山ちゃんの食べもの考

 

 

その267
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【124】
 
『辰巳芳子 食の位置づけ』   より その2
 
 
● 食べることは、他のいのちとつながること
〜福岡伸一先生のに対談から〜
 
「人はなぜ食せねばならぬのか」という課題を、十数年来にわたって考えつづけてきた辰巳さん。
その「仕組み」の科学的・論理的解明が積年の希望であった。
ある書物との出会いが辰巳さんの負う荷を減らした。
その書物には「私たちはなぜ食べ続けるのか」という解明があったからだ。
その書物『もう牛を食べても安心か」〈文春新書〉の著者である、青山学院大学理工学部科学・生命科学科教授の福岡伸一先生をむかえ、2007年・春に対談を行った。
その対談の中から、福岡先生の学説を紹介する。
 
 
 
■ 食べること、生きていることの本当の意味
 
私たち生物の身体は、高性能の顕微鏡でかろうじて見える小さな細胞の集まりです。
さらにそれを作っている小さなブツブツのようなものが分子です。
分子は見えません。
 
私たち分子生物学者は、目に見えないものがそうなっているんじゃないかなと思いながら研究をしています。
でも、目に見えている生物の形をしているものは、分子が寄り集まってできたものですから、分子を調べると全体のこともわかります。
 
いまから100年位前に、ミミズも葉っぱも人間も犬も、基本的には同じものからできているということがわかりました。
その時点では、それぞれを形作っているものは固有のもので、それが死んでしまえば失われると思っていました。
 
それが今から60年位前に、死んだら失われてしまうのではなく、生物を形作るつぶつぶ――分子は、「食べる」という行為を通じて、また別の生物の一部になって地球上を循環しているということがわかったんです。
 
地球全体にあるいのちをつくっている分子の量というのは、ずっと昔、何億年も前から大まかには一定していて、それがある時はミミズの一部になり、ある時はヒトの一部になり、ある時は葉っぱの一部になって、形を変えながら地球上をぐるぐる回っている。
それを発見したのがユダヤ系アメリカ人科学者、ルドルフ・シェーンハイマーです。
 
1937年、シェーンハイマーは、普通の窒素より少し重い「重窒素」を使ってアミノ酸に標識をつけました。
そして、食べたものが体内のどこに行ってどうなるのかを丹念に追跡しました。
そして、生物学にコペルニクス的革命をもたらす発見をしたのです。
 
シェーンハイマーは『生体の動態』という著書にこう記しています。
 
生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化して止まない。
生命とは代謝機械の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」。
簡単にいえば、「食べたものが分子レベルで身体と入れ替わり続けている」ことを発見したんですね。
 
「生物は成熟後は比較的安定し“内燃機関”として作動し、食物はそのエネルギー源となる」というのがそれ以前の常識でした。
実際、現在でも私たちの実感はこれに近いと思います。
 
ところが実際は違っていた。
食べた食物は瞬く間に分子のレベル、ひいてはそれ以下のレベルまで分解され、安定なはずの内燃機関たる生物体もまた驚くべき速度で常に分子レベルで解体されていました。
 
そして食物中の分子と生体の分子は渾然一体となり入れ換わり続けていたのです。
つまり、分子レベル、原子のレベルでは、私たちの身体は数日間の間に入れ替わっており、「実体」と呼べるものは何もない。
あるのは「流れ」だけということがわかったんです。
 
肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実態があるように私たちは感じていますが、分子のゆるい「澱み」でしかない。
しかも、それは高速で入れ換わっている。
 
この回転自体が「生きている」ということであり、常にタンパク質を外部から与えないと出ていくタンパク質との収支が合わなくなる。
それがタンパク質を食べ続けなければならない理由だったのです。
 
食べものというのは、今でも「カロリー」だけで捉えられがちです。
自動車を動かすガソリンのようなものだと思われて、何でもエネルギーになればいい、できるだけ安いガソリンを入れればいいじゃないか、となる。
 
でも、シェーンハイマーが発見したことは、食べものというのはエネルギー源(カロリー)だけではない、食べものの分子はそのままネジやエンジンの一部にと常に変えられていくということ。
 
カロリーベースだけで食をとらえると、食べることの非常に大事な側面を見失ってしまうのです。
 
 
 
■ 生命はプラモデルでまない
 
パスツールは「チャンスは準備された心にだけ降り立つ」といっています。
“準備された心(Preparedo Miand)”というのは、「気づき」が訪れる前にそれなりに耕されたものがあるわけですよね。
 
お医者さんがX線フィルムを見て、これがガンであるとか病気であるとか言えるのは、こういうふうに見えた時にこれがガンだということが予め準備されているからです。
素人が見たってそれはぼんやりした何か白い線が見えるだけで何かわからない。
何か見るもの、聞くものが心に残るということは、それが引っかかるために何か別のものが予めあるということなんです。
 
私がシェーンハイマーの言葉に引っかかったのは、今から思うとその前段階がひとつあるわけです。
 
20世紀中ごろに生命科学というか生物学でいちばん大きな発見があった。
DNA(デオキシリボ核酸)の発見です。
広く知られているとおり、DNAというのは2本の鎖が絡みあったもので、生命の設計図、遺伝子はすべてそこに書かれているというものです。
 
生物学の講義でも「生命とは何か」といわれたら、
「DNAというのは、2本の螺線が絡まり合っているもので、それがほどけて、互いに同じものをコピーすることによって増える。
それが細胞分裂であり、あるいは親が子を生むことである。
そのコピー機能こそが生命の本質だ」
という定義になる。
 
だからその考え方からいうと、「生命とは自己複製である、コピーである」と言うことになるんです。
 
私はそれを聞いたときに、何か違うんじゃないかと思った。
それだけじゃないんじゃないかな。
もっと生命というものは「動的」なものではないかなと思えた。
そこでシェーンハイマーの説が引っかかってきたんだと思います。
 
たとえば、海で砂の城を作る。
その城は常に波に洗われたり風に吹かれたりして、砂は飛んで行ってしまうんだけど、目に見えない妖精のようなものが飛び交っていて、壊れた部分をまた砂を積み上げて直して、そういう時間がずっと流れていくと、その城を作っていた砂粒というのはすっかり入れ換わって、元あった砂粒とは違うものがそこに来ているわけです。
 
生命というのはまさにそういうことで、目に見えない妖精はいない代わりに、そこでは酵素とか細胞の中の代謝活動とかがそういうことをやっているわけです。
そういう「常に入れ換わって動いている」ことが生命の大きな特徴ではないかと。
 
私たちは石が無生物で貝は生物だとわかるのは、生命が持っている動的なもの、それを感じるからだと思います。
そして、それに気づくのは、自分と「似ている」からではないかと。
 
私の仕事、分子生物学は、生物はミクロな部品でできていて、それを調べていくと生命の謎がわかるはずだし、DNAを調べればそこに書かれている設計図によって生物のことがわかるという考え方に立つ学問です。
 
だから、本当はこういうことをいうと自己分裂をしていると思われる。
でも、やっぱり生物というのは単にミクロな部品のプラモデルではないと思う。
プラモデルと見て調べることでわかる部分も確かにあるのですが、それだけじゃない、と。
 
 
 
■ BSEは「人災」である
 
DNAが発見されたのは、シェーンハイマーが「身体の動的平衡」に気がついた後でした。
生物は機械的に理解すれば理解できるし、そういう風に理解したほうがいろいろなことがわかりやすくなる。
 
医療行為にしても生命操作にしても、産業上の利用にしても、生命を機械論的に扱ったほうが儲かることが多い。
その帰結として現在遺伝子組み換え食品が出ているわけだし、胎生医学とか生殖医療があるわけです。
 
その流れの中で、シェーンハイマーは忘れられていった。
忘れるべくして忘れ去られたわけです。
生命は流れているとか、つながっているとか、そういうことをいっていると、技術的に進まないからです。
でもそれは、忘れてしまえばいいというものではない。
 
シーンハイマーはそこまでいっていませんが、食べるということは「分子の流れを止めないこと」だと思います。
生物が、生態系のある場所に入れさせてもらうこと、「自然界のネットワークの一員になる」ことだと。
それが食べるという行為によって作られている。
 
多くの生物は、実は非常に限られたものしか食べません。
ある種の昆虫は決まった草しか食べない。
アオスジアゲハはクスノキしか食べないし、岐阜蝶は馬の鈴草した食べない。
そういうふうに自分の分をわきまえているわけです。
 
人間だけがいろいろなものを食べている。
でも、食べるときに単に食べるだけでなく、「よく食べよ」というふうに考えたら、生態系の中でどういうふうに自分の場所が占められてきたかがわかると思うのです。
 
その考え方からすると、BSEの問題というのは「人災」です。
「食べもの」というのは形を借りて、分子がある生命からある生命へと受け継がれていく全体の仕組み、ネットワークというのは、30億年くらいかけて地球が作り上げてきたバランスなわけです。
 
それに人間が作為を施した。
草食動物である牛を肉食動物に変えて、しかも死体を粉にしてミルク代わりに飲ませてしまった。
BSEは食物連鎖を組み替えたことによってもたらされた病気だといえます。
食と命の問題というのは、密接にかかわっていることなんです。
 
 
 
■ 生物機械論、還元主義の悪しき側面
 
日本の栄養学は遅れているといわれますが、やっぱり栄養学というのも成分として考えられるところに問題がある。
 
それは生命を「部品」として考えるのと同じで、「何をどう食べるか」ということよりも、アミノ酸が何グラム、というように、成分で摂れば所用量が満たされるというところから始まっているんです。
 
戦後の食糧難時代を経てきたから仕方がないことではあるわけですが、食べ物を成分に還元して考えたところに不幸があった。
 
実際身体に入った場合の相乗作用も解析できていないんですが、もうひとつ時間の軸があるということも考えられていない。
生命現象を考えるときに、僕らがいちばん忘れていることは「時間」だと思います。
 
それはどういうことかというと、アミノ酸の組成である栄養を見ると、たとえば卵とミルクのアミノ酸の組成がこうこうだから、十分な栄養が取れている、必須アミノ酸が全部含まれているからオーケーだというわけですが、実はアミノ酸を何グラムずつ食べているわけじゃなくて、卵や牛乳というタンパク質を食べているわけです。
 
それが消化されていく途中にだんだんアミノ酸に分解されていくわけですが、そこには時間がかかっているわけですよ。
消化管は単にその結果としてできたアミノ酸を吸収しているわけではなく、タンパク質がやってきたということをまず認識している。
 
それによって体の中でいろんな準備反応が起きて、本当にアミノ酸が吸収された後、それを有効に使えるような準備ができているわけですよ。
“準備された心”じゃないですけど。
 
そんなふうにタンパク質を食べて、それが徐々に分解されていって、吸収されるときに起こっている体の中の反応と、アミノ酸を卵と同じ組成だけ寄せ集めてそれを飲んだ時に起こる反応とはまったく違うわけです。
 
だから組成としてだけ栄養をとらえると、時間というものが忘れ去られて、そのプロセスで起こっていることは全部すっ飛んでしまう。
 
本当はみんなちょっとずつそういうことに気がついていると思うんですけれども、なかなか実際にはそうなっていない。
それは食品を成分で考えたほうが栄養所用量というものを作りやすいし、何を何グラム摂ればいいという厚生労働省のガイドラインも出しやすいからですね。
 
生命を機械的にとらえたほうが遺伝子組み換え食品が作りやすいのと同じように、産業あるいは経済の発展にとっては便利だからという理由で、本来はもっとみずみずしいものが「数値」に置き換えられてしまう。
還元主義の悪しき側面です。
 
 
 
■ 遺伝子組み換え、原子力――「加速」の危険性
 
遺伝子組み換え食品が何でいけないかという議論は、なかなか有効にいえない面がある。
普通の方がなんとなくいやだと思っても、なんで嫌うかをうまく説明できないんですね。
 
遺伝子組み換え食品を推進している人たちは、これは全然危険なものじゃないですよという。
たとえば品種改良みたいなことを人間は昔からやっているじゃないですか。
それをもうちょっと効率よくやったのが遺伝子組み換え食品ですよ、と。
 
そこで見失われているものはやはり「時間」です。
品種改良は非常に長い時間をかけて、違う株同士を掛け合わせて、時間の試練を経て次の平衡状態に達したものだけが生き残り、人間にとって有利な栽培植物になったもの。
 
でも遺伝子組み換えというものは、これをこっちにもってきたら便利だろうというのを一挙にやって、百年くらいかかっている時間がそこではまったく課せられていない。
だから本当に均整の取れた平衡状態にあるかどうか、一切わからないわけです。
その性急さに対して、やっぱりみんなはおかしいんじゃないかと思うわけですよ。
 
科学というものは、こうすれば便利になる、こうすればよりよくなるという可能性ばかりをいってきているように思われています。
でも、実は人間に不可能なこともたくさん教えている。
 
そのいちばん大きなことは「時間を戻すことはできない」と言うことです。
ある時間を早めたり遅らせたりすることもできない。
「無理にやれば、必ずそのツケが来る」とも科学はいっているんです。
 
遺伝子組み換えというのは、確かにすぐには何も起こらないように見えます。
でも、百年かかってあるバランスから次ぎのバランスに到達するものを3ヶ月でやるというふうに、時間を短縮しているわけですよね。
 
その時間を短縮したことによる対価というかエネルギーを、実は別の形にして払っています。
それは今のところは見えないわけです。
 
自然の時間、生物の持っている時間の流れを短縮すれば、必ずそのツケが別の形で伏流水となって地下に貯められてしまう。
それがいろんな形でまた復讐を行ってくることに思いを馳せないと。
 
新幹線はすごく早く東京から大阪まで運んでくれますが、そのためにものすごいエネルギーを使っているわけです。
電気とインフラとそれに関わるさまざまなもの。
それを払っているからあれだけ早い動きができる。
 
便利というとこだけとれば、それは便利なんですが、生態系全体を見ると「局所的な幸福は絶対に全体的な幸福にはならない」。
それを昔から生態系は教えています。
 
ある集団だけが腹いっぱい食べれば、他に飢える人たちが増える。
飢える生物がたくさん出てくる、と。
 
シェーンハイマーの言った「動的な平衡」は、各個体の中だけではなくて、生態系全体のバランスについてもいえることです。
 
自然界は動的な平衡になっていて、地球全体として物質の収支はいつも一定。
いろんなところで少しずつ澱んでいる、澱みというか、「結び目」がそれぞれの生物である。
 
だから、ここだけ早くしようとか、ここだけが便利になろうとしたら、そこにネットワークのクモの糸が引っ張られてしまう。
歪になってしまうわけです。
まさにその状態にあるのが、現在の効率優先の社会ではないかと思います。
 
原子力も同じです。
原子力は、実はすごい加速なんですね。
 
自然界でもウランやラドンといった原子は非常に稀な確立で崩壊して、違うものに変わっています。
それを人為的に加速することによってエネルギーを生み出しているのが原子力発電所で、そのツケがどうしても出てきてしまうわけです。
 
何万年も消えないような放射性物質ができるとか、一度間違えれば臨海が暴走して何万人にも被害をもたらす大事故を起こしてしまうとか。
 
強大なエネルギー、危険な放射能を封じ込めるために強固な原子炉を作らなければいけないわけですけれども、それも40年もたてばボロボロになっていくわけです。
 
今、日本の原発はまさにそういう状態ですが、廃炉にするにも、その中は放射能だらけで手のつけようがない。
その状態を管理し続けるのはさらに莫大なエネルギーが必要となる・・・・・・という解消のしようのない問題がいっぱい出てきている。
そのツケを払いながら局所的にエネルギーを生み出したのが原子力です。
 
今一番問題なのは、地球温暖化の切り札が原子力になっていることです。
原発はCO2を出さない発電だと、原子力発電を推進した電力メーカーや政府は大キャンペーンをしている。
 
でもそれは発電のところしか見ていないわけで、原発の製造や今後の維持管理に関わるコストやエネルギー、そのとき出てくるCO2の量などを無視している。
 
あるいは原発の廃棄物を封じ込めておくために、それこそ六ヶ所村の地中深くまで穴を掘るのにかかったコストや、そういった施設で働く人々の健康被害など、多くのツケを払っている。
そう風に考えたら、CO2を出していないどころか、余計に出しているわけですよね。
 
ものを一面的にしか捉えない考え方というのも、現代の持っている大きな落とし穴。
いろいろなことが互いに繋がっているのに、それが切断されてしまっているのです。
 
 
 
■ 生命と宇宙の法則
 
シェーンハイマーの学説を理解していくとき、ひとつの大きな命題が出てきます。
私たちの身体が常に新しい食べ物と入れ替わっているのなら、どうして私たちは老化して死んでいってしまうのか、ということです。
 
先ほど人間にどうしてもできないことの一つに、「時間の流れを止めること」があると述べました。
それと同じく人間にできないことに、「秩序をずっと維持すること」があります。
 
形あるものは崩れていく。
ピカピカに輝いている金や銀であっても、やがて黒ずんで酸化されてしまう。
部屋をどんなに整理整頓しておいても、何日かたつと乱雑になってしまう。
 
それを難しい言葉で「エントロピーの法則」というのですが、「すべて秩序あるものは崩れ去る方向に行く」、これが時間の流れということでもあるんです。
それを逆戻しすることはできない。
それは宇宙の法則です。
 
その宇宙にあって、生物、生命だけが秩序を曲がりなりにも維持している。
マンションなんかだったら、20年も経てば大規模修繕しないと成り立たないのに、人間の体は50年も60年も全然健康を損なわない方もたくさんいらっしゃいます。
どうして秩序がそんなに長い間維持できるのか。
その答えも、実はシェーンハイマーが出しているんです。
 
生物の身体に対して、秩序を壊そうとする宇宙の力は働いています。
でも、生物はがっちりしたものを作ってその力に抵抗しているのではない。
自ら先回りして自分の身体を壊している。
そしてつくり変えているんです。
秩序を維持するために「秩序を壊しながら」新しいものにつくり変えている。
そのいたちごっこが「生きている」と言うことだと。
 
でも、永遠に勝ち続けることはできない。
やがてその宇宙の力に遅れてしまう。
それがエイジング、老化していくということです。
それが追いつかなくなったところで個体の死は来る。
でもその時に分子はバラバラになって、また環境中の別の生命に流れていくわけです。
 
それともうひとつ、とても大事なことは、時間の流れの中で生命というのは有限ではあるけれども、一回しか起こらないということです。
「一回性」、そこに生命の価値がある。
 
繰り返し繰り返しいろいろないのちが生まれてきては死んでいきます。
そこに分子の流れがあるので、生化学的というか生物学的に見ると、みんな同じ繰り返しのように見えます。
 
でも、時間の軸に沿ってみると、それはその時点で本当に一回限りしか起きていないもの。
同じものを食べているようでも、その食べ物になっている生物というのは、そのとき限りのものなんですね。
そこが大事なところだと思います。
 
 
 
■ 食を通じて全部につながる
 
NHKの番組で小学6年生の子供たちに教えたことがあります。
そのとき、子供たちにいちばん気がついてほしかったことは、「食を通じて私たちが地球環境の一部として全部につながっている」ということです。
「食べることで他のいのちのつながる」ということ。
 
シェーンハイマーのいう「動的平衡」は、各個体の中だけでなくて、生態系全体についてもいえることだと言いました。
 
小さなレベルでは個々の生命の内的環境のことであり、大きなレベルではすべての生命を含めた地球環境全体について「動的」な「平衡」を保っている。
そこには45億年の歴史があります。
 
生命の歴史は地球ができてから10億年を経たころに起こったといわれますが、気が遠くなるような長い時間の試練を経て、現在の平衡状態に達したことが非常に重要です。
 
「環境の世紀」といわれる今、私たちに必要なのは環境と対峙することではなく、環境と生命は同じ分子を共有する動的な平衡の中にあるという視点であり、できるだけ人為的な組み換えや加速を最小限に留め、この流れと平衡を乱さないことだと思います。
 
本当の意味で環境を考えることは、私たち自身の生命を大切にすることです。
なぜなら、環境と生命は同じ分子の流れの中にあるのですから。
 
 
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
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池田 優

 

 

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