山ちゃんの食べもの考

 

 

その149
 
『食は生命なり』 【7】




食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)

『食は生命なり』と「石塚左玄」 その6

「食医 石塚左玄『食物養生法』現代語 『食べもの健康法』 (丸山博 解題 ・ 橋本政憲訳)」より のつづき。

■ 「智」と「才」の性質論

人間は、その歯の形状に適した化学的食養法を行って、病気をしない健康な、智恵あり才気を備えた身体と精神の人物に進化しなければならない。
ところで、その智恵と才気とは、生まれつきと教育によるということになっているが、これもまた、身体の容貌や皮膚の色と同じように、主に、食育・食養が正であるか雑であるかによる。

 例えば、子供が学校に行っている時期は、知育を主として、才気を養うのは後回しにしてもよろしい。
なぜかといえば、才気は知育の進むにつれて開発されるものであるけれども、知識は才気の増すのにしたがって伸びるものではないからである。

つまりその人が智恵に富んだ人になるか、才気ばしった人になるかは、その人の勉強の仕方が深いか浅いかによるのであり、その深い浅いというのは、体格が大きいか小さいか、健康か弱いかによるのであり、その健康か弱いかは、その人の食育・食養の結果であり、その食養の問題というのは、食物が植物性であるか動物性であるか、どちらがどれほど多いか少ないかという問題であり、その多いか少ないかの問題は、化学的な成分の配合が、どう違うかという問題であり、その配合の問題は、智恵と才気とがその人にどのように養われたかという結果なのである。

つまり、われわれの"智"とは、いわゆる知識であって、もともと、食物中にあって身体を軟化するカリ塩(穀物・野菜・果物・瓜類をさす)が働くところの静性に属し、"才"はいわゆる才能であって、もともと、食物中にあって体質を硬化するナトロン塩(魚・鳥・獣肉および塩味品を指す)が働くところの動性に属するものである。
そして、"才"とは陽気な性質のものであるから、才気の多い人は、常に、にぎやかなのを喜ぶ本性を持っている。


智と才とが、国土・地形によってどのように分布するかというと、智は海から遠く離れた山国に多く、才は海国に多い。
そして海から遠い高地は、海に近い低地に比べた面積が小さく、したがって人数も少なく海に近い低地は面積が多く、したがって人数も多い。

そこで、与論というものは、才の気が勝ったものであり、卓論[すぐれた論説]というものは、智の性質のものである。
与論とは一般大衆の考え方であって、食物に例えれば、こってりした味の料理のようなもので、誰にも分かりやすい論説ではあっても、名論とはいえない平凡な説であり、卓論とは知者の達言であって、あっさりした味の料理のようなもので、誰にでもたやすく分かるという論説ではないが、味がよく分からないからといって、これを愚論とするのは早合点であって、かえって気高い非凡の説があるのだ。

これらはみな、国土・地形が山国であるか海国であるか、どちらの傾向が強いか、および、その人の食物の選び方が正食を好むか、邪食を好むのかに関係しているのである。
また、方位、地形、気候、食物などについても、ここに述べたとおりであって、化学の観点からは、"智"の傾向はカリ塩の多くナトロン塩の少ない体の人に多く、"才の"傾向はナトロン塩の多くカリ塩の少ない体の人に多いのである。


「才」というものの性質は、もともと太陰であるけれども、太陰は太陽に転じて、常に表にあらわれようとするものであり「智」の性質は、もともと太陽であるけれども、太陽は太陰に転じて常に潜もうという傾向があるのである。

さらに詳しく述べるならば、「智」は「体」(物事の実体)であって、「才」は「用」(物事のはたらき)である。
「智」は「本」であって、「才」は「末」である、と断言できるばかりでなく、「智」は「静か」「黙る」であって、「才」は「動く」「喋る」とも言い換えることができる。
だから「見つける」というのは「才」であり、「見通す」というのは「智」である。
そして「見て極る」というのは「才」と「智」の作用である。
すなわち「才」は表面にあって、常に目立ちたがり、「もの言えば唇寒し秋の風」という古い言葉のように、出なくてもいいときに出たがり、「智」のほうは裏面にあって、常に潜伏したがり、「君子、重からざれば、すなわち、威あらず」という古語のように、出るべきときでなければ、むやみに表に出ないものである。


わが国の位置・気候からして、中庸を得た化学的食養法とは何かと考えれば、本来は玄米そのものを食べればよいのであるが、最近のように白米を一般に主食とするのであっても、大陸の涼しい気候の国々の食事法を真似しないで、昔からの伝統のように、野菜を多く肉を少なく取る方針で、智体才用(「智」を内に秘めて、しかも「才」の働きができる)人となれば、人生の競争の場に立っても「智」と「才」とを兼ね備えた中庸を保つことができるだろう。
そして、「才」から「智」を直視すると「愚」のように見え、逆に「智」から「才」を直視すれば、かえって「賢」であるということがあるのは、つまり、「才」は即決即断であるから物事の処理が早く、「智」はどちらかというと慎重なために、物事の処理が遅いことが多いからである。

だから「智」から「才」を眺めると、いわゆる「才走り」とか「我武者」というところがあり、極端な場合には、海の塩気をたっぷり持った、溌剌とた魚類と同じように「飛び上がり物」という。
そして「才」から「地」を眺めると泰然として不動の姿勢の人を、「まるで象のようだ」と言ったり、黙々と仕事をする人のことを、「暗闇に牛を引き出すようだ」と言ったり、また、気転の利かない、塩気の少ない田舎者のことを「馬鹿者」と悪口をいうが、象も牛も馬も鹿も、みなカリ塩の多い草を食べる動物であって、ナトロン塩、すなわち、塩気の多い肉類を、もともと食べないものなのである。

「才」は物事をすばやく処理するが着実ではなく、その結果は失敗することが多い。
「智」は物事を処理するのが着実であって素早くはないが、結果として間違うことが少ない。
「大智は愚に似たり」といい、「不才は天を全うす」というではないか。
かって、西郷隆盛は「才子は、もともと常に事を誤る」と言った。
「智」者の立場から「才」の欠点を指摘した言葉であろう。

そこで、智者と才子とを仏教と社会とに当てはめれば、知者は仏教党、才子は社会党ともいえ、ちょうど高山の山頂に住むのと深い谷底に住む者との違いがある。
わが国でも、奈良時代以後のころには、僧侶は山の上の寺にいて、低地の住んでいる在家の人々を、清浄な山の上に呼んで仏法を修行させたのであるが、今日では、僧侶も山の上から降りてきて、平地の一般人民の中に潜り込んでいる。
これは主として、近世以降、特に明治年間になってから、僧侶も動物性食品を口にするようになったためであり、戒律を破り、乱行するというのも、菜食、つまり、心身を軟らげるカリ塩のものの摂り方を少なくし、肉食、つまり、強情をつのらすところのナトロン塩のものの摂り方を多くした傾向の結果である。


動物性の食品が多ければ多いほど、一人前の食事では足らない感じとなり、植物性食品の量が多ければ多いほど、少な目の量で満腹になるものである。
これはナトロン塩の量が多ければ多いほど空腹作用(収縮作用)が強く、カリ塩の量が多ければ多いほど満腹作用(膨張作用)が強いためである。

そこで、少食であればあるほど身は健全になり、そして、体は軽くなり、心は爽やかになり、智は明らかになり、才は巧みになるのである。
反対に食が多ければ多いほど、身はますます勝れず、そして、体は重く、心は暗く、智は濁り、才は拙くなるものである。

そこで子供のころは穀物・野菜を主として食べて成人した人が、都会に移り住んで出世し、生活に贅沢ができるようになっても、楽しみは飲食以外に求め、泰然として、あっさりした味の食物を摂っていれば、身体はしっかりして、仕事の持久力は強いけれども、一時的な腕力は弱いであろう。
その反対に、飲食以外の楽しみを求めず、あわただしく、こってりした味の食物ばかり摂っていれば、身体はますます肥って、一時的な腕力ばかり強いが、根気はますます減少してゆくものである。

「才」の発達は都会地に、「智」の発育は人の少ない遠海山野地に多い傾向があるので、昔、貴族の子供は、必ず、八瀬、小原など京都近在の農家に里子に出して養育されたものである。
今日、都会魚塩地に住んで学童を持つ人は、体育も知育も才育も、すべて食育であると認識して、ヨーロッパ大陸の食事法などに惑わされず、わが国の昔の食養法と料理法と、化学的食養法とを心掛けて、獣食貪心に近寄らないようにお願いしたい。


釈迦の戒法のねらいであるところの発菩提心は、「人の心魂を清浄にするためには、身体を清浄にする、その身体を清浄にするには、血液を清浄にする、その血液を清浄にするには、すなわち、その食物を清浄にすべきである」という。
これは、まったく化学的理法の食律を達観した大智言である。

そこで、わが国の正食者の児童についても、就学中はずっと穀食を続けて、もっぱら智者を養成し、その後、「才」を必要とする時期の前から次第に動物性食品をも取り入れるようにしたならば、知らず知らずのうちに、賢才偉才の威望と能力とを持つようになるだろう。
ところが、はじめから贅沢な食事をした児童が、大人になっても、それを続けている場合は、才気ばかり養成してしまって、いわゆる敏腕家の才子とはなるが、「才子多病」のたとえどおりで、不健康な顔の小さい人になり、長期的な大計画、大事業を企画、実行できない体心となってしまう。


昔に人は身体にナトロン塩が少なくて無口で行動がゆっくりしていたために馬鹿のように見えたが道徳心は高く、現代に人々は身体にカリ塩が少ないために、口先が達者で有能のように見えるけれども徳義心は少ない。


わが国のような海多陸少の国土においては、一般的に言って才気が活発になりやすく、智の働きを活発にすることが難しいのであるが、その上、近来、利用厚生の主義に進んで、盛んに肉食が奨励されているが、わが国は、もともと魚塩に富む土地なので、この上、あえて肉食をする必要はないのである。

今日、知らず知らずに飯を精白して塩類およびカリ塩を少なくし、副食には肉類・魚類を多くして、食事中の夫婦アルカリの差数を近くし、その上ナトロン塩である食塩とソーダ剤との必要が説かれて、内陸の海から遠いところに住む人々に適当な学説であるために、わが国人には不適当な身体保護法となり、都会の人士以上は今日ますます贅沢な食事に傾き、肉食の滋養法に傾き心酔して、国をあげて、ほとんど皆、才気走って智の少ない人間になり、智才兼備の人も稀となり、ますます軽薄貪心に陥る時勢である。

 そこで食事法を論じるものは、必ずまず、その国土の位置、地形、気候を考察し、人類の歯の形状に着目して、穀食動物であるとの天性を化学的に理解し、人間を養う食物である陽性の澱粉、蛋白および脂肪と、陰性の無機塩類、とりわけ夫婦2塩との配合の分量に立脚して述べなければならない。

そして今日の文明社会で人口が増えるのは、ことにわが国では、山野地方ではなく、海に近い繁盛の魚塩地になる傾向があるので、都会魚塩地の人々は、肉類海産物(山野人に適当なもの)に心酔せず、カリ塩の多い、野菜・山産物をやや多く用いて、食物を美味に調理し、そして、病気を去り健康を保ち、智才兼備する食養法を考察しなければならない。



1、都会に住んで、白米食を食べる肉体労働者は、常に夫婦アルカリの差数が近い魚類・鳥獣の肉類と、差数の遠い植物性食品の塩気の強いものとを副食とし、間食には、餅・薯・団子・柿・桃などを食べるのをよしとする。

2、体力や敏才を要することの少ない座業者は、塩気の薄い植物性食品を多く副食して、魚・鳥・獣肉および卵のようなものは控え、しかも、夏の季節には、なるべく、その量も摂る回数も少なくしなければならない。

3、商業および交際上に敏腕湾の機才を要する人々は、常に、こってりした味の美食を比較的多くしなければならないけれども、必ず、生姜、大根、胡椒、芥子のような品を取り合わせるべきである。
また、間食品のカステラや練り羊羹のような、カリ塩の乏しい菓子類は、なるべく我慢して少なくしなくてはならない。

4、知識の発達と体の育成にあたっている学童・生徒や、物事を深く考えて大成の業務にあたっている人々は、なるべく穀物・野菜を主として摂り、動物性食品を雑食してはならない。

5、才気の発達と体力の強大とが必要で、早く仕事にあたらなければならない人々は、食品は何でも多く雑食して、比較的、国際色を少なくしても良い。

6、子供を、体格は大きく、相貌は優美に、態度は静粛に、無病健康に養成しようと思うならば、母親は、受胎中から分娩後も、なるべく人為を加えない穀菜食を多くし、カリ塩の少ない菓子の類と、塩気の少ない食品、および魚・鳥・獣肉・卵の類を少なくしなければならない。
ただし、穀菜食の母親の生む赤ん坊は、肉食および牛乳を好む母親が生む太った赤ん坊よりも、はるかに小さいのが常であるけれども、年月がたつにつれて、穀食者の子供は肉食者の子供より大きくなる。

7、小学から中学に至る期間の学童は、壮年期の大人よりも塩気を強く、穀菜の品類を多く食べさせて、記憶力と忍耐力の発達を養成させなければならない。

8、中学卒業から大学卒業の頃に至る期間の食養は、穀物・野菜・果物のほかに、魚・鳥・獣肉および塩気の強い味の物をときどき副食すべきである。
つまり、学業を終えて社会に出て、学識を応用する時期が近づくのであるが、それは才気を要することが次第に多くなるので、肉類・塩味品をますます多く摂っても良いが、人間は穀食動物であるという本分を忘れてはならない。

9、壮年期を過ぎて老年期となるにしたがって、もっぱら智を働かせ寿を養っている人については、ことに海に近いところに住む人は、なるべく、麦あるいは小豆の混ぜご飯、あるいは味噌の雑煮餅のような穀類を主として副食は少なくし、もし、魚・鳥・獣肉および卵などを食べるならば、野菜類と合わせて調理した、美味軟熟の料理としなければならない。しかし、決してその量を多くしてはいけない。

10、徳義心を専修する僧侶や、廉恥淑徳を自守する女子の若いときには、機転と才気はさほど必要でないので、なるべく穀菜食を多くして、副食の塩気をうすくしなければならない。
もし、この人々が、酒あるいは肉類、および塩気の強い美味品、あるいはカリ塩のほとんどない蒸し菓子、汁粉などを好んで摂るとちょうど肉食した肥満家が、身体から脱塩するために、しきりに入浴して、さっぱりしたがるような、あるいは戒律を破り乱行におちいり、あるいは破廉恥な心を起こすような体と心になってしまう。



● 潮風の吹き入る土地は身の為に 食らふて欲しき豆と野菜を。

● 潮風に吹かるる土地の人々は 夏となるや殊に菜食。

● 魚や塩得るによし無き山里は 鳥けだものの肉を食ふべし。

● 肉ならば大根卸しか生姜汁 つけて食べれば毒消しとなる。

● 口先の旨きばかりにだまされて 命縮むる身こそ弱けれ。

● 肉すぎて血道のめぐりあしくなり 暑さよわりに冬も寒けり。

● 肉すぎて干物の如く身はしまり 色黒くして病がちなり。

● 肉すぎて命ばかりか身も智恵も 短くなりて才のみ多し・

● 肉食へば野菜を好かぬ人となり 薬薬と頼むおかしさ。

● 肉食へば一時の力多けれど 蔬食の人の根気には負く。

● 肉食へば心強きも気はつまり 長き仕事を嫌ふなるべし。

● 円心(まるみ)ある穀類多く食しなば 智仁勇義の道に富むなり。

● 動かずば動かぬ物を重に資れ 動き動かば動く物食え。

● 海国の魚と塩とに富む土地は 山や畑に生ふるもの食ヘ。

● 大陸の麦と薯とに育つ人 勉めて食らへ肉や玉子を。

● 潮風の温気ありける火の本を さます薬は野菜なりけり。

● 遠海の北と山との水国は 寒さしのぎに肉も食うべし。

● 飯食って程よく肉を嗜まば 身も健やかに智も才もあり。

● 肴屋は肴のように動けども 八百屋のように静かにはなし。

● 春苦味夏は酢の物秋辛味 冬は脂肪と合点して食え。

● 米飯よりも牛や玉子が多ければ 角つき合うて爪もかくさず。

● 肉はただ菜食のみに食べ合わせ 米食ならば日々に要せず。

● 養いの正しき人の行いは 雑食人の模範たるなり。

● 肉食うてパンや果物好くならば 面も小さく幅も利かない。

● 犬猫と同じ食物多ければ 頭やまして夜も寝られず。

● 牛馬にちかき食物多くとも 楽に寝られてものも忘れず。

● 尻こけの食物多く食しなば 始末悪くて尻尾出すなり。

● 尻根ある食物多く食しなば 尻尾出さずに始末するなり。

● 横のびの動物多く食しなば 其の性行は浮薄軽佻。

● 縦のびの穀類多く食しなば 着実主義の人となるなり。

● 縦のびに横のびの物食い合えば 自由自在の賢人となる。

● 冬なれば夏減じたる肉玉子 春秋よりも多くして良し。

● いつまでも肉食なして酒飲まば だんだんぼけて腑抜けとぞなる。






 

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生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
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池田 優

 

 

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