山ちゃんの食べもの考

 

 

その268
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
 
『食は生命なり』 【125】
 
『辰巳芳子 食の位置づけ』   より その3
 
 
第2章 いま、考えるべきことは
 
 
■ 暮らしと生活
 
「暮らし」と「生活」の違いについて、考えてみたいと思います。
「暮らし」と「生活」は違います。
 
「暮らし」は一日一日の実態であり、個人に属することだと思います。
「生活」はその実態の集積であり、そこからひとつの概括が生まれ、より普遍化されたもの。
社会性を帯びたものだと思います。
人間がみんなでともに考え合い、助け合って生きやすくするための要素が「生活」です。
 
『自由学園』を設立し、『婦人之友社』を興された羽仁もと子さんは、すぐれた教育者であり、思想家でした。
その方が提唱されたことがあります。
「祈りつつ、思想しつつ、生活しつつ、生きていこう」というものです。
 
祈り、思想、生活。
この三つは、互いに線引きできないもので、人間の実存と切り離せないものです。
祈りは教会や神社だけで行うものではなく、思想は学問の場だけで行うものではありません。
日常において渾然一体としてあるのです。
 
たとえば、暮らしと生活の違いについて考えることは「思想」です。
旬の食材をどのように食べるかを考えること、自分の手足を添わせてその本質を導き出していくこと。
それも思想です。
 
そのとき、最大限心と手を尽くしたら、最後は自然に任せる。
それもひとつの「祈り」です。
その態度は「慎み」であるでしょう。
 
一日一日が「生活の礎となる」と考えながら暮らすことがいかに大事か。
祈りと思想、生活が渾然一体とある日常とはどういうものか。
考えてみてください。
 
日本人はもともと風土に根ざして、分をわきまえ、慎みにある生活をしてきたと思います。
主食の米にしても、籾殻から藁まで使い切ってきました。
 
藁で縄を綯い、草履を作り、くたくたになった草履さえも堆肥として畑にまいていた。
米ぬかはぬか床にしたり、野菜のアクを抜いたり、下ごしらえに使ったり、洗いものに使ったり。
すべて無駄なく使い尽くしていました。
合理的で、ものの「循環」と「平衡」を大切にする生活態度だったと思います。
 
農家の囲炉裏には鍋がかかっていて、旬の野菜や根菜が煮えていました。
それに魚と漬物、ご飯があれば、老若男女食事ができた。
農家は共働き夫婦の最たるものですが、合理的で経済的な食べ方をしていました。
今のように仕事と生活が分断されていなかったのです。
 
それが戦後になって変わった。
高度成長の流れの中で大量に物を作り、使い捨て、エネルギーは消費する一方。
流れが一方通行で、分断された生活になりました。
 
さまざまな機械、器具の発明で家事は楽になったにもかかわらず、みんなが口を揃えて言うのは「時間がない」。
生活に使う時間はない、ということでしょうか。
 
ある大手企業の奥様方を対象にした講演会で、「この中でお出汁をひく方は何人いらっしゃいますか」と尋ねたところ、手が挙がったのは250人中30人。
おじやに至っては5人しか挙がりませんでした。
お金がないわけでも、時間が本当にないわけでもないと思います。
 
「その日暮らし」では生活は立ち上がりません。
いのちと呼応しない食材、呼応しない料理に埋め尽くされた食卓には、祈りも思想も生活も存在しません。
それは個人を超えて、生きにくい社会の形成につながります。
 
「すべてのものは兄弟である」という世界観を視点に、地球規模で「分をわきまえて」生きる。
そこから暮らしを見つめ直し、早急に生活を立て直さなければならない時期に来ています。
 
 
 
■ 行事食から何を汲みとるべきか
 
「正月」に始まり、「七草」や「雛まつり」、「端午の節句」など、日本の年中行事を発案した人々が直観したのは、「いのち」の様相でした。
その「愛惜」の質量が、行事様式を育てるに至りました。
 
四季折々、いのちを守り育てたい。
行事食は、それを食というかたちにしたものです。
 
正月料理は、今日「在る」ことのことほぎです。
正月とは、いきとしいけるもののいのちを寿ぐ旬節であるように見えてなりません。
 
先人方は、洋の東西を問わず、暦を作りました。
命の道しるべ、生きてゆきやすさを手引くよすがとしてであったでしょう。
そこには、おのずからなる独自の行事が寄り添っていました。
どちらが先ともいえぬほどのものであったでしょう。
寄り合わせた縄のように、二すじながら、一つの力であったと思います。
 
その流れを汲んで、今もいのちが「在った」「在る」「在らしめたまえ」を意識するのが正月ではないでしょうか。
 
私どもの由って来たるところ、志向するところに、新年に光を受けんと望むとき、食べものもともにあり、なごみと華やかさを添えるのを、喜ばしく感じます。
 
21世紀は、超えがたき超えるべき命題をはらんでおり、こうした予感を持たぬ方は少ないと思います。
私でさえ、命題を支え、隘路を見出し、可能性を創出する手がかりが欲しいと、常に求めている自分に気付いています。
 
一例ですが、両親がおり、多くのお客様をお迎えした時代、正月料理は五段のお重を満たしておりました。
近年の私の元朝は、お屠蘇、祝い肴、雑煮、お煮しめで表現するようになりました。
この簡素ゆえに、「在った」「在る」「在らしめ給え」と向き合いやすい自分を見出したからです。
 
人は弱く、ご馳走もありすぎると気が散るもととなるのです。
私の祝い膳は、この国のまことの姿と向き合うには、ほどほどのしつらえなのです。
 
もたざる国を生きる私たちは、第一に、持っているものと、持っておらぬものを、認識のみでなく感覚的にも承知せねばならぬからです。
祝い肴をかみしめながら、屠蘇を祝い、餅の香気を喜び、煮しめをしみじみ味わう。
 
先人方が持たざるありさまから手繰り出した甲斐性は、21世紀の私どもに暗示的であると受け止めております。
 
日本の根菜類は、愛すべき風土のいとし子。
その味わいは、懐かしき土目の象徴。
調理法は垣間見る民族の脂質。
 
煮しめの呼称は、昔々、保存は井戸に下げるしかない致し方のない時代、味は濃い目、しっかり煮しめた、その名残といえるでしょう。
 
煮しめは本来、正月の行事食として考え出されたものではありません。
行事より先に、当然煮しめの原型がありました。
それを正月に取り入れたのです。
 
煮しめで酒がおいしく飲める、またそのようにつくるべきですが、そのゆえに煮しめの盛り合わせは、吉凶いずれの席にあっても、立派に役目を果たします。
 
ご飯ものとの盛り合わせは、大地の恵みの集大成のよう、盛り付けの楽しみの最たるものです。
祭囃子にあわせて、いそいそと赤飯、煮しめ。
不祝儀の台所に、それとなく煮しめを届ける。時代を超え得る「力」を感じます。
 
日本人は物事を様式化するのが巧みであると評されています。
合理性が様式化を作ります。
したがって、伝える、改善化医療も行いやすく、物事に磨きがかかる道理です。
 
辰巳家に伝わる雑煮は、三河から前田利家に従った先祖が、戦場で祝った縁起で、数えて500年。
 
具材はせりとかつお節のみゆえ、すましの良否だけが頼りです。
「ああ、やっぱりうちの雑煮はうまいなあ」
あの母が、父のこの一言を聞くまで、気を許していませんでした。
やりこんだ人間の初心は、たとえようのないものです
 
 
 
■ 行事に込められた願い
 
「雛祭り」それは心のふかみに、ぼんぼりで照らし出されるように、私を慈しんでくださった人々の顔がよみがえる旬日です。
語り継がれた女の子の幸せを願って、昔の人達は何とまめやかに立ち働いたことでしょう。
 
冷たい納戸から雛壇を出して組み、赤い布をかけ、小さな人形や道具を飾る。
片付けは飾る手間の3倍もかかりますのに、言葉にも動きにも「だから止めておきましょう」はありませんでした。
 
ご馳走は、毎年決まって五目ずし、貝のぬた、おいしい清汁、むし鰈の焼きもの。
お菓子は雛あられ、桜餅。そして白酒。
 
五色の座布団が並ぶ食卓に座り、白酒をまねほど盃に受け、小さな赤絵の小鉢のぬたに手をつけるとき、自分もお姫様になったような心地がしたものです。
なじみの五目ずしも、その日は内側が朱塗りのお重に、形良く盛られ、何と雅びて見えたことでしょう。
 
日本の年中行事は、人々の心の願いから生まれ、質素に意味深く形を整えました。
私の内裏雛も、みづらの髪に冠はなく、静かなきめこみです。
 
ただ「これは菅原道真よ、あなたが賢い人になるようにと思って」の母の一言が、何者にもまさる価値を添えました。
五色の座布団も、絹でなくモスリンで、若い親の心尽くしそのものでした。
 
自分によきことを願う、大人たちの心を子供が感じ取らぬはずがあるでしょうか。
『味覚日常』〈辰巳芳子著・ちくま書房〉より
 
私が育った頃の雛まつりの食卓は、いまある食材ではほとんどつくれません。
ひな祭りの主役は貝。
貝というのは全国に貝塚があり、『古事記』や『日本書紀』にいくつもの挿話が登場するように、古来日本人の食の要にあったものです。
 
貝の成分は、脳の神経系の働きをよくするそうで、世界に誇る細やかな手仕事から生まれた伝統工芸の美しさ、それを感じる美意識、繊細な感性は、貝を食べることによって養われてきたものともいわれています。
 
それが食べられなくなった。
産業廃棄物のかけで海がひどく汚染されたからです。
 
ものは正直ですから、なくなるときはパッとなくなります。
石川県の能登のほうで梅貝という貝が、ある日まったく獲れなくなったそうです。
籠いっぱいの貝を調べたら、汚染の影響でほとんど両性具有になっていた。
いちばん先に環境の変化を教えてくれるのが貝なんです。
 
あさりにしても、30年も前に「味が変わっちゃった」と母と嘆いたものです。
それが、味が変わるどころか貝そのものがなくなってしまった。
私たちはずっとそのことを意に介さずにきたんですね。
何ということかと思います。
 
子どもは育っていく過程の行事、「お食べ初め」や「七五三」、「十三参り」などは、子どもが育ちにくかった時代の親の祈りそのものでした。
ここまで生きた、その喜びと感謝を、この先も生きてほしい、その祈りを、行事に込めていたのです。
 
20歳そこそこで私を産んでくれた母が見立ててくれた「お食べ初め」の茶碗があります。
清水焼の赤い茶碗で、私は白髪混じりになっても、その茶碗でお雑煮をいただいていました。
 
私が52歳の6月、神様は突如母をお召しになりました。「ごめんなさい」「ありがとう」もいえぬまま母に逝かれ、涙は一滴もこぼれませんでした。
 
夏が去り、秋風が冷たくなってきた頃、探し物をしていたら食器棚の思わぬところからその茶碗が出てきた。
稲妻に打たれたように、母とひとつになった気がした。
涙が堰を切ったようにあふれ、台所の床に突っ伏して生涯かけて慟哭した。
 
ひとつ歳をとったことを喜ぶ正月。
自分の生命、家族のよすがを、お食べ初めの茶碗に求めていたのかもしれません。
 
行事食には、季節、風土への感謝、慈しみとともに、「いのちの祈り」が込められています。
私たちはそれを次代へ守り伝えていく使命を負っていると思います。
 
 
 
■ 風土に即して食べる
 
「何を、どう食べるか」 と聞かれたとき、私は「風土に即して食べなさい」と答えます。
日本の食文化は、この蒸し暑い日本の風土の中で生きやすいようにととのえられたものです。
 
それは、旬の食材を食べるということに限りません。
先人の知恵である出汁の使い方、さまざまな梅仕事、米ぬかの使い方、魚や肉の風干し、すり鉢でのすり仕事・・・・・・。
すべて風土的食方法でしょう。
 
風土を敏感に捉えることは大事です。
風土への敏感さがなければ人は生きて生きにくい。
でも、都会の生活の中にいると、敏感さは否応なく消失していきます。
 
「先生、そんなに順繰りに梅の仕事をあれこれやって、何かメモでも持っているんですか」と良く聞かれるんですが、私はメモなんか持っていない。
「頬に当たる風がこうなってきたからこうなるな、ああなるな、ってわかる。
順繰りに物の姿が次の仕事を教えていくのよ」って言うと、みんなすごくうらやましがるんですね。
 
でも、本当にそうなんです。
新しい朝、開け放った窓から教えてもらう。
土の香り、潮の香り、大気のやさしさ、厳しさ、風邪のうるおい、木肌の変化。
すべてのものが教えてくれる。
 
そういう変化を私たちの先祖方は細やかに受けとめて「旬」と表現しました。
春夏秋冬という大別ではなく、10日間ほどの間隔で食周りの移ろいは変わります。
その後を追うのではなく、先手を打って、段取りをして、構えて待っていたのです。
 
ここに四季の常食の一例を示してみます。
 
「春」。菜の花ご飯。
積み立ての菜の花の蕾を、オリーブ油でさっと炒め、酒、醤油をからめ、熱飯に盛り上げて食す。
庭に菜の花がある間、1ヵ月余食べつづける。
 
春愁を覚えず、気力を持って梅雨を迎え得る。
蕾には「花成ホルモン」というものがあると、後々知った。
自然の推移にしたがって食べる、食べてみようという欲求を大切にしただけであったが、自分のためにも他人様にもこんなに役立つとは、予想しなかった。
こうした、気の動きに敏感であることが都会人には難しい。
 
「初夏」。玉葱と大麦のスープ。
新玉葱の出る頃。
小ぶりのものを求め、丸なり、ぽったりと大麦とともに炊く。
調味は塩のオリーブ油。
あるいは玉葱を横半割り、オリーブ油と塩をなすり、すっぺりするまで蒸す。
これだけだ。
蒸したものは多様に展開する。
 
文献でピラミッド造成時の食体系。
玉葱の力を頼ったと見出したからだ。
また、この時節から、特に麦類を大切にする。
オートミール、スーパーミールを朝食に。
 
加えて6月に入れば、小豆をたやさぬよう、
まとめ炊きし、これらの麦粥に添えて食す。
小豆は腎気を養うというではないか。
二日酔い、動物に噛まれたら小豆を食べよ。
母乳の出るのを助ける。
大納言は有効性に優れているとか。
麦湯、麦こがしにもわけがある。
 
「盛夏」。
日本の夏はしのぎにくい。
油脂を減らし、蛋白質もほどほどのほうが楽である。
足が腫(むく)みやすいから、水気をおろすべく瓜の類、中でも、とうがん、お化けきゅうりの葛引きをよく食す。
 
おすすめしたいのは「茄子の焼きみそ」。
昔々、姉妹3人揃って、夏の味噌汁はどうしても不味いと拒絶した。
「それなら、これおあがり」と母が即刻つくった、香りみそ。
「おいしい! ご飯にのせて海苔で巻く。お弁当にも入れて。酒も飲めるな。」
生姜、青しそ山程、ピーマン種なり少々、以上みじん切り。
これらは順次脂で炒め、ここへ茄子の5ミリあられを投じ、あわせ炒め、酒少々、最後に八丁みそを加え、焼きつけるか炒める。
悪いはずはないでしょ。
 
素麺、冷麦ではなく、こうしたものでしっかり、麦御飯を食べる。
弁当用には、粉鰹節を加える。
1日1日を大切にとは、こうしたこと。
人は確実な手段で、より良く生き得る。
 
「秋」。
根菜で体を芯からあたため、冬を迎える。
けんちん、お煮しめ、とろろ汁、芋煮(山形の)出番。
それに種々なる炊き込みご飯。
中でもむかごご飯に新生姜の細々をふり込んだものは、野趣にみち、夏の疲れをとる。
 
「冬」。
お家芸の鍋料理の出番である。
おでん、寄せ鍋、すき焼き、鳥なべ。
これらは少々構えないとできないが、常食のみそ汁の、たとえば、コカブの汁を白みそ系のふくさみそ仕立てとし、あたたまったところへ、大ふりに切った豆腐を落とし、ふり柚子で食すなど。
 
大根千六本と油揚なら、焼餅がよく合う。薬味は七味。
いずれも、お変わりしつついただく。
菜食一如の好例。
火にかけられる陶器があり、上質の炭を作り出した従来の技術のおかげで、多彩な鍋物は、わが国独自のものである。
 
暮らしの中の何気ない日々の食卓。
感謝されることのない毎日のこと。
当たり前の食卓に手を合わせて欲しい。
 
 
 
■ 料理はものの本質と向き合うこと
 
好むと好まざるとの関わらず、生命を預けることに定められた風土で、私たちの祖先方が口に入れてよいもの、入れてはならぬものをいのちがけで選別し、栽培し、飼育するなど辛苦して案出してきた食方法の集積・統計が「食文化」。
 
民族が生き抜いていく道筋に生まれ、育まれた食方法、料理を、私たちは意識して守り、受け継いでいかなければなりません。
 
都市生活者はなおさら、自分達が失ったものへの自覚を持たなければなりません。
都会の住むことで何か誇りを持つようになったらおしまいです。
常に自分が失ったものを認め、どうやって補えばいいかを考え、行動に移さなければ。
油断してはならないと思います。
 
都会に住む人が自然に接する身近な機会は、自分の手で料理を作ることです。
簡単便利なものがあふれる昨今、洗濯も簡単になったし、アイロンもかけなくちゃならないものも少なくなりました。
スイッチひとつでごはんも炊けるし、お風呂だって同じ。
 
それなのに、みんな忙しい、時間がない、という。
いつも何か強迫観念に負われているようです。
本来性からずれたところに時間を消費している気がして仕方ありません。
こうして「ある」自分の存在を、みんなが掘り下げていかなければいけないと思います。
 
そのために、食べものをつくっていくといいと思う。
風土に即した自然のもので食卓をととのえていくと、自己を掘り下げやすいと思うんですね。
 
なぜ料理をすると自分の存在を掘り下げやすいか。
きちんとつくるべききょうにつくるには、まず、ものの本質と向き合わなければならないからです。
その次には、ものとものごとの法則を見つけていく。
ものとものごとの法則とつき合っていく、従っていくことが必要になる。
 
「理をはかる」と書くように、料理には法則があります。
だから、その過程でやっぱりわかっていくんすね。
そして答えはすぐに「味」になって返ってくる。
 
自然を手のうちに扱い、ものの本質と向き合い、ものとものごとの法則に従っていく。
従わせていく。
こうすることで否応なく自我が落ちていくのです。
道元が禅寺の作務に料理を、典座の仕事を重大視したのは、この理由によると考えます。
 
母は、「気なしにものをするな」とよく言いました。
生涯「心の込め方」を追い求めた人ですから、日常茶飯、万事に心を込めることをしていた。
 
私がいい加減に物をすると「あなたは真心の込め方を知らない人ね」と言いました。
母が三十代末期のことです。
「真心がない」とはいわなかった。「真心の込め方を知らない」と。
それでずいぶんと救われたと思います。
 
きゅうり1本、ナス1本見たら、それがどうやって食べて欲しがっているかわかる、という人でした。
時期による水分の量の違い、皮の固さなど、ものの本質が瞬時にわかり、それをいちばん生かせるように料理した。
 
「きゅうりっていうのは、切ってから塩をふると塩が強くなりすぎる。固く苦味のある口のところをだんだらにむいたら、全体に塩をまぶして7分くらい置く。そのくらいでいい」と言い、切るときは用途に応じてきっちり寸法を決めていました。
 
「きゅうりは、香りで食べるもの。紙のように薄く切ったら、きゅうりのいいところが全部出てしまう」と、きゅうりもみのときは、きっちり2ミリに切りました。
水気を切るときは、「しぼるのではなく、つゆを残すほうがいい」と、つゆが自然にたれていくような手つきで、目をつぶるように水切りをしました。
きゅうりもみひとつに思想があり、「ものの本質」を導き出そうとしていました。
 
私がものの本質と向き合い、一番長くつき合った料理というと、生ハムでしょうか。
まだ日本に生ハム自体入ってきていなかった1960年代半ばごろ、イタリアで食文化の中心に位置する生ハムに出会い、衝撃を受けました。
 
イタリアやスペインにおける生ハムは、日本における鰹節のような存在で、タンパク質豊富な保存食としてさまざまな料理に使われます。
身を薄く削いだものは上等。
骨についた身までていねいにとっては、料理の底味として加えられます。
 
日本に帰ってきてから、何とかしてその味を再現したいと、鎌倉で生ハムをつくり始めました。
鎌倉イエズス会で見つけた10行足らずのメモを手がかりに、家に「生ハム小屋」をつくって、11キロ前後もある豚の脚100本以上に塩をまぶして、干して。
 
四十代半ばから、毎年少しずつ手加減し、もうこれで修正することはない、と感じるまでに15年かかりました。
20年に達した頃、当時の大分県知事の依頼で、久住高原の養豚かに方法を伝授しました。
 
生ハムは、私が手がけたもっともおおがかりな「風邪仕事」であり、保存食です。
それをつくる醍醐味は、あるところまでは人がやって、それから先は自然にまかせるところにある。
自然とひとつになってやっていく仕事は、ものとものごとの本質に向き合わざるを得ない。
 
自然にまかせるという点では他の風干しや保存食も同じですが、大掛かりなものを手がけると小手先のものとは全然ちがう本質が見えてきます
 
15年やってわかったことは、塩のことでした。
ありとあらゆる保存食をやってきて、風仕事をやって、その上に生ハムのやって手の中に残ったことは、塩というものの本質だった。
 
それは、生ハムが完成した以上にうれしいことでした。
同時に、自分には本質を突き詰めたい傾向があるということもわかりました。
料理とは、そういうものです。
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
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池田 優

 

 

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