山ちゃんの食べもの考

 

 

その223
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【80】
 
南清貴著   講談社インターナショナル刊
『究極の食』  より その2
 
 
第1章 体の良くできたシステム  の1
――本能を呼び覚ませ
 
 
● 生物としての基本
 
人類は、文化を創造したり、文明を発達したりして自分たちにとって利便性の高い社会を形成してきました。
固体としても、自我の芽生えとともに自己を確立させることで発展を遂げ、それぞれが快適と思う暮らし方にレベルを上げながら今を暮らしている。
 
原初からは比較にならないくらい社会を高度化、複雑化させてきた中で、普段はあまり考えることがないけれどもとても大切なことがあると思うのです。
それは、自分達が動物である、生物なのだという根源的なこと。
 
ついつい忘れがちになりますが、これはまぎれもない事実で、この後、どんなに人間が発展することがあっても、そのことからは逃れることができない。
 
遺伝子が操作できるようになり、今とは違う生命観が生まれてくる可能性はありますが、それでもやはりわれわれは動物で、動物であるからには、自然の一部である。
その事実からはどんなことがあっても脱却できないのです。
 
いまは、文明社会の中に生きているためにそこのところが希薄になっていますけれど、つい数百年遡ってみれば、自分たちが生物である、動物である、自然とつながっている、という根本は、日々生きていくために欠くべからざる感覚であったはずです。
これを意識せずして日常生活は成り立たなかったのです。
 
ところが、わずかここ数十年の間に世の中が大きく変わり、われわれはその概念を捨て去ろうとしている。
それでも生活が成り立つようになってしまった、というところに少しずつ歪みや間違いが起こる原因があるのではないか、と私は考えています。
特に、この状況が食べものに与える影響が大きいと懸念しているのです。
 
人間が持っている身体の仕組みは実にシンプル。
それでいて、それでいて、ものすごく高度なシステムを駆使して生きています。
自分が食べたもので自分をつくり、エネルギーを生み出し、なおかつ身体の修復までしている。
これは絶対的に信頼すべきシステムです。
 
もちろんこのシステムには、食べたものだけではなく、空気や水も大きく関与しています。
それでも大局的にみて、やはり私たちは「食べる」ということによって自分を作り変えたり、さまざまな活動をしているといってよい。
 
食べたものを消化して分解し、代謝を行って別の物質に作り変えている、そこがすごいシステムなのです。
神秘中の神秘で、身体の中で何ゆえそういうことが起こっているのかまだ解明できていない。
 
生命の意味がどこにあるのか、という命題に、食の面からもアプローチできそうな気はします。
そこが私にとってはものすごく興味が湧くところです。
 
 
● 食べものは自分そのもの
 
例えばここに豆があります。
豆は豆なわけで、自分とは違う物質です。
ところが私たちがそれを食べると、身体の中で消化され、分解され、他の物質と合わさって自分の身体の一部に変化していく。
ということは数時間後には豆が自分になっているということです。
 
なぜわざわざそんな煩雑なことをしなければならないのかわからない。
でも全ての生物がそのようにして他の物質を自分の一部に作り変えています。
その一方で、細胞の分裂が行われ、DNAの指令に基づいて同じ細胞が複製されるというシステムが身体の中で働いている。
 
私たちはタンパク質を取り入れると、アミノ酸のレベルまで分解し、アミノ酸を摂り込むことで自分の身体を作っていくのですけれども、そのアミノ酸さえもっと細かい元素のレベルまで分解されていることもわかってきています。
 
身体はものすごく精妙なことを何気なく、当たり前のように、一秒も休むことなく続けている。
それは寝ている間も同じです。
 
大げさではなく、私たちの身体は1年くらいで、細胞レベル、分子レベルではほとんど入れ替わっているのです。
ですから、もし自分を変えたいと思うのだったら、今すぐ変えることができます。
一部分からではあるけれども変えることができる。
 
そして、半年、ないし1年というレベルで我々はすっかり別の人間になることができるのです。
これが病気が治癒するシステムでもあります。
 
病気というのは、身体のある部分が何かの変化を起こし、それが自分にとってネガティブな状態を引き起こしている一時期のことです。
でも、われわれが本当にそれに気づいて、これは自分の人生じゃない、自分を変えよう、その病気を作ってしまった自分ではなくなってしまおうと考えたならば、まず間違いなくその瞬間から変わっていきます。
 
なぜならば、私たちの思考というのは微粒子のようなもので、その微粒子が、思っていること、思考していることを現実化していくのですから、思ったことのうち、いちばん身近かに現実化できるのが自分自身なのです。
 
私たちの人生はそのようにして形作られていますし、思ったことは必ず物質化する。
現象としてきちんと自分の目の前に現出することができるのです。
この仕組みについては、第6章で再度考えてみるつもりです。
 
それでは、われわれにとって必要な「食べもの」とは何なのでしょう。
「食べる」とはどういうことなのでしょうか。
少し前までは、50近くあるといわれる必須栄養素を摂り込むことが食べるということだと理解されていました。
 
それが、栄養学の発達とともに、必須栄養素はもちろん、植物栄養素と呼ばれる物質が我々の身体にとって重要なものであることがわかり、車の車輪のように、必須栄養素と植物栄養素の両方がとられてこそ初めて食事の意味が出てくる、という考え方に徐々に移り変わってきています。
 
植物栄養素というのは、植物にだけ含まれている特殊な栄養素です。
ポリフェノール、ベータカロチン、アントシアニン、大豆イソフラボンなど、数え方にもよりますが、見つかっているものだけでも、およそ5000種類ぐらいの植物栄養素が存在している。
 
見つかっていないもの、また現在見つかっているものから分化・分類されるべきものまで含めると、相当数あります。
 
それを全部取り込むのは不可能なことのように思えますが、意外とそうでもない。
実はありふれた野菜、ポピュラーな野菜を季節ごとにとっているだけで、必要な植物栄養素はほとんどまんべんなく摂取できるということもわかってきています。
 
普段の食卓にのぼるもので言えば、アブラナ科の植物とか、ウリ科の植物、ナス科の植物、そしてセリ科の植物。
それから穀物、豆類、こういうもので全てのものを摂り込むことができてしまう。
 
世界中の民族が伝えてきた伝統的な食事の内容を吟味してみると、必須栄養素、植物栄養素をほぼ完璧にとることができるような構成になっていることが多い。
最新の栄養学が解明してきたのは、栄養学的に最もすぐれた食事は伝統食の中にあったということです。
先祖は科学的な根拠など知らずに、理想的な食生活を実践してきたのです。
そこが伝統のすばらしいところです。
 
もしかしたら、ある種の「食べもの」は私たちの中で別のものに作り変えられることを喜び、またある種のものは喜ばないのではないかと思うことがあります。
私が余り肉を食べないのは、そのこととも関係があります。
 
どうも肉は作り変えられることに喜びを感じないらしい、というのが理由の一つとしてあるからです。
動物は意識を持っています、殺されるときに強烈な恐怖感に襲われるといいます。
屠殺場に入った途端に動きが変わりますし、殺される寸前まで大暴れをする。
どこか一箇所でも切れば痛みを感じますから騒ぐのです。
 
『いのちの食べ方』というドキュメンタリーフイルムがありますので、ごらんいただくとこの当たりのことがわかると思います。
われわれ人間も、ものすごい恐怖、強いストレスを感じると、自分を壊してしまうような物質を自分の中に作り出しますが、同じように、殺されていく牛や豚もその刹那、分析ができないようなとんでもない毒物を作り出しているのです。
 
ところが、小魚は平気らしく、痛みを感じる神経がないといわれています。
植物も同じく痛みを感じない。
むしろ、私たち人間に作り変えられる、またはいろんな動物に作り変えられテイク一部をイブンたちが担っていることに、どうやら喜びを感じているらしい。
本当に大切に育てられた植物に語りかけてみると、それが感じられるように思います。
 
私は料理をする前に、「どうだい、何になりたい?」と聞くのです。
そうすると、イメージの世界なのでしょうけれど、植物も生きていればやはり何かをきちんと返してくれる。
 
周りにある食材も気配を感じて、自分は何になりたいと信号を発してくれる。
そうしたイメージにしたがってつくった料理は、料理自体が輝いているし、喜びに満ちていて、食べる私たちのほうもそのことの大きな幸福を感じる。
 
私たちは不思議なことに、食事をするとき「いただきます」といいます。
「いただく」とは、品物を掌に載せて、頭上に掲げる行為を指します。
これにはとても深い意味があると思うのです。
一種儀式めいていますけれど、でも「いただきます」といってから食べる民族というのは、世界広しといえどもほとんどないそうです。
 
そのような発想を日本人は持っている。
もちろん宗教的な意味から、神に祈りをささげて食事を始める民族はたくさんありますけれども、これほど「いただきます」が当たり前に根付いていて、自然に日常の会話に出てくる民族というのはそうそうない。
それは本当にすばらしいことです。
 
ただ、この言葉の背後にある食べものに対する感謝、また食べ物を作ってくれた人たちに対する感謝、ひいては食べものを育ててくれた大地、水、空気、そういう意味深い意味での自然に対する感謝、こういうものがわからないと、自分がその一部なのだということも、本当の意味で得心が行かないのではないでしょうか。
 
そろそろ、そういう根本をきちんと見直すべき時が来ているのではないかと思うのです。
 
 
● 非効率な肉食
 
伝統的な食事の中にも、地域的に、動物の肉をたくさん食べるようなものもあるにはありますが、広い世界で考えるとまれなケースです。
 
伝統的には、世界中どこでも動物の肉はそんなに食べてこられなかったのです。
ヨーロッパでもこれほど動物の肉を食べるようになったのはここ百年以内のことです。
それというのも、私たちの身体の自然にのっとると、動物の肉はあまり効率的ではないからでしょう。
 
人間には食事でとったものでまず自分の身体をつくるという作業があります。
自分の身体をつくるというのは、自分のたんぱく質をつくるということです。
大部分のたんぱく質は人類共通ですが、その人固有のDNAの指令に基づいて作られますので、人体を構成するたんぱく質を全体としてみると、一人ひとりが違うタンパク質をつくっているのです。
 
いくら兄弟だから、仲のいい恋人だからといってみたところで、DNAの指令は一人ひとり違っているので、まったく同じたんぱく質はつくれません。
これは宿命です。
 
では自分のたんぱく質をつくるのに何を原材料にしているのかというと、20種類のアミノ酸です。
動物の肉にはその20種類のアミノ酸が全部含まれているので、一見よいように思われるかもしれません。
が、動物の肉を食べるとそのまますぐ自分の身体の肉になるわけではありません。
 
食べたものをアミノ酸のレベルまで分解しないと、DNAの指令に基づいてたんぱく質を形成することができないのです。
重要なのは、アミノ酸を摂ること。
でも、それを肉で取ると、アミノ酸のレベルまで分解するのに大変な負担がかかってしまいます。
なおかつ、小腸でアンモニアが発生します。
 
これは、動物の肉が消化液と混じることによって必然的に発生するものです。
アンモニアは、ある程度の量なら処理できるのですけれども、あるレベル(人によって全然違う)を超えてしまうと、ものすごい毒性を発揮するのです。
したがって肝臓でアンモニアを分解して尿素に変え、何とか体内の平衡を保とうとする。
 
それでもまだ肉を食べ続けると尿素も増えてしまう。
すると、尿素だけでも毒性を発揮するようになるので、尿素を分解しなくてはならなくなる。
それには腎臓を使うしかない。
つまり肉食を続けていくと、最終的には、肝臓と腎臓に猛烈な負担をかけることになるのです。
結局身体にとってはまったく効率が悪いアミノ酸の作り方ということになります。
 
食べものを分解する消化液には一度に出せる量に限界がありますので、丈夫になろうと思って肉の塊をいくら食べたところで、分解ができなければ、アミノ酸のレベルにならないのですから何の意味もない。
それどころか、分解できなかったたんぱく質が身体の中で腐りだし、毒物となって身体に悪さをします。
これが現代人の身体の中で起きていることでもあるのです。
 
たんぱく質は、通常アミノ酸のレベルまで分解されないと吸収できない構造になっているのです。
ところが肉をとり過ぎる状態が続くと、一部のたんぱく質が細かいレベルまで分解されないままに吸収されるケースも出てきてしまうのです。
アミノ酸なら自分の身体を作る材料になってくれますが、たんぱく質のまま吸収されてしまうと、何にも使えない。
 
使えないだけでなく異種たんぱくというもののまま残ってしまい、アレルギーを起こすもとになる。
つまり、不必要なまでにたんぱく質を取り入れるのはよくないことで、結局、肉をある分量以上食べるのはよくないということに結論としてはなるのです。
このようなところからも、動物の肉が我々の身体の一部になることに喜びを感じていないことがうかがえるように思います。
 
 
● 貯め込めないアミノ酸
 
最近ではスポーツ選手なども、肉より植物性のたんぱく質のほうが身体には負担がかからないということに気づき始めて、欧米ではベジタリアンのアスリートがたくさん出てきています。
 
世界的には認識が深まってきていると思うのですが、日本ではまだまだスポーツ選手はたくさんの動物性たんぱく質を取っていますし、健康になるためにはアミノ酸がたっぷり必要なのだというようなことが一般にも有益な情報として流れています。
これは非常に危険です。
 
そもそもスポーツ選手の身体というのは特殊だということを認識しておかなければなりません。
一般人とスポーツ選手とでは身体の作りが全然違っています。
違っている身体を維持するためのシステムはまったく違うものなのですから、一般人がスポーツ選手の真似をしてはいけないのです。
 
スポーツ選手だって、売られているままでは濃すぎるのでスポーツドリンクは薄めて飲んでいると聞きます。
加えて、スポーツドリンクを含む清涼飲料水には糖分が大量に入っています。
あんなに糖分を摂ってしまったら血糖値が上がり、記録が出ないどころか、身体の維持にふさわしくない。
 
私たちは日常的にそういうものを当たり前のように飲んでいますけれども、そこから取り込む不必要なアミノ酸と糖分が、身体に猛烈なダメージを与えていることに早く気づくべきでしょう。
 
植物性のたんぱく質がよいとなると、今度はプロテインと呼ばれるような精製したたんぱく質を、サプリメントとして大量に取り込んだりするのですが、これがまた問題です。
 
たんぱく質は分解されてアミノ酸になりますが、アミノ酸はアミノ酸で、摂り過ぎれば身体の中であまりいい状態ではいてくれません。
アミノ酸は、身体の中に溜め込めないものなのです。
 
うまく合成されればたんぱく質となり、一部は身体の修復にも使われるのですが、必要分以上があるとどうしようもなくなります。
20種類がバランスよく組み合わさってたんぱく質を形成しますので、1種類、2種類のアミノ酸を突出して摂ってしまうと、それだけ無駄で使えないものができてしまう。
 
それなら不要分のアミノ酸は排泄すればよいではないか、と思われるかもしれませんけれども、我々の身体にはアミノ酸をアミノ酸のままでは排泄できない機構が備わっているのです。
 
それは、たとえば尿としてアミノ酸をそのまま排泄できてしまうとすると、とめどなく排泄してしまって生命を維持することが出来なくなってしまうからです。
だからアミノ酸は必ず身体の中にとどまるようになっている。
 
ですが、特定のアミノ酸が血液中に過剰になってしまうと、さらに細かいレベルに分解をして、身体の外に排泄する作業をしなくてはならなくなります。
これはもう身体にとっては本当に大変な作業なのです。
ですから、特定のアミノ酸を突出して摂ってはいけないし、アミノ酸の総量、つまりたんぱく質の総量としても摂り過ぎてはいけないというのが結論なのです。
 
レストランの店主としても、また一消費者としても、化学的な調味料を摂るのは賛成できないということを私はずっと言い続けてきましたが、その理由はここにあります。
特殊なアミノ酸だけを大量に含んでいるのが化学調味料なのですから。
 
そういうわけで、私はほとんど化学的な調味料を使わない食生活を続けています。
それが私にとっては当たり前のことでもあるからですが、とはいえこの社会に生きている以上、ときどきは、外食で化学調味料を大量に使った食事を摂る機会もあります。
するとすぐに変化がわかります。
尿が猛烈にくさくなるのです。
 
もし、自分は化学調味料を日常的に摂っているけれども尿はくさくないと思っている人があったら、それは、そのことが慢性化していて、常態となっているために気がつかずにいるだけだと思います。
 
いったん実験的にそういうものを全部やめてから、再び大量に摂ってみて尿を検分してみてください。
非常に臭いことに気づくはずです。
そういう身体への負担のかけ方というのは、いいことは一つもない。
細かい分子レベルで、われわれの思考や考え方さえ左右している場合があるのです。
 
 
● 黄金の食べ合わせ=穀物2+豆類1
 
たんぱく質を多く摂ることが身体にいいかのようにメディアでは扱われていますけれども、たくさん摂ることはよいことではありません。
むしろぎりぎりの量を摂っているほうが良いのです。
 
そのたんぱく質も、動物性のものではなく、ましてや化学的なものではなく、もっと自然な摂り方のほうが余計なことをしなくて済むので身体にとっては効率がよい。
それは、穀物と豆を食べ合わせることです。
 
20種類のアミノ酸のうち、9種類が必須アミノ酸といって、食事その他で体外から摂り込まなければいけないといわれているものです。
なぜ、20種類全部が必須ではないのかというと、9種類が材料として潤沢にありさえすれば、残りの11種類は身体の中で合成することができるからです。
 
バランスが取れていればもちろん必須以外のアミノ酸を摂り込んで悪いことはないのです。
でも、9つの必須アミノ酸をまんべんなく摂っているだけで、私達の身体はうまく作られていく。
そして、穀物と豆類を食べ合わせることで9つの必須アミノ酸は全部摂れてしまうのです。
これがアミノ酸の一番合理的な摂り方。
 
比率も、おおよそ穀物2に対して、豆類1の割合で摂るとほぼ無駄なく必須アミノ酸を摂り込めることもわかっています。
もちろん、この食べ合わせでエネルギーの元となる糖分も摂取できます。
その糖分をエネルギー化するのに必要なビタミンB1を豆類は多く含んでいるのですから。
その意味でもうまく出来た組み合わせなのです。
 
こんなことは経験的には百も承知だったのか、赤飯、豆ご飯、おはぎ、大福、ご飯と豆腐の味噌汁、ご飯と納豆など、伝統的な食の中にはいくらでも見出せるありふれた食べあわせなのです。
それが黄金の組み合せだったということなのです。
 
この場合、穀物も豆類も精製していないものが良いのです。
お米でいえば玄米、あるいは3分搗きぐらいまで。
小麦粉でいえば全粒粉。
豆で言えばたんぱく質だけを抽出したものではなく、丸のまま。
 
精製度は低ければ低いほど、穀物、豆類が全粒の状態で持っているミネラルやビタミンも失われずたっぷり含まれています。
こういう栄養素も入ってくれないと私達の身体はうまく回ってくれませんから、それを摂り込むという意味からも、精製度が低いほうが良いのです。
 
加えて、精製していない穀物、豆類がよいのは、食べ過ぎることができない点です。
適量まで食べたらきちんとお腹が満ちて、気持ちよく満足感と満腹感が訪れてくれる。
 
ところが、精製してあるものは、ほとんどの人が食べすぎというラインを超えてもまだ食べられてしまうというものなのです。
玄米にぱらぱらっとお塩をふって食べてみてください。
お茶碗1杯食べたらそれ以上は食べられない。
ましてや味噌とか豆で作った料理をあわせて食べたときには、本当に少ない量で十分身体が満足してしまいます。
 
同じことを白米で試してみると3杯ぐらいは食べられてしまいます。
そこに味噌汁でもあろうものなら、下手をすると4杯でも5杯でも食べられる。
 
白米というのはほとんどが炭水化物(糖質と食物繊維の総称)で、しかも食物繊維はあらかた除かれています。
3杯も4杯も白米を食べるというのは、大量の糖を取り込むことと同じことなのです。
ですからウエイトロスをしたいと思っている人は、精白した穀物を食べているうちは、あまりうまくいかないと思ってください。
 
本当に意味でのウエイトロスをしたい、自分のベストの体重を維持していきたいと考えるのであれば、精製しない穀物と豆類を食事のベースに据えることをお勧めします。
 
 
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

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池田 優

 

 

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