山ちゃんの食べもの考

 

 

その23
 

 

  前回、「再利用を中止したため牛乳が産業廃棄物として大量に廃棄されている」というニュースから、3つの問題提起をし、その1、安全性についてお話しました。

「日付だけで安心してはいけない」食品の賞味期限と安全性、食品を長期保存し、安全性を確保するためにどのような保存料が使われているか。そして「食べ物は本来傷むものであり腐るものだ」という常識的な考えをもって、できるだけ添加物などに依存しない、真の意味での安全なよい食べ物を選んでほしいということを述べました。

  今回は、この牛乳廃棄に関連してその2、食べ物を粗末にしないために、その3、私たち消費者とスーパーなど量販店のあり方について考えてみたいと思います。

  外資系企業のファーストフードで、作りたての新鮮さや美味しさの保証を宣伝するため「作ってから○○時間経過したものはすべて廃棄しています」という文句を聞いたことがあるでしょう。新鮮なものが食べたい、できたての美味しいものが食べたい。だから食べ物が捨てられることに何の疑問も抱かず、消費者の多くはその企業姿勢を賛美し、先頭に立って口コミ宣伝するというふうありました。雷同するいくつかの食品もあったようです。

  私が親しくしていた生産農家のご子息が、大手パンメーカーの配送担当をしていました。その農家を訪れるたびに奥さんがたくさんのパンをくれるのです。どうせ捨てるものですから近所の人たちにも分けているのです。賞味期限はまだまだあるのですが、スーパー等からの返品を含めてお店では販売できないものです。保存料もしっかり入っていますから、物によってはまだ2、3日は大丈夫です。

  この春ある勉強会で、私の尊敬する方が経営する有名な寿司製造販売業の重役さんによる講演がありました。深夜から製造にかかり全て当日製造したものばかり販売されています。「残ったものはどのようになさるのですか?」「再利用などはいたしません、全部捨てます」。

  先日、旅行先の大きなホテルで朝食にバイキング料理をいただきました。大きなホールに和食洋食選取りみどりです。最後のお一人までご満足いただくためには豊富さを欠くことは出来ません。残ったものはどうするのだろうなどと余計な心配をするのは私だけなのでしょうか。

  スーパーの惣菜や刺身、肉その他生ものなど残ったものはどうなっているのでしょう。

 

  例を挙げれば切りがありません。原材料の生産現場では形の不揃いなものや外観に問題のある見栄えのしないものは、規格外商品として廃棄されます。生産、流通、加工、販売、消費の段階で一体どのくらいの食べ物ものが廃棄されていることでしょうか。食べ物として完成され供される段階からでも10%とも15%とも言われており、総体的には20〜30%にものぼるとも言われています。

  どの段階においても廃棄は大きなロスであり、利益に結びつく問題ですからいかに廃棄率を少なくするかが頭の痛い問題です。牛乳の再利用問題なども、ご家庭で食べ残したものを冷蔵冷凍保存したり、炒めなおす、煮なおすなどしたり、また別のものに再料理していただくのと同じことです。しかし学校給食で見られるように、万一の事故を考え残品のほとんどは廃棄処分となります。

  「地球村ネットワーク」を主宰する高木義之さんが公演の中で、「スーパーのケースの中から日付の古い牛乳を選んで買われる方は手を挙げてください」と会場の皆さんに問いかけられました。ドッと笑い声が上がりましたが誰一人手を挙げる人はいませんでした。「では日付の新しいものを……」。つぎに「家庭の冷蔵庫の中に何本かある牛乳の中で日付の新しいものから飲む人は……」「では日付の古いものを……」。もう申し上げるまでもなく答えはお分かりでしょう。

  賞味期間がまだまだあるのに、新しいものを、より新しいものをと求める異常なまでの購買行動が、食品メーカーや販売店にコントロールの効かない状態を来たしました。そこで厳しい範囲での賞味期限の日付システムが生まれました。それでもまだまだ美味しく食べることのできる多くの食べ物が捨てられているのです。

  大量の食べ物が捨てられることのよって安全性が確保されているとするなら、私たちの享受している豊かさとはこれでいいのでしょうか。

 

  「山ちゃんのお食べもの考その16」でお伝えしましたように「食べ物をいただくということは、動物・植物の『いのち』を天からいただくということです。動物・植物でも、できればこの世で長く生きたいという本能を全うしたいところですが、その命を今私たちに捧げてくれているのです。いただいた6時間後には私たちの命に代わっているのです。犠牲になってくれた動物・植物の命が成仏できるように、私たちの命をよりよく生かせるような生き方をしなければならない」そして禅宗でのお祈り「五観の偈」をご紹介しました。

  「食べ物を捨てることは、取りも直さず命を捨てることです。心を捨てることです」いかに物の量が豊富であっても、作る人が食べる人の健康な幸せを願い、食べる人が作る人のご苦労を思い、食べ物の命を感謝していただくという、もっとも根源的な心の糸がぶち切られてしまっているのです。

 

  今さえよければ良い、自分さえよければ良いという利己的な考えや振舞の行き過ぎが、食べ物の作られ方や商われ方、食べられ方を狂わせ、自然環境の破壊にまで及んでいるのです。作る人も商う人も食べる人も、食べ物に対する正しい識見を持って、バチ当りな扱いはやめたいものです。

 

  「売出しで残ったイチゴが大量に返品された」。ある大型スーパーの特売に協賛して納品した一仲卸業者の嘆きです。品質状態がよくないからといって翌日になってからのクレームです。全店での売れ残りの回収を命じられました。大事なお得意さんの無理難題であり、泣くに泣けない口説き節です。

  これはあまりにも非常識で極端な例ですが、ケースの下から奥まで引っ掻き回されて新しい日付のものが買われたあとのものはどうなるのでしょう。明日もまた新しいものが入荷します。今日ではほとんどの商品に賞味期限や製造年月日が記載されています。消費者にはまことに便利なことですが、スーパーにとって日付管理は大変な仕事です。

  物によっては、日付の古くなったものや売れ残ったものは、返品や交換するなどの商習慣がまだまだ残っています。返品や交換することが商談の条件にされることもあります。それのできないものは多くの場合廃棄処分されます。

  問屋やメーカーに返品あるいは交換されたものはどうなるのでしょう。再利用再加工で事故につながったこともあります。おそらくどの段階かで廃棄処分ということになるのでしょう。

  昨今では、不条理な返品などは社会的な倫理や商道徳の面からも改められつつあるといいますから、大きなバイイングパワーで弱い立場の生産者や仕入先が泣かされることもなくなるでしょう。

 

  私の知っているお店では品切れも止むなしとして、できるだけ返品をしないよう仕入数量にも気を配り、いくつかのコーナーを設けて賞味期限切れに近くなった商品を、何割引かで販売しお客の人気を得、それで仕入先とお客の信用をも得ているところがあります。品切れすることはお店にとってチャンスロスといって、せっかくのお客を逃すことになり、売れ残って残品が多く出ることと同様に大変気を使うところです。

  私がスーパーに勤務し始めて間もなくの頃、夕方になっても生菓子が品切れもなく沢山並んでいるのが良い店ではない、夕方品切れの多い店が良心的な魚屋だ、と常に新鮮なものを販売するための常識とすべき心構えを教わりました。膨大な品ぞろいがされていて欠品のないのが不思議なのであって、賞味期限が期されている今日、順番に意識的な品切れを起こさせながら、食べ物を粗末にしないようコントロールできないものだろうか。

  以前、お肉やお魚その他生鮮食品に準ずるもので、売れ残ったものは再パックするなどして日付を改ざんをするということが、大きな問題となって騒がれたことがあります。今ではそのようなお店はまず、ないでしょう。

 

  どのような野菜や果物に力を入れているか。産地や栽培方法、すすめるポイントなどは納得いくものか。何を基準に選びどんな点を強調して販売されているか。どの品も無駄なロスが発生しないよう管理され、常に品質や鮮度が高水準に維持されているか。

  製造日も賞味期限も付記されない農産物の売り場を見れば、だいたいその企業の食べ物に対する考え方や取り扱いの意識レベルが覗えます。

  食べ物を「いのち」として捉え、決して粗末にしてはならないという考えがしっかりしていれば、その包装や陳列に食べ物を大切に扱うという心がキチンと表れています。決して高級化を狙うとか超低価格を前面にというのではなく、ごく当たり前の旬商品を中心に手をかけた売り方がされ、山のように積み上げたボリュウム陳列ではなく少しずつ何回でも補充されています。並べられた上から安心して買っていける店が良いお店です。そうしたお店は食べ物商いについての使命がコンセプトとして確立されていますから、他のコーナーについても同様の考えに従って運営されています。

  青果物の売り場をしっかり見分けられることが、賢い消費者になるための第一条件といってもいいでしょう。呼吸をして生きている農産物を常に新鮮に高品質で提供し続けることは、人手のかかるものであり至難な業です。安物を仕入れて安売りでかせごうとか、合理主義的な生産性本位で効率だけを追求するような管理のずさんなお店では、得な買い物をしたように思えても、食べ物の買い物としてはどうかと思う店もあります。

 

  あなたが行きつけのお店の「売れ筋」は、その地域のお客様の「買い筋」でもあるということを先にお話しました。そのお店の品ぞろえは勿論その企業の考え方や都合によって決められます。しかし売れない物、つまり買われない物はやがて消えて無くなります。繁昌店の豊富な品ぞろえやスペースの配分は、その地域の消費者の総意で決められていくといっても過言ではありません。

  消費者の意向を反映しないお店は消え去っていかざるを得ないのが運命です。ですから、健農志向だ、安全・安心・本物志向だ、やれ自然志向だ、有機栽培だ、無添加だといっても、積んでは崩し積んでは崩しでなかなか定着しません。

  もちろん生産者や製造メーカー、販売企業に大きな責任があることは当然ですが、良いにつけ悪いにつけ、消費者の嗜好や価格、機能性、装飾性等の要望・クレームといった購買行動が小売店から仕入先へ、仕入先から市場やメーカー、産地へと伝えられ、最も効率的に売れる物(すなわち買われる物)が開発されていくのです。私は消費者の要望するところの本意が、必ずしも正しく伝えられることなく、生産者やメーカー、流通業にかなり都合のいいように曲解されている部分も大であり、とんでもない商品がまことしやかに喧伝されていると思います。

  良い食べ物を売るよいお店は、その企業の経営者の哲学や従業員の考え方や努力に負うところが大であり、土台となすべきところでありますが、その店を取り囲む地域の人々の買い続けるという、支える力があってはじめて成り立つています。お店が良心的な良い食を積極的に提案し、お客がその努力に報い、より良い店作りに参加して育てていっています。さらには良い生産者やメーカを育てるということにつながっています。

 

  さて前回から飲用乳の再利用を止めた雪印の牛乳大量廃棄の問題から、実はこれに限らずいろんな食べ物が多くの場で大量に捨てられていること、そして私たち消費者の鮮度志向、安全志向の高まりからくる購買行動が、添加物の多用や大量の廃棄という歪曲された状況を呈するに至っていること、よい食べ物とは本来どのようなものであるべきなのかを再考してみる必要を述べてきました。

  それこそ「腐るほどあり余る」「捨てるほどあり余る」大量の食べ物の中に埋もれている私たちは世界一の贅沢三昧をしながら健康を損ない、もっともっとと簡単・便利・美味・安価を追い求め、営々と築かれてきた本来の食を失いつつあるのです。

  自分たちの畑(日本の国土)で作れないならともかく、天与の恵まれた自然条件と豊かな土壌、自ら耕すことを放棄して、裏の畑で出来るネギや漬物野菜まで遠い国から買ってきて食べています。そして世界では食べられないで困っている人々が多くいるというのに、食べきれずに腐らせたり捨てたりしているのです。こんなバチ当りなことがいつまで続くことでしょう。「食の乱れは、心の乱れ、国の乱れにつながる」といいます。

  本当によい食べ物を自らの手で作り出し、伝統の食文化を大切にし、腹八分の少食で健康に快適に長寿社会を謳歌し、この美しい空気、水、土、自然環境と日本の精神文化を守り、子供や孫たちにバトンタッチしていきたいものです。

 

  今日(8月7日)の「日本農業新聞」トップ記事です。今年の稲作は「平年並み」から「やや良」で昨年に続いて豊作の予測。このままだと主食用米の生産目標870万トンをはるかに上回るため、まだ穂の稔らない青田のうちに刈り取って生産調整をしようというものです。検討を重ねてきた結果、昨日(6日)3万1000ヘクタールの青刈りが決定されたとのこと。いろんな事情があってのことでしょうが、減反政策が毎年のように推し進められてきた上に、日本人の主食である米の豊作を国民みんなで双手を挙げて喜べないという複雑な皮肉。史上最高101万ヘクタールの転作に農家は苦しんでいるのに、ミニマムアクセス米の輸入やアメリカから弁当の輸入など理解に苦しむことが多い。

  茶碗の端に残った一粒のご飯に「もったいないことをしたらバチが当って目がつぶれるぞ!!」と叱られた幼少の頃を思い出す。

 

 

 

 

 

 

 


 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

 ◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る