山ちゃんの食べもの考

 

 

その238
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【95】
 
南清貴著   講談社インターナショナル刊
『究極の食』  より その17
 
第6章 カラダからのメッセージ 3
 
 
● 現実を作り出すメカニズム
 
宗教的なことと勘違いされがちなので、まともに受け止めてほしいのですけれど、この世に生を受けた我々が、なぜ生命を持っているかというと、その人にしか表現できないことがそこに存在しているからです。
それを表現するために生命を得ている。
自分の思っていることとか、願っていることを物質的に実現させようとしてあえてこの三次元の世界に出てきて生きているのです。
 
そして目の前に現実が生まれるまでには順序があるのです。
その順序とは、最初に大脳に思考が生まれます。
思考というのは、それまでの人生、あるいは、もしあるのなら前世からの記憶も踏まえて、その時にその人が考えることです。
イマジネーションといってもいいかもしれない。
 
次に、その思考に基づいて感情が出てきます。
何もないところに感情は出てきませんので、思考があって始めて感情が成立するのです。
その感情がエネルギーに転換したものが気です。
 
気というのはものすごいエネルギーですから、気に転換された段階でもう何か表現が始まっています。
身振り手振りとか、顔の表情などには結びつかない場合でも、ある気を発している。
武道ではよく「気合」とか「殺気」などと表現しますけれども、それは、気自体がエネルギーだということをその世界では完全に認めているということです。
 
私は、感情=気というのは微粒子なのだと解釈しています。
自分の思考の中から生まれてくる感情は微粒子で、微粒子が形を成したときに物質に変化するのです。
 
無から有が生み出される現象というのは確かにあって、奇跡としてイエスもそういうことをしたと聖書に伝えられていますし、ブラジルには遠隔治療みたいなことで手術までしてしまう医者がいるそうです。
 
こういうことは、結局、自分の願望を物質化しているだけなのだと思うのです。
我々の感情、自分が出している微粒子が、何らかの形をとって、他人の身体や物質に作用を及ぼしているというだけのこと。
もちろんレベルがありますから、いきなりはできませんが、やろうと思えば誰でもできることで、誰もが持っている能力なのです。
 
そもそも、誰もが自分の願いを物質化することで、今この現在を生きているのです。
例えば、私が今この洋服を着ているという現実。
この洋服を造りたいと思った人がどこかに存在し、その人が物質化した洋服と、私が着たいと思ったその願いとがマッチングしたので、私はこれを物質化した。
つまり自分の力で手に入れ、身に着けてきたからここにこうやって存在している。
 
もっといえば、命そのものがそのようにして作られています。
60兆もの細胞でできて言われている私たちの身体を厳密に分析して、その人がカルシウム何グラム、モリブデン何グラム、何々が何グラム・・・・・・でできているとわかったとしても、物質を分量分ずつ合わせたら元のその人になるのかというと、なりません。
 
我々は、単なる物質ではない。
何かの意図を持って、この生命を形作っているのです。
意思を持っているということです。
そこが重要で、その意思は、身体の外側にも使うことができます、と私は力説しているのです。
この世のすべてのものがそのようにして存在していると考えています。
 
気というのは、今はまだ計測することはできませんが、エネルギーであるからには、そのうちきっと強さが計測できるようになるはずです。
放射線だって存在しないと思われていた時代もあるのです。
目には見えないそれが、ガイガーカウンターのようなもので量が計測できるようになって誰もが存在を疑わなくなった。
気というものも、微粒子であるからこそ、うまく使うことで現実を作り出していくことができるのです。
 
よく「願ったことは実現する」というようなことを言いますが、それはそのとおりです。
実現するというのは物質化するという意味ですから、要するに、私たちが醸し出している気の中にそういう物質があり、物質が何らかの求心力を持ったときに物質化するのです。
物質化するものはすべて計画できるはずですから、気が微粒子だということも科学的にいずれ証明されるのではないかと期待しています。
 
ともかく、この三次元の空間というのは全てが物質化されて存在するところですから、気が結晶(作用)することで思考が物質化されると行動になり、行動が外的要素に何らかの刺激を与えると現実になっていく。
だから現実というもののおおもとには、誰かの思考があるということです。
 
考えたこと、思ったことが一番の原点にある。
思うということがすでに内的行動なのです。
思考から現実に結びつくまでの時間は、時計で測れば1秒以内のこともありますが、数十年を要することもあります。
でも、大きな宇宙の流れの中では、1秒も50年も実はあまり差がない。
結局、思考が現実を作るのです。
常に、思考、行動、思考、行動ということが、この順序で連続して起きているということです。
 
三次元世界では、時間は一定方向にしか流れないというのが大原則ですから、このメカニズムはどんな場合でも変わりません。
衝動的であったり短絡的であったり、考えなしのように見える行動もありますが、それは当人が記憶しないというだけで、やはり思考が先行してあります。
思考が全ての原因ですから、原因がなければ絶対に行動が起きない。
現実という結果が生まれないということです。
 
このような考え方に到達したのは、高校時代の大病のあと、芝居に打ち込んだときの経験からです。
いろんな芝居を見ながら勉強するうちに、疑問が湧いてきたのです。
論理的にうまくは説明できないのですけれども、嘘だ、と思わされるような演技があるかと思えば、ただ見入ってしまって、感情を大きく揺さぶられる演技もある。
 
どうしてこんなに俳優によって差があるのだろう、この差はどこにあるのか、と不思議に思ったのです。
何か根源的な部分で違うことが起きているとしか思えない。
そのメカニズムが知りたくて、あらゆるメソッドを研究するうちに、整体と巡り会って答えが出てきたのです。
 
分析していくと、思考から行動に移るまでの間のプロセスで違うことが起きているのです。
例えば、俳優が振り向くという行動があったとする。
日常生活の中では、私たちは何気なく無意識にそういう行動をとっているのですけれども、舞台上では自分をコントロール下において意識的に行動しなければなりません。
そうすると、俳優が忠実にやろうとすればするほど、犯してしまいがちな間違いがあるのです。
 
それは感情を作ろうとすることです。
私たちは、感情を作ることはできない。
その単純な事実にある時気付いたのです。
日常生活でも同じでも感情を作ることはできません。
感情というのは、自然に湧き出てくるもの、思考があって、自然発生的に生まれてくるものなのです。
だから感情を作ろうとした途端に、行動が空々しく不自然なものになってしまう。
 
Aという役を演じる俳優Bとしては、Aと同じ感情に立ち至る思考を探らねばなりません。
が、Aが体験してきたのとまったく同じことを俳優Bは体験できませんので、結局、BはAの体験に似た自分の体験を、思考として蘇らせる以外に方法がないのではないでしょうか。
その思考が生まれた時に、自然発生的にAに沸き起こったのと似た感情が生まれてくるはずです。
それが次なる動作、行動へと?がるわけです。
 
最初に思考が生まれ、その思考に伴ってある感情になり、その感情が行動を生んでいる・・・・・・これが、演劇を題材に、整体という一つの思想体系を通じて私が学んだことです。
それが日常生活にも十分役立つということが数年後に理解できるようになって、初めて自分が自由になったと思えました。
 
これが腑に落ちたとき、自分が思い描いているビジョンや理想を現実化することのすばらしさ、面白さ、がようやくわかったのです。
私が整体と芝居を通して学んだ一番大事なことです。
 
そうして作ったのがキヨズキッチンだったのです。
これが私の夢だということ、その夢を現実にしたいと強く自分が願っていることがよくわかりましたので、そのための努力は惜しみなくできる。
他の人からは「大変でしょう」などといわれましたが、自分が望む現実を作り出すために様々なパズルを合わせるようにコツコツとやっているだけですから、全然大変じゃない。
全てが楽しいと自信を持って言えるようになったのです。
 
よく「全ては自分の内側にある」なんていいますが、かつてはそれがどういうことなのか私もわかりませんでした。
なかなか理解できず、哲学書を読んだり、心理学を勉強したり、随分考えた時期があります。
それでもわからなかった。
でも、整体の指導をするようになって、やっとわかりました。
 
人の身体は、その人の思った通りになっている。
きっと自分もそうなのだろうと思って見ていくと、自分の身体がメッセージを発しているのもだんだんわかるようになってきました。
すると、野菜がメッセージを発しているのも受け止められるようになってきたのです。
 
キヨズキッチンを始めるに当って、最初のチラシに書いたのは、
「野菜に聞くんだ。何になりたいって」
というキャッチコピーでした。
その頃にはもう、どういう料理になりたいか、を野菜に聞けるようになっていたのです。
 
身体は常にそれをやりたがっています。
つまり、ある現実を作りたがっているのです。
逆に言えば、ある現実を現出させようとしている働きが、身体が行っていることなのです。
それが理解できると、自分の身体がどういうメッセージを発しているのかということに興味が湧きますし、自分の身体がメッセージを発していることが何より大切なことなのだとわかってくるはずです。
 
 
 
第7章 理想の自分になるために  1
 
● 感情と身体の因果関係
 
感情には大別して、ポジティブな感情とネガティブな感情があります。
ネガティブな感情が起きると、身体は活性を失い、硬直する方向に向かいます。
いかななる場合でも、表現としてそうなっていきますので、自分にネガティブな感情をもたらす思考が見つかったら、じっくり身体を観察してみるとよいでしょう。
ポジティブな感情を抱くと、身体は自由な方向、ゆるむ方向に行きますし、活性に向かいます。
 
ネガティブな感情が芽生えた場合には身体が硬直するのは、生命として一種の防衛反応とも言えます。
ネガティブなものから自分を守ろうとするするがゆえに身を固くするのでしょう。
 
脳ではアドレナリンというホルモンが出たりします。
人間はそれこそ太古の昔から、狩りに行って危険な状況に遭遇すると、急激にアドレナリンを出し、筋肉を硬直させ、負傷してもすぐに血液が止められるように血液の粘度をぎゅっと上げたりもする。
そういう自然の働きが身体の中で起きるのです。
 
つまり、ある種の感情が、自分の身体の中に変化を起こさせているということです。
これはもうすでに内的な行動なのです。
そこに誰か相手がいたとしても、大変な緊張感があるはずですので、仲良くはできないでしょう。
 
ライオンに追いかけるような現実に遭遇しなくても、それをリアルにイメージするだけでアドレナリンは出てきます。
思考が感情を生み、行動が起きる。
こういうことを日常的に繰り返しているのです。
これは総合作用でもあるところに注意が必要で、一つの思考からどのような感情が生み出されるかは、その時の身体の状態にもかなり支配されているのです。
 
糖を取りすぎてアドレナリンがすでに出ている状態では、どのような思考からも「怒り」という感情が生み出されます。
その身体の状態に適した感情が表れる。
多くの人はこのことをよくわかっているのではないかと思うのです。
 
わかってはいても、自分の中で明確にはならず、ただなんとなくそうだろうとだけ思っている。
スピリチュアルな世界では、類似する話はよくあります。
ただ、私がここで強調したかったことは、感情がパワーを持っていて、そのパワーが行動を起こし、周囲の人にも影響を与えている、ということです。
 
思考そのものにはパワーがないのですけれども、思考に伴って感情が生まれた段階でパワーが生まれている。
思考を行動に移そうとしたその刹那にある種の感情が生まれ、そこでパワーが生じる。
つまり表現になっている。
まだ、行動という目に見える形になっていなくても、そこで私たちは何かを発し始めているのです。
 
このパワーは気といってもよいもので、愛情をお互いに感じているような相手だと、相手がじっとしていても「何か言おうとしている」と発するものを感じて、思わずそれが知りたくなるようなことがあるでしょう。
ここが、人間の生命の中で、一番美しい瞬間だと私は信じているのです。
 
相手のことをもっと知りたい、というのは、もっと表現してほしいという願いです。
その感情がお互いに生まれ、その先、お互いに表現し合いながら、何か一つのものに結実させていくと、そこに現れるのは一人だけで作り出した現実ではないのです。
相手のパワーも総動員して一緒に作り出した現実です。
 
それが3人になり、4人になり、5人になれば、融合されてもっとすごいパワーになることは間違いありません。
社会で起きている現実も、このメカニズムによって起こっているのです。
一人ひとりの心の中で芽生えたことを、身体が表現して行動にし、その結果、現実が生み出されている。
 
くだらない例だと思われるかもしれませんけれども、私は趣味でおじさんバンドをやっています。
素人のメンバー全員が経営者で、不思議な結びつきから出来上がったバンドですが、ライブをやると結構な人数を集めてしまうのです。
そのような活動を支えているのは、立場や生い立ちは違っても、同じ目標、一つの夢の元にメンバーが結集することで、新たに生み出されている感情のパワーだと思うのです。
 
基本的なところで、自分達の感情が生み出しているパワーみたいなものをお互いに感じ、吸収し合い、発散しあうということをやっているものだから、猛烈に忙しくて時間的、肉体的にはきつくても、みな「幸せだなあ」といいながら練習を繰り返すことができる。
 
こういうことは、当然のことながら夫婦間でも、親子、友人、恋人の間でも起きます。
それが理解できて日々の生活を送る人と、気づきもせずに日々の生活を送る人との間には、大きな差が生まれるのではないでしょうか。
 
「忙しいからできない」か「忙しくてもできる」か、同じ現実を同じように見ても、ネガティブに捉える人もあれば、ポジティブに捉える人もいます。
それは、それぞれがそれまでに積み重ねてきたことからその現実を判断しているということでもありますが、捉える側のそのときの身体の状況にも大きく左右されることなのです。
 
この心の動きによって感情が生まれ、その結果行動し、新たな現実が起きる。
だからネガティブな感情を抱いたときにはネガティブな行動をしますので、ネガティブな現実がそこに生まれるというのは厳然たるメカニズムです。
私たちが生きていくうえで、心と身体の繋がりを見るのがとても大事だと考えるゆえんです。
 
 
 
● 「新しい感情」を生み出そう
 
重要なのは、起こっている現実には何の性格もないということです。
出来事によいとか悪いがあるのではなく、それをどう捉えるのかによって物事に性質が付け加えられる。
現実に性格を与えているのは、人の感情なのです。
しかし、感情というのは一度生まれると、煮たようなシチュエーションが起きるたびに似たような感情を抱くようセットされていしまいます。
 
うまい俳優は、この仕組みを利用して、必ずその感情になっていくための思考回路を獲得するのでしょう。
台本は決まっていますから、舞台では同じことが繰り返しできなければいけない。
俳優のように意図しなくても、人間というものは、以前の思考と近い思考が起こると、似たような感情を抱いてしまいがちで、それにもかかわらずその感情を新たなもの、自発的なものと勘違いしてしまうのです。
 
日常は、芝居ではありません。
舞台上ではおなじことが繰り返されることをよしとしますが、私たちのこれから先の現実は、何が起こるかわからないのですから、そんな規制を受ける必要はまったくないのです。
無意識レベルで自分に課していた規制に振り回されているのではないだろうか、と自問してみてください。
 
その必要はない、とわかると、自分が抱く感情に、自由を与えることができますし、生まれてきた感情に対して罪悪感を抱くこともなくなります。
それが自分らしいものであるならば、どのような感情を抱いてもよい、ものすごく自由なのだということが納得できるのです。
 
この事実がわからないと、自分の心の中で何が起きているのか、自分の感情がどういうものなのか理解もできないし、コントロールすることもできません。
感情というのは自然な動きなのですから押さえつけることはできません。
ただ、ある現実を見たり体験したりして沸き起こった感情は、いつまでも固執する必要はないということをいいたいのです。
同種類の現実がおきているように見えても、同じ現実ではないということを理解してほしい。
時間、が違っています。
 
子どものときに怖い思いをした人が、何年か経って同様の体験をしたとすると、往々にして子どものときに抱いたのと同じ感情を大人になっても抱いてしまいます。
子どものときに起こった現実と、同様に見えても、まったく違うものです。
しかも、その現実を受け止めている当人が、違う人になっているのです。
それでも、我々の心はこういうことをしょっちゅうやっています。
ある現実に直面して、以前に経験したときの感情がそのままそこでも蘇ってしまうようなことが、われわれの身体を縛っています。
心の動きは身体を規制しますので、自由になることができないのです。
 
社会的なことでは、例えば、生に対する一定の規制みたいなもの、ネガティブな感情などに、顕著に出ているのではないでしょうか。
そういう感情は、我々がもともと持っていたものではありません。
いかにそのことに対して意識があるかないかの頃から規制を受け、ある概念を植えつけられているか、ということです。
 
性の問題だけでなく、既成概念というのは、概ね、政治的、宗教的な背景があって醸成されてきたものが多い。
それは私たちに不要なものです。
私たちは、両親、教育者、ある種の権力を持っていると誤解されている医師、といった大人から、さまざまな規制の概念を植え付けられて育ってしまっているので、本当の意味で自分の体験に基づいて沸き起こっているわけではないにもかかわらず、ある現実に接して、セッティングされた感情を抱いてしまう。
 
これはよいことではありません。
まずそこから自由にならないと、自分の心の中で起こっていることが自分の表現として?がらなくなりますし、本当の意味での幸福感を味わうことができないのではないでしょうか。
 
自分の幸福、又は自分を取り巻く人々の幸福、本当にそれを望んでいるのならば、無意識に抱いてしまっていた、本当は不必要なはずの自分の感情に振り回されるのはもうやめましょう。
私たちは、いつも新しい感情を生み出していてよいのです。
 
ちなみに、正しい方法論で学んだ瞑想(メディテーション)をすると、自分の中にいかに不必要な感情があるかということがわかります。
かなりハイレベルの瞑想に入ったときには、まったく感情がなくなるのです。
それは無感動というのではなく、感情がない状態であるにもかかわらず、至福なのです。
 
ものすごく深く、高次元の幸福を感じる――人間は生きているだけで本来はその状態にあります。
整体が求める「生きているだけで気持ちいい」というのも同じことを指しています。
本当に純粋になってしまうとポジティブなものすら感情は要らなくなってしまう。
 
ただ、それは次元が違うスレスレの部分で到達することができることですので、そのまま三次元の世界で日常を暮らすことはできません。
なぜなら、私達人間には他者との関係性がとても重要で、関係性が生まれるところには必ず感情が介在すると決まっているからです。
 
仮に可能だったとしても、高次の瞑想状態で一生を過ごすことはよいことではありませんし、三次元に生まれた意味がなくなります。
ただ、その幸福の状態を知っておくと、映像や疑似体験みたいなものを通じてそのように回路がセットされてしまったためです。
自分が抱く感情の判断基準になるので、とても有利ではないかと思います。
 
ただ、ここで厄介なのは、「抱かなくてもよい感情を繰り返し抱くのはやめよう」と自分自身に言い聞かせたとしても、やめられないということがあるのです。
 
人間にはそこからうまく離れられないがために問題を抱えるという部分もあります。
自分の人生のテーマに近ければ近いほど、逃れられないものでもあります。
どうしたらいいのかというと、繰り返すのです。
自分のテーマに近ければ必ず、繰り返し同様の感情が蘇ってくるような出来事が起きます。
 
起きている現実には性格はないのですけれども、その現実を判断しているのは自分ですから、違う現実であるにもかかわらず、同じ感情に持っていこうとするのです。
そしてその感情がその出来事、現実に性格を与え、意味づけをする。
そこが面白いところで、また難しいところです。
 
自分のテーマに近いところには、触れられたくないという思いもどこかにあり、変えられないという思いを抱いてしまったりもするのです。
「これを変えたら自分ではなくなる」とはよくありがちな錯覚ですが、本当はそんなことはありません。
変わっていいのです。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

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池田 優

 

 

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