山ちゃんの食べもの考

 

 

その237
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【94】
 
南清貴著   講談社インターナショナル刊
『究極の食』  より その16
 
 
第6章 カラダからのメッセージ 2
 
 
● 風は身体の調整作用
 
第一章でも取り上げましたが、風邪は本当にありがたいもので、その状態を利用して、身体が何かをしようとしている動きです。
また、進退が発しているわかりやすいメッセージでもあります。
 
咳を伴う風邪なら骨盤を開かせたい時だったりしますし、現代人が引く風邪の85〜90%ぐらいは、エネルギー過剰の調整のために引いているといっていい。
風邪には意味があるのです。
 
「風邪は万病の元」と昔から言いますし、確かにそうです。
だからこそ風をきちんと経過することを覚えて欲しい。
 
これも繰り返しになりますが、風邪で一番大事なのは、直りかけです。
治りかけた時に、もう治ったものとして何かを始めてしまったり、身体にダメージの大きいことをすると、万病の元になるのです。
それはせっかくのメッセージを無視することに?がるからです。
 
忙しくて低温期をゆっくり過ごすことなど悠長なことは言っていられないという場合には、引き始めなら短く経過させる「2度差の温浴」(コラム6参照)という方法もありますから、試してみるとよいでしょう。
 
風邪は言ってみれば人間にとっての脱皮みたいなものです。
うまく風邪を使って、熱を出し切り、ふうっと下がって回復していくときのあの気持ちよさといったら、何物にも代えがたいものです。
 
本当に新しい自分になってしまう。
更年期と同じような意味で、風邪もチャンスなのです。
うまく活用すると、もう一段上の健康を自分のものにすることができるということを知っておいていただきたいと思います。
 
風邪のときに注意しなくてはいけないのは、栄養のあるものを食べようとしてしまうことです。
その必要はありません。
風邪を引くということは、体の中にエネルギーがあるというメッセージでもありますから、食べたくなかったら食べないほうがいい。
お腹がすいてたまらない、ということならば、少量の果物は食べても大丈夫です。
 
絶対に食べていけないのは白砂糖です。
第4章の「ウエイトロスのポイント」でも触れましたけれども、蔗糖というのは、消化管にあっても、吸収されて血管の中にあっても、バイ菌、悪玉菌の餌になってしまうからです。
 
菌に強くなるためには、菌によって引く風も必要ですが、だからといってわざわざ悪玉菌に餌を与えて増やす必要はありません。
白血球がバイ菌と戦って勝利を収めることで、身体は回復していくものの、菌をやっつけるときには同時に活性酸素を発生させてしまいます。
それが臓器を傷めたり血管壁を傷めたりしてしまう。
バイ菌を増やさないためには、白砂糖を食べないことが第一なのです。
 
発熱など風邪の症状が出ている時というのは、身体の中の酵素バランスが変わっている時でもあります。
酵素が消化酵素としては働かず、もっと違うところで働くのです。
つまり消化に酵素を使いたくないのですから、でんぷんとか動物たんぱく質、オイルなど、体内の消化酵素が消費される食品をわざわざ食べる必要はありません。
食べないでうまく経過させることによって身体は蘇ります。
 
風邪は自分の身体が求めて引くのです。
特殊な風邪として、インフルエンザだとか、はしか、水疱瘡、おたふくなどもありますが、それぞれ意味は違っても、すべて風邪は自分の身体を更に浄化し、レベルアップさせるために必要なことで、条件が整わなければ風は引けません。
条件が整ったときにのみ引いているとわかれば、その状態をもっと大切にできるのではないでしょうか。
 
子どもが引くはしかというのは、ぶつぶつがたくさん出ます。
これは皮膚を通じて呼吸器を成長させるためにある風邪です。
水疱瘡も風邪の一種で、腎臓を中心とする泌尿器を育てるために引く風邪なのです。
 
おたふくかぜというのは、生殖器を育てるための風邪です。
ですからおたふくかぜの菌の影響は、女の子だと卵巣、男の子だと睾丸に出ます。
おたふくかぜを下手に経過させると、睾丸が腫れてしまったり、女の子でも卵巣が腫れたりします。
 
耳下腺が腫れるのでそこばかり目立ちますが、耳下腺と膵臓、それから睾丸、あるいは卵巣、これらは発生学的に同じところから分化したものですから、機能としては?がっています。
ですから耳下腺だけではなくて、膵臓にも、睾丸とか卵巣にも影響が出ているのです。
これをうまく過ごさせてやることによって、子どもは強い生殖器を持った大人に成長します。
 
余談ですが、近年、男の子の精子の数が少なくなったり、女の人の不妊が増えたりしているのは、予防接種をしてしまって、おたふくかぜを引かないで子どもが成長していることも一つの原因になっているのではないかと私は考えています。
 
私は医者ではないですから、これを証明するのは難しいですし、断定はできませんけれども、やはりおたふくかぜを経過した子どもは、その後本当に逞しくなる。
はしかも、水疱瘡も、それを経過したあとの子どもは逞しいのです。
 
大事な子どもに大病を患わせるのは避けるべきだという意見もわかります。
でも、もう少し広い視野で見てみると、そういうことを経てこそ大きな成長があるのではないか、とも考えられるのではないでしょうか。
人間の身体は、さまざまなケースを利用して成長しているのだということを、西洋医学の信奉者にも理解してもらいたい。
 
時々日本で、はしかが流行したりするのは未開の地のようで恥ずかしい、アメリカの基準に合わせて、もっと徹底して予防注射をするべきだ、という医者もいます。
それはそれでよいのですが、それを絶対的なこととして信じ込んでしまうのは危険ではないかと思います。
 
予防接種は押し付けるべきことではなくて、選択の問題なのですから。
基本的に人間は自由なのですし、いかなる選択も許されているはずで、意に添わない選択をした人を攻撃するというのは、それこそ民度が低いことです。
 
その子の生きる力を十分に発揮させて、サポートするというのがまっとうな大人のやるべきことで、はしかやおたふく風邪を引かないように無理やり押さえ込んでしまうのは、一時的にはそれがよいことのように見えるかもしれませんけれども、結果的にはよくないように私には思えます。
そのようにして予防接種をさせない親があっても、その洗濯は尊重されるべきでしょう。
 
付け加えますと、インフルエンザを治す薬はありません。
予防接種をするのも無駄な行為です。
インフルエンザに効く薬がないというメカニズムは、よく説明された本が出ていますので読んでいただければわかると思うのですが、普通の医者ならインフルエンザを含めて風邪を治す薬はないということを承知していますから、農家が自宅用の野菜と出荷用の野菜を分けるのと同じように、自分の子どもや家族が風邪を引いたときには薬を飲みません。
「いや、飲ませている」という医者がいたら低能というしかない。
 
熱を下げるとか、炎症を抑えるとか、症状を抑える薬を風邪薬だとみな思い込んでいますが、とんでもない間違いです。
 
せっかく風邪を引いても、科学的に症状を押さえ込むことは、身体の自然に反し、メッセージを無視することですから、レベルアップのチャンスを失うだけでなく、身体が鈍感になります。
「丈夫で風邪も引かない」というような人は、風邪を引くこともできないほど鈍くなっているのかもしれませんから、要注意なのです。
 
 
コラム(6) 2℃差の温浴

42、3℃の適温の湯で、まず顔を湿らせます。
これはその湯の温度に身体をならせるためです。

その後は足から少しずつ上に湯をかけていきます。
胸にかけて、最後に背中にかけるとショックがありません。
身体が徐々に湯の温度に慣れたら湯に入ってください。

目安として7、8分ほどの温まり具合のところで、出ます。
そして身体を一回拭きます。

拭く順序は、背中、手、足、胸、腹、顔。
拭いている間に差し湯をするなり、追い焚きをするなりして、湯温を2℃上げるのです。
だから2℃差の温浴。

2℃上がったところにもう一度そのままぽんと入ります。
今度は短くてよいです。

そのとき湯船で常温の水を飲みます、
1回水を口に含んでしばらくくちゅうくちゅうし、それをいったん吐き出してからあらためて水を飲んでください。

大きめのコップ1杯ないし、2杯。
今はペットボトルなんて便利なものがありますのでそんなものを持ち込むとよいと思います。

そこで上がって、先ほどと同じように、背中、手、足、胸、腹、顔の順番で拭きます。

身体をよく拭いたら首の周りにタオルなどを巻き、体操着のようなものを着て、布団に入ってしまいます。
2、30分すると、ものすごい汗だ出てきます。
4時間ぐらい布団の中にいて、あまりにも汗をかいたら着替え、身体を冷やさないようにしながら汗をかききるのです。

その間水は飲んでもよいです。
これをやると身体が一気に変わって、風邪を引いた状態を一足飛びにぐんと時間を短くし凝縮して過ごすことができる。

ただし、熱が出始めたらやる必要はありません。
その前の、ぞくぞくっときたとか、風邪を引きそうだな、というときにこれをやる。
そうすると4時間ないし5時間ぐらいで風をまっとうすることができます。

微熱ぐらいならやってもいいですが、熱が38℃ぐらいになったら、もうそれで風邪は終わってしまっているようなものなのでやる必要はありません。

ちなみに、インフルエンザも一種の風邪ですから、引き始めの時にうまくこれをやれば効果があります。
 
 
● 必要だから病気になる
 
身体が発するメッセージに気付かないでいると、そのうち見過ごせないほど強烈でわかりやすいメッセージを発してくることがあります。
それが病気です。
 
そもそも、健康というものの対極に病気が存在するという見方はやめるべきだと思います。
生命の中に死が含まれるの同じように、病気も健康の中にある。
健康の一部が病気なのです。
病気というのは、身体のある種の状態の時期をそう呼んでいるのに過ぎません。
 
生物が本来あるべき姿は健康な状態で、それは、気(=エネルギ=)が全身にきちんと巡っている状態です。
何らかの理由があって、一時的に元気ではなくなっている状態というのは、言い方を帰ると、元気に戻るために発せられているメッセージです。
 
だから病気になったら、その状態をきちんと自分で見つめて、身体が何を訴えているのかを考え、本来の自分をイメージする必要があります。
本来の自分、元気な自分に戻るのだ、と認識できたら、その瞬間にそこへ戻り始めます。
整った身体はその道筋を勝手に見つけ出すのです。
 
病気になった状態というのはある意味の結果です。
病状が出なければ、間違った方向に進んでいても気付きませんが、あるところまで行ったら症状が出る。
症状が出たということは、元の自分に戻ろうとする働きがけが内部から起こったということだと私は理解しています。
 
そのチャンスに、間違った方向に進んでしまったのは自分なのだというところまで認識すべきなのです。
つまり病気という結果の原因は自分にあるということを自覚する。
そうすると、治癒というシステムが働きだします。
 
ガンにしても、ガンを作り出さなければならなかった原因は、必ず自分の中にあります。自分の行為によって発生している。
もしかしたら食事の仕方に原因があったかもしれません。
強いストレスをずっと受け続けていたのかもしれません。
遺伝的な要素も関連していたかもしれません。
自分では必ず思い当たるところがあるものなのです。
まずそこに思いを馳せることが必要です。
 
病気というのは、そこに気付くための警鐘なのですから、自分の身体がそれを必要としていなければ、病気にはなりません。
つまり、病気になるには条件がいるのです。
条件を満たして初めてその状態になる。
それは、健康からかけ離れたもの、健康と対峙するものではなく、健康だからこそ、その状態になっているのです。
 
そこで最も大切なことは、病気になっても、病人にはならないということです。
病人になるとはどういうことか。
不健康な状態、病的な状態、それが本来の自分であると認識してしまっているのが病人なのです。
そうなると、病的な状態から離れることができなくなってしまう。
病気であるほうがよくなってしまうのです。
 
そんな人間いるはずがないと思われるかもしれませんが、病気であるほうが都合がよい場合があるのです。
整体では「未練症状」と呼んだりしますけれども、自分や他人に対する言い訳になるのです。
こういう状態ですからできません、という言い訳のために病気を便利に使っている。
 
無意識ですから、当人にその自覚はないものの、この場合には病人になる。
そうなってはいけません。
あくまでも一時的な状態として病気を捉え、それを克服してさらにレベルアップした自分になる、というのが病気とのうまい付き合い方です。
 
自分の身体があえて自分の身体を使って本来の自分ではない、ずれている、ということを教えてくれているのですから、実はありがたいものです。
風邪同様、病気になるにも必ず意味があります。
 
私が18歳で骨嚢腫という大病をしたのも、まさに身体からの強烈なメッセージだったわけです。
その頃はまだ整体を学んでいませんでしたが、それでも、そんな状態に陥ると、やはり考えさせられます。
死も意識しますし、その死は自分の生の一部だということもよくわかりました。
 
手術が終わって目が覚めてみると、3ヶ所にメスが入り、骨を削ったたものですから、猛烈に痛いのです。
でも、痛いといってみたところで父も母も私に手を貸すことはできません。
 
さすがに手術が終わった直後は、「オビスタン」という麻薬を何度か打ってもらいましたが、こんなことを続けていたら自分ではなくなると感じて、あるところから麻薬は打たずに我慢することになりました。
その後は「この痛みは何なのだろう、どういうことが起きているのだろう」と、ずーと痛みの中に入っていった。
 
痛みをずーと辿っていくと、奥の奥に快感があるのです。
それは、大げさに言えば復活のサイン。
痛みの奥の一番深いところにあるのが、生命力なのだということが感得できたのです。
 
病気になると、あちこち痛みが出てくることが多いです。
でも、それを単なる不快な症状と捉えてはいけません。
自分が自分に向かって出している強烈なサインなのです。
 
痛みというのは「85ですね」とか、「たいしたことはない、36です」というように数値化して測ることはできません。
どんなに名医でも、どんなに愛し合っている間柄でも、共鳴、共感はできても、同じ痛みを感じ取ることはできないのです。
その人の中で起きて、その人の中で完結する。
 
そこを突き詰めれば、痛みが自分で自分に送っているサインであることがわかるのです。
そして、それは生きようとしているしるしでもあります。
治癒に向かっているから痛みを感じるのです。
これは末期がんの中にも必ずあります。
最後の最後まで、性あるうちは生きようとしているということです。
 
ですから、痛みというのは無理やり抑え込んで感じなくさせるのがよいことではありませんし、否定的に捉える必要もありません。
痛みを緩和したほうがよいと判断したならば、そういう処置を取るのも否定しませんけれども、痛みが発しているサインをまず見極めなくてはならないのです。
それもせずに、闇雲に痛みを消してほしい、散らしてほしいというのは私にはあまりよいことには思えません。
 
整体の指導をしていますと、腰が痛いとか首が痛いとかで、とにかく痛みだけとってほしい、とマッサージでも受けるようなつもりでこられる人があります、
整体の操法は「治療」ではなく、その人が持っている本来の力を引き出せるように身体を整える指導をすることです、と説明するのですが、それがすぐに理解できてしまう人もいれば、反発してしまう人もいます。
わかってしまう人は、さらに説明を加えなくても、自分に訪れていた痛みは何なのだろう、と自然に考え始めますので、立ち直るのも早いのです。
 
私はそうやって、数週間痛みをやり過ごす間に、自分を変えていきました。
私の病気に対する考え方もその間に芽生えたことですから、これが普遍的だと主張する期はありませんが、一つの解釈の道筋になるのではないでしょうか。
 
生きている間にはいろんな状況が発生します。
一番大切なことは、その時その時に自分の価値とは何なのか、自分が生きているとはどういうことなのか、というところまで見つめることではないかと思います。
 
奥の奥には、大切な生命が必ずあります。
あるから生きているのです。
私たちは、そういうことをあらゆる機会を利用して知ろうとしているのではないでしょうか。
それを知りたくて、目の前の現実を作り出している。
病気という現実を作り出すのも自分なのです。
 
それがわかると、すべてが楽しくなります。
頭に来ることがあったり、どうしてこんなことが起こるのかと嘆いたりもしますけれど、その仕組みがわかったら、捨てたものではない、と思えます。
究極のところ、私たちの生命というのはすべてが?がっているのです。
とてもシンプルなことで、あえて複雑に考えることはないですし、シンプルでも生命は十分に高度です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
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池田 優

 

 

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