山ちゃんの食べもの考

 

 

その112
 
[医食同源]を考える<2>


 さて、ワイル博士の「満足な食事の7つの原則」アンドルー・ワイル著・上野圭一訳『ワイル博士の医食同源』(角川書店)を学んでみましょう。
 
@人は生きるために食べる
 心臓の鼓動、老廃物の排泄から神経系における電気化学信号の伝達にいたるまで、体のすべての活動にはエネルギーが要求される。体は食べものを摂取し、消化し、その成分を代謝することによってエネルギーを得ている。食べものは太陽に由来するエネルギーを含む燃料であり、はじめは緑の植物が太陽エネルギーをとらえて貯蔵し、そのエネルギーが果物や種子や動物に託されたものである。人間はそれらのものを摂取し、しかるべき仕組みによって燃料となる成分を酸素と結合させ、貯蔵されていたエネルギーを放出させる。それが燃焼である。だから生きている限り、人間は食べ続けなければならない。
 われわれ人間は、他の生物の命を犠牲にして生きていることは厳粛な事実である。ニンジンを殺すか牛を殺すかの違いはあっても、人間が他の生物の息の根を止めることなしに生き、成長することのできない存在であることは、まぎれもない事実なのだ。人間もまた牙と爪に血をしたたらせながら生きる冷厳な自然界の一員なのである。
 <もちろん、緑の植物だけはこの宿命から逃れている。彼らは光を食べ、太陽光のフォトンエネルギーを化学結合の中に取り込み、二酸化炭素と自らブドウ糖を作る、単純な、食べものの最も基本的な材料である。植物はそのブドウ糖を燃やして自身のエネルギーに使い、さらにそれを澱粉や脂肪に変えて貯蔵する>

A食は快楽の主源である
 食料が不足している社会では食べ物が生存のための最大の必需品であり、それ以外のことについて配慮する余裕がなくなる。食料が豊かな社会では、食べものが単なる生存以外の目的に利用される。現に先進国では、多大な時間とエネルギーと費用が食の快楽を供給するという目的のために準備され、消費されている。ところが美食の快楽とは、実に複雑なものである。われわれは食べ物の匂い、味、舌ざわりだけではなく、それから連想するものに対しても反応する。
 心をこめて調理された料理は美味しく感じ、粗雑でいい加減につくった料理はまずく感じる。店の雰囲気だけで料理が美味しいかどうかがわかる。心をこめて調理され、滋養的な工夫とともに快楽的な工夫もなされていれば、ごく簡単な料理でも十分に堪能できるものなのだ。
 心理学者は食物を主要な強化作因だと考えている。動物が特定の動作を見せたときに餌を与えると、その動物は餌につられて、次も同じ行動をするようになる。サーカスなどで動物に芸を教えるとき、道具として使う餌は、強力な強化作因になる。動物が満腹であれば、餌という強化刺激に反応しないから、動物が空腹なときにそれが使われる。
 人間も動物とは変わらない。空腹のときは食べものの誘惑に打ち勝てず、それを口にするためにはどんなことでもしてしまいかねない。また人間の奇癖として、目の前に存在しない食べものを口にすることを想像するほうが、実際にそれを食べたときの快楽を上回るということがある。
 飢えたときは食べものは誰にも強化作因として働き、それぞれがそこからさまざまな快楽を引き出す。食べものは生命維持のために必要不可欠ではあるが、そこから感覚的な快楽を得ているわけではなく、快楽は他から得ているという人もいる。にもかかわらず、食べものは大部分の人にとって快楽の重要な供給源である。だから食の快楽を犠牲にするような健康食はうまくいかないのだ。

B健康食としての快楽食は矛盾しない
 患者が口癖のように発する「食べたいものに限って、体に悪いんだから」という嘆き節がある。その嘆き節に、こんな疑問が続く。「体に悪いというのに、なぜあんなに美味しいんだろう?」。われわれの感覚が高脂肪・高糖分の加工食品や大きなステーキ、ファーストフード、それにいわゆる「ジャンクフード」に惹かれることには、はっきりとした理由がある。悪いのは人間の味覚ではなく、かつては珍味だったものが容易に手に入るような環境を、人間がつくってきたことなのだ。
 もっと困った疑問を抱く人もいる。「体にいいって、なぜあんなにまずいのか?」。私なりの答えがある。すなわち、健康を説く人たちの多くが、食べることが本当に好きではないか、もっと正確に言えば、神経化学的に食べることから優位の快楽を引き出すプログラムが出来ていないからだと考えている。
 私は食べることが大好きだ。食を快楽に感じ、健康のためにその快楽を犠牲にしたいとは思わない。長年、食生活の改善を必要としている患者の治療にきたが、体にいい食べものと美味しい食べ物とは矛盾するものではないと確信するにいたった。「満足する食事」という概念には、健康を促進し、かつ快楽を与えるという、二つの要素が含まれている。と、ワイル博士は述べている。

C食事は重要な社交の場である
 集まって一緒に食べる。それは多くの動物に共通する行動パターンである。「コンパニオン」(仲間、気の合った友)という言葉はパンを意味するラテン語の「パニス」を語源としている。パンを分け合ってともに食べるという行為は基本的な社交の場となり、成員間の絆を形成するとともに、絆そのものの象徴となっているのだ。親友のことを日本では「同じ釜の飯を食べた仲」と表現している。
 「ともに食べる」という儀礼は、パンや米飯などの主食を分けあう単純な行動から次第に複雑なものへと発達してきた。サービス産業が提供している各界有力者たちの朝食会やビジネスランチ、恋人たちのロマンティックなディナーを見れば、そのことがよくわかる。また、世界中の宗教で行われている祭礼の日の宴も、絆を深めることに役立っている。「フェスティヴ」(祝祭の)、「フェスティヴァル」(祭礼)、「フィースト」(祝宴)という言葉自体が、「食をともにする、楽しく有意義なとき」を意味するラテン語に由来しているのである。
 食の社会的な重要性は、食の快楽とともに、「満足な食事」を心がけるすべての人は、ともすれば、それ自体が最適な健康の大切な要素である「社交」の場から遠ざかりがちになる。
 「分かちあいによって祝福され、楽しい会話と笑いの中で仲間たちに食べられた食事は、すべて『健康食』である。」と博士は述べているのです。

D食べるものを見れば、その人がわかる ー1―
 家族が集まって、特定の日に特定の食べ物を食べる風習がある。特定の食べ物を食べることはアイデンティティの確立に役立ち、民族、国家、家族の成員意識を高める。
 特定の食べものが重要な役割を果たしている儀礼的な食事は仲間や家族、地域社会など、集団成員同士の間の絆を更新する。聖俗を問わず、世界各地で、特定の日に人々が集い特定の食事をとる伝統的な風習がある。
 日本人は正月を大切にし、暮れの内に家の隅々まで清浄にして、餅や伝統的な料理を用意して、一族郎党が集まって新年を祝い、幸多き年であるようにと願って食べる。
 これらは、食べものや食習慣によって規定され、アイデンティティには、一方で食の禁忌がつきまとう。正統派のユダヤ教徒はポークを食べないし、正統派のヒンドゥー教徒は肉を食べないし、正統派のイスラム教徒はアルコールを飲まない。食のタブーはどこにでも見られ、時には極めて厳密に、真摯にその宗教的信念や伝統への忠誠を誓う。他人が食べるものを口にしないこと、他人が食べないものを口にすることによって、その人々が属する文化や集団のアイデンティティが強化される。
 昆虫を食べることにためらいを覚える人が多いが、オーストラリアのアボリジニが好んで食べるオオボクトウという蛾の幼虫がある。見ただけで悲鳴を上げる人が多いに違いないが、その地を訪れ、現地の人に受け入れられたいと思ったら、目をつむってでも食べなければならない。またある地を訪れ、現地の人たちが忌避するものを食べたりすると、壁は厚くなる。西洋社会では犬は食べものではないが、アジアのある地域では赤犬や黒犬が特に美味であるとして珍重される。

D食べるものを見れば、その人がわかる ―2―
 社会的、文化的なアイデンティティを規定する食の力はまた、使われる特定の食材、その組み合わせ、舌ざわり、歯ごたえ、香味ですぐにそれをわかる独特の調理法などに負うところが多い。餅っぽく粘る日本のごはんの素朴で微妙な味わいは、さらさらして香りの強いインドの蒸し米とは違う。タロイモから作るポイは酸味のある練りもの料理で、ハワイやオセアニア文化に特有なもの。レモングラスとチリとミントとニンニクが同時に使われるのは東南アジア料理。オリーブ油とトマトとニンニクとバジルを使えば中近東料理になり、トマトとピーナッツとチリを使えば典型的な西アフリカ料理が出来る。
 特定の文化に固有なこれらの香味は、母国を遠く離れた人がしばしば恋しがるものであり、それにありつくと天にも上る心地がするものである。外国旅行をするフランス人は極上のパンを、インド人はカレーを、日本人は米の飯を切望してやまない。人はまた、何らかの理由で伝統食から遠ざかっていても、病気になったり、孤独で心がくじけたりしたときには、伝統食が食べたくなるものである。長く西洋的な食事を続けた日本人は、年を取ると米と魚と味噌汁の日本食に回帰するという。
 食習慣は長年にわたる膨大な心理的、社会的、文化的な蓄積の結果として形成されたものであり、食のその側面を認識しない限り、健康増進のためとはいえ、食習慣を変えることは不可能に近く難しいことである。

D食べるものを見れば、その人がわかる ―3―
 日本の伝統食は総脂肪も飽和脂肪も極端に少ないので、最近までは動脈硬化等の心配はさほどなかったが、むしろ日本人が心がけたほうがいいのは、もっと全粒穀物の繊維質をとることだ。主食である白米には繊維質が極めて少ないからだ。ところがたいがいの日本人は玄米食に抵抗を感じている。かつてのヨーロッパ人が全粒パンを農民食として軽蔑していたように、日本人にも玄米を貧困層の食べものとみなす慣習が長く続いてきたためだ。さらに、白米が手に入りにくかった第二次大戦中に、多くの家庭が非常食として玄米を食べていたという歴史があり、高齢者は玄米に否定的なイメージを抱いている。また日本人の腸が西洋人のそれより1.5倍も長いのにもかかわらず、虚弱であり、未精製の穀物のような「消化に悪い」ものを処理する能力がないという説を信じている人が多いことも理由の一つである。

D食べるものを見れば、その人がわかる ―4―
 アメリカ人に、日本や中国、朝鮮で好まれている伝統食の豆腐を食べろと説得するのも、決して楽なことではない。豆腐はすぐれた蛋白源であり、乳脂肪よりもはるかに良質な脂肪や、大量の大豆イソフラボンを含んでいる。大豆イソフラボンは乳がんや前立腺がんの予防が明らかにされている成分である。一部のアメリカ人の豆腐に対する抵抗感は単なる食わず嫌いによるものだが、それよりも、豆腐の淡い味とぐちゃぐちゃした食感を苦手とするアメリカ人が多いということである。
 満足な食事とは、決して自分や自国の思考を捨てることではなく、また、異質な食材や調理法に適応して、最適な健康を促進していくことでもあるのだ。

E食は健康を左右する因子の一つである
 燃料に質が内燃機関の性能と寿命を左右するように、食事の質は人間の命や健康を左右するものである。健康を左右する因子の中で、食の影響はどれほど大きいものか。
 遺伝子をはじめ、さまざまな環境要因、心理的社会的要因、霊的要因など、健康を左右する因子は無数にある。食はライフスタイルの一つの側面でしかなく、複雑な諸因子の中から一つの食という因子だけを取り出し、それが健康に与える影響の大きさを測定するのは不可能に近い。ましてや「食は人なり」の決まり文句を掲げる一部の人たちのように、食だけが唯一の、もしくは最も重要な健康づくりの決め手であると言い切ることはとうてい不可能である。
 にもかかわらず、食習慣を変えた大勢の人たちの成果を調べ、人口当たりの罹患率を調査した疫学的データを見る限り、健康に及ぼす食の影響を類推することは可能である。


 伝統食を食べている日本人女性は世界で最も乳がんの罹患率が低いグループに属するが、その人たちがアメリカに移住してアメリカ食を食べ始めると、乳がんの罹患率は急上昇する。伝統食を食べている日本人男性はアメリカ人男性に比べて前立腺の罹患率が低く、たとえ罹っても、アメリカ人ほどには悪性にはならない。ところが、伝統食から離れ、ビーフや乳製品を好み、アメリカ式のファーストフードを食べている日本と中国では、前立腺が増え始めている。そればかりか、東アジアではまれだったアテローム性動脈硬化症や冠動脈疾患などの「西洋病」が増えているのだ。
 日本、中国を含む東アジアの国々は、食生活の変化と健康の変化の相関関係を観察するのに格好の生きた実験室である。同じ国の中でも、食習慣を異にする集団の健康状態が、その国全体とは大きく異なる。アメリカの菜食主義のキリスト教宗派では、一般のアメリカ人に比べて心疾患が極めて少ない。
 何を食べ、何を食べないかぐらいは自分で決めることができる。食べものに関する正しい知識を身につけて賢明な選択をする。
 健康に大きな影響を与える食事は他の健康因子に比べて、はるかにコントロールしやすいものである。が、満足な食事をしているからといって他の因子を無視していいというわけではない。

F食生活の改善は病気対策と健康づくり戦略の一つである。
 紀元前5世紀、西洋医学の父といわれるヒポクラテスは、人々に、「食を薬となし、薬をして食となせ」と教えた。この考えは西洋社会ではすたれてしまったが、アジアでは今でも立派に生きている。インドや中国では、食と薬を同源とする思想体系が発達している。アーユルヴェーダや中国伝統医学では食生活の改善が治療の筆頭に挙げられ、日常生活でも、食材や調理法はその香味とともに、常にその薬効が吟味されている。
 アジアに広汎に見られる食と薬の境界領域からは「薬膳」、つまり薬効のある料理という伝統が生まれている。特定の症状に対する特定の献立が、家庭でも、専門の料理店でも食べることの出来る伝統である。ヒポクラテスの教えが見事に生かされている。アメリカには治療効果を売り物にするその種のレストランは一つもなく、食を薬として、薬を食として使う知恵を持った医者もいない。





 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る