山ちゃんの食べもの考

 

 

その222
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)

『食は生命なり』 【79】
南 清貴 著   講談社インターナショナル刊
『究極の食』  より その1
 
 
■ はじめに
 
この本は、「食」というものを深く見つめることで私たち人間のあり方までも考えるやや哲学的な本です。
これまでにないユニークなもののなったと自負していますが、まず、私自身は特定の宗教、政治、思想、あらゆる団体との何のかかわりも持っていないということをお断りしておきたいと思います。
 
というのも、特に食のことに関しては、捉え方によって宗教的に偏っているように感じられたり、政治批判と受け止められかねない箇所も出てきてしまうのです。
ですから、あくまでも私の個人的な考えをまとめたものが本書、というのが大前提です。
 
とはいえ、私もこれまでいろんな宗教、哲学などの興味を持ち(修験道の修行をして僧籍まで持つ)、自己流で学んできましたから、先達の影響はさなざまに受けていますし、それが私の血肉になってると思います。
中でも、私の発想の基本にあるのは、野口晴哉(はるちか)氏が創始した野口整体の考え方です。
 
その土台の上に、後年勉強した栄養学の知識を私なりに咀嚼し融合させたものが、「キヨズ流食の哲学」だと解釈していただければ幸いです。
では、なぜ野口整体なのか、なぜ栄養学なのか、長くなってしまいますが、私の生い立ちとともに説明したいと思います。
 
 
私は、父がベルトコンベアのエンジニアとして赴任していた秋田の阿仁合という町で、1952(昭和27)年に生まれました。
仮死状態だったそうです。
命はとりとめたものの、当時は国全体がまだまだ貧しい時期で妊産婦の栄養状況もそんなによくはなく、母が乳脚気という病気(母乳がビタミンB1不足になる)になったりしたため、私は栄養不良の虚弱な子どもになってしまいました。
 
もともと家があった東京の大田区に戻ってから生まれた二人目の妹は、残念ながら一歳ぐらいで無熱肺炎といって、肺炎を起こしているのに発熱できない病気で亡くなりました。
その一年後、小学校2年の時に、今度は私が原因不明の高熱を発して入院したのです。
 
1週間以上40度ぐらいの熱が続いて、何本も注射を打たれ、それでも回復して退院すると、妹をなくしたばかりの父母が、私を心配して何とか丈夫にしたいと考えたのでしょう、フトルミンという薬を飲ませ始めたのです。
外側がグラニュー糖のようなものでまぶされた錠剤でした。
その名のごとくフトルミン、太るためのクスリなのです。
 
テレビでもCMをやっていまして、直後に「てなもんや三度笠」という番組で人気を博した藤田まことさんが、「お子さまがぐんぐん太るフトルミン」というキャッチフレーズで売り出していたものです。
なぜかわかりませんけれども、数年後には発売されなくなり、いまウエブサイトでフトルミンを検索してもきちんとした情報は出てきません。
おそらくは、ホルモン系の薬品だったのではないかと推測しています。
 
ものの見事に太りました。
夢は相撲取りになることでしたので、私は太ってきたことが嬉しくて、毎日相撲の稽古を一人でしていたくらいです。
 
そのころから料理好きでもありましたから、いっぱし料理もしていました。
フトルミンのおかげか料理のおかげか、中肥満体という体型をキープできましたので、中学を卒業したら相撲取りになるつもりでいたのですけれども、上背が足りなかったこともあって、結局、夢はかなわず、いつしかただの「すごく太っている少年」になっていました。
 
高校に入って色気づいてみると、太っていることが初めて問題になりました。
何をおいても女の子にモテたい。
ところが、デブではモテませんから、猛烈に痩せたくなったのです。
かっこよくなりたかった。
 
そのためには、ものを食べなければよい、ということで、ほとんど食べない生活に入りました。
食べるものといったら生野菜、ご飯も肉もその時期はほとんど食べませんでした。
努力に甲斐あって、77キロあった体重が2年ぐらいで49キロまで落ちたのです。
 
そんな私も大学に行こうと思っていましたので、高校3年の夏休みに受験勉強をして、眠くなると逆立ちをするというようなことをやっていました。
それが、夏休みが終わりかけた8月の末に、洋服たんすを背に逆立ちをしていたら、右腕から崩れ落ちて転倒してしまったのです。
頭も首も肩も打って、起きようにも起きられない。
 
レントゲンを取りましたら、右の上腕骨というところが骨髄から溶けているというではないですか。
骨膜しか残っていない状態で逆立ちをしたために、筋肉では支えきれずに骨膜に亀裂が入ってしまったのです。
骨の神経は骨膜にしかないので、真ん中から溶けてきていたのに痛みを感じず、自覚症状がなかったのです。
 
骨が割れてしまって初めて激痛にのた打ち回り、すぐ入院して手術をしなければならない大事になりました。
病名は骨嚢腫。
骨盤の一部である腸骨を削り取って、骨盤を右上腕骨に埋め込むという大手術でした。
 
大げさかもしれませんが、この時私は死を覚悟したのです。
何とか回復したものの、この経験がその後の私の人生に大きな影響を与えました。
後何年生きられるかわからない、一年後にもしかしたら命がないのかもしれない、と真剣に思ったのです。
それでも生きていてよかったと思えるように、やりたいことをやろう、と強烈な思いを抱いた。
 
結果18歳の私が選択したのが芝居でした。
それで進学をあきらめて演劇を学ぶことにし、演出家を志しました。
演出家になるための勉強に一環として、解剖学的な意味ではなく身体の構造がどうなっているのかを知りたいと思い、いろんなワークショップに参加していたのですが、そのうちのひとつが野靴生態だったのです。
 
予備知識なく整体の講座に行ってみて、これはすごい、とのめりこみました。
ただ、少し特殊な世界に見えましたので、どっぷりその中につかりきることもできず、整体協会のコンサルタントにはなれませんでした。
ですが、たまたま大おじに当る人が柔道整復師という資格で整体の指導をしていましたので、そこで手ほどきを受けながら、独学で野口整体の勉強を続けることにしたのです。
 
生態の指導者としての才能はあったようで、どんどん上達して技術も習得し、整体のことは直感的にいろんなことがわかるようになりました。
劇団に所属していましたから、俳優の仕事のかたわらでしたが、演出家になれたら、整体の考え方・技法はとても役に立つ、と信じて真剣に勉強を続けていたのです。
 
そのうち私も結婚し、娘が生まれ、父、母も年老い、ついに不安定な舞台の仕事に見切りをつけて、整体で身を立てることにしたのです。
そこで、住みなれた大田区の西六郷から千葉県市原市に引っ越して整体院を開業しました。
 
この整体院は3ヶ月もすると満員状態になって、ありがたいことに大繁盛しました。
同時に、いろんなことも見えてきました。
 
整体というのは究極のところ、背骨を観察することに終始するのですけれども、細かく、克明にクライアントの背骨を観察していくと、腰が痛いとか、眠れないとか、それぞれに訴えてくる内容が違っても、結局、食べ物の問題に行き着いてしまうことに気づいたのです。
 
そこを確かめるために、数十名のクライアントにお願いして、だいたい2週間単位で食事の記録をつけてもらうことにしました。
整体を受けに来るついでに提出してもらった記録をその場でチェックするのです。
 
ジャンク名食べもの、加工食品などには赤色でチェックを入れ、次回からはなるべく食べないように指導し、精製しない穀物、豆類、緑黄色野菜、海藻、ナッツ類などは青色の文字でチェックして、積極的に食べてみるよう進めました。
 
これを1ヶ月、2ヶ月と続けると、厳密に守った人と、守れなかった人の間に差が出てきたのです。
守った人は、とてもよい身体の状態をキープしていましたし、問題を抱えていた人もどんどんよくなっていくのです。
一方で守れなかった人たちはやはりレベルダウンして戻ってくる。
 
これがもしわれわれの人生の中で五年、10年、また20年、30年と続いたとき、どんなに大きな開きになってしまうのだろう、というのは、おおよそ推測できる。
そうすると、われわれの生活の一番の基本は、食べ物なのではないだろうか、という結論に至るわけです。
それならば、もっと食べ物のことを真剣に勉強してみよう、と思い立ち、今度は栄養学の勉強を独自に始めました。
 
栄養学を学ぶことによって、骨嚢症になった時のことがようやく自分で得心できました。
要するに、完全な栄養障害だったのです。
女の子にもてたいがために満足に食事を取らなかったのですから、当たり前です。
 
今思えば、勉強していても常に身体がだるかったとわかるのですが、徐々にその状態になっていくので、そのときは認識できないのです。
ものすごくインパクトの強いことが起きて初めて、おかしかったとわかる。
 
これまでも私は、極端なウエイトロスをしようとする人たちにことあるごとに警鐘を鳴らし続けてきましたが、それは自分のこのときの体験に基づいているのです。
整体の哲学と栄養学を結び付けて考えるようになったのも、この特殊な体験があったからかもしれません。
 
野口晴哉先生は、実は食についてあまり具体的には語ってきませんでした。
身体が整っていれば不必要なものは排泄してしまう、というのが基本的な考え方でしたが、先生は1976(昭和51)年いなくなっていますから、存命中はまだ、食にひそむ危険性など今ほど顕在化していなかったのです。
ただ、私の中ではつねに整体の考え方が基本になっていて、そこを中心に食に関する考えもまとまっていくという回路になっていますので、整体について少々解説したいと思います。
 
「整体とは、つまるところ何なのか?」と聞かれたら、「全力を発揮して生きるための方法論」と私は答えると思います。
動物である私たちは、自然の一部でもありますので、自然の摂理に逆らうことはできません。
一瞬逆らったように見えても、必ず何らかの形で修正が行われて、やはり自然の一部、宇宙の一部に取り込まれていく。
 
これは間違いのないことで、最初からそのことを大前提にしているのが整体なのです。
ですから、生きとし生けるものすべてが、この世に生を受けた瞬間から元気であることが当然で、元気なまま一生を終えて、物体としてはなくなっていく。
それが自然なことだ、と考えられています。
元気であることが生命の大もとにある、つまり、身体は気で満ちているから「元気」なのです。
 
整体では「気」をとても大切にしています。
目には見えなくても確実に感じることを大切にしている。
 
たとえば、何人かで喋っている部屋に誰かが入ってくると、その人が黙っていても入ってきたというだけで部屋の雰囲気が変わります。
それは、入った人が持ち込んだ気が、喋っていた何人かの醸し出していた気と融合して別のものになったということなのです。
われわれは眼には見えない気を常に発していて、それがお互いに影響を及ぼしあっている。
 
「気」という字は、最近は省略して中を「メ」と書いてしまいますけれども、本来は「米」という字が中に入っていました。
気といわれるものの中に米があるというのは重要な示唆ではないかと私は思っています。
つまり、きちんとした食べ物を食べていないと、気は満ちないのです。
われわれにとっては米がが最も大切な食材である、ということをふくめ、日本人はそのことを明確に意識していたのだと思います。
 
気が微粒子であることも併せて、詳しくは第6章で語るつもりですが、いかに気が大事であるか。
気を多く出すべきときは出し、それほど出さなくてもいいときには出さなくてすむように、きちんとコントロールできているかどうかが健康のバロメーターです。
整体を学ぶと、自分の発する気を、きちんとコントロールできるようになってきます。
それが「整った体」なのだ、というのが一番重要な部分です。
 
野口語録には、けだし名言と思えるような文句がいくつもありますけれども、分けても私が本当にすごいと思うのは、
「病にになっても病人になってはいけない」
というメッセージです。
病気には誰だってなる可能性はあります。
でも、病人になってはいけないというのです。
 
ところがいまの日本では、病人にされてしまっているケースが圧倒的に多い。
それが医療費という形で数字になって現れています。
2005年の統計では、年間の国民医療費が33兆円を超えており、それは国民所得の9%を占めています。
自分達が稼いだお金の1割ぐらいは病気の治療に使っている。
 
多くの人が整体のエッセンスを少し学び取るだけでも、その数字に驚くべき変化が起きるのではないかと思うのですが、整体をすすめるのが本書の目的ではありませんので、ここではただ、私が整体の思想を根幹にもっていて、その一つの表現として食を考えている、ということを知っておいていただきたいと思います。
 
 
キヨズキッチンは、人間の身体の自然にのっとった自然な食を提供するために私が開いたオーガニックレストランです。
 
当初はレストランなど開くつもりはまったくなく、食事の内容がいっこうに改善しないクライアントに紹介できるような、最新の栄養学の知識に添った食事を出してくれる飲食店はないものか、とあちこち探し回っていたのです。
ところが、出かけてみると自然食とは名ばかりというようなものであったり、味がひどいとか、ともかく満足できる店がなかった。
そのことに驚いてしまって、これだったら自分でやる、とある比決意してしまったのです。
 
整体院を続けていれば生活には困りませんし、レストランのためのノウハウも経験も皆無に等しいのですから、しばしば挫折するようになるのですが、するとどういうわけか助け船が入る。
まるで天から「やれ」といわれているようでした。
 
不思議な出来事が重なって、決意してから8年後の1995年6月10日に、代々木上原でついにレストランをオープンすることができました。
全額自己負担です。
個人事業だった整体院とは違い、有限会社にしたレストランは責任の範囲も広いですから、この会社の当座預金が底を突いた時には事業をたたもうと最初から決心して始めました。
 
案の定、業績があまりにも振るわず、一年半ほどで店を閉めようと思ったことがありましたが、そのとき、お客様に「やめてはいけない」と懇々と説教され、決意を新たに再出発を図りました。
するとどういう作用かわかりませんけれども、以降、急激にメディア取材が増え、3年目を終えた時点でわずかではありましたが黒字化しました。
 
詳しくは本文で説明いたしますが、私が提供する食事法を実践すると、そうなるべき人はやせますので、それが「キヨズ流ウエイトロス」として女性誌で紹介されたりしたのです。
 
たくさんのドラマがあったキヨズキッチンですから思い入れも深かったのですが、方向転換を迫られるような転機も合って、10年の節目を迎える2005年2月に代々木上原の店舗は閉じました。
その後は、さまざまな飲食事業のプロデュースやコンサルテーションなど、自由な立場で活動しています。
 
キヨズキッチンを始めるときにいくつか立てた誓いのうち、柱とする大きなものが3つありました。
 
1つ目は、自分の家族や大切な友人に食べさせられないようなものはどんなことがあってもつくらない、出さない、ということ。
 
2つ目は、飲食業というのは第一次産業の表側の顔なのだから、なかなか表に出てこない生産者のメッセージを、われわれが代弁者として一般の消費者に届けるという役割を担っているという自覚を持つこと。
 
3つめは、「外食が続くと体調が悪くなる」という常識をくつがえすこと。
何気ない会話の中に「このところ外食が続いたので体調が悪いのよ」などとよく聞きます。
でも、外食を担う飲食業者はいわば食のプロです。
プロが作ったものを食べると体調が悪くなるというのは、いったいどういうことなのか。
であれば、そこをくつがえそう。
飲食業を営むからには、これを改める使命が自分にはある、と意気込みました。
 
この3つの誓いを守ってこそ、私が喜代治キッチンをやる意味があると確信したのです。
この理念は店をたたんだ今でも変わりません。
レストランとは異なった飲食業に活動の幅を広げながらも、理念の実践に日々努めています。
 
新たな経験を通じてさらに学んだこと、知りえたこともあります。
整体と栄養学の知識もあわせて、せっかく得たものですから多くの人と共有したい。
そんな思いも込めて、本書には私の持てるものをまるごと詰め込みましたので、大いに役立ててもらいたいと思っています。
 
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

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池田 優

 

 

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