山ちゃんの食べもの考

 

 

その146
 
『食は生命なり』 【4】




食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』と「石塚左玄」 その3
「食医 石塚左玄『食物養生法』現代語 『食べもの健康法』 (丸山博 解題 ・ 橋本政憲訳)」より のつづき。


「食が正常であれば身体もまた正常であり、精神も正常である。食が異常であれば、身体も異常となり、精神も異常となる」。
つまり人類はもともと穀食動物であるという食用の本分を忘れてはならない。

かって釈尊は、穀菜の浄物をきよしとし、肉類の不浄を非とする戒法を説かれ、孟子も「飲食におぼれる人を、世間の人々は、下らないとして軽蔑する」と言い、孔子も「人が道に志しているのに、着るものや食べるものが粗末であることを恥ずかしがるようでは、まだまだ共に議論はできない」と戒め、また、「人は誰でも飲食するけれども、本当の味というものを知っている人は少ない」と嘆いたが、これらは深い意味と道理のあることである。

ところでわが国の主食の食料は主として米麦の2種であるが、近頃は大いに変化して、都会の中流以上の者は、白米飯またはパンを常用して、麦飯、粟飯、小豆飯などを嫌うような傾向がある。

こういう食事で育ったものは、比較的身長が高く痩せており、顔が小さく足が長く、病気がちで、軽佻浮薄、肝は大で胆っ玉は小さく、我意をはって強情ではあるが、根気と体力が長く続かない。

これに対して山野に住む者は、麦・粟・ヒエ・トウモロコシなどの雑穀に、わずかな米を混ぜたような飯を常食しているので、比較的胴が長く、顔は大きく、ひげ多く、決断は遅いが胆っ玉は大きく肝は小で病気はせず、気転はきかないが、根気と体力は非常に強いということは誰でも知っている。


「かくまでに実の温まる草の実を ひえのかゆとは誰かいふらむ」 順徳天皇御製
「世の中に米の少しももちたきは 上たる人と修業者のため」 時頼


奈良・平安時代以前は、もっぱら米を常食にしたが、ふつうは玄米のままで、焼き米としたり、あるいは蒸して強飯として食していたものであるが、三韓征伐以後は、肉食すべき第一派の襲撃を受け、そのために、明治時代の食事状況と同じく、白米を食べるようになったものである。

そもそもわが国で米をついて白くすることは、仁徳天皇の御代から始まったことで、しかも、当時から、足利時代のころまでは、1日2食であった。
さらに時代が下って南北朝のころは、白米食はまだ全国一般に行われていなかった。

ところが太平の世が続き、才気ばしりが勝ちをしめ、智恵の道が衰えて、臣民が衣食住に贅沢を極めるようになる。
ことに食事は、精白の米飯にとりどりの副食をたくさん食べるようになった。
麻疹が流行し、脚気が多発するようになった。

玄米の甘皮、すなわち甘味を持つところの糠の字は、米偏に健康の康の字を書くように、米は、糠と共に食べれば健康になるのである。
そしてまた、ほかの食べ物とは違って、あえて水や火の力をかりなくても、手塩で生で食すこともできる。
ただし火力をかりて玄米を煎れば食しやすくなるけれども、そうすると、身体の筋肉に弾力を与える成分が、いくらか減るのである。

大豆や小豆等は、莢から出したままで煮たり煎ったりして食べるのに、なぜ米だけモミを取った玄米を、さらに搗いて白くして食べる道理があるか。
搗き方の度合が進んだ白い飯を食べるようになって、その補いとして正穀以外の食べ物を副食する。
主食・副食の意味を理解せず、アヒルか豚の口のように、副食を多く主食を少なく、つまり野菜・肉類を多く飯麦を少なく雑食するので、結果としてカリ塩・ナトロン塩のバランスを破ってしまう。


脚気や、胃病・結核・赤痢・癌腫・神経衰弱、または腎臓病・糖尿病などが多くなった。まず第一の原因に、米を搗いて白くする度合いが進んだためである。

その上食パンを多食するなどと、全くわが国の位置気候を忘れ、海国の人間が、内陸国の人のように肉類や、しつこい味のものを多食し、その上、果物類を好んで食べるということなどが原因であるところの、いわゆる「肉食った報いの罪であって、大自然の道理にそむいたためである。と考えねばならない。
「病みな 日々食べ物の食い違い まじめの食にわずらいはなし」


小麦は、玄米よりもカリ塩が5倍4分多いため、小麦の食パンのみで身を養った人は、米食者に比べて体量の劣った、いわゆる貫目のない、軽い身体に軟化して、身長は高くなるが、顔面は小さく体力の弱いものである。


おもゆの作り方は、玄米または煎り米を適量の水に入れ、よく煮出して取った汁であるのでカリ塩・ナトロン塩のバランスよく、本当に滋養となり、消化吸収もよく、熱を下げ、吐き気を止める力もあり、身体の元気と体力を回復し、気分爽快に命が続けられる。


そばは、アルカリのバランスが取れていて、比較的ナトロン塩が多い、穀類に準ずるものであって、ほかの食品をとらずに、そば一味をもって、身体をよく養うことができるものである。
修行者の中には、そば粉だけを持って山や川を渡り、水でまぶして食べていたという例などは、そばだけでも健脚健身を保つことができるということである。

わが国では、本来そばは、寒い地方の人には必要であるが、あたたかい地方ではいらない物であって、北陸・東山道では蕎麦屋が多く、大阪から南や西ではうどんを食べる人が多い、というのも、地形天候に応じて、カリ塩とナトロン塩のバランスが違うということのためである。


人は正食が多ければ間食品の必要は少ないが、雑食が多ければ間食品の必要が多いものである。
その土地に、菓子屋と料理屋が増えて盛んであれば、そこは雑食が多く正食が少なくて、病気が多く平安でないところであって、その様な人々であると知れるし、反対に、菓子屋も料理屋も比較的少なければ、平安で病気が少なく、つまり、正食が多く雑食の少ない人々であり、土地であると知れる。

雑食が多く、正食が少ない人々は、品が悪くて、いわゆる貫目のない体であって、正食が多く雑食が少ない人々は、人品がよく、貫目のある体であって、食養の理法にかなうわけである。


間食品の汁粉、餡餅、アンパン、饅頭、大福餅、蒸し菓子、葛饅頭などの白餡および濾餡製のもの、または晒し飴、練り羊羹などは、すべて、身体の組織・筋肉に弾力をつける無機成分を含まず、弾力すなわち胆力の強い人心を養成するためにはよくない。
近年の都会の若者のような、果物食が多く、漬け物を食べることが少ない人間が、こういう菓子類を食べたりすると、いわゆる、胸焼けを起こしてしまう。
これは、そういう人々の身体には無機成分が少ないのに、これらの菓子が人体に入ると、化学的に無機成分を略奪して、人心の筋骨を軟弱にするのである

塩類の殆んどない餡を主とした間食品は、肉食が少なく、穀類および野菜食を多く食べている子供や大人には、あまり差し支えないが、洋食が多く和食を少なく食べている者には、不良の結果になるのである。


豌豆または小豆のような粒餡に塩気を加えて作った菓子、駄菓子の類は、材料が自然のままで、塩類の減り方が少なく、化学的食養の観点からは大いに良いものである。

昔、お通夜のときには、玄米と餅で作ったあられと大豆とを炒って作った塩気のある菓子、または、小豆を煮て餅を入れた塩気のある善哉、いわゆる田舎汁粉などの穀類のものを食したものであって、天候が暖和なわが国の人にはよく適したものである。

ソーダを入れたカステラ、ビスケット、ボーロなど、あるいは干菓子、押物菓子、ワッフルなどは、目と舌にはよいかもしれないが、身体には好ましくないもので、なるべく少なく食べるべき食品である。

これに反して、塩気のある煎餅(豆入り、胡麻入り、味噌入り)など、または、塩気のある草団子、黄な粉餅、小豆餅など、すべて人工を加えない天然食に近い間食品は、化学的衛生上、最良であって、塩煎餅、塩かき餅の類と同じく、海ぎわの地の人々にも良いものである。


鳥のような肉類を入れた茶碗蒸し、旨煮でも、けんちん汁、けんちん蒸し、薩摩汁のようなごった汁。このような調理品は最良の風味を出すものである。

山海の珍味である異種の食品類は、互いに化学的に牽制し合うのである。
たとえば、ここに5種類の食品を一緒に煮れば、外観上は形は変わらなくとも、内部的、つまり化学的には、その成分はそれぞれに変性して、それら5品は本来の成分が交じり合って中間の風味になるのは科学的にもっともなことである。
その中に含まれている塩類は、相互に交通する浸透作用があるために、その風味を発動する原動力となるのである。

わが国では昔から、植物性食品に動物質の名前をつけたものがある。
たとえば『雁もどき』や『鴫焼』などである。
こういう調理品は、カリ蛋白の多い、無味淡白な豆腐やナスに、塩と火力を用いたものであって、油を加え、ちょうど筍を鯨の脂身で煮付けるのと同様に、動物性のナトリウム蛋白に変化したものであって、まるで雁の肉や鴫の焼いたのを食べるように、美味な味になる。


わが国で野菜を調理するには、必ず「かぶし」あるいは「だし」といって、その味をよくするために、少量の肉類、魚類、鰹節、昆布、海苔などを添え、あるいは芋汁やうどんや卵を入れ、あるいは、淡白な白身の刺身にはわさび、しつこい味の赤みの刺身には大根おろし、さらに味の濃い肉類には、切りねぎ、あるいは生姜を添える、または、酢の物に大根おろしをかけるといった調理法は、全く妙法というべきである。

海産物を調理するには陸産物を混ぜ、陸産物を調理するには海産物を合わせ、動物性肉類を煮るには植物性のものを混ぜ、植物性食品を料理するには動物性肉類を合わせて、食物の調味をする。
 
 「料理には畑の物に海の物 肉は野菜に合わせ食うべし」
  「豆と昆布 芋と蛸とを煮合わせば 山と海との異体同心」


正食は智者・賢人の食であって、これを守っていれば、その名が広く世間に知られる傑物となるこことができる。
一方、雑食は豪商・才子以下の食で、一時の間には合うけれども、永久の役には立たない人種になる。


張元素の言葉に、「穀物を食べて安んじている者は栄え、穀物を絶つ者は滅ぶ」とある。
  「健康の健は建ち居る人姿 病ひやむまい止まるまいぞ」
 「病ひ皆日々食物の食ひ違ひ 真面目の食に煩いはなし」

人の食べるべきものでないものを食べる場合には、植物(縦に伸びるもの)には動物(横に這うもの)を配合し、横型の動物には縦書きの植物を配合して、適当な塩加減で食べれば、決して中毒する気づかいはない。


孔子も「人間は穀物が主となす」と言っており、中でも、米穀は陰陽調和が取れた、穀類中の第1位を占めるもっとも貴重なものであって、上等品であるとか粗悪品であるとかいうべきものではない。
『論語』にも「食は精をいとわず」とあるのは、飯の米は、よく実の入った、粒のそろった立派な精米でなくともよい、粗末な飯でもあえていとわない、という意味である。

本来ならば、米麦を正しく摂った人の顔は、米麦の形にあやかって、いわゆる瓜実顔になるべきである。顔の相が正しければ、心も行いも正しく、人相がよいか悪いかは、その人の食養が正しかったか否かということの結果である。

● 「乳飲みて漬物嫌ふて飯減らば ヒョロ高くして顔は小さし」
● 「誰人も果物多くたしなまば その性行は猿に似るなり」
● 「塩うすきジャガ薩摩薯多ければ 万事に疎き人となるなり」
● 「人間といふ動物は動物を 食ふてはならぬ植物を食へ」
● 「植物の中で尊き田からをば 食ふて養ふ真人なり」
● 「病みし身の病まぬ前にも病みつらん 病ある身か病なき身か」





 

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生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
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池田 優

 

 

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