山ちゃんの食べもの考

 

 

その239
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【96】
 
南清貴著   講談社インターナショナル刊
『究極の食』  より その18
 
 
第7章 理想の自分になるために  2
 
 
● 「食」をを変えることで人生も現実も変わる
 
野菜ばかり食べれば穏やかな性格になって、肉をたくさん食べると凶暴になるというような、そんな単純なことを言おうとしているのではありません。
まず確認しておきたいのは、「生きていることは、成長し続けていること」という根本原理です。
私たち生命を獲得したものは、永遠に成長することをやめることができません。
それが生命の本質なのです。
 
成長するといっても、体重が増えたり、背が伸びたりということだけではありません。
精子と卵子が結合をして、1つだった細胞が2つに分かれ、4つに分かれ、という段階から、最後の最後、息を引き取って生命を終えるその瞬間まで、私たちはずっと成長し続けており、それはずっと変化し続けているということでもあります。
つまり、成長するというのは、変化するということと同義語なのです。
 
ですから、変化することを恐れたり、拒絶したりするのは絶対にいけません。
どのような方向であれ、変化を望んでください。
変化しないよりは変化したほうがいいのに決まっているのです。
変化した方向が間違っていたと思ったら、修正すればよい。
それも変化です。
自分が変化をしないと決めてしまうのは、成長しないと決めてしまうことです。
 
変化させることが必要なテーマはいろいろとあるでしょうが、分けても、食事を変化させることには、大きなインパクトがあります。
食習慣というのは、毎日続けていることなので、最初はものめずらしいことだったり、非日常的なことだったりしても、習慣になってしまうとあまりにも当たり前で、自分がどんなことをしているのか客観的に認識できなくなったりします。
 
例えば、牛ドンを毎日のように食べる人がいます。
毎日食べられるということ自体が異常ですが、その人にとっては何でもなくて、当たり前のことをただ当たり前にやっているだけなのです。
ところが牛丼ばかりの生活を続けていくと、どこかで必ず体を壊します。
 
風邪を引いたり回復したりというようなことを繰り返しているうちに、重篤な状態になってしまう。
そのときに初めて自分の整った身体の重要さ、ありがたさに気付く。
そうなると、豆を茹でて毎日食卓に上らせることなど努力の範囲でできてしまうようになり、だんだん定着すると、むしろそちらのほうが日常的な行為になってしまうのです。
 
多くは、そこまで行かないと気が付かないところに問題があるのですが、身体を壊す前に思い切って、自分の整った身体とはどういう状態なのかを一度試してみるといい。
今の段階で牛丼を毎日食べているのだとしたら、いったんやめてみる。
 
食習慣を変えるということは、ライフスタイル全般を変えることにもつながります。
これまでの章で私が勧めてきた食事法を実践しようとすると、買い物の仕方を変えなくてはダメだ、電子レンジではダメだ、ということになるかもしれません。
それでも、そのとき、恐れずに変化させてもらいたいと願っているのです。
 
我々は、自分が食べたいものを洗濯しているように錯覚、あるいは誤解していますけれども、多くの人は、与えられたものの中からの選択しかしていません。
ということは、与える側は何を意図して我々にその食を与えているのか。
そういうところまで考えなければいけない時代なのだ、ということもここで合わせて喚起しておきます。
 
特に、子どもたちの身体のことが私にはやはり一番気掛かりです。
子どもたちは、親が無自覚に選択してしまった食材、食事を取ることになります。
親がカップラーメンを与えてしまえば、子どもはそれが食事だと思ってしまいます。
ハンバーガーを繰り返し食べさせていれば、それが当たり前の味なのだと思ってしまいます。
 
結果として、子どもの本当の意味での選択の幅を狭めてしまい、誰かわけのわからない人から与えられた、限られたものの中からの選択を自然な行動だと信じて疑わなくなってしまう。
そんな悲しい現実を、なんとか変えたいと思っているのです。
 
そもそも、子どもたちの食べるものに関して大人たちがこれほど無関心な時代があったでしょうか。
かつては個人的に頓着しなくても、社会全体として子どもが食べるのに相応しくない食料を容認していなかったのではないかと思うのです。
だからこそ、たとえ経済的に貧しい家庭であっても、そんなこととは関係なく子どもが健全に育っていたのでしょう。
 
子供の身体ももちろんですけれども、その両親、またさらにその父母の身体もやはり食べものから作られているという事実から逃れることはできません。
それゆえ、そこには特別な配慮が必要ですし、思い切って変化させ、今までのものから違うものに切り換えることで、想像もできないような成長や変化を促す可能性もあるのです。
 
私は十数年前に、「このような食生活を続けていたら、町中が犯罪者だらけになりますよ」と敬称を鳴らしていたことがあるのですけれども、今、それが現実になってしまっています。
想像を絶するような犯罪がいくつも起きていますが、原因もわからなければ、結果もよくわからないようなものがあまりにも多過ぎるような気がします。
 
昔から、規格の外れたような人はある確立で出てきてしまうもので、そういう人も組み込んでいくのが健全な社会のありようでもあると思うのですが、もう許容範囲を完全に超えているのではないでしょうか。
このままの「食」のあり方だと、こんなことがますます増えていくようにしか私には思えません。
 
そこで、問いかけたいのです。
本当に私たちはこのような社会を望んでいるのでしょうか。
こういう現実を、望んでいるのでしょうか。
 
普通に平和な生活を望んでいた人が、いきなりある瞬間に残酷な事件の被害者になってしまうなんて、誰しも理解の範疇を超える遠い出来事と思うでしょうし、まさか自分が望んでそんなことが起こっているとは思わないでしょう。
けれども、そんな自分の「食」には意外と無頓着なのではないでしょうか。
 
ハンバーガーは便利で安い、お腹がいっぱいになるからいいじゃないか、食事を作るのは面倒だからコンビニ弁当で済ませたい、と多くの人が思ってしまったのです。
それが社会の総意になって、現実を作っている。
 
中国のギョーザ事件にしても、当然のことが当然のように起きたのだ、と私は見ています。
中国の工場も、輸入業者も、消費者の思考に合わせて売れるものを売るという、自分達の利益のために当然の努力をしただけですから、ある観点からすれば罪はないといえるのかもしれない。
そういうものを求めた消費者がこの事件を引き起こしたのですし、ある意味で消費者の望み通りのことが起きたのだと思います。
 
私たちの目の前にあるのは、個人個人がそれを望んだわけではなかったとしても、社会全体が望んだ社会ではあるのです。
だから社会を変えたいなら、マジョリティが変化を望まなくてはなりません。
 
少しずつそこに気付き始めた人もたくさんいます。
だから今度は、一度そうやって作った現実を、望む方向に変えてほしい。
この現実を変えたいと思ったら変えることができます。
それは、行動次第ですし、行動は、自分で選択することができるのです。
 
こんな加工食品ばかりの世界では、高い確率で凶悪犯が出てきても何ら不思議ではありません。
ほかにどんなよい手立てを考えたとしても、今のような食生活を続けているかぎり、こういうことは起きて当たり前になってしまうでしょう。
そのことはこの本全般を通じて述べてきたつもりです。
 
それを変えようというのならば、自分を含め、今、ナイフを握っているその人の食生活を変えるしかありません。
変えようという意識もない人の食生活を変えるのも、私たちしかいない、というところに気付いてもらいたいのです。
身体に悪い影響を与えるようなものを誰にも食べさせないような社会にするしかないのです。
 
そのためには、私たちが、不要と思うものを購買しないという積極的な行動をとるしかありません。
極端に言えば、カップラーメンを買うのをやめる。
大量生産の白いパンを買うのをやめる。
そうすると売れなくなるので作られなくなります。
代わりに、私たちの体が本当に欲しているものを買うのです。
そうするとそれが生産されるようになります。
 
食が変われば、われわれのライフスタイルも大きく変わって、そこに主流というものが移り変わりますから、その主流に合わせて、欲しているものが作られていくようになるのです。
そういううねりというのか、よいサイクルを生み出す以外に、もう策は残されていない。
 
そのうねりが結果的には温暖化を防ぐことにもなります。
原子力利用を止めることにも繋がります。
石油の無駄遣いをしなくなります。
世界中の飢えをなくすることにもなっていきます。
それが目的ではないのですが、私たちが行動した結果、生まれてくる現実です。
 
時間を蒔き戻すことはできないのですから、今までに起きてしまった現実は、一切の罪悪感なしに認めましょう。
しかし変えることが可能なら、今日から変えましょう。
多くの人が実践したら、大変な社会変革が起きるのです。
食を変える一番大きなポイントは、ここにあるのです。
 
繰り返しになりますけれども、自分の思考は、食べたもので作られた自分が持つ思考です。
化学肥料で育てられた野菜は、あくまでも化学肥料で育った野菜であるのと同じように、人間の質もその人が持つ思考も、食べたものの質に左右されるというメカニズムは普遍です。
自分が本当に望む社会を実現したいと願うならば、その社会の一員である自分を、まず自分が作り出さなければならないのです。
 
 
 
● 整ったカラダでなりたい自分になる
 
身体が整ってくると、あまり多くのものを欲しなくなるというのは先にも述べましたが。それは食べ物のことだけではありません。
整った身体は、自分が何を望んでいるのか、何がほしいのか、ということを、明確にピンポイントで、ぱっとわからせてくれるのが何よりすばらしいのです。
 
あれもほしい、これもほしいとはならないで、自分の願いや欲求というのがまとまってきます。
これ以外のものは必要ないと、選択肢はどんどん狭められていき、必ずそれを実現させようとする方向にも働きだします。
しかも、整っていればいるほど、実現までの時間が短縮される。願いが実現すると喜びも大きく、大満足するのです。
 
例えばポルシェが欲しい思ったとします。
その願望自体はいいも悪いもない、ただその人がそう思っただけです。
それが本当に整った身体であれば、すぐに実現してしまいます。
整った身体は感情を物質化し、結晶していく力を持っているので、そのために何が必要であるかなどとは関係なく、自分が本当に欲しいと思った、そのことは必ず実現するようにできているのです。
 
ただし多くの場合は、お賽銭を上げてお願いをしても実現しません。
それは、身体が整っていないがゆえに、その願いをブロックするものも同時に存在させてしまうからです。
ポルシェがほしいと思った時に、同時に「俺には無理だよな」と思ったり、「ポルシェなんかに乗っていたらなんていわれるかわかりやしない」というネガティブな思いも並行して存在させてしまうものだから実現しなくなってしまうのです。
 
本当に欲しい物はいくらほしがってもよいのです。
望みはきちんと現実化することができる、そういうメカニズムを人間は持っているのですから。
ただし、本当に欲しいものは、限定されているはずです。
 
問題が発生した時も、整った身体であれば、解決方法が明確に見えるようにメカニズムが働きます。
解決法という思考に伴って、すぐに行動に結びつく感情がすんなり生まれてくるのが整った身体ですから、行動します。
よって結果は必ず出ます。
 
逆に乱れていると、なかなか解決法が見えてこないし、また、見えても感情が乱れるために意味のある行動ができない。
更に、ネガティブな感情が起こって、ネガティブな行動をとってしまうためにネガティブな結果が起きるということにもなるのです。
 
満ち足りていれば、自分の思いはかない、幸福なのですから、きちんと身体を整えて、「なりたい自分」になっていただきたいと思います。
整体の指導や、アーユルベーダ、アロマセラピーなどの施術を時々受けるのもよいことですが、でも、根本は、食事の習慣が何より大切なのです。
 
理想的な食事とはこういうもの、と聞いただけで自分にはできないとすぐに思ってしまう人がいるのですが、できないと思ったらできません。
その人は自分の食習慣を変える意思がないということですから。
 
食習慣を変えて整えた身体でいようと思えた人には、なんでもなく実践できます。
すぐに取り組み始め、あっという間に身体がどんどん整い、自ずとそれを維持するのに何の努力も要らなくなるのです。
入り口の段階でシャットアウトせず、ぜひチャレンジする精神を持っていただきたいと思っています。
 
 
● 問題を糧とする
 
目標を達成するためには様々なハードルがあり、ハードルの一つひとつが苦しみの連続だというようなことがよく言われます。
しかし、この発想は、おかしいです。
一気には到達できない目標に向かって生じるハードルを、一つひとつ越えていくことが楽しいのではないでしょうか。
その楽しみを味わうために、ハードルを自分が設定しているのです。
目標を達成する人たちは、みなそのプロセスを楽しんでいることに気付くべきです。
 
私の目標は、60歳で東京にヒーリングビルディングを建てることです。
自分にとっては、とてもすばらしくやりがいがあることなので、この目標は必ず達成するつもりでいます。
今こうして本を書いていることも、講演をしたり、レストランのプロデュースをしたり、メニュー開発をしたりしているのも全て、その目標という山の頂上に向かって裾野から何合目辺りかを登ってきているプロセスにほかなりません。
 
一つひとつにハードルがり、解決しなければならない問題は次々と出てきます。
でも、どれもが楽しいのです。
私が現在腐心しているのは、集団の給食をどうやったら衛生的に美味しく短時間で作れるかということですが、そこで蓄積するノウハウは、ゆくゆく子供達の給食を私の手で作ることになった時に、大変役に立ちます。
 
そこで起こる問題を一つひとつ解決することは、子供たちの給食に一歩一歩近づいていることなのですから、楽しくてしようがない。
ヒーリングビルディングで出す美味しい食事作りのノウハウを培うこととも直結していますので、二重にも三重にも喜びを感じられるのです。
 
本当は、誰にとってもそうであるはずなのですけれども、ここを間違って捉えてしまうと、日々起こる問題は、あれもあり、これもあり、解決するのが大変でやっていられない、というようなことになってしまいます。
そもそも。問題が発生するということがとても重要で、何も行動を起こさず、望みも持たない人は、問題すら発生しません。
ですから、問題はたくさん抱えてどんどん解決していただきたい。
 
問題が多ければ多いほどよいのは、解決すればするほど成長でき、目標に近づくことができるからですが、問題を、問題だと感じられること自体がすばらしいことでもあるからです。
自分の能力をはるかに超えたものだと、通り過ぎてしまって問題だとも認識できないのです。
 
わかりやすくするために、お金の話にしてしまいましょう。
例えば、今の私はヒーリングビルディングを立てたいけれどもなかなか目標に届かないという問題を抱えています。
これは、5億円あると解決が付くというレベルの話しですので、私にとって問題となるのです。
 
5兆円あると解決がつくという問題だったら、私にとって問題にすらなりません。
どれほど必死にあがいても、今の私には5兆円は想像できない金額。
したがって問題にならないのです。
5億円だって、必死にあがかないとどうにもなりませんが、ものすごい努力を重ねれば何とかなるかもしれない、と思ってしまえる金額だから、大問題になるのです。
 
ともかくここで強調したいのは、その人が認識できないことは、問題にすらならないということです。
問題というのは、必ずその人が今存在しているレベルで起きる。
だから起きている問題が自分のレベルなのだと思って欲しいのです。
 
その問題を解決するところに、必ずその人が学びたいことがあるということでもあります。
学びたいから解決しようとするわけで、学びたくなければそれを問題とは捉えませんし、解決しよういう方向にも持っていかないのです。
学ぶ必要がないものは、最初から解決が見えているということですから問題でもなんでもない。
解決策が見つからない、解決方法を作り出さなければならないという場合こそ、そこに学びがあるということです。
それは得がたい機会ですので、ぜひ学んでしまいましょう。
 
解決しようというところに、場合によって協力者が現れることがあります。
その人とは、あなたと同じことを同じように問題だと思っているから協力するわけです。
そういう協力者が出てくるということは、何重にも学びが起こるということでもあり、貴重な機会となるはずです。
それは夫婦、親子、親友ということもあるでしょう。
始めて会ったもの同士が、問題の解決を通し、お互いに得た学びによって結びつきが強くなるということもままあることですから、そこでの協力者は大切にしてもらいたい。
 
それでも私たちは日々トラブルにみまわれ、発生した問題の処理に終われます。
そんなことは当たり前です。
トラブルというと、ネガティブなことと思ってしまうかもしれませんが、相手を思う気持ちがないところにトラブルは発生しません。
トラブル発生の場には、思いやりが表現できる最高のチャンスがあるのです。
やさしさを表現しなさいというメッセージとしてトラブルが起きるのですから、慮(おもんば)りに満ちた解決方法を取ればよいだけなのです。
 
恐怖を押さえつけることはできないのですから、憎しみを持ってもよいのです。
ただし、コノヤロウ、と思いながらも、どうしたら自分の本当の思いを表現できるかを考えて、解決方法を見出せばよい。
少なくとも、そのようにアプローチするほうが、解決方法がいくつも見つかります。
 
解決策を選択できるのが、本当に豊かな社会というものなのではないでしょうか。
そのように考えると、今、我々が生きているこの世界がどれほどすばらしい世界かということです。
我々の周りには自分を成長させ、自分らしい表現に導いてくれる様々なファクターがちりばめられています。
 
身近な問題で言うと、農薬の使用に対して嫌悪感を持ってしまったり、加工食品に憎悪を抱いてしまったり、つい、攻撃や非難をすることに終始しがちですけれども、そうではなくて、もう農薬野菜は選択しない、でも、こういうものがあると、新たな解決策を、愛情を持って選択すればよい。
 
発生した問題は、その選択をするためのものだった、と考えるのが正解なのではないでしょうか。
人間というのは結局、対策を見ないとこちら側が見えないところがあるのです。
 
凶悪な事件の多発という問題も、同じように解決できると思います。
犯人や社会状況を攻撃しても始まらないことに早く多くの人が気付いて、理想の社会、又は理想の現実を作り出すために、今、可能な範囲で自分に何ができるのかを考えて欲しい。
そのとき、「食」というのは、とても便利な手段です。
「もうこんなくだらないものは食べない」と多くの人がいえば、社会は変わってしまうのです。
 
 
 

 

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生命の農と食を考える
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池田 優

 

 

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