山ちゃんの食べもの考

 

 

その171
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【29】
『食は生命なり』と「永山久夫」 その22
永山久夫 「百歳までの健康ライフ 健康食・健康百科」 より
★★★★史実に学ぶ健康食、長寿食★★★★★
◆ 縄文人が発明した長寿食・鍋料理
火にかけた土鍋の中で肉や魚貝、野菜などがぐつぐつ煮え、湯気がもうもうと立ち上がっています。火を囲んだ人々が、思い思いに鍋を突っつきながら、大声で笑いあい、話し合っています。鍋料理は、冬の夜の楽しみです。
鍋の中は、いろいろな材料の混沌です。肉が主体のときもあれば、魚や貝類が中心のときもあり、豆腐が入り、糸コンニャクが入ります。
原則的には材料の決まりはありませんから、その日入手できた材料を上手に組み合わせて、味の出し方を考えればよいのです。
鍋物は、味の混沌料理であり、栄養の混沌料理です。ですから、ポカポカ汗ばむほど体がぬくくなるだけでなく、元気がつくのです。
 
●なつかしい鍋調理
鍋料理は、もともと囲炉裏から発生した、最も原始的な料理法といってよいでしょう。
昔の囲炉裏は、煮炊きするところであり、暖をとるところ、家族の楽しい語らいの場所でした。天井からぶら下がった自在鉤に大鍋をかけ、家族だんらんしながら、思い思いに皿に取り分けて口に運びます。
鍋料理のよさは、家族料理から出発しているだけに、身分や地位によって皿数が違うとか、特別の作法といったかた苦しさがない点です。鍋を囲んだら、みんな平等です。
給仕もいらなければ、お手伝いさんも不要。各自が食欲に応じて箸を進めればよいのです。
しかも、薬味も好みに応じて使用できますから、自分流の味で楽しめます。「鍋物」は共食料理としての性格が強いのですが、鍋の中から好みのものを選択し、薬味も自分流に調合して食べるという点では、個人料理ということも可能なわけで、その自由自在さ、味の混沌が大きな特長になっています。
 
●一万年以上の歴史がある「鍋料理」
鍋料理のうまい店は、なぜかちょっとうすくらい感じて、田舎風の雰囲気のところが多いようです。
もともと囲炉裏料理から発達したからで、店の造作もいかにも田舎風に作ってあり、客もそのような雰囲気を喜びます。鍋物調理の醍醐味は土鍋につきますが、この土鍋のルーツは縄文土器。
世界で一番最初に土器を発明したのは、なんと私たちの先祖である縄文人。今から1万2000年前のことです。
縄文鍋の中身は海の幸や山の幸にあふれ、豊かで味も良かったはずです。縄文人たちは竪穴住居の中央に切った炉に土鍋をかけ、魚や貝、海藻、山菜などを混ぜ煮しながら、赤々と燃える囲炉裏火で頬を真っ赤に染めて、鍋の中を棒などで突っつき、口に運んでいたことでしょう。
 
●縄文人が発明した「薬膳鍋」
以来、と鍋は投げ料理の主流となりながら、20世紀の現代でも立派にその役目を果たしているのです。素晴しい縄文文化の生命力ではありませんか。
土鍋は金属鍋と違って熱の伝わり方が柔らかいのです。そこで材料の味がじっくりとにじみ出てうまみに穀があり、熱がさめづらいという長所があるため、冬の料理には理想的です。
その上土鍋を囲むとホッとするやさしさを感じるのは、私たちの中に縄文人の血が流れているからでしょう。鍋料理をするたびに、私たちは、実は縄文料理を再現しているのです。だからなつかしい。しかも鍋料理には、縄文時代以来の食べる知恵がぎっしりとつまっています。
ネギや春菊、ハクサイなどの材料はさっと熱を通す程度で食べますから、ビタミンCを逃さずに食べることができます。鍋には魚や貝、肉などの動物性のもの、それに昆布などが入りますから、それらから味が出てミックスされ、たいへん美味になります。
同時にシイタケや糸こんにゃく、ギンナンなど入るわけですから薬効成分も含まれることになりますが、食べるときの薬味がポン酢やレモン酢のようにクエン酸の多いものが使われます。ですから、鍋料理を食べると血行がよくなり、風のひきはじめでしたら、けろりと治ってしまうくらいの精のつく“薬膳鍋”ともなっているのです。
 
 
◆ 平安時代の「美容食」と「知性食」
●「みやび」は「宮び」
平安王朝文化の特徴を一言で言うと、「みやび」といってよいでしょう。
「雅」の本来は「宮び」であり、宮廷を中心としたさまざまな貴族文化のことを言ったものです。
エレガントであり、創造力に恵まれた女性の時代でありました。世界に三大美女のひとりといわれた小野小町の生まれた時代であり、世界的な大長編小説である『源氏物語が』紫式部によって書かれた時代です。
清少納言は『枕草子』を残し、女流歌人の和泉式部はたくさんの情熱的な和歌を通して大活躍しています。
どうして、平安時代にこれほどの美女や才女が続出したのでしょうか。その秘密を彼女たちの食生活から探ってみたいものです。
 
●美容食は「美髪食」
自己の創造力と感性を開発し、その上、より美しくなるような食べ物。彼女たちが食べていたものは、情報化時代を先取りするような、脳の機能を向上させ、いろんな知識を情報データとして脳にインプットしておく上で、役に立つようなものを中心に構成されているのです。
当時、宮使いをする王朝のレディたちは知性、美しさともに選ばれた者であり、その中で誰よりも美人になりたいという競争心は、たいへんに激しいものがありました。
当時、美人のことを「うつくしきおみな」とか、「かほよきおみな」などと、言いました。顔立ちが優れていることもさることながら、「かほよき女」以上に、美しさの条件として要求されたのは、身の丈に余る黒髪でした。
髪は黒黒としていて、艶やかで、しかも、背を流れている髪の先が、ふさふさと裾引いていることが理想だったのです。
このしなやかに美しい髪を引き立てる衣装として、「十二単(ひとえ)」が完成されたのです。そして、立ち居振舞いはあくまでも優雅に、カルチャーをします。
『源氏物語』や『枕草子』には、さまざまな美しい髪の描写が出てきますが、『夜半の寝覚』という物語には「海草(みる)のようにふさふさした長い美髪」とあり。『浜松中納言物語』には。カワセミの羽色のような輝きを持ったきれいな髪というように表現されています。
髪を美しくするため、王朝レディや姫君たちは、何を食べたかといいますと、これが素晴しいのです。現代にも通用する“美容食”なのです。
大豆、ごま、昆布、クルミ、牛乳――この“五大美髪食”。これらの食べものの美髪効果は、平安時代の医術所である『医心方』にも出ていますが、「五大美髪食」は、同時に脳の機能を良くして、創造力を開発し、体を軽やかにする作用を持っているものばかり。
「美髪食」は「知性食」「賢脳食」「創造性開発食」であり、当時、美しいロングヘアえお持った女性は、まず、“知性美人”でした。
従って、平安時代は男性よりも女性のほうが輝き、素晴しい文学作品がたくさん生まれています。
現代も、まさにロングへアの時代。あらゆる分野で素晴しい才能を発揮しているレディが確実に増えています。まさに現代は、女性がきらきらと輝き、限りなく”平安時代”に近いといってよいでしょう。
平安時代の才女たちを育てたカルチャーとヘルシーの”王朝グルメ”。髪を美しくすると同時に、それが賢脳にも役立つ食生活、まさに、王朝女性の知恵といってもよいでしょう。
 
◆ 「豆腐を食べると美人になる」・・・ことわざ
豆腐の好きな女性には、肌のツヤツヤした美人が多いといわれています。
豆腐の成分の約90%は水。ですから豆腐のうまみは水の味で決まります。
京都の豆腐が日本一うまいといわれ、ファンも多いのは、実は水がうまいためです。
比叡山や北方連峰から地下にもぐった水は、岩石の中で濾過され伏流水となって、京都の町に湧き出してきます。
豆腐の主成分である良質のたんぱく質と、湧き水の相乗効果で、みずみずしい白い肌がとっても魅力的な京美人を生んでいるのではないでしょうか。
豆腐には美しい肌を保つ上で関わりあいの深いビタミンB類やビタミンE、レシチンなども含まれています。豆腐はまさしく「美容食」といってもよいでしょう。
 
 
◆ イワシが生んだ源氏物語
●紫式部の大好物は「イワシ」?
最近では海の健康食として、イワシが人気を呼んでいますが、「イワシ」を好んだ歴史上の有名な人物が二人います。
一人は天下をとり、子供を16人も残した徳川家康。そしてもうひとりは平安時代の代表的な才女、世界的な大長編『源氏物語』の作者紫式部です。この二人に共通しているのは、抜群に頭がよかったということと長生きしているということ。徳川家康は75歳、そして紫式部は60歳前後まで長生きしています。平安時代の60歳といったら、これはもうたいへんな長生きなのです。これもすべて、二人がイワシマニアだったからといっても過言ではないのです。それを紫式部の例を挙げて説明してみましょう。
平安時代は女流坂の時代といわれ、仲でも紫式部の「源氏物語」は、当時から宮廷の女官たちの回し読みされるほどの人気がありました。
貴族の姫君として生まれた紫式部は、10世紀の終わりごろ、父子ほども年の離れた高級役人の藤原宜孝と結婚しました。式部は、何かの折にイワシを食べ、その美味にすっかり感心し、チャンスがあったらもう一度食べてみたいものだ、と、常々考えていました。しかし、イワシは、「いやし」に通じるといって、当時の上流階級には嫌われていたので、おおっぴらに煙をたてるわけにはいきません。
ある日、あぶらののったイワシが入手でき、うまいぐあいに夫の宜孝が外出したのです。式部はチャンス到来とばかりに盛大に煙を上げ、心ゆくまでその味を楽しんでいると突然、夫が帰ってきました。
びっくりするやら鼻をつまむやら、夫が煙で涙をこぼしつつ、
「かようにいやしい魚を口にするとは、何ごとですか」
とたしなめますと、式部は少しも騒がず、得意の歌で反撃するのです。
  日の本に  はやらせ給う  いわしみず
  まいらぬ人は  あらじぞと思ふ
当時岩清水八幡は日本一といわれるくらい人気の高かった神社です。で、岩清水の八幡様に御参りしない人はいないように、こんな美味しい魚を食べない人もいませんよと「いわし水』の「イワシ」をひっかけて逆襲したわけです。式部の当意即妙ぶりには、さすがの亭主もすっかり兜を脱いで引き下がってしまいました。
このことがあって以来、イワシのことを、紫式部の「紫」を取り、女房言葉で「むらさき」と呼ぶようになったと、江戸時代の『倭訓栞』という本の中に出ています。
イワシには核酸とかレシチン、ビタミンなどといった記憶力を向上させる成分が豊富に含まれています。式部は父から中国の学問を学びましたが、その聡明さは兄をしのいでいたため、
「もし男であったなら」
と父を嘆かせたといいます。この素晴しい頭脳をさらに向上させるため、式部はイワシのような、健脳食を無意識のうちに選択していたのではないでしょうか。
イワシが健康によいのは、古くから知られていて、たとえば江戸時代の『本朝食鑑』には、「虚弱体質を治し、人を健康にして長生きさせる」とあります。江戸時代になると、栄養効果の高い、大衆魚として普及し、今日もイワシ、明日もイワシというようになっていきます。
 
◆ 「イワシも七度洗えば鯉の味になる」・・・ことわざ
イワシは脂肪が多くて生臭いものですが、
十分に洗えば、その味はまんざらでもないのです。
◆ 「イワシの煮付けにショウガと梅干し」・・・ことわざ
イワシを煮るとき、におい消しとしてショウガを入れますが、
一緒に梅干しを一粒加えると身がしまって味も良くなります。
イワシのたんぱく質が程よくしまり、口当たりが良くなるため
◆ 「イワシの頭は鴨の味」・・・ことわざ
イワシの頭は残してしまう場合が多いですが、実は一番美味しい部分なのです。
その美味しさを鴨の肉にたとえたもの。
◆ 「イワシの焼き食い一升めし」・・・ことわざ
新鮮な魚なら何でも美味しく食べられることのたとえですが、
特に、イワシの焼きたては抜群の味だといったもの。
カルシウムやエイコサペタエン酸も多く、成人病の予防にもってこいです。
 
 
◆ 一休さんの「とんち食」は?
●とんち生む大豆レシチン
「世の中は  食うて  かせいで  寝て起きて
さて  そのあとは  死ぬばかりぞ」
頓知和尚さんで人気のある「一休さん」の作。
一休さんの頭は、実に回転が速い。クルクル、クルクル回ります。
脳のメカが、非常に優れていたのです。
人間の脳細胞(ニューロン)の数は、140億あるといわれています。大脳生理学者によれば、人間は死ぬまでの間、自分の脳を使い続けても、脳細胞のうち使いこなしているのは、せいぜい10%くらい。ノーベル賞を受賞するような天才的な学者でも、使っているのは20%ぐらいだといわれます。
では、「休眠脳」を覚醒させて、機能性の高い脳にするにはどうすればよいのでしょうか。勉強や経験も、もちろん必要ですけれども、さらに重要なものが食べ物なのです。
 
●一休さんの大好物は「寺納豆」
勉強した結果や人名、仕事上のデータなどを脳細胞に正確に記憶させたい。それらの情報を必要なときにより速く取り出したりする、スイッチ機能をスムーズにするために欠かせないのが、食べ物を通して供給する「オイル」ともいうべき「脳の栄養」なのです。小坊主のときから、すでに大人顔負けの天才ぶりを発揮してきた一休さんは、まさに「脳使い」の名人でした。一級さんの幼名は千菊丸といい、南北朝末期の応永元年(1394)、後小松天皇ご落胤として生まれましたが、事情があって、6歳のときに安国寺に預けられたというのが痛説になっています。
一休さんは京都の大徳寺住持を務めていましたが、晩年は京都府田辺町にある酬恩庵に移っています。一休さんは寺納豆が大好物で大徳寺でも酬恩庵でも作らせています。普通の糸引き納豆とは違い、煮豆にショウガやシソ、サンショウの皮などを加えて、こうじ菌で発酵させたもので、今でも大徳寺でも酬恩庵でも作られ、名物になっています。
大豆に含まれているレシチンが、頓知を生む権能食となっていたのです。レシチンは神経伝達物質・アセチルコリンの原料であり。効果的にとることのよって、頭の働きが向上することが知られています。
一休さんという人は88歳という驚異的な長寿を果たして世を去っています。頓知で頭脳を自由自在に使ったことと、大豆食が長生きに結びついたのです。
 
 
◆ 鎌倉武士の「一汁一菜」にこめられた知恵
●シンプルでダイナミックな「一汁一菜」
「一汁一菜」というと・粗食の代名詞のようにとらわれがちですが、とんでもない誤解といってよいでしょう。
「一汁一菜」というのは、主食の「ご飯」に「みそ汁」、それに焼き魚、あるいはイモ類の煮物といった「おかず」が一品と漬物だけの内容ですから、献立的に見ますと、確かに品数は少ない。
しかし、余分なものをとり除き、その結果できあがったのが、簡潔でシンプルな献立なのです。必要最小限の献立にしながら、内容的には非常にダイナミックになっている。それが一汁一菜」の構図なのです。
この質素な献立は、すでに平安時代の庶民の中ではほぼ出来上がっていましたが、鎌倉時代になって、武士の間で定着します。貴族化した平家政権を倒して、関東に体制の拠点を樹立した鎌倉武士が定型化した「一汁一菜」こそ、和食の原型となって日本人の食生活の基本となり、今なおシンプルライフのシンボルとして受け継がれております。
鎌倉周辺から出土した鎌倉武士の骨格を見ますと、非常に発達していてがっちりしています。大腿骨など、現代人よりもはるかに太くたくましい。背丈こそ成人男子で平均159センチで、あまり大きくありませんが。たいへん頑丈です。ふだんは農業に従事し、有事に出陣して戦うという生活をいていたために、筋肉や骨格が発達したのだと思います。
 
●玄米を「研ぐ」とおいしくなる
骨太でがっちりした鎌倉武士の骨格を作り上げたのが「一汁一菜」のシステム。
主食は玄米が五合で、これを朝と夕の2回に分けて食べます。五合というと約750g。熱量に換算しますと、約2600カロリーになります。米だけでもたいへんな高カロリーですが、鎧兜といった重装備で戦うことを考慮すると、この程度のカロリーは不可欠です。
玄米には人間が必要とするビタミンやミネラル、脂肪、繊維質などがバランスよく含まれていますから、ほぼ完全食といってよいでしょう。特にでんぷん質の代謝には欠かせないビタミンB1が多く、玄米3000gで、一日に必要な量が取れるほどです。
ビタミンB1が不足すると脚気になることはよく知られていますが、そこまでは行かなくても、体全体がだるくなって疲れやすくなり、物忘れなどもしやすくなります。
玄米には、さらに血行をよくして高血圧や動脈硬化などを防ぐリノール酸やビタミンEも含まれています。しかも、玄米は土に撒けば発芽します。搗精(とうせい)した白米と違って、胚芽を持った生きた種子だからです。生命力を強化する主食としては、理想的な食べ物といってよいでしょう。
しかし、玄米のままでは表面には褐色のぬかの層がついているために、炊くのに時間がかかりすぎますし、消化もあまりよくありません。そこで米食民族の知恵として生み出されたのが、「研ぐ」という手法でした。
水に浸してから、玄米をごしごし研いで、その表面をこすり、糠をさっと削ると同時に傷をつけて、炊きやすくし、食べやすくするわけです。
これが「研ぐ」で、「万葉集」や鎌倉前期の『宇治拾遺物語」などに「とぐ」という言葉で使われています。ちなみに「とぐ」という大和言葉は、「とがらす」とか「とがる」などの語源から出ています。
「研ぐ」は玄米の栄養をできるだけ損なわずに、上手に食べる知恵として生まれたもので、「玄米」だからこそ生きる手法。「研ぐ」は玄米直接食事代の遺習なのです。
今では習慣となり、白米常食の時代になっても使われていますが、白米の場合は「研ぐ」必要は全くありません。白米なら固いぬかの部分は除かれているわけですから、さっと洗い流す程度でよく、むしろ研ぐと、白米にごく微量に付着しているビタミン類が流されてしまいます。
 
●北条時頼の「みそ肴」
「一汁一菜」の「一汁」は、もちろんみそ汁で、和泉式部も食べていた「みそつゆ」とほぼ同じです。
ビタミンCと葉緑素の豊富な野菜、山菜、海藻と大豆アミノ酸がたっぷり入ったみそ汁。みそ汁の実として用いられた青物は、常に季節のものであり旬のものでした。
春の芽生え出たばかりの山菜からはじまって、夏の若芽、野菜、秋のキノコ、イモや大根類、そして冬のゴボウやレンコン、干し葉といった具合に、四季を追って次々に変化していきます。季節によっては、貝類が入ったり、魚が入ったり、鶏肉や、豆腐が混じることもあります。
山、里、川、海が季節ごとに恵んでくれる多彩な風味と、大豆アミノ酸の取り合わせが、日本人の健康を守り、味覚を向上させる上で果たした功績は、はかりしれないものがあります。
これが、鎌倉武士が定着させた「一汁一菜」の素晴しさ。
鎌倉武士が、いかにみそを重視し、大切にしていたか、鎌倉武士とみそとの関係を象徴するエピソードが、吉田兼好の『徒然草』に次のように出ています。
ある宵のこと。
北条時頼(鎌倉幕府の五大執権)の使いが、平宜時のところへやってきて、すぐに来てくれという。もう夜だし、執権の前で着用するような直垂もないので、ぐずぐずとしていると使いが再びやってきて『どんな服装でもよいから、早く、早く』という。
仕方がないのでしわくちゃの直垂を着用してかけつけると。時頼が銚子と土器を手に持って待っている。
『酒を一人飲んでも味気ないので、呼んだ。ところが、肴がない。適当なものを、その辺から探してきてくれまいか』
宜時が明かりを手に台所に入っていくと、棚の上の小さな土器に、残り物のみそがあるのを見つけた。
『これしかありません」と持っていくと、『それで十分ではないか』と、喜んで宜時相手に快く数杯に及び、たいへんご機嫌だった。
鎌倉武士の台所には、たとえ何がなくても、みそだけは必要欠くべからざるものとして、備えてあったのです。それにしても北条時頼の酒の肴が「みそ」とは、いかにも粗食を思わせますが、これが鎌倉武士の本領であり、ごく当たり前の食生活でした。
 
●「みそ汁」は、イザとなれば出陣食
鎌倉時代になって、なぜ武士社会に「みそ汁」が定着したかといいますと、もうひとつ、武士だけに要求される特殊な事情があったことも否定できません。「いざ鎌倉!」という事態が出現した場合、武士は馳せ参じなければなりませんでした。食事をゆっくりゆっくり取っている余裕などありません。このようなときにはどうするかというと、米飯にみそ汁をかけてすばやく食事をすませてしまいます。武士の早飯は「いざ鎌倉!」から出た習慣で、室町時代の『宗五大草紙(そうごおおそうし)』にも、
「武家にては、かならず
飯わんに汁をかけ候」
とあり、しまいには武家のならわしになるほど普及しました。
戦国時代の永禄3年(1560)、織田信長は有名な「敦盛」を三度舞います。
人間五十年
天下の内にくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生を得て
滅せぬ者あるべきか
舞い納めるやいなや「螺(ほら)を吹け、具足をよこせ」と叫び、立ったままで「湯漬け」をかっ込むと馬に乗り、桶狭間に向かうわけです。
目的地で見事に今川義元を倒し、この電撃作戦の成功をきっかけにして、信長の武運はトントン拍子に急上昇していきますが、乗馬の直前に腹の中に流し込んだ「湯漬け」というのが、いわば「汁かけめし」の変形といってもよいでしょう。
現在のお茶漬けと同じですから、あまり噛まなくてものどを通り、胃におさまります。徳川家康も、信長と同じように湯漬けを好みましたが、かならず「焼きみそ」を添えさせています。味噌には多種多様の消化酵素が含まれていますから、味噌と一緒に湯漬けのように、あまり噛まずに食べるものをとっても、消化不良を起こす心配はないことを、家康は知っていたのです。
信長の「湯漬け」よりも、鎌倉武士の「汁かけめし」のほうが、体力を維持する上では、はるかに効果があるのはいうまでもありません。みそ汁には発酵した大豆アミノ酸や消化酵素、それに、旬の野菜がたくさん入っているからです。
 
●「一菜」はまるごと食べる全体食
鎌倉武士の「一菜」は、たいがい、イワシやアジ、サバなどの丸干しや干ものなどです。もちろん季節によっては、里イモや大根、ゴボウなどの煮物の場合もあります。
しかし圧倒的に多かったのは、鎌倉近海でも大量に水揚げされた、イワシの丸干しの「一菜」だったようです。考えてみれば、これもみそ汁に劣らない、素晴しい健康食といってもよいでしょう。
頭から尾まで、まるごと食べてしまうからです。頭から骨、内臓まで、一匹まるごとちょうだいするということは、たんぱく質あり、脂肪あり、カルシウムあり、骨髄、糖質ありで、生きるための栄養を過不足なくとることができます。しかも自然のまま生命体をそっくり自分の対中に取り入れることになります。一匹まるごとの生命体を余すところなく食べることによって、自分の生命力を強化する。これが、鎌倉武士の「一菜」の知恵でした。
かつて、行政改革の中心になって大活躍された土光敏雄さんが、丸干しのイワシとご飯、みそ汁に漬物という質素な食生活で、毎日を送っていることが話題になったことがありました。世の中の多くの人は、土光さんの食事を“粗食”ととったようですが、それは逆で、あのシンプルな食事だからこそ、ご高齢にもかかわらず、行革に取り組まれた素晴しい活力が生まれたのだと思います。
土光さんの食事が、鎌倉武士が定着させ、和食の原型となった「一汁一菜」であったことも、たいへん興味がひかれます。鎌倉武士の骨格が、現代人よりもはるかに発達していたことは「一物全体食」によって、カルシウムをたっぷりとっていたことと、無関係ではありません。
 
◆ 「武士の五合めし」・・・ことわざ
武士は一日五合のめしを食べるという意味。五合というと約750グラムで約2600キロカロリーになります。これは古代以来のしきたりで『新武者物語』にも「人の食物は朝暮二合五勺ずつ然るべし」とあります。
武士が朝、昼、晩と現在と同じような食べ方をするようになったのが、徳川体制が固定して世の中が平和になる江戸時代の初期になってから。玄米飯に近い主食を、味噌汁と漬もので食べる。たまに、魚の干物でもつけばご馳走となります。現在の飽食ボケした食卓から見れば、粗食に見えるかもしれませんが、素材の栄養価が根本的に違います。
30キロもある兜や鎧で武装して戦うことができたのも、米の飯をしっかり食べて、実だくさんのみそ汁を食べていたからにほかなりません

 

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生命の農と食を考える
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池田 優

 

 

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