山ちゃんの食べもの考

 

 

その202
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【58】  『食は生命なり』と「新谷弘実」 その25
新谷弘実著
『病気にならない生き方』 2 実践編 より その6
 
 
第3章 病気にならない食生活 の1
 
●インド人がガンジス川の水を飲めるのはなぜか?
 
インドのガンジス川は、ヒンドゥー教徒にとって「聖なる川」です。
しかし、ご存知の方も多いと思いますが、ガンジス川の水はお世辞にも「清潔な水」といえるものではありません。
 
さまざまな雑菌が含まれているのはもちろん、下水道が完備されていない場所では糞尿が川に捨てられていたり、最近では工場排水なども垂れ流しにされてしまっています。
 
それでも「聖なる川」であるがゆえに、インドに人々は家族の遺骨を川に流し、自らも川に入り沐浴します。
さらに、ガンジス川のほとりに住む人々は、その水を汲んでお茶や料理に使ったりもしているのです。
 
たまにインド人の姿を真似てガンジス川にはいる日本人がいますが、彼らはほぼ間違いなくおなかをこわします。
その原因は、あまりにも多すぎる雑菌です。
 
ところが、なぜかインド人は、ガンジス川に入っても、その水を飲んでもおなかをこわしません。
なぜインドの人々は雑菌堕落の水を飲んでもおなかを壊さないのでしょうか。
 
ひとつには「慣れ」が考えられます。
日本では昔から「旅先では生水は飲むな」といいますが、これは普段飲んでいる生水に含まれる雑菌に対しては免疫ができているので大丈夫でも、知らない土地の知らない雑菌に対しては免疫がないためおなかをこわしやすいからです。
 
つまり、インド人は、ガンジス川の雑菌に対して免疫ができているということが考えられます。
 
しかし、いくら慣れた菌でも量的な限界はあります。
何しろガンジス川には下水まで流れ込んでいるのですから。
 
では、なぜインドの人々はおなかをこわさないのでしょう。
それは、彼らが毎日、「自然の抗生物質」を大量に摂取しているからだと考えられます。
 
抗生物質というのは、わかりやすくいえば「抗菌薬」ということです。
風邪を引いたときなどに、日本ではよく抗生物質の入った薬が処方されますが、それは、風邪を引いたことによってさまざまな雑菌が体内で増殖するのを防ぐため、つまり、症状を悪化させないためです(ちなみに、抗生物質に風のウイルスそのものを抑える力はありません。抗生物質の処方は、あくまでも、症状の悪化を防ぐことが目的です)。
 
といっても、インドの人々が毎日「薬」を飲んでいるというわけではありません。
抗生物質と同じような抗菌作用を持つ食品を食べているということです。
 
カレーには薬効成分を持つ香辛料や野菜が数多く使われています。
たとえば、カレーの黄色のもととなっているターメリック(ウコン)には、食中毒の原因菌であるブドウ球菌に対する抗菌作用がありますし、ガーリック(ニンニク)には、健胃、発汗、利尿、整腸、殺菌、駆虫などの効果があります。
 
他にもペッパー(コショウ)、コリアンダー、ナツメグ、カルダモンなどの権威作用を持つスパイスや、チリ、マスタード、ジンジャー(ショウガ)など、血行をよくすることで免疫力を高めるのに役立つ成分の多く含まれています。
 
つまり、インドの人々はカレーという「自然の抗生物質」を毎日食べることで自らの免疫力を高め、苛酷な自然環境の中でも健康を維持していたのです。
 
第1章で沖縄の食事に触れましたが、沖縄の人々が豚肉をたくさん食べているのに長寿を保っていられるのも、余分な油を落とす伝統的な調理法で、石灰質の大地から湧く水、そしてエンザイムの豊富な野菜や果実のおかげでした。
 
このように伝統食には、先祖代々受け継がれてきた、その土地で人々が健康に生きるための知恵が盛り込まれているのです。
 
 
●伝統食に秘められた健康に生きるための知恵
 
インドのカレーや沖縄の長寿食のように「いいものをたくさん摂る」ことで健康に役立てている伝統食もあれば、逆に食にある一定の規制を設けることで、健康維持に役立てている伝統食もあります。
 
そのひとつがユダヤ教の伝統的な食事、「コーシャ・フード」です。
ユダヤ教では食事の素材や調理法に厳しい戒律が定められ、信徒は、戒律で認められた「コーシャ(コーシェルとも)」な食べもの、つまり「清浄な」食べものしか食べてはいけないことになっています。
 
ユダヤ教徒が豚肉を食べないことは有名ですが、他にも貝類、エビやカニなどの甲殻類、タコやイカなどの軟体動物、病気で死んだり、戒律に則らない方法で解体された生き物なども、コーシャではないという理由で、食べることが禁じられています。
 
牛肉は食べることが許されていますが、解体や血抜きの方法から始まって、乳製品と一緒に調理してはいけないなど、調理法もきめ細かく決められています。
 
こうしたコーシャ・フードは、ユダヤ教の経典「トーラー」(旧約聖書の最初の5つの書)の記述にもとづくものですが、それを見ると、神は本来「人は植物食であるべき」だと教えていたことがわかります。
 
【神は仰せられた。「見よ。私は、全土の上にあって、種をもつすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなた方に与えた。それがあなた方の食物となる」(創世記/第1章29節)】
 
神が人間に動物食を許したのは、トーラーではノアの洪水以後ということになっています(創世記/第9章3節)。
 
なぜ動物食を許したのかというと、人間は植物食が理想であるが、実際には動物食をしてしまっている、どうせ食べるのならば安全な食べ方を指導しようということのようです。
その証拠に、コーシャ・フードでは植物食に対する制約は何もありません。
 
コーシャ・フードに見られる規制は宗教上の問題といわれていますが、その内容を見ると、やはりここにも安全な食物を得るための先人の「知恵」が込められていることがわかります。
 
ユダヤ教が生まれた時代、イスラエルでは動物食の保存は簡単なことではありませんでした。
干物や塩漬けぐらいはあったでしょうが、気温が高いので魚介類も肉類もそのままではすぐに腐ってしまいます。
特に血は腐敗しやすいので、コーシャ・フードでは血抜きをきちんとしたものでなければ食べてはいけないとしたのでしょう。
 
交通網が発達していない時代、保存方法が発達していない時代には、手に入る食品は限られます。
山の中で新鮮な魚を食べることはできませんし、海沿いの潮風の強い砂地では野菜はあまり育ちません。
 
寒冷地化、熱帯地域化、乾燥地価、あるいは気功によっても収穫できる野菜はまったく違います。
さらに、手に入ったとしても、コンディションによってはいろいろな問題を抱えることがあります。
そうしたさまざまな問題をクリアするために、人々の知恵をしぼり、工夫を重ねたものが伝統食として受け継がれてきたのです。
 
しかし、交通網の発達により、どこにいても世界中の食品が季節も問わず手に入るようになりました。
保存方法も発達したので、食品も長持ちするようになりました。
 
しかし、何でも手に入るようになった代わりに、私たちは伝統職にこめられた「知恵」や「食べものの大切さ」というというとても大切なものを失ってしまったのではないでしょうか。
 
現代人の多くは、美味しいから、食べたいから、安いから、という理由で食べ物を選んでしまっています。
文明国ほど生活習慣病が多いのは、食を選ぶ基準が「安全」や「健康」ではなく、「欲」に傾いてきているからだと思います。
 
食事は、体を作り、生きるエネルギーを得るためのものです。
もちろん食を楽しむことも大切ですが、そこに「体を思いやる心」がなければ、食は健康を損なう原因になってしまうのです。
 
東洋には「医食同源」「身土不二」という素晴らしい言葉があります。
その意味を現代人はもう一度真摯に受け止めることが必要だと私は思います。
 
 
●エンザイムという視点で何を食べるべきかを考える
 
伝統食に込められた知恵は、素晴らしいものです。
しかしそれは、物も情報も少なかった時代に、限られたものの中で健康に生きるために生み出されたものです。
 
今のように、物も情報も氾濫している時代には、やはり時代の即した健康に生きるための知恵が必要なのだと思います。
 
現代社会に生きる私たちに必要なのは、「限られたものの中でどうするか」ではなく、むしろ「膨大なものと情報の中から、本当に体にいいものをどのようにして選ぶか」という「知恵」なのではないかと思います。
 
伝統食も、昔のやり方を無理に押し付けるのではなく、よい部分を今の食生活に取り入れていくことが、過去の知恵を生かすことのつながるのだと思います。
 
いま、私たちの周りにあるものは玉石混合です。
たとえば野菜ひとつをとっても、丁寧に手間暇かけて自然の中で安全に育てられた野菜もあれば、農薬と化学肥料で促成された危険な野菜もあります。
 
食と健康に関する情報も、最近の研究によって明らかになったこともあれば、儲け主義の人々によってセンセーショナルに吹聴されただけのウソの情報もあります。
 
あなたはそうした多くのもの、多くの情報の中から、何を、どのような基準で選んでいるのでしょうか?
 
テレビ番組などで、あそこの村は○○を食べているから長寿なんだというと、翌日にはその商品が全国のスーパーで飛ぶように売れると聞きます。
しかし、マスコミの情報にすぐに飛び行いてしまうのは、自分の中に物事を判断する「気潤」がないからです。
 
明確な「基準」を持たないと、人はどうしても流されてしまいます。
私の基準はたった一つ、それは「エンザイム」です。
 
・ それはエンザイムの補給に役立つか → エンザイムの補給
・ それはエンザイムの働きを助けるか  → エンザイムの活性化
・ それはエンザイムを消耗しないか   → エンザイムの消耗防止
 
シンプルですが、この3つのポイントを踏まえていれば、健康を損なうような間違った情報に流されることはなくなります。
 
そして、この3つのポイントに焦点を置いて、日々の生活の中で実践できる健康法をまとめたのが、
私の提唱する「7つの健康法」
@正しい食事、
Aよい水、
B正しい排泄、
C正しい呼吸、
D適度な運動、
E上手な休息・睡眠、
F笑いと幸福感、
なのです。
 
 
●野菜であれ肉であれ、食べものはすべて「命」
 
「七つの健康法」の中で、体に与える影響がもっとも大きいのは、何といっても「食事」です。
それだけに私のエンザイム・セラピーでも、「正しい食事を」心がけることが、健康を維持する基本と考えます。
 
では、正しい食事とはどのようなものなのでしょう。
「正しい食事」とは、よい食物を人間の体に適した形で調理した食事ということです。
 
まずよい食物についてお話しましょう。
よい食物の条件は2つあります。
1つは「ナチュラル」であること、そしてもう1つは「フレッシュ」であることです。
 
ここで、皆さんの心にしっかりと刻んでいただきたいのは、命を奪うことができるのは、他の命だけだということです。
 
植物食であれ動物食であれ、食べものというのは、すべて「命」にほかなりません。
生き物はすべて、他の命をいただくことで自らの命を養っているのです。
これは別の言い方をすれば、「命ある食物」でなければ、命を養うことはできないということであります。
 
よい食物が「ナチュラル」でなければならないのは、命を生み出すことができるのは自然だからです。
そして、よい食物が「フレッシュ」でなければならないのは、命はその生態の生命活動の停止とともに失われていくからです。
 
私たち人間は、一人ひとりが膨大な命の集合体だといいましたが、それは私たちの食物となる他の生命体も同じです。
野菜も他の動物も、皆『命の集合体』なのです。
 
この小さな一つひとつの命は、集合体としての生命活動が停止してもすぐには失われません。
変なたとえですが、臓器の移植が可能なのは、集合体から引き離されても、その臓器を形づくっている命が生きつづけているからです。
 
しかし、集合体を離れた命、命を育む環境から切り離された命は、長く生きつづけることはできません。
 
ほとんどの人は「腐敗したもの=食べられないもの」と考えているので、食べられるか食べられないかの判断を、腐っているかどうかという視点で行います。
 
しかし、腐っているかどうかということと、命が宿っているかどうかということは、必ずしもイコールではないのです。
 
食物は、集合体としての生命活動が停止した時点で、酸化が始まります。
この酸化の行き着く先が「腐敗」です。
ですから腐敗しているものには命が宿っていませんが、腐敗していないからといって命が宿っているとは限らないのです。
 
ス−パーなどで売られている食品には「賞味期限」が表示されていますが、あれはその食品が「おいしく食べられる期限」を示したものであって、腐敗するまでの期限を示したものではありません。
 
食べものは、時間がたてば立つほど、「美味しさ」を失っていきます。
じつはこの「美味しさ」こそ「命」が宿っている証拠なのです。
つまり、賞味期限とは、食べものに宿っている「命の期限」ともいえるのです。
 
では、その美味しさの正体、命の正体とは何なのでしょう。
私は「エンザイム」ではないかと考えています。
 
エンザイムそのものは生体ではありませんが、エンザイムは生命活動に不可欠な物質で、エンザイムのないところに「命」は存在しません。
 
私たちは新鮮なものを食べると「美味しい」と感じますが、それは、食べ物の中にエンザイムが含まれているからだと思うのです。
 
たとえば、ステーキでも、中までしっかり火を通したものより、中はほんのり暖かい程度のレアのほうが美味しく感じるはずです。
これは、レアのほうが熱に弱いエンザイムをより多く保持しているからです。
 
果物も缶詰よりフレッシュなものの法が美味しく感じるのは、そこの多くのエンザイムがあるからです。
 
このように考えると、私たちが通常「食品」として認識しているものの中には、エンザイムを含む「生きた食品」と、エンザイムを持たない「死んだ食品」があることがわかります。
 
そして、フレッシュなものほどエンザイムは多く、酸化の進んだものほどエンザイムは少なくなるのです。
 
しかし、現代の栄養学では、エンザイムの有無はまったく問題にされていません。
エンザイムをもっているフレッシュなものでも、エンザイムが失われ腐りかけたものでも、「カロリー」は変化しないからです。
 
私が、現代の栄養価とカロリー中心の栄養学に疑問を感じている最大の理由は、この「食べものを命としてとらえていない傲慢なスタンス」にあります。
 
私のミラクル・エンザイム説は、現時点では仮説に過ぎません。
前著の反響の中にも「科学的根拠に欠けるのでは」というご意見もありました。
私は学者ではなく、あくまでも臨床医なので、科学理論としては厳密に詰めきれていない面もあるでしょう。
 
しかし、現代の栄養学と、私のエンザイム説と、どちらが正しいのかは、読者の方がご自分の体の声に耳を傾けていただければ、お分かりいただけると思っています。
 
私たちは、農薬まみれの野菜よりも、有機栽培された野菜を美味しいと感じます。
私たちは、腐りかけのものより、フレッシュなものの方を美味しいと感じます。
 
では、なぜおいしく感じるのでしょう?
この事実の意味を、私たちは「命は他の命でしか養うことはできない」という言葉とともにもう一度考え、食べものを「命」ととらえ、感謝と敬意を持って扱うことが必要なのだと思います。
 
 
●工場由来の食品には命は宿っていない
 
私たちが口にする食べものは、その由来から3種類に分類することができます。
まず1つは、「大地を由来とするもの」
2つ目は「動物を由来とするもの」
そして3つ目が「工場を由来とするもの」です。
 
大地を由来とするものとは、野菜、穀物、果物、海藻、キノコ類など、台地で育つものです。
きのこのような菌類も含みますが、そのほとんどは「植物」と「植物の種」なので、植物食といってもいいでしょう。
 
2つ目の動物を由来とするものというのは、牛、豚、鶏などの肉類、魚や貝、イカやエビなどの魚介類、つまり「動物食」です。
これには、タマゴや乳製品といった、動物が生み出すものも含まれます。
 
3つ目の工場を由来とするものというのは、人間が科学的に作り出した食品、つまり化学調味料やさまざまな食品添加物、精製塩や精製された砂糖、人口甘味料など。
そして、それらのものが使われている加工食品も含みます。
 
大地を由来とするものは、食用可能なものであれば、基本的には食べてかいけないものも、量的な制限はありません。
100%食べてもいいと考えてください。
 
しかし、動物を由来とするものは、摂りすぎは血液をドロドロにしたり、胃相・腸相を悪くするので、一定量以下に控えることが必要です。
 
人間の食事は、全食事量の85%以上を大地を由来とする植物食で摂れば、その残りは動物食をとってもいいと、私は考えています。
 
大地由来のものが85%、動物由来のものが15%、これでもう100%すべてです。
工場由来のものを食べる必要はありません。
「工場」で作られたものに「命」は宿っていないからです。
工場由来の食品は、食べられるものであっても、命を養うことはできないのです。
 
ですから、理想を言えば、工場由来の食品は0%、何も食べないほうがいいのです。
 
しかし、工場で作られた食品をすべて避けることは、現代人にとってはかなり難しいことです。
事実上不可能といってもいいでしょう。
私自身、0%ではありません。
 
でも、だからこそ、植物食はなるべくよいもの(安全なもの)を選び、ミラクル・エンザイムの体内保有量を増やすとともに、動物食の過食を控え、ミラクル・エンザイムの消耗を防ぎ、体を思いやった食事を心がけることがとても大切です。
 
 
●穀物には正しい食べ方がある
 
食事の基本として、まずきちんと頭に入れていただきたいのは、私たちの主食は「穀物」だということです。
 
私が渡米した1960年代当時の日本人の食事は穀物中心でした。
「一汁一菜」というと、今では貧しい食事の代名詞のように思われていますが、昔はおかずというのは主食であるご飯を食べるためのものでしたから、本当に一品か二品あればそれで十分だったのです。
 
そんな穀物中心の食事が崩れ始めたのは、日本が高度成長期に入り、それまで高価だった肉が安く手に入るようになったからです。
そして、ちょうどそのころから、日本人に肥満が増え始めます。
 
肥満が問題になったとき、真っ先に攻撃されたのは主食の「ご飯」でした。
ご飯は、エネルギー源として非常に優れているため、「太りやすい食品」という誤ったレッテルが貼られ、避けられるようになってしまったのです。
 
しかし、お米に限らず、穀物を食べると太るというのは間違いです
もし穀物中心食をして太ったとしたら、それは正しい食べ方をしていないからです。
米も麦も人間に相応しい食べ方をしていれば、決して肥満を招くことはありません。
 
穀物の正しい食べ方というのは、「未精白穀物」を食べるということです。
米なら玄米、小麦粉なら全粒粉、おそばもそばの実の芯だけを使った真っ白なものではなく、全粒そば粉を使ったものを選びましょう。
 
なぜ精白しないものがよいのかというと、精白してしまうと穀物に豊富に含まれているはずの「命」が失われてしまうからです。
 
穀物というのは、植物の種の部分に当ります。
ですから、米でも麦でも大地に撒けば芽を出し、植物として成長していきます。
種というのは、次世代に命をつなぐタイムカプセルのようなものです。
 
1951年に偶然2000年前の地層から3粒の古代蓮(はす)の種が発見され、それを撒いたところ、ちゃんと芽が出て、古代蓮の栽培に成功したという話は有名ですが、このように保存状態さえよければ、何年どころか、何百年でも何千年でも、種は「命」を保持し続けることができるようになっているのです。
 
しかし、その「命のタイムカプセル」である種も、皮をむいてしまうと芽は出なくなってしまいます。
これは皮を向くことによって「命」が損なわれてしまうからです。
 
玄米は土に撒いたり水につけておくと芽が出ます。
でも、精製した白米が芽を出すことはありません。
私が「実精白穀物」を主食とする意味はここにあります。
 
もう一度繰り返しますが、命を養うことができるのは命だけです。
野菜も果物もエンザイムは豊富ですが、栄養価にはかなりばらつきがあるうえ、一年を通して常に新鮮なものを必要量確保することは簡単ではありません。
 
それに対して穀物は、収穫は一年に一度しかありませんが、命を保持したまま長期保存できるので、安定供給が可能です。
 
文明発祥以来、人間が穀物を栽培し、主食としてきたのには、ちゃんと意味があるのです。
それは、穀物がすべての食べものの中で最も効率よく、そして安定して「命」を摂取できるものだからなのです。
 
現在の栄養学では、米や麦など主食とされる穀物にリジンなどの必須アミノ酸が不足しているため、肉や乳製品をとって補わなければならないといわれますが、必須アミノ酸の摂取が目的であれば、必ずしも動物性たんぱく質にこだわる必要はありません。
 
日本人ならお米、西洋の方なら麦を中心に、さまざまな副穀物(雑穀類)を混ぜて摂れば、主食だけでも必須アミノ酸をすべて摂ることができます。
 
食の基本は、「命」をいただくこと。
だからこそ、米、麦、副穀物(ひえ、あわ、きび、そば、キヌアなどの雑穀類)などの「穀物」を中心とした食事をすることが必要なのです。
 

 

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池田 優

 

 

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