山ちゃんの食べもの考

 

 

その226
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【83】
 
南清貴著   講談社インターナショナル刊
『究極の食』  より その5
 
 
第1章 体の良くできたシステム  の4
――本能を呼び覚ませ
 
 
● 活きた水を飲んでいるか
 
欲求の問題を考えるとき、基本的かつ重要なものに水もあります。
人間の身体は70%近くが水で成り立っていると言っていい。
細胞の内側にも外側にもある溶液の主体は、水なのです。
ところが、摂取する水の質が悪いとやはり身体がうまく回っていかない。
まず、活きた水を飲む必要があります。
 
安全性が確認できさえすれば、山の清水だとか、自分が生まれた地域の井戸水を飲むのが本当はいいのでしょう。
しかし、それがなかなかかないませんから、良質な水、安全性の高い水をきちんと飲んでもらいたいのです。
 
ペットボトルに入った良質の水というものには、実はめったに巡り会えません。
というのも、ほとんど加熱処理されていますので、水が本来持っている性質が少し変わってしまっているのです。
それは強い毒性を持つというようなことではないのですけれども、活性のある水ではなくなってしまっている。
 
ですので、信頼の置ける浄水器を付けて水道水を飲むというのが、今都会で暮らしている人にとってはベストの方法だと私は思っています。
悲しいかな、都会では水道を使うしかない。
ならばその中に含まれている毒性のある物質を除去するしか手立てはないでしょう。
 
それ以上のことを事実上私達はチョイスできませんのでそこから先の心配をするのはやめたほうがいいと思います。
どこまでもきりがないですし、アルプスにでも行きなさい、となったら非現実的でしょう。
 
水もまたどのくらい飲めばいいのかという話が必ず出てくる。
一説によると一日に一リットルとか、2リットルとか、ひどいのになると5リットルというのもありますが、私はそう簡単に分量を決められるものではないと思っています。
 
水は身体の中で再利用されています。
それに新鮮な果物や野菜をたっぷり食べると、飲み水ではない形で、身体が必要とする水を摂ることができるのです。
 
夏の暑い時期に、ピーマンを作っている農家の知り合いがあったら、ぜひ行ってみるといい。
夕方ぐらいにピーマンを一つもがせてもらって、ガブッと齧ってみると、内側に水分がたっぷり入っているのがわかります。
この水に意味がある。
ピーマンが自分の命をかけて、土の中から吸い上げた水なのです。
高機能の濾過装置を通ってきた水と同じです。
 
果物も、特にスイカとかウリ科の植物などは水分を貯め込むのがうまい。
とうがんでも、普通は種の部分を捨ててしまいますが、そこをジューサーにかけて汁を漉して飲んでみる。
場合によってはちょっと塩を入れてもいい。
これはものすごい命の水です。
大変な活力源。
飲んだその瞬間からぐわっと細胞が蘇るのがわかるぐらいの力を持っています。
 
実際に自分の身体でそういう体験をしてみると、オーバーな表現ですけれども、その水一滴が、普通の水コップいっぱいぐらいの価値があるとわかるのです。
つまり、野菜や果物から摂取できる水は貴重だということです。
ただ水を決まった量飲んでいるだけでは満たされなくて、やはり「永遠の欲求」に?がってしまいます。
 
水はガブガブ飲んでしまうとなかなか吸収できずに、尿になってすぐに全部排泄されてしまったりします。
では、どういう飲み方をしたらうまく細胞の内側にまで水が取り込まれるのでしょう。
 
一つの方法として身体の一部また全部を温めながら飲むと吸収率が高くなります。
ですから湯船につかりながら水を飲むと吸収率がいい。
整体でよく使う足湯という手法も効果的です。
足をくるぶしからちょっと上ぐらいまでお湯につけながら水を飲むのです。
 
普段お風呂で水を飲むときには、湯船につかって水を一口含んで、しばらくくちゅうくちゅうしている。
そうすると、ものすごい粘り気が出てきますので、それは一度捨ててください。
そのあとにもう一口含んで、出来れば自分の体温に近づいたところで少しずつ飲みくだしていくのです。
こうすると、とても吸収できます。
 
普段、オフィスで仕事をしながら水を飲もうというときには、いちいち吐き出す必要ではないですけれども、口の中で含んでしばらく置いておくと体温に近付いてくる。
唾液も出てきますので、その唾液と併せて水を飲み込むと非常に吸収率が高くなります。
 
 
コラム(2) 足湯

くるぶしの上3cmくらいまで適温のお湯につけるだけの便利なケアです。

まず、たらいか、大き目の洗面器などを用意して、42〜43度程度のお湯を自分のくるぶしが隠れるくらいまで入れます。
お湯の温度は、手を入れてぎりぎり耐えられる程度が適温ですので、温度計はあくまでも目安として、自分の身体の感覚で判断してください。

椅子に座ってお湯の中に足を入れ、約8分、じっとしています。
別に、やかんなどに熱めのお湯を用意しておき、お湯の温度が下がってきたら、やけどをしないようにお湯を少しずつ足して、出来るだけお湯の温度を一定に保ちます。

また手の届くところに飲み水を大きなコップ一杯用意しておき、足をお湯につけている間に、水をチビチビ飲みます。
一気に飲まずに、口の中に水を含み唾液と混ぜ合わせるようにしてゆっくり飲みくだすがよい。

8分立ったら足を引き上げ、指の股までよく拭きます。
左右を見比べて、両方とも赤っぽくなっていたら終了。
片方だけ白っぽい場合は、お湯の温度を2度程度上げてその足だけ再度お湯につけます。
終了したほうの足は靴下などを履いて冷えないようにしておきます。
2分ほどしたら足を引き上げ、よく拭いて、こちらも靴下などを履き、冷えないようにします。

足湯は単に足の冷えを取るのにも効きますが、身体が捻じれている時にやると、捻じれを解消できます。
ゴルフのあとや、長時間のデスクワークのあとなどに足湯をするのは効果的です。
 
 
 
● 究極状態ではカラダをばらす
 
必要な栄養素が取れなかった時、私達の身体はどういう反応をするのかということも知っておいてもらいたいと思います。
必要な栄養を摂るというのは、過剰なものを摂ってしまったとき、バランスを取るために必要なものが欲しくなるという場合もあります。
 
人間の血液が食品によって酸性になったりアルカリ性になったりすることはないといわれていますが、それは恒常性維持の機能が働くからで、血液のペーハー度を一定に保つために、身体は懸命に努力し続けています。
しかし当然のことながら、恒常性維持の能力を超えるような事態が継続すると、その限りではなくなります。
 
個人差はありますが、たとえば、多量の動物性たんぱく質を長期間摂取し続ければ一時的にせよ身体が酸性の方向へ傾くことはあり得ます。
そこでバランスを取ってくれるのは、ビタミン、ミネラル、植物性栄養素を含む野菜です。
 
肉を食べるのだったら野菜もたくさん食べることが必要なのです。
が、そういったことがなされずに決定的なところまで行ってしまうと、生物としての我々はいったん身体に取り込んだ物質を、組織をばらしてでも血液の中に戻すという作業をしてしまうのです。
そうしないと命が危ないからですから、身体の一部を犠牲にしても生命を維持する作業を最優先します。
 
酸性方向に傾きかけた身体を正常に戻すのにてっとり早い対策の一つは、骨の中のカルシウムを分解して血液中に出すことです。
これは恒常性を維持するための奥の手ですからめったに起こることではありませんが、極論すれば、肉を食べ過ぎると骨粗しょう症に近付く、といえるのではないでしょうか。
 
肉に限らず乳製品など動物性たんぱく質を必要以上に摂取し続けたり、逆に必要な栄養素を摂らないでいると、自分の体をばらし始める現象が起きかねないことは認識しておいてもらいたい。
 
真剣に減量に取り組み過ぎた高校時代の私は、まさにこの典型だったように思います。
当時の食生活は本当にひどいないようでした。
骨嚢腫という病気になったのも、自分の骨を溶かして身体のバランスを取ろうとした結果だったのではないでしょうか。
 
間違ってもそういうことが起きないように、食に関する正しい知識を身につけていただきたいです。
 
 
 
● 身体の中は複雑系
 
これまで見てきたたんぱく質、ビタミン、ミネラル、脂肪、糖というようなものは、身体の中で単一で働いているわけではありません。
様々な物質がその人特有の秩序の中で噛み合わさって働いている、というところが最も重要な部分です。
 
たとえばAさんとBさんが、まったく同じ内容の食事をまったく同じ分量摂ったとしても、身体の中にに入ってからの働き方、消化、分解、代謝、吸収という一連の働きがどれも違います。
一人の人でも、その前に摂った食事、あるいは運動、メンタリティの問題といった別の要因が組み合わさると、同じ食事の働きが全然違ってきます。
 
いい仕事をして賞与がもらえた日の夕食は、その人にとってはとても有意義で実のあるものになるでしょう。
が、同じ人が3ヵ月後に失恋をし、賞与をもらった日と同じ内容の食事をしたとしても、吸収されるものがまったく違います。
したがって、吸収後の栄養素の働きも違ってくれば、そのことによって表現されてくることも変わってくるのです。
 
人間の身体は様々な構成要素が絡み合った複雑系と言っていいシステムになっているのです。
ということは、「これを食べるとこういう効果がある」と一様に判断することがいかに無益か、ということになるのです。
つまり、身体にこの栄養素が重要だ、といって単一の栄養素を大量に取る行為は、まったく無意味なのです。
 
たとえばビタミンCは確かに身体にいい効果を発揮してくれます。
人間の場合、ビタミンCを作り出す酵素が足りず自分で合成することが出来ませんから、必要菜量を外部から取り込むしかありません。
しかし、いくらビタミンCがいいからといって、際限なくとる意味はない。
 
ビタミンCは水溶性なので不要分は尿や汗で排泄することが出来ますからまだよいのですが、それでも、余計なものを摂取することはよくないことなのです。
本来は不要な排泄作業をしなければならなくなり、人によってはそのために負担がかかったりもします。
 
身体の中では、様々な栄養素が多面的に複雑に絡み合って化学反応を起こし、代謝をし続けている。
そのシステムが完備されているということを真に理解しなければ、栄養の摂り方、食事の仕方を間違えてしまうのです。
 
我々日本人の先祖は、その辺りの仕組みをよく理解していたのでしょう。
伝統的な食習慣にそれが現れていると思うのです。
人類は長い時間をかけて、各地域でそれぞれ固有に、生きていくのに最適なライフスタイルを確立してきているわけですが、そういう中でも、今のように栄養学や科学が発達していなかった数百年も前から、身体の中の複雑な働きを察知していたらしい日本人の食事のスタイルは際立っています。
 
日本の伝統的な食事が、地球上の他の地域の人たちにとっても理想的な、言ってみれば模範的な栄養の摂り方に近いものだったことが、近年栄養学的な分析が進められる中で知られるようになって来ました。
普遍的で健康的な食事のスタイルであることが世界中で認められて、今の日本食の流行になっているわけです。
 
日本食の何がすばらしいのかというと、複雑系である身体の働きを効率よくするような仕組みになっている点です。
 
穀物と豆の摂り方もそうです。
今は米を精白して白米にしてしまっていますので、日本的な食事のよさがかなり失われていますけれども、それでも米は食べます。
若い世代に米離れが進んでいるとはいえ、一般的にはまだ日本人にとっては米が主食といってもよいと思います。
 
主食として米を食べそこにおかず=副食があってお汁が付くという構成が基本。
欧米の食事には、そもそも主食という発想がありません。
パンやパスタなどの炭水化物も、食べるもののうちの一種類という捉え方です。
しかも米は水で炊くだけですから、白米になってしまった現代でも粒食です。
粒のまま食べているところに意味があるのです。
 
パン、あるいはパスタなどは、小麦を一度粉にして加工しますので、そういうものは粉食といいます。
粒食と粉食とでは、同じ穀物、炭水化物を食べたとしても体内でまったく違う働きが起きます。
 
粉食のほうが分解が早いのです。
精白した白い小麦粉になるとなおいっそう消化が早い。
消化が早いというのは、要するにブドウ糖などの単糖類に変化しやすいということです。
したがって、粉食には血糖値を急激に上げる要素があるのです。
 
そのようなメカニズムを知っていたのかどうかはわかりませんけれども、日本人は米をあまり精白しない状態で粒のまま食べてきた。
そこがまず優れているのです。
 
豆料理が豊富であることも優れた財産です。
世界中に豆の料理はたくさんありますが、日本のように多種類の豆を多種類の調理法で食べてきたところはあまりないようです。
味噌や醤油など、調味料にまで豆を使っている。
栄養学的に何かがわかっていたはずもないので、身体の欲求に基づいて造られてきたのでしょうけれど、これはもう本当にすごい知恵です。
 
しかも発酵という技術を使っている。
味噌も醤油も、お酢だってそうです。
発酵した食品を身体の中に摂り込むというのは、世界中の民族が取り入れている知恵ではありますけれども、日本ほど発酵食品が豊かな国というのもやはり珍しい。
 
最近までは、どこのうちでも糠味噌を漬けていましたし、冬になると白菜漬けの樽がない家なんて、私の子どもの頃は珍しいぐらいでした。
白菜漬けは、最初の頃は浅漬けとして乳酸発酵の初期のものを食べ、冬の終わり頃になると古漬けになって酢っぱみが増していくのを味わう。
 
この酸っぱさがまた格別においしい。
樽の中は発酵状態が続きますので、雑菌が繁殖せず、腐敗しない。
ずっと発酵状態が続く、というのがものすごい知恵だったわけです。
 
発酵食品を取り込むと、腸の中まで乳酸菌が入って酵素を作ってくれる。
その酵素が最終段階まで来たたんぱく質を、吸収しやすいようにもっと細かいレベルにまで分解する働きをしているのです。
 
ここで言いたいのは、単に発酵食品をとればいいということではなく、何事もバランスが大事だということです。
納豆がいいとなるとそればかりに走るような現象がしばしば起きますが、食品にしても薬にしても、何か一つの物質が身体に効く、という短絡的な発想自体が、そもそも複雑系のあり方とそぐわないことに気づくべきなのです。
 
物事を相対的に捉える宇宙的な発想を得意としてきた日本人だからこそ、世界に誇れる食文化を確立することが出来たのです。
そのDNAを受け継いできているはずの私達ですから、余計な情報に惑わされている暇に、米、豆とともに発酵食品をきちんと食卓に乗せ、複雑系に身をゆだねてきた先人の知恵にいっそうの磨きをかけたほうがよいのではないでしょうか。
 
 
● 複雑系にゆだねる
 
理想的な食事を続けていれば身体には何も起こらないのか、というとそんなことはありません。
必要なときには風邪を引きます。
 
「風邪を引くと」日本語で言いますが、風邪は引っ張り込んで、自分に近づけるのです。
英語でも「 catch a cold 」ですから、風邪はキャッチする。
意味があってこういう表現になっているのでしょう。
風邪というのはとても重要なものなので、身体の複雑な働きの中で、人間は必然的に風邪を引いているのです。
 
花がグジュグジュしたり、ゴホンゴホン咳をしたり、時には熱を出したり、下痢をしたり、そういう症状を呈してある時期まで来ると快方に向かい、自然に治る。
どんな人でも風邪は引くのです。
それはよいことなのです。
 
繰り返してきましたように、身体は非常に複雑な働きを勝手にやってくれていますので、その動きを浅薄な知識で押しとどめてしまったり、違う流れの方向に持って行ったりするのがむしろいけないことです。
身体の自然に任せる、複雑系の自然に任せるということがとても大切なのです。
 
前にも触れましたけれども、風で熱が出るのだったら、出してしまったほうがいい。
身体がそういう欲求を持っているからです。
熱が出始めたとき、後頭部に温かいタオルで温湿布をすると、もし出きらない熱があったとしたらいったん熱がすっと上がります。
上がりきったあと熱が下がっていくのが、お決まりのパターンです。
 
平熱からさらに下がった状態を低温期ということは既に触れましたけれども、その低温期がものすごく大事で、ここが身体の複雑系の一番頑張っているところなのです。
言ってみれば、身体の再生をしているとき、この時期は本当にじっくりと再生の時期を過ごしてもらいたい。
そうすると、より高度な複雑系として、身体が蘇ることになるのです。
 
どういうことか、風邪をうまく経過することで、身体の能力が開けていくのです。
それまでもし腎臓に何か弱点があって100%の働きができていなかったとしても、特定の風邪を経過することによって回復したりします。
他の臓器も同じで、そのような可能性が風邪にはあるのです。
 
風邪のときに出ている症状に、無駄なものは一つもありません。
咳をするという症状も、喉が痛くて、時には気管支まで痛くなったりしますが、まず呼吸器を鍛えています。
咳をするには息を吸い込まなければいけませんから、肺の活動を大きくしているのです。
 
同時に、骨盤を占める運動でもあります。
咳をしてみるとわかりますけれど、キュッと骨盤が締まります。
反動で開きますから、開かせることが目的の場合もあります。
骨盤の開閉運動というのは人間にとってはとても大切なもので、そこを強化するために咳をしているということもあるのです。
 
私は花粉症も風邪の一種だと見ています。
花粉症の症状は、ほとんど風邪の症状と同じで、それが重くなったり、激しくなったり、長引いたりしているものだと思うのです。
 
大変ですけれども、やはりそれを止める方法ではなく、全部出し切ってしまうつもりになってその時期を過ごすと花粉症はうまく経過していきます。
そして食事を整えると複雑系がさらに高度なものになって花粉症を克服することが出来るのです。
 
ところが、症状が出て、あるいは出る前に化学的な方法を講じてしまうと、その人の身体はもう成長できない。
そこで成長が止まってしまうので、せっかく広がろうとしていた複雑系を押しとどめてしまうことになるのです。
実にもったいないことです。
 
花粉症というのは一種のアレルギーですから、本当はそういう反応が起きない身体でいるほうがいいのですけれども、起きてしまったら、うまく経過することによって自分の複雑系を広げていくのだ、より高度なレベルの複雑系を獲得していくのだ、と考えてもらったほうがまっとうなのではないかと考えています。
 
身体はどんな条件下でも、常に何とか自分の健康性を保とうとしているのです
前にも触れましたが、そのような身体の働きのことを恒常性維持機能、ホメオスタシスといっています。
何らかの理由でバランスが崩れ、恒常性をどうしても維持できなくなってしまった状況が疾病です。
 
細菌が身体の中には入ってきたとしても、細胞分裂で数を広げていく前の状態ですばやく攻撃をして殺してしまえば広がらない。
ところが、細菌の側が勝ってしまって身体の恒常性が崩れると、感染症の疾病状態に陥っていくのです。
 
生活習慣病でも基本的には同じで、食習慣や他の生活習慣によって、維持していた恒常性をどこかで超えてしまうと疾病状態になるのです。
ですから、恒常性が維持できている範囲でいろんなことが身体の中で起きても、それはそんなに困った状態ではないということです。
 
もしも疾病の状態に陥ったら、その時には、元の健康的な状態に本当に戻りたいのか、自分にとて何が相応しいのか、を選択するチャンスが与えられたと思ってもらいたいのです。
必ず原因があることはわかっているのですから、原因が何であったのか、それがわかってもとの状態に戻ったほうがよいのかどうか、自分で選択するべきだと思うのです。
 
それをせずに、医師に任せてしまったり、不確かな情報をもとに売薬を使ってしまったり、というのでは意味がありません。
その状況を変えるのは自分以外にないというところに気づいて欲しいのです。
 
ただ、原因がひどい空気にあったことが判明しても、空気を変えることは個人の力では難しい。
でも、食という環境だけは個人の思惑で変えていくことが可能です。
 
自分の選択しだいで中身を変えることが出来るからです。
何に自分のお金を投じるのかを選び取る決心が出来れば、食という環境は十分に変えていくことができます。
それは今すぐにでも変えることが出来るのです。
 
 
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る