山ちゃんの食べもの考

 

その11
 

◎ グルタミン酸ナトリウムが日本人の味覚を画一化させた

 前回ご紹介した、小泉武夫著『食の堕落と日本人』の中で小泉氏は「手軽さを求めた末の堕落」として世界に誇る削りたての鰹節を食べる日本食の美学が、化学調味料のグルタミン酸ナトリウムによって消滅する危機を訴えている

 日本のだしは日本料理の真髄につながり、鰹節、昆布、椎茸はどれも脂肪の出ないものばかりで、日本食文化の発達に欠かせない物であった。

 「白い粉をパッパッと振るだけで、味噌汁にもお吸い物にも旨味がたちまち加わる。本来だしというものは、素材や料理の種類によって様々な使い分けがあった。煮魚のばあいはこう、めんつゆならこうだ、と工夫をこらした。ところがグルタミン酸ナトリウムは、素材による使い分けなどなく、誰が作っても同じ味になってしまう。どの家でもどの地方でも同じ料理ができあがることになり味の画一化がなされる。これがどんどん広まり、究極的には日本人は同じ味覚を持つことになり、皆同じ舌を持つことになる。家庭の味や地方独特の味といったものは消滅してしまうだろう」

 「学校給食など、いかに安く上げるかを考え、だしなど取っていられないから味付けはグルタミン酸ナトリウムを入れておしまい。しかし、よく考えてみると、生涯の味覚形成はこの時期の食べ物に左右される」

 「昔ながらのだしで作ったラーメンとグルタミン酸ナトリウムをタップリかけて作ったラーメンを食べ比べると、ほぼ100%の子供たち、また多くの大人は後者の方を美味しいと答えるだろう。もはや、多くの日本人の舌は、グルタミン酸ナトリウムで画一化されてきているのである」

 

アジアの食文化を破壊したグルタミン酸ナトリウム

 日本のグルタミン酸ナトリウムは、日本国内にとどまらず海外に輸出されたことによって、アジア全域で驚くべきことが起こっているという。

 中国では豚骨や牛肉、鶏ガラなどを使ってうまいだしを取ろうと懸命に努力したものだが、日本から伝来してきたこのグルタミン酸ナトリウムによって食文化が一変させられてしまった。中国だけではなく、韓国でも同様、タイ、ラオス、マレーシア、カンボジア、ネパール、ベトナム、ミャンマー、フィリピン、インドネシアといった東南アジア諸国でも、全く同じことが起きていると指摘している。その上で小泉氏は次のように述べている。

 「食文化の一大変化のように、知らず知らずのうちに、じわじわと進行していき、気がついたときには、アジア人の舌はグルタミン酸ナトリウムの味で画一化されてしまっていることである。日本人は、自分たちが堕落しはじめただけでなく、アジア各国に大きな罪を作りかけている。そう思うと、胸が痛んでならない」

 食品加工や外食産業において、なぜ多量のグルタミン酸ナトリウム等化学調味料が使われるのか。化学調味料については次回改めて取り上げたいが、化学調味料の使用には単に旨味を添加するということだけでなく、食品に使用される原材料の欠陥を覆い隠すという裏面もある。品質の劣化した素材や粗悪な原料、あるいは手抜きされた工業的大量生産品であっても、その欠点を補って旨味を感じさせるというまやかしが考えられる。

 コンブやワカメにまで化学調味料を振って製品化したものがあるというから驚きである。醤油や味噌、酢、だし、ケチャップ、マヨネーズといった基礎的な調味料からはじまって、漬物、珍味、魚肉・畜肉加工品、飲み物、パン、菓子、その他加工食品・インスタント食品など、平常当たり前として食べている食品の使用原材料表示欄を見ていただきたい。可能な限り化学調味料無添加の物を選んで欲しい。

 

茶も食事も「心配りに始まり、心配りに了わる」

 小泉氏は、美しい日本食の本質を取り戻せ、「食事は、単にものを口の中に運び、それを咀嚼して胃袋の中に送り込むだけのことではない。心を伴っていなければならない」。

 日本人は何をどのように考えどう食べてきたか。梅干し一つ、おにぎり一つとっても、そこには日本人の伝統的な知恵や心が生きていた。野菜の食べ方にも、夏の冷物にも、冬の鍋物そしてお茶をいただくにも、一つ一つに理に叶った深い意味があり、心込めて作り、いただくという強い思い入れがあった。

 食事をいただくということは、単に空腹を満たし、食味を味わうといったものだけでなく、精神の修養や礼儀などを極めるという崇高な文化であったのだ。

 そこには、食べる人の身になっての魂を入れた食べ物作りの心があろうし、作り手と食べ手の心を大事に伝えようという商い手の熱い心もあろう。お互いに感謝し合い、物を粗末にしない、食べ物をもったいないという心が生まれ、すべてを生かしきる知恵も生まれる。

 

むだを出さないことが二十一世紀の美徳

 小泉氏は、「私は現代の日本人にもっと食べ物をじっくり味わって欲しいと思っている。世の中には、金を出せば出すだけ美味いものや滋養のあるものが食えると思っているようだが、それは野暮というものであり、そもそもその考え方が間違っている。大切なのは、どんな食べ物に対しても、しっかりと料理した物は食べておいしいという舌を持つことだ。そして無駄なものを出さずに、素材を隅から隅までじっくり味わうことである」続けて、

 「二十一世紀を迎え、地球の人口はますます増えていくことだろう。これまでのように、ただ資源をむだ遣いする生活スタイルは、維持できなくなるに違いない。そうなると、無駄を出さないことが何より求められることになると思う。いまは、消費は美徳だ、などと言ってはいるが、これからは無駄を出さないことが美徳になってくると私は考えている」

 「そもそも、魚の身のいい部分だけを食べて残りは捨てるなどということは、資源の無駄であると同時に、生命に対する冒涜である。ある意味で人間は、命あるものを捕って生きていかなくてはならないという食物連鎖の宿命の中にいる。だからこそ、アラの部分まで無駄なく利用することが、魚に対する供養であり、資源の保護でもあり、しっかりした生き方につながるのである」

 

石塚左玄の「一物全体食論」

 「生は生より生ず」「生は他のものの死より生ず」などの言葉があり、二木謙三という人は、「生命なき食物は生命の糧とならず」と言っている。

 まず私たちは化学物質や人工的に高度に加工されたもの、添加物等で汚染されたものは生命のない食品は、可能な限り避けなければならない。

 石塚左玄は「健康を得るためには、皮をむいたり骨やはらわたを除いたりしないで、生きているものを全部食べなければいけない。生きているものはすべて、それなりに陰陽の調和が保たれているのだから、部分を食べたのでは健康長寿は望めない」として魚も野菜も穀類もその全体を生かして食べなければその食べ物の真の生命を摂取したことにはならないと説いている。

 石塚左玄は「健康を得るためには、皮をむいたり骨やはらわたを除いたりしないで、生きているものを全部食べなければいけない。生きているものはすべて、それなりに陰陽の調和が保たれているのだから、部分を食べたのでは健康長寿は望めない」として魚も野菜も穀類もその全体を生かして食べなければその食べ物の真の生命を摂取したことにはならないと説いている。

 野菜も果物もお魚も、安心できるいい物を選んで、丸ごと生かしきって食べることが最も大切な事であろう。


ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 


生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 ◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る