美味しい季節を迎えます。

柔らかく、香りがよく

特有のぬめりがいっぱい

甘みがたっぷり

大桑 宮崎一男さんの

金沢甘ねぎ

 

 

● 昔からあった“じわもん”(自家用)から選抜したんや

とにかく柔らかい、優しい甘み、香り。あまり辛くなくて食べやすい。

刻みネギにして鰹節と醤油で何ぼでも食べられる。うどん、そば、みそ汁、鍋物はもちろんだが、煮物もいい。

 

 ところで、この「金沢甘ネギ」。この土地に昔からずっとあったもので、自分たちが食べて一番うまいと思ったから“じわもん”(自家用)に作り続けてきた。

品種改良などが進みいろんな立派なネギがでまわるが、見栄えや作りやすさなどが優先されるためか、自分が食べるものとしては、やっぱり昔から作り続けてきたものが一番いい。

 

「こんなうまいネギ、何とかならんもんか」ということになった。

そこで自家用の中から選抜を重ねてようやくこれならという苗作りができた。

想像以上に好評で契約のスーパーからもたいへん喜ばれている。契約栽培で一般市場には流れない。

 

● 宮崎さんのおすすめは「焼きネギ」

今では、ネギも一年中出回っていますが、宮崎さんのネギはこれから2月の冬季。

厳寒期向かって甘味と柔らかさ、特有のヌメリがどんどん増してきます。

葱独特のツンとする匂いは硫化アリルというもので、乳酸を分解する効果があり、「命のビタミン」といわれるB1の吸収を10倍も促進するといわれています。

B1が不足すると、イライラする、根気がなくなる、冷えるなどの症状が起こります。

葱の辛みの部分は発汗作用があります。

また、魚や肉の臭みを消したり、殺菌する効果もあります。

 

● 宮崎さんのおすすめは「焼きネギ」

宮崎さんのおすすめの食べ方を聞いた。

1、 長ネギを半分の長さに切る

2、 火にかけたあみの上で、ネギを転がしながら焼く。

3、 焼けたところの醤油をからめてたべる。

4、 焼きすぎないこと。やや半生状態が甘い。

5、 焼きながら食べる。酒の肴に最高。

 

これからは、鍋物の実や汁物の実には欠かせないし、そばやうどんの薬味には欠かせない。ラーメンのトッピング、冷奴のトッピングや納豆のトッピングに刻みねぎ、お吸い物の刻みねぎ。ねぎみそもいい。

 

 

●ねぎの歴史

原産は中国西部、シベリアとされています。

日本では奈良時代ごろから食用していたようです。

関東では白い部分を食べる白ねぎ、関西では葉の緑の部分を食べる葉ねぎが好まれていましたが、近年では、料理にあわせて使い分けるようになりました。

 

●白ねぎの栽培方法

ねぎの緑色の部分は地上にでているところです。

葉ねぎは、ほとんどの部分が地上に出ており、栽培方法も想像がつきますね。

では、白ねぎはどうやって栽培するのでしょうか。

白ねぎの白い部分は、もちろん土の中で太陽にあたらずに育ったから白いままなのです。

まず、畑に溝を掘り、この溝の部分にねぎを植えます。

ねぎの成長に合わせて溝に土を入れていき、常にねぎの葉の部分だけが地上に出ている状態にします。

溝が埋まって平らになってしまったら、こんどは土を盛り上げていきます。

こんな感じで白くてやわらかい白ねぎが出来るのです。

 

●ねぎの選び方・保存方法

白い部分と緑の部分がはっきりしているものが良いといわれています。

白ねぎは白い部分が硬くしまっているもの、葉ねぎは先の方まで緑色が鮮やかなものを選びましょう。

葉ねぎは、出荷の途中でも上に向かって葉がのびてくるので、横にしないで縦にして運ばれるそうです。

保存方法は、新聞紙などで包み冷蔵庫へ。

束で売られている泥付きのねぎは葉を少し出して、斜めに土に埋めておくと長持ちします。

お庭がない場合でも、新聞紙などで包み、葉を少しだけ出して立てておきます。

 

●ねぎの栄養

ねぎにはビタミンA、C、カルシウム、βカロチンなどが含まれています。

もちろん、葉ねぎと白ねぎでは栄養の含有量が違い、緑色の葉ねぎの方が太陽にあたって育った分、栄養豊富なようです。

また、タマネギにも含まれている「においの素アリシン」が含まれています。

アリシンはビタミンB1の吸収を助けてくれるので、ビタミンB1を多く含む食品と合わせると効果大。

アリシンは、時間がたつと減ってしまうので、食べる直前に調理する方が栄養を無駄なく摂れます。

ちなみに、アリシンはにおいの強い白ねぎの方に多く含まれています。

また、アリシンには血行をよくし、疲労物質である乳酸を分解する作用があるので、肩こりや疲労回復にも効きます。

 

●ねぎパワー

今では一年中食べられますが、ねぎは冬の野菜です。

冷えた体を温め、疲労回復に効果のある野菜といわれています。

風邪をひいた時は、ねぎと少量の味噌・しょうがに熱湯を注いで飲むと、体が温まり、発汗が促されて熱が下がるといわれています。

風邪だけではなく、冷え性の方にも効きそうですね。

ねぎ特有のにおいは、肉や魚の臭みをとり、薬味として使っても食欲増進に効果があります。

鍋にするときは、葉ねぎは食べる直前に入れ、あまり火を通さずに食べるのが栄養を効果的に摂るポイントです。

刻んだねぎを冷凍保存して、毎回使う分だけを解凍すれば手間は省けますが、細かく切ったものを保存すると、ねぎのにおいパワーはなくなってしまいます。出来れば、使うたびに刻んだ方がねぎの風味もよく、栄養も摂れます。

もちろん、加熱すると栄養が減ってしまうので、電子レンジには入れずに自然解凍がオススメですよ。

 

 

■ 相馬暁先生  ネギの話

1.ネギの古里とその名の由来

1)中国の古書に登場する「葱」は「キ」の一字

ネギは、世界的にみますと、主に北半球に分布し、約300種も品種があります。

特に中央アジアの高山に野生のネギが多く存在します。

この高山の一つ、パミ〜ル高原を中国語で葱嶺と呼ぶほどです。

この高原で釈迦が修行を行ったと伝えられていますので、仏教の事を葱嶺教とも言います。

 

ネギの原産地は、かつてはシベリアと言われていましたが、現在では否定され、中国の西部、中央アジア北部からアルタイ、バイカル地方であろうと、推測されています。

有史以前から、中国に伝わり、華北・東北地方を中心に、軟白した白根を主として利用する太ネギ群が分布し、華中・華南・南洋地方には、葉を主として食べる葉ネギ群が発達しました。

また、華北・華中を中心に、万能型の兼用種が古くから栽培されていました。

 

中国では、紀元前からネギに関する記録が見られます。

古書、山海経(中国古代の神話と地理の書)や礼記(五経の一、古礼に関する説を集めた書)に、ネギは「葱」の字で登場し、礼記にはネギの料理法が書かれています。

また、爾雅(古代中国の字書)などにはネギ属の基本名として「葱」を当て、また、「胡葱」など渡来種と区別し、「漢葱」の語があります。

斉民要術(中国の最古の農書)には、ネギを軟白するための土寄せについて、記載されています。

 

ヨ〜ロッパに渡ったのは、かなり遅く、16世紀の文献に初めて登場しています。

アメリカにはさらに遅く伝わり、19世紀と言われています。

ただし、現在に至っても、あまり普及していません。

 

2)日本伝播

日本への渡来は、朝鮮半島を経て8世紀以前と言われています。

もっともネギは、古代には神事や祭事の時に、神に捧げる野菜として使われていましたので、もっと早く入っていたのかも知れません。

ネギの名が記録に初めて登場するのは、8世紀に編纂された歴史書「日本書紀」で、仁賢天皇の六年(493年)の記述で、「秋葱」(あきぎ)という言葉が出ています。

また、平安時代の日本最古の本草学(薬物になる動植物、鉱物に関する学問)書であります「本草和名(深江輔仁:918年)」や「延喜式(藤原忠平:927年)」にも、ネギの説明と栽培法が記されています。

 

戦国末期の伊予の国の農書・清良記(土居清良:1546〜1629年)にもネギは見られますし、江戸時代の農書・農業全書(宮崎安貞:1697年)には、詳細に栽培法が述べられています。

また、和名を「キ」と言い、「キ」は文字が一文字であるので、後世「ひともじ」と言う様になったとあります。

また、貝原益軒の「大和本草(1709年)」には、ネギによって死人を蘇らせる話が紹介されています。

 

かつてネギは、薬用に用いられたのみならず、呪術的色彩をも持っていたのです。

それ故に、神事や祭事に使われていたのです。

 

3)葱と言う文字の意味するところ

葱根と書いて何を意味するか、ご存じですか

ネギ類の植物(ネギ属)を、英語ではアリューム属と称します。

このアリュームの語源は、臭う(olere)とか、強く臭うもの(halium)とか、ネギ属特有の臭いに由来します。

東洋でも、ネギは古名をキ(紀、奇、気など)と言い、特に、臭いが強いものと言う意味で、かっては「気」と呼んでいました。

「気(き)」一文字の名称にちなんで、今でも、ネギを「ひともじ」とも称します。

なお「ひともじ」は、平安時代の宮中の女房(女官)言葉に由来し、同様な意味で、ニラのことを「ふたもじ」と言います。

「キ(葱)」の根の部分を食用とすることから、「根葱(ねぎ)」と呼び、「根深(ねぶか)」とも言いました。

なお、英語ではWelsh Onion或はSpring Onionと言います。

 

また、漢字の「葱」の一字は「ねぎ」以外に、「ソウ」とも読まれます。

元々、葱の字は、ユリ科の多年生草本で、野菜の一種でありますネギを示しますが、「蒼(ソウ)」の文字と同じく、浅い青色を意味したりもします。

それで、ネギの白と書いた葱白(ソウハク)が葱の白根でなく、最も淡い藍色を指し、ネギの根は葱根と書きます。

なお、後漢末の有名な漢詩「孔雀東南飛」に「指は葱根を削るが如し、口は朱丹を含むが如し」と詠われた様に、葱根とは女性の白い指の譬えでもあります。こうなると葱の文字も色気が出てきますね。

 

2.ネギの生態と特徴

1)日本人に愛されるネギ、西洋人の好むリーキ

ネギ、あるいはネギ類と呼ばれる一群の野菜は、単子葉植物綱・ユリ目・ユリ科・ネギ属(Allium)に属する植物達です。

なお、ユリ科の植物にはネギ属を始めに、ユリ属、スズラン属、エンレイソウ属、その他240属、約4,000種の植物が含まれます。

なお、ネギ属に属する植物は、ヨーロッパ、アジア、北アフリカ、北アメリカなど北半球の温帯を中心に、約450種存在します。

その内、わが国に18種存在します。

 

ネギはもとは宿根性作物ですが、一〜二年草として栽培されています。

暖地における一般的な栽培では、葉は秋から春によく生育し、晩春から初夏にかけて、葉の間から中空の花軸を伸ばし、頂に白緑色の鐘形の小花を球状に集めたネギ坊主(花)を着けます。

地下部の葉鞘(一般的に言う根)は白く、土寄せなど栽培法によっては、50cmにもなります。

北海道など寒地では、一年草として、春に苗を定植し、晩春から夏、秋に収穫します。

葉は中空の管状で、高さ30〜60cmになり、先はとがり、地中の葉鞘(ヨウシヨウ:葉が重なりあって茎に見える部分)は葉が幾重にも重なっています。

 

先に述べました様に、中国西部からシルクロード沿線にかけての地域が原産地と言われていますが、未だ野生種が発見されていないため、確かなことは分かりません。

元々は温帯の野菜ですが、寒さ、暑さに強く、アジアでは寒帯から熱帯まで広く栽培されています。

また、簡単に採種できることから、古くから日本各地で栽培している内に、それぞれの地方に合った多くの品種が作り出されました。

 

今やネギ属は、世界各地で、野菜、花、薬草として栽培されています。

その内、野菜として栽培しているものは、ネギ、タマネギ、ニンニク、ラツキョウ、ニラ、アサッキ、ワケギ、リーキやヤグラネギなどがあります。

西洋では、主として、タマネギ、ニンニク、リーキ(西洋ネギ)が栽培され、食卓を飾っています。

一方、ネギ、ラッキョウ、ニラ、アサッキは東洋独特の作物で、西洋人には馴染みの薄い野菜と言えます。

 

リーキは西洋ネギとも呼ばれますが、実はネギとは別種の植物です。

葉は管状ではなく扁平で、明治時代に日本に導入されましたが、日本にはよく似た下仁田ネギがあることから、一般には普及しませんでした。

もっとも、リーキと言う名は知らなくても、最近、ポロネギとか、ポワロと言う名前でフランス料理店のメニューに見かけるようになりました。

今のところは輸入品が多く、オーストラリア、ベルギーから主に入荷しています。

ヨーロッパでは何故か、「貧乏人のアスパラガス」と呼ばれて広く使われている野菜です。

日本でも、新しい西洋野菜として再認識されつつあります。

ところで、ポワロと言えば、名探偵を思い出す方もいますね。

そうです。ベルギー生まれの彼の名探偵の姓は「西洋ネギ」だったのです。

 

2)日本のネギの仲間(品種)とその特性

(1) 昔は関東の根深ネギ、関西の葉ネギと言ったが、今は・・・

現在、日本人が食べているネギは大きく分けますと、

(1)長くて太い葉鞘部を、土寄せ、軟白し、その軟白部を利用する根深ネギ(太ネギ、白ネギとも言い、関東ネギ、東京ネギとも言いますと、

(2)土寄せ、軟白をせず、よく株分かれ(分げつ)した緑葉を利用する葉ネギ(細ネギ、青ネギ)に分かれます。

昔は、関東以北では主に根深ネギが、関西では葉ネギが愛用され、各々の地域で広く栽培されていました。

しかし、最近では、逆に関西で根深ネギが好まれ、関東で葉ネギが売れている様に、従来のワクにとらわれない使われ方が広がっています。

 

根深ネギと葉ネギは、形態的・生態的特性にかなり差があります。

根深ネギの主体は東北・信越・北陸・山陰地方に分布する加賀群と、関東を中心に分布する千住群です。そして葉ネギの代表は九条群です。

 

ところで、根深ネギが関東に多く、葉ネギが関西に多いのには、それなりの理由があります。

根深ネギが元々、中国は北の華北・東北地域で生まれた太葱の流れをひき、寒さに強く、一方、葉ネギは中国南部の華南等に由来し、暑さに強い、と言う特性に因ります。

また、土質の違いも関係しています。

白い部分(軟白部)を長く育てるためには、土寄せを多くしなければなりません。

すると、土層が深く砂質で、地下水位も高い所の方が作り易いです。

関東地方がこの条件に当てはまり、これに対して耕土が粘質で土寄せし難い関西地方の場合には、軟白化しない葉ネギを作る方が楽なのです。

 

(2) 殿様ネギて、知っていますか

消え行くナツメロ品種、昔のネギ

加賀群は寒さに強い耐寒性のネギで、冬は低温に遭遇すると休眠し、地上部は枯れますが、地下(葉鞘基部)部は長期の積雪に耐え、越冬します。

春になると葉鞘芯部から新葉が伸び、根深ネギ用として栽培されています。

一般に冬期寒冷な地域で作られ、代表は、松本一本葱や加賀、札幌太などです。

一本太と言う品種名が示す様に株分かれ(分げつ)が少なく、葉鞘が太いのが特徴です。

なお、同じ加賀群のネギでも、会津太、青森地葱など岩槻葱グループは、葉身はやや細く柔らかなので、葉ネギにも適しています。

 

上州一本ネギの名を持つ、下仁田ネギもこのグループに属します。

下仁田ネギは軟白(葉鞘)部が最も太く(直径4cm以上)、生で食べると辛みが強く、薬味向きではありませんが、熱を加えると独得の甘みとコクが出て、煮物や鍋物には最高です。

まさに、すき焼きにビッタリのネギです。

そのためか、暮から新年にかけての需要が多く、通常、泥つきの大束で売られています。

この下仁田ネギは、なぜか他の土地で栽培しも同じ様な風味が出ないと言うから不思議です。

江戸時代には将軍家に献上していたことから「殿様ネギ」の別名もあります。

 

一方、千住群は軟白(葉鞘)部がやや硬いと言われますが、長大で、土寄せを十分に行い、軟白して利用します。

休眠性、越冬性は中程度で、分げつ性も少〜中です。

葉色により黒柄(クロガラ)、合柄(アイガラ)、赤柄(アカガラ)、合黒(アイグロ)と呼ばれるグループに分けられます。

 

この千住群の一種である金長(キンチョウ)と言う品種は、病気に強く、作り易い上に、見た目も好いと言うので、最近では、主産地の千葉、埼玉を始め関東一円で作られる様になりました。

お陰で、微妙な香りや風味を持った、昔の曲がりネギや錫杖(シャクジョウ)ネギなどが廃れ、残念がるオールドファンもいます。

この他、吉川晩生、西田、石倉、深谷、伯州なども千住群の根深ネギの仲間です。

これら千住群のネギは、先に述べた様に分げつが少なく、軟白部が太くて長いのが特徴です。

品質は良質で、根深ネギ用に主として利用されていますが、葉ネギにも利用できます。

 

(3) 博多生まれでない人気者・博多万能ネギ

一方、関西で好んで食べられる葉ネギは九条群のネギが利用されています。

九条群は葉が細く、分げつは中〜多で、通常軟白せず、青い葉を利用します。

太、細の二型があり、九条太は時には軟白することもあります。

万能ねぎ(福岡)、奴ねぎ(高知)、シルバーステム(静岡)等は九条細の地域銘柄名です。

ネギの青い所を捨ててしまう関東で、青みの美しい薬味用に使いだしてから人気が上がり、福岡県の朝倉町の葉ネギが「博多万能ねぎ」として九州から東京に空輪されています。

この鮮度を保つための航空機利用から、「博多万能ねぎ」はフライト野菜とかジェットネギとも呼ばれています。

 

「博多万能ねぎ」は、昭和50年代に、アサツキ(浅葱)をヒントに生まれた葉ネギの一種です。

昭和55年以降は飛躍的な伸びをみせ、これに刺激を受け、他の葉ネギが色々と登場しました。

 

九条ネギの様な葉ネギは冬にも休眠しないで生長し続けます。

分げつが多く、葉肉が薄く、葉の質が軟らかくて、品質的には優れています。

なお、九条ネギは太さによって、芽ネギ、葉ネギ、深ネギと使い分けます。

また、薬味やサラダ用に使う若ネギ、小ネギ栽培にも、九条群、岩槻群のネギが使われています。

 

ところで、芽ネギと言うのは、葉ネギの種を床土に蒔いて、10cm程度に生長したものです。

すなわち、葉ネギが十分に生長しない段階で収穫したものが芽ねぎで、その形から針ネギとも呼ばれ、傷つき易いものを、きれいに根を切り揃えて、箱入に入れ出荷します。

ごく細くて華奢な芽ネギは、芽物として日本料理のあしらいに使われますが、一般家庭では使うことは少なく、殆どが高級料亭で消費されています。

 

3)ネギの代表的品種とその特性

(1) 根深ネギ

埼玉県の深谷産のものが有名で、関東では、ネギと言えばこの品種を指します。

 

現代青年よろしく、ネギの中では最も背が高く、葉鞘に土を寄せて軟白栽培します。軟白部があくまでも白く、青葉の部分が真っ青なものが良品で、両方の境がボケているのは、土寄せが悪く日焼けしていて、固いものが多いです。

ネギの旬は秋から翌春までですが、特に、冬のネギは全体に甘みが強く美味しいです。根深ネギの代表選手です。

 

(2) 下仁田ねぎ

その名の通り、群馬県・下仁田町の特産品です。

根深ネギと違って、葉部も太くて柔らかなため、すき焼きなどの鍋物に非常に適した品種です。

甘みが強く、栄養価もタンパク質が他ネギの三倍もあります。

ガッチリと太く短い白根はもちろん、柔らかな葉部も美味しく食べられます。

白さと張りをポイントに選びます。

白い部分が黄褐色になっていたり、縮んでいるものは古い証拠です。

ブカブカして、巻のゆるいものは、中に砂や土が入っていることが多いので注意が必要です。

 

(3) 万能ねぎ

葉ねぎの中でも、最近人気の高いのがこの万能ねぎです。

福岡県産のものが各地に空輸されています。

アサツキに比べるとやや香りが薄く、ちょっと柔らかめです。

全身真っ青がベストで、葉先が少しでも茶色なものは、収穫から二、三日たっています。

葉ネギは、その他にも、わかさま葱、武蔵ねぎ、青ネギ、やっこねぎ、吉四六ねぎ、あさづき(浅月)などの呼び名で店先に並べられています。

 

(4) わかさまネギ

需要の着実な拡大が見込まれる小ネギの専門品種で、高温時でも葉色が濃く、耐暑性に優れ、ブル〜ム(粉吹き)が出にくい品種です。

(以上は故相馬暁博士が北海道立中央農業試験場長在任中に作成したものです)

 

 

 

ネギに関する昔話

■ 擬宝珠(ぎぼし)はネギ坊主?

チューさんの野菜ワールドより

日本の古い橋の欄干(らんかん)の柱には擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)というものが載っています。

擬宝珠は橋だけでなく、階段や回廊の端の欄干にも付いています。

あれは何でしょうか。

チューさんは幼稚園児のときから大きな擬宝珠の付いた橋を渡り続けてきましたので、ズゥーと擬宝珠に興味を持ってきました。

なぜ先の突き出たあんな形をしているのでしょう。

 

擬宝珠の字から見ると、宝珠に似せたものということでしょう。

宝珠とは宝珠の玉ともいい、仏教用語て゛摩尼(まに)の漢訳語だそうです。

摩尼とは古代インドの言葉で、やはり仏教の宝玉を指すようです。

 

でも、擬宝珠はお寺だけにあるのではありません。

京都の清水寺(きよみずでら)の舞台にもありますが、伊勢の皇大神宮へ入る宇治橋の欄干にも付いています。

御殿の回廊の回りにもあります。

擬宝珠は仏教の宝珠ではなくてネギ坊主から由来したもの、という説が昔からあります。

 

野菜のネギは、春になると茎の先端にたくさんの小さい花を着けます。

この花はつぼみの時には全体が白い膜のようなもので包まれています。

この状態のものを俗にネギ坊主と呼んでいます。

白い膜のようなものは(ほう)で、花序(かじょ)を保護する役目をしています。

では、なぜネギ坊主が擬宝珠なんでしょうか。

 

ネギはシベリアか中国西部の原産といわれていますが、大昔から日本に入って栽培され、「き」とか「ぎ」と一音で呼ばれていました。

ですからネギのことを「ひともじ」とも言います。

萌葱色(もえぎいろ)という言葉は今も残っています。

ネギの名は、食べるところが主に根際なので根葱(ねぎ)となったようです。

葉を食べるので菜葱(なぎ)とも呼びました。

 

ネギ類の野菜は硫化アリルを含むので特有の匂いがします。

この臭気が邪気を払って、魔除けになると信じられて来ました。

それに、ネギは生命力が強く、また、ネギの花は永く散らないので、縁起が良いと考えられていました。

ところが仏教が盛んになってからこの匂いが嫌われ、「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」と排除されるようになったのです。

(くん)とは葷菜(くんさい)つまりネギ類の野菜のことです。

 

ワケギやタマネギは晩春に鱗茎(りんけい)を形成して葉が枯れますが、ネギは鱗茎も作らず葉も枯れません。

ただ成長は止まるので、関西地方では大きくなった九条ネギの苗を掘り取って、涼しいところで陰干しして保存します。これが土用干しです。

夏の間、1ヶ月以上も土や水のない所に置かれて、根は乾ききり、葉先も枯れますが、株は枯れることなく、初秋に葉先を切り縮めて植えなおすと、新しい根と葉を伸ばし勢い良く成長を再開します。このようなことのできる野菜はほかにはありません。野生植物でもまれでしょう。

ネギは驚くべき生命力を持つ植物だということを昔の人はよく知っていたに違いありません。

野口雨情(のぐちうじょう)の作品に「捨てた葱」という詩があります。

     捨てた葱

葱を捨てたりゃ しおれて枯れた

捨てりゃ葱でも しおれて枯れる

お天道さま見て 俺りゃ泣いた

 

雨情はこの詩を大正12年(1923年)に朝日新聞に発表しました。

この詩に山田耕筰(やまだこうさく)が曲を付け、藤原義江(ふじわらよしえ)が歌いました。あまり有名ではありませんが、雨情の詩のなかでもっとも短く、もっともすぐれたものといわれています。

でもこの歌詞を見ると、雨情はネギの生命力の強さをよく知っていなかったようです。ネギは捨ててもすぐしおれて枯れるものではありません。

雨情作詞の有名な歌「波浮(はぶ)の港」で、波浮港は東を向いていて西に山があるので夕焼けは見えない、と指摘されて困った話がよく知られていますが、この「捨てた葱」でも雨情はネギの生命力への理解不十分といえそうですね。

 

天皇の乗り物を(れん)といいます。

輦には鳳輦(ほうれん)葱花輦(そうかれん)とがあって、葱花輦の屋根の上には、文字どおり、ネギの苞の形が付けられています。

平安時代の昔、清少納言の著した「枕草紙(まくらのそうし)」第二五六段や第二六六段に葱花輦の記述があります。このうち、第二五六段では

「朝日のはなばなとさしあがるほどに、なぎの花のはなやかにかがやきて・・・・・・・」

と書かれています。

この文のなぎの花とは葱花輦の屋根のネギの苞の形をした飾り物を指していますが、現在まで伝わっている伝本(でんぽん)のなかにはきの花と書いてあるのもあるそうです。またこのなぎについて、「なぎとは水葵(ミズアオイ)のこと」と注釈をつけている本もあって読者が戸惑うこともあるそうですが、昔はネギをなぎとかと呼んだことを知れば間違うことはないはずです。

1989年2月24日、昭和天皇大葬の日、天皇の霊柩は葱花輦に乗って斎場に入りました。

輦の屋根にネギの苞の形をつけるのは、やはり魔除けのためでしょう。

橋の欄干の柱に擬宝珠を乗せるのも同じ理由だと思います。

橋の欄干の擬宝珠を乗せた柱を開き柱といいますが、本当は平葱柱(ひらきばしら)と書くのが正しいのです。

擬宝珠は仏教の宝珠由来ではなく、葱帽子(ぎぼうし)から始まり、あとで今の字が当てられたというのがチューさんの説です。

擬宝珠はネギの苞の形から来たのだと言いました。京都・五条大橋の擬宝珠のお話をしましょう。

でも、なぜ五条橋なのでしょうか。それは、この橋が昔からの長い歴史と伝説を持っていて、欄干に擬宝珠が付いた最初の橋だと思うからです。

 

牛若丸

京の五条の橋の上

大のおとこの弁慶は

長い薙刀振り上げて

牛若めがけて切りかかる

 

 五条橋での牛若丸武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)の戦いはあまりにも有名です。降参した弁慶は牛若丸(のちの源義経)の家来になり、最後まで義経に忠節を尽くしました。

近代になってこの五条橋の牛若・弁慶伝説が全国の小学校で歌に歌われ、国語の教科書で読まれたことから、五条大橋の知名度は日本一に高まりました。

 

五条橋はもともと清水寺(きよみずでら)参詣のために架けられた橋で、平安時代から中世まで清水寺が管理して、渡る人に寄進を求めたりしていました。

平安中期の女流歌人・赤染衛門(あかそめえもん)は何回目かの架け替え供養に参加した歌を詠んでいます。

後白河法皇の編纂した梁塵秘抄(りょうじんひしょう)には五条橋を次のように歌っています。

 

「いずれか清水(きよみず)へ参る道 

京極(きょうごく)くだりに五条まで 

石橋よ 東の橋詰(はしづめ)

四つ棟(むね)六波羅堂(ろくはらどう) ・・・・・ 」

 

この歌で、平安時代後期には五条橋が堅固な石作りになっていたことがわかります。牛若・弁慶伝説が事実とすればこの時代のことになります。

 

室町時代、五条橋はこの世と霊界との交流点のように思われていたようです。

当時の古典文学書・御伽草子(おとぎそうし)にはそんなお話がいくつもあります。

 

平成6年(1994年)のNHK大河ドラマ「花の乱」では五条橋が幻想的な橋に仕立てられていました。

将軍・足利義政(あしかがよしまさ)と日野富子(ひのとみこ)はここで運命的出会いをし、そして、最後に義政は橋の上で富子に抱かれながら息絶える・・・というストーリーになっています。

これは史実ではありませんが、脚本を書いた市川森一氏はこの時代の話に五条橋が欠かせないことをよくご存知だったのでしょう。

このころまでの五条橋は、今より380メートル上流・今の松原橋のところにありました。

 

五条橋を現在の位置に変えたのは豊臣秀吉です。

橋だけでなく、それまで六条坊門と呼んでいた道路を新たに五条通として、それまでの五条通を松原通に名称変更したのです。

 

新五条橋の築造には豊臣五奉行(ぶぎょう)のひとり増田長盛(ましたながもり)が当たりました。

天正18年(1590年)秀吉の五条橋完成。

伏見に城を構えた秀吉は、都への街道を新しい五条通につなぎ、多くの家臣を従えて威風堂々五条橋を渡って洛中に入りました。

 

江戸時代に何回か橋は擬宝珠もろとも流失しましたが、失われた擬宝珠を追加して架け直されました。江戸初期・正保年間(1644〜1648年)の擬宝珠は現存しています。

 

明治維新になって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が叫ばれ、明治11年(1878年)に京都府知事・槙村正直(まきむらまさなお)は五条大橋の擬宝珠を全部取り外してしまいました。

それから2年後、明治天皇が全国巡行の途中京都に来られ、五条大橋をお渡りになりました。見渡されると擬宝珠がありません。

 

天皇は、「あの擬宝珠はどうした!」とお尋ねになりました。

槙村は恐れ入って擬宝珠を元に戻したということです。

槙村はもと長洲藩の下級武士。擬宝珠が仏教由来のものではなく、ネギの花の霊力をシンボライズしたものだということを知らなかったのでしょう。

明治天皇の一喝によって、五条橋の擬宝珠はよみがえりました。

 

現在の五条大橋を架けたのは、戦後の京都市長・高山義三(たかやまぎぞう)。

第二次大戦中に、旧道路南側の建物の強制疎開が行なわれた五条通は、戦後、幅50メートルの大通りになり、国道一号線として交通の大動脈の役目を担うことになりました。

橋もそれに見合う規模が必要です。

高山義三は、昭和25年(1950年)以後16年間の市長在任中、鴨川に北山大橋・御池大橋を新設し、また四条大橋の架け替えには欄干のデザインを公募しました。

 

しかし五条大橋の架け替えにはデザインの公募制をとりませんでした。

高山義三は、チューさんの実家から数軒東の五条通の生まれ育ち。五条大橋と欄干の擬宝珠には強い愛着があります。

それに牛若丸の飛び乗った故事のイメージをどう残すか。

 

熟慮の末、彼は橋の本体をコンクリート、欄干を石造りとして、柱には昔どおりの擬宝珠を載せ、新しく鋳造した擬宝珠には高山義三の名を深く刻み付けました。昭和34年(1959年)新五条大橋完成

3月2日に竣工式が行われ、現代の五条大橋は開通しました。

 

新五条大橋開通の2ヵ月後、チューさんは実家を離れ、ピカピカ光る擬宝珠に別れを告げてこの地を去りました。

五条大橋の擬宝珠は、単にチューさんの郷愁の対象というだけのものではありません。

明治天皇・豊臣秀吉・源義経という日本史上超一級の人物と深いかかわりを持つ文化財なのです。

 

石川県認定
有機農産物小分け業者石川県認定番号 No.1001