山ちゃんの食べもの考

 

 

その173
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【31】
『食は生命なり』と「永山久夫」 その24
永山久夫 「百歳までの健康ライフ 健康食・健康百科」 より
★★★★★史実に学ぶ健康食、長寿食★★★★★
■ 家康の長生きの先生・天海は108歳
● 75歳まで鷹狩りをしていた家康
生まれてから死ぬまで、主食はひたすら「麦飯」と決めて、ついには、天下取りをやってのけた男がいます。三河武士のリーダーである徳川家康。
おかずは焼きみそに魚、それに大豆100%の三河みそで味付けした、実だくさんのみそ汁という組み合わせです。
元和元年(1615)の大阪の陣で、豊臣一族を根こそぎにした家康は、隠居地の駿府(現在の静岡県)に引き上げますが、さすがに気が緩んだのでしょうか、一年後には75歳の生涯を閉じてしまいます。
しかし、死ぬ直前まで鷹狩りをしており、驚異的な生命力といってよいでしょう。平均寿命が三十歳時代の江戸時代の創世記であり、当時の75歳は、現在でいったら百歳以上に相当します。
家康が、なぜこれほどまでに長生きできたかといいますと、実は、長寿法の先生がついていたのです。
 
● 長生きの先生
長生きの先生というのは家康の知恵袋といわれた、天台宗の、天海です。家康の死後、さらに33年も長生きし、108歳で大往生しました。家康、秀忠、家光と徳川将軍三代に仕え、たいへん信頼の厚かった大僧正です。
ある日のことです。家康が、天海に「長生きの秘訣」にたずねたところ、
長寿は、素食、正直、日湯、だらり、
ときおり下風あそばされかし
と答えたそうです。長生きするために守ることがらとして、天界があげた方法を説明してみましょう。
 
● 素食(粗食)
金や権力を手中にしたからといって年中美味飽食をしていては、健康によくない。ふだんは質素なほうが、かえって健康にはよいという意味で、家康の麦めしなどはまさに“粗食”のよい例です。この場合の「祖食」は「粗食」、つまり「質素な食べもの」であるのはいうまでもありません。
■ 正直
ウソをつくと緊張をもたらし、それがストレスとなって体に残ります。従ってウソは体によくない。あまりコセコセしないで、自然体で生きなさいといっています。
■ 日湯
入浴は毎日実行しなさいという意味。体をお湯につけるだけでなく、裸になって皮膚を外気にさらすことが重要なのです。入浴や外気欲は、体の中にはりめぐらされた毛細血管を拡張して、血液の循環をよくし、新陳代謝をよくしますから、体細胞の老化を防ぐ上でも、たいへんに役に立ちます。
■ だらり
長生きする上で、最も大切なのは「粗食」に次いで、この「だらり」。男性の「ふぐり」、つまり「睾丸」がだらりとしている状態を言います。
男性だったら、すべて経験があると思いますが、「ふぐり」は大変にデリケートで、緊張したり、ショックやストレスを感じたりすると、縮み身上がって体内にのめり込むほど、縮小してしまいます。「ふぐり」は、常に、「だらり」でなければ大きな仕事はできません。物に動じることなく、ゆうゆうと暮らせということを「だらり」と表現しているわけです。
■ 下風
下のほうから出る“風”で、「おなら」のこと。ガスがたまるのを我慢するのは、健康によくない。従って、ときおりは思い切って放屁するのが自然であり、それが体のためにも一番良いといっています。
 
●長生きしなければ天下は取れない
信長、秀吉、家康というと、戦国時代の天下取り三人男として知られています。この三武将の死亡年齢は
織田信長・・・49歳(天正10年6月没)
豊臣秀吉・・・63歳(慶長三年8月没)
徳川家康・・・75歳(元和2年4月没)
戦国乱世を平定して、最後に天下を手中にしたのは、三人の中で最も健康だった家康。結局長生きしたほうが勝ちなのです。
家康の健康長寿の影には、天海の指導があったのはいうまでもありません。
天海は天文5年(1536)に、福島県の会津で生まれ、天正17年(1548>に駿河で家康に出会いました。以来、意気投合した二人は、死ぬまで親交を結ぶことになります。
家康の没後、日光東照宮の造営では天海が総指揮をとっています。天海の生涯で最大の事業は、当時キツネやタヌキのすみかだった上野の山に、寛永寺を建立したことでしょう。しかも、工事に着工したのか寛永二年(1625)、89歳という高齢になってからでした。
天海は、江戸時代の寛永20年(1643)に、108歳という超高齢で死にましたが、没後80年に出た「閑際筆記」には、天海は140歳と記されています。
108歳ではなくて、140歳まで生きたというのです。興味深い部分でもあり、その部分を紹介してみましょう。
「大僧正天海、年140.恬淡緩慢(あっさりしていて、ものごとにこだわらないこと)が、わが延寿の法なり」
天海は、前出のものとは別の「長寿法の歌」も残しています。
気は長く
つとめはかたく
色うすく
食は細うして
心ひろかれ
食事は「腹八分目」とし、物のこだわらずに自然体で生きることが、天海にとっての長寿の秘訣でした。
天界は記憶力の天才でした。一度覚えたことは、忘れなかったといわれています。しかも、このコンピュータ並みの記憶力は、死ぬ直前までまったく衰えていないのです。天界の超人的な「記憶力」と「不老力」は、遺伝的なものであったでしょう。しかし、毎日の食べ物の内容が、生得の脂質よりも、はるかに大きかったと思います。中でも、「雪納豆」と「「納豆汁」が、大きな影響を与えたようです。
 
●超長寿食、納豆汁
天海の生まれは福島県の合津で、天文5年(1536)といわれています。
会津は雪が深く古くから冬ごもりに体力食として、納豆作りが盛んでした。天海がふるさとで過ごした少年時代には、雪の季節になると毎日のように納豆を食べていたのではないでしょうか。
健康体を維持する上で、たんぱく質の供給は欠かせません。育ち盛りの子供時代には、特に重要です。合津のような山里では、海魚はあまり期待できませんから、必然的に植物性たんぱく質に依存せざるを得ません。
納豆のような大豆たんぱく食品が、雪国で生活するためには不可欠だったのです。
いわゆる「おふくろの味」というのは、少年期に母親が作ってくれた素朴な料理や食べものに対する、味覚上の郷愁です。この「おふくろの味」の伝達は、遠い先祖まで連綿とつながっている場合が少なくありません。食べるものの流通は時代をさかのぼればさかのぼるほど「土産土法」で局地的になりますから、「おふくろの味」はそのまま「ふるさとの味」ということになります。味覚感度の鋭い発育盛りに食べたものは、「すり込み作用」によって脳細胞の中に強い記憶として刻み込まれ、晩年になってからも忘れないものです。
天海にとっての「おふくろの味」は、会津の雪納豆だったに違いありません。又天海は108歳という驚異的な長寿を成し遂げた僧ですが、「納豆汁」もたいへん好んだと伝えられています。
納豆にな消化の良いたんぱく質や、脳の老化を防ぐレシチン、血管に付着しやすいコレステロールや脂肪を洗い流す作用のあるサポニン、それにイライラを鎮静化して気分を落ち着けるカルシウム、便秘を防ぐ繊維質などがたっぷり含まれていますから、“長寿食“としては申し分ありません。
 
●コンニャクで男性ホルモンを抑える
天海は僧ですから、食事、つまり精進料理主体です。寺料理の代表は何といってもコンニャクです。鎌倉時代以来、コンニャクは精進料理には欠かせない、というより絶対に必要なメニューなのです。
では、なぜ、お坊さんたちは毎日必ずコンニャクを一皿食べたのでしょうか。
コンニャクには、コレステロールをからめとって体外に排出する力があります。男性ホルモンを作っているのは、実は成人病の天敵みたいに嫌われているコレステロールなのです。コレステロールが多いと男性ホルモンが増え、男性ホルモンがたまると気が散って修行に身が入らなくなってしまいます。そこで若いお坊さんの膳には、特にこんにゃく料理を多く盛ったのです。修行の妨げになる、男性ホルモンの生産を抑えるためです。
コンニャクにコレステロールを排泄させる作用があるということは、一方で性的能力の低下を意味しますが、他方では長生きしやすい健康条件を作っているわけです。
コンニャク以外の寺料理の特徴としては、大豆加工食品の種類が多いということがあげられます。こちらも長寿食であり、コンニャクや大豆が天海の長寿を伸ばした、大きな要素となっていたことは間違いありません。
天海は非常に記憶力が良く、一度覚えたことは生涯忘れなかったといわれています。超人的な天海の記憶力と不老力は、もって生まれた資質も大きな要素でしょう。しかしいくら生来的に優秀な肉体的構造を持っていても、暴飲暴食や美食、放蕩などの不摂生を続けていたら、命を縮めるだけでなく、脳細胞まで破壊されてしまいます。長生きするためには、やはり毎日の食べ物の選択が最も重要なことになるのです。室町時代に生まれた天海が死んだのは、江戸時代の寛永20年(1643)、108歳でした。
 
 
■ 忍者の「豆噛み忍法」を学べ
●「豆噛み忍法」の秘密
忍者は豆を食いながら忍術を身につけるという意味で、事実、戦国時代の忍者は「煎り豆」を奥歯で、カリカリ噛みながらトレーニングしていました。
忍者に要求される最大の能力は、身のこなしの素早さもさることながら、一般人の5倍も6倍も強力な記憶力。忍者は文字を一切使わないため、頭が正確な記憶装置(メモリーボックス)でなければなりません。なぜなら、敵地に忍び込んで集めた情報を文字に残すと、敵方に捕らえられたときなどに、身分や任務が発覚してしまうからです。
そこで、武術や忍術と平行して、記憶力のトレーニングをしていたのです。
 
●科学的なトレーニング
記憶にはインプットとメンテナンス(保存)、そしてアウトプットの三段階があります。一般的に、インプットとメンテナンスの能力には、それほど個人差はありません。
頭の良し悪し、あるいは記憶力の強弱は、結局、頭の中に蓄えられたデータをアウトプットする早さによって差がつきます。
記憶していたことを、より迅速に、しかも正確に取り出す能力が高い人ほど、頭がよいことになるわけで、忍者はまさにのそのような脳に改造するトレーニングをしていたのです。この“煎り豆トレーニング法”は非常に科学的なのです。
その理由は4つあります。
1つは、固い煎り豆を奥歯で噛むことによって脳を鍛え、集中力をつける上で役に立つのです。
2つ目は、大豆に含まれているレシチンの作用によって記憶力が正確になる。文章にしないで、敵の情報を頭の中にインプットして帰還する使命を課せられた忍者にとって、記憶力の正確さは重要な資質です。
3つめは、大豆にはカルシウムが多いということ。カルシウムは精神安定効果の高いミネラルであり、常に冷静に行動するためには欠かせない成分です。
4つ目は、大豆には繊維質が豊富に含まれているから、便秘の解消に役立つことです。忍者は、いざというときに備えて、丸薬など必要最小限の食事しかしないために、便秘の傾向が強かったのです。便秘が強いと頭痛が起こったり、肩こりがするため、忍者にとっては、俊敏な行動が取れなくなる可能性が出てきて、足かせになってしまいます。以上のような理由があり、忍者のトレーニングには、たいへん感心させられます。
 
●節分の豆をまく理由
また、忍者は常に煎り豆を身につけていたのには、魔除けの意味もありました。
節分の夕方にまく豆にも、悪霊を追い払うという意味があります。なぜ「豆」なのかというと、「豆」は「悪滅(まめ)」に通じ、特別の霊力が含まれていると信じられていたからです。
煎った豆を「福は内、鬼は外」と唱えながらまく習慣が始まったのは、室町時代のはじめごろで今から590年ほど前のことです。
煎った豆を「福豆」と呼び、年齢よりも1個余分に食べることによって、一年間健康で長生きできますようにと、お祈りするわけです。
石ころのように固い「煎り豆」を奥歯で噛むことによって、歯の根っこを丈夫にし「歯固め」をします。
 
●大豆は脳の老化を防ぐ
「歯」は、また「よわい」とも読むように、「年齢」そのものをあらわします。
従って、年齢を重ねて長生きしたかったら、「歯」を丈夫にしなければなりません。そのために、節分に石ころのような煎り豆を食べて、葉の根っこを固めて、抜けないように祈るわけです。
同時に、大豆に含まれているレシチンやビタミンEをとり込むことによって、脳細胞の老化を防ぎます。
節分の「豆まき」は、大豆の重要性を伝え残すための行事でもあり、日本人の知恵といってもよいでしょう。
もっとも、いくら豆が素晴らしいからといっても、戦国時代の忍者ならともかく、現代人が煎り豆を奥歯でカリカリやったら、たちまち歯を折ってしまうでしょう。1本歯を入れると7万円はしますから、くれぐれも煎り豆は口にしないほうが無難でしょう。
その代わり、煮豆か納豆、またはきな粉でも、大豆の成分は全く変わりません。ですから、食べやすい大豆加工品をとって、大豆の成分をとり込んで、忍者のように鋭い頭脳力と記憶力を身につければよいのです。
 
 
■ 蓮如上人のスタミナ食は黒ごまだった
●坊さんの長生きは粗食にあり
歴史的に見て、長生きしている僧侶が多いのは、規則正しい生活と粗食、修行、布教などで、実によく体を使っているからでしょう。
大体、こってりと贅沢な食事ほど体にどくなものはありません。天保11年(1840)に79歳でこの世を去った志賀理斎は、『理斎随筆』の中で「美食は短命のもと」と次のように述べています。
「高貴の人は日々に美食に飽きて、安逸に生活するがゆえに、多くはいろいろに病気ありて短命なり。農をたつきとする百姓は、平素粗食をなして、日々耕作に体を使って働くために無病長寿のもの多し。これをもって、流水腐らずと個人もい減り。これを連之というものの句に
精出さば 凍るまもなし水車 とは申しき」
 
●108歳で軍用機に搭乗した僧
徳川家康の知恵袋といわれ、秀忠、家光と将軍家三代にわたって使えた天海大僧正は、108歳まで長生きしましたが、昭和9年に110歳で天寿を全うしたのが、東京の鳥栖越山師です。
昭和17年刊の『百歳突破作戦』の「百歳以上の長寿者列伝」の中に出てきます。「東京市瀧野川区西ヶ原に昌林寺というささやかな曹洞宗の禅寺がある。
その寺に隠居していた鳥栖越山師は、親しかった長岡外史将軍の勧めに従って、昭和7年108歳の身で飛行機に搭乗したので有名だった。
当時、彼は耳が遠かったが、記憶は確かで、よく語り、日々掃除したり揮毫をしたりしていた。
文政2年3日、熊本の藩主鳥栖太左衛門の次男に生まれ、傑僧、久我環禅師に学んだ。和泉の長泉寺、陸奥の鳳台院、その他数ヶ寺の住職を経たあと、大正10年、昌林寺に入ったものである。
煙草も酒もたしなまず、豆腐、坐禅豆を好物として、粗食に甘んじていた。昭和9年3月28日、108歳を持って遷化した(原文そのまま)
「座禅豆」というのは、煮しめた豆のことで、禅僧が座禅を組むとき小便を少なくする目的で食べたといわれています。
 
●70歳を過ぎて5人目の妻を娶る強靭な体力
健康で長生きをした僧なら、いくらでもいますが、その上30人近い子供を作った坊さんとなると珍しいものです。
その珍事をやってのけたのが、蓮如上人です。応永22年(1425)に京都の本願寺で生まれましたが、6歳で生母に離別し、不運な少年時代をおくり、43歳まで部屋住みの生活を余儀なくされました。蓮如は部屋住みの時代に独学で教養を積み、浄土真宗開祖の親鸞の遺跡を巡歴するなど、ひたすら修行につとめました。
長禄元年(1457)に父の存如のしによって、浄土真宗本願寺派第8世の法主となりました。
当時、浄土真宗には諸派がありましたが、本願寺派はあまり振るいませんでした。しかし、宗祖親鸞の直系の子孫であり、浄土真宗の正統を任ずる蓮如は、宗派再興のために、エネルギッシュで戦闘的な布教活動を開始したのです。
彼の布教によって門とは増えていきましたが、その勢力拡大が急激なために、旧仏教や真宗他派から攻撃されるところとなり、トラブルも絶えませんでした。
蓮如の凄いところは、優れた教養と先見性、徹底した布教力だけではなく、その異常なほどに強靭な体力です。28歳から始まって、84歳までの間に27人(男13人、女14人)の子供を生ませていたのです。
84歳でまだ妻に子供を産ませる体力があったのです。蓮如は生涯に5人の妻を持ちましたが、5度目の妻となった蓮能を迎えたのは、蓮如が71、2歳のころで、この最後の妻は結局5男2女を生んでいます。
そのスタミナ源は何によって補給していたかというと「黒ごま」で、どんな山奥に布教に入るときにでも、小袋に入れて持参し、歩きながら一粒ずつ噛み続けていたといいます。
蓮如は多くの子供と門徒に囲まれながら85歳の波乱に富んだ生涯を閉じたのです。
 

 

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池田 優

 

 

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