地上波テレビの難視聴地域でもあったので、まずケーブルテレビ(CATV)の導入を図り、これを利用して農家向けに情報を流せないか、と藤原さんは考えた。
これには数億円の予算が必要になるが、藤原さんは農水省に補助金を出して貰えないか、と掛け合った。
答えは「ノー」。
有線テレビはダメだという姿勢だった。
しかし、村営バスを実現した経験から、藤原さんはまたも夜討ち朝駆けをくり返し、その熱意にほだされた役人が「どうにか挑戦させてあげたい」と、とうとう法律改正までして補助金を出してくれた。
昭和62(1987)年、村の全世帯にケーブルが敷かれ、テレビ放送が流されるとともに、翌年から村独自の情報提供を始めた。
気象情報としては、村内3カ所に設置した気象観測ロボットからデータを集め、地区ごとに最高最低気温や降水量を提供している。
市況情報としては、毎日、過去数日のレタスの出荷量、単価が一目で分かるようにした。
農業経営として必須の情報が得られるので、視聴率は100%となっている。
川上村の607戸の農家の高原野菜の平均販売額は25百万円(平成19年)。
農業では高収入を得られないという日本の常識を完全に覆している。
■ 4.海外との交流 CATVの放送が始まる直前、藤原さんが予想もしなかった事が起きた。 親交のあった若手の農業後継者グループが、村長選に藤原さんを推薦したいと言い出したのである。
彼らが村民の過半数を超す支持署名を差し出した時、これはもう逃げるわけにはいかない、と立候補を決意した。
昭和63(1988)年2月、藤原さんは無投票で村長となった。
「これも宿命かもしれない」と、川上村の発展に向けて新たな闘志が湧いてきた。
藤原さんは、村長として精力的な村作りを進めた。
その中には、高齢者対策として大浴場、診療室などを備えた「ヘルシーパークかわかみ」の設立もあるが、特徴的なのは若手村民を対象にした人材育成事業だろう。
その一つに海外との積極的な人材交流がある。
カリフォルニア州で農業の盛んなワトソンビル市と姉妹都市提携を結び、冬の農閑期を利用して、交流を行っている。
こうした機会を通じて、村民の多くが海外研修やホームステイなどの海外体験をしている。
グローバルな感覚を持った村民が増えて、レタスの海外市場も開拓されつつある。
台湾ではアメリカ産のレタスよりも「品質が良い」と売れ行きは好調で、さらに香港、上海、シンガポールへの進出も計画されている。
■ 5.独自の村づくりを目指して 藤原さんが村長に就任する前年の昭和62(1987)年、総合保養地整備法、いわゆるリゾート法が成立し、地域振興策として各自治体がこぞって、ゴルフ場やテニスコート、スキー場、はては大型宿泊施設を備えたリゾート開発に乗り出した。 藤原さんは、ブームに乗ってゴルフ場やテニスコートを作っても農村文化の発信にもなっていなければ、地に足のついた観光振興にもつながらないと思った。
そこで、長野県がリゾート法の計画を策定した際、川上村も重点整備地区に指定されていたのを、あえて返上した。
全国どこにでもあるようなリゾート施設で地域振興を目指すのではなく、従来からの農村の文化を大切にし、人間性豊かな生活を享受できる村にしようと考えたのである。
リゾート法の次に国がとった政策が、「ふるさと創生事業」だった。
昭和63(1988)年から翌年にかけて全国の市町村に1億円が交付され、それを自由に使って各自治体が自ら創意工夫をして地域づくりを進めよ、という趣旨だった。
「何をしたら村づくりに役立つか」「村独自のものができるか」と考えて、藤原村長が始めたのが「川上村ふる里村塾」だった。
■ 6.人材育成をためらっていては将来に禍根を残す 「川上村ふる里村塾」は、村民が運営し、コンサートや演劇鑑賞、文化講演会など本物の芸術文化に触れる機会を設けることで、心の豊かさを築く文化活動を目指した。 こうした活動には、そのための施設が必要で、「川上村文化センター」の建設を計画した。
最大500名まで収容可能な多目的ホール、150インチの大画面を備えたハイビジョ
ンシアター、村の自然や歴史を展示する資料館、24時間オープンの図書館と、充実した施設を目指したので、その予算額も20数億円になった。 この金額は、当時の村の予算総額の半分に相当したので、反対の声が強かった。
「そんなものにカネを使うのなら、レタスの保冷倉庫を建てたほうが村のためになる」という声には、藤原村長は「農業への投資は後回しにしても取り返せるが、いま、川上村の人材育成をためらっていては将来に禍根を残す」と答えた。
また「夜間無人の24時間オープンの図書館では、何十冊もの本が盗まれてしまう」という反対には、「1日に何十冊、いや何百冊盗まれてもかまわない。むしろ、盗んでまで本を読みたいという気持ちが生まれるなら歓迎したい」と、持ち前の熱意で説得につとめた。
こうして建設された「川上村文化センター」で開催される「ふる里村塾」は、今では100回以上を数える。
村民主体の運営が評価され、平成5(1993)年には「長野県地域づくり大賞」を受賞した。
24時間オープンの図書館は約6万冊の書籍のほか、CD、ビデオ、DVDなども備え、幼稚園以上の全村民がIDカードでいつでも借りることができる。
利用率は長野県でも上位にランクされており、村民の生活にしっかり根付いている。
■ 7.「おじいちゃんが植え、 お父さんが育てた木を子どもが使う」
川上村はカラマツなど天然木の宝庫でもある。
カラマツは生長が早く、炭坑の坑木や電柱用材として、近代日本の工業
化に重要な役割を果たした。 しかし、高度成長後は安価な輸入木材に押され、「このままでは村の林業、ひいては脈々と受け継がれてきた森林文化が廃れてしまう」と藤原さんは強い危機感を抱いた。
そこで「川上村林業総合センター」を平成9(1997)年8月に設立した。
カラマツ材をふんだんに使った木造2階建ての建物は、森林と林業について学ぶスペースと、森林組合の事務所からなっている。
林業の復活には需要開発が不可欠だ。
カラマツは建築材料としては、スギやヒノキに比べて「そり」や「まがり」が出る、乾燥させるとヤニが出る、といった欠点があった。
川上村ではこれらの欠点を補う品種改良や乾燥技術開発を進め、外壁やサッシ、化粧合板、フローリング材を供給するようにした。
こうした努力が実を結び、都会からやってきて川上村で林業に従事する若者が増えてきている。
平成20(2008)年7月、村の中学校の校舎がカラマツ材で新築された。
その建設では村の子供たちも、大人と一緒に木を伐採した。
「おじいちゃんが植え、お父さんが育てた木を子どもが使う」という形が実現したのである。
■ 8.地方が活力を取り戻すために こうして川上村は農業を継ぐ若者も多く、また都会からも嫁を迎えて、子どもたちで賑わう「明るい農村」になった。 情報化に支えられたレタス生産による豊かさ、「ふる里村塾」や24時間オープンの図書館による文化的な生活、さらに、自分たちの村に対する誇りと愛着が、若者を川上村に引きつけているのだろう。
藤原村長は、著書をこう結んでいる。
地方が再び活力を取り戻し、住民の生活が豊かになれば内需拡大につながり、同時に少子化にも歯止めがかかります。
というのも、都市よりも地方のほうが子育てをするには、自然豊かで地域のコミュニティもしっかりしており、また住宅も広いというように恵まれた環境にあるからです。
実際に私の村では、出生率が高水準を維持しています。
都市のエネルギーと地方の、とりわけ農山村が有している豊かな自然、これが融合したときに、日本は本当に暮らしやすい社会へと変貌していくものと私は確信しています。
だからこそ、そんな理想の地域づくりを実現するために、今日も走り続けているのです。
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![]() 石川県認定 |