山ちゃんの食べもの考

 

 

その269
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
 
『食は生命なり』 【126】
 
『辰巳芳子 食の位置づけ』   より その4
 
 
■ 次世代の台所仕事の視点
 
料理をつくることは、自己の本来性を掘り下げることです。
「つくる」と「つくらない」では大きな違いですが、「つくらない」と「つくれない」では、それ以上に大きな差があります。
 
自分はどちらに属するか。
よく考えていただきたいと思います。
ただし、ここで考えていただきたいのは、料理をしさえすればいいわけではない、ということです。
 
食事は毎日、1日3度3度。
食事を整えるのは大変なことです。
きちんとつくらねば、と思えば思うほど、相克が蓄積されます。
相克を抱えつづけると、人間の尊厳が傷つきます。
尊厳を維持するために、私は「展開料理」と言うものを進めています
 
あえて「展開」と言う言葉を使ったのには、理由があります。
「立体ひとつの裁断によって一平面上に広げること。敷衍発展すること」と辞書にはあります。
 
私たちの生活における「立体」とは何か。
考えてみると、自明な事柄であり、自明であるがゆえに分析することのない事実ということになるでしょう。
台所における自明の事実とは、使うごとに青葉を茹でる、出汁をひく、合わせ酢をつくる、ちりめんじゃこに湯通しする・・・・・・。
 
こうした事実に「これが果てしなく続くのかな」などと感じずにはいられないでしょう。
日々におけるこの事実と自己の尊厳との相克を、私は若い時から認めていました。
事実を「立体」とすると、これを裁断し、平面状に広げること、分析、分類することで、中身は変容するのではないでしょうか。
 
たとえば、出汁なら1週間2升分、まとめてひいておく。
このとき、この出汁を用いて、二杯酢、三杯酢、八方つゆの類はまとめつくりしておきます。
 
こういう日に重宝するトマトソースをつくっておくと、なおよいでしょう。
わかめはまとめ切りし、筒型に巻いて冷凍しておけば、必要な分だけカットしてすぐに使えます。
チリメンジャコはまとめ洗いし、生姜風味油で炒めてビンに入れておくと、随時わかめの酢のものは食卓にのるでしょう。
 
野菜はじゃがいもや玉ねぎ、にんじん、キャベツなど、季節のもの、根菜類をまとめて蒸すか茹でるかして冷蔵しておき、献立に応じて使い回す。
味噌汁の実はもちろん、オムレツ、スープの具、サラダ、なんにでも使えます。
 
肉は塊で1キロ以上、肴は鮭や鱒など大型のものを1尾、ドーンと料理しておく。
1週間の頭にダッシュをつけるような料理をつくり、翌日、行く翌日となし崩し的に食べていくのです。
 
1回ごとにあれをして、これをして、だと疲れてしまいます。
今料理番組を見ても、材料はいつも4人分、これでは「その日暮らし」を提唱しているようなものです。
ちょっと余分に作っておいて、次の日も、その次の日も使い回す。
 
先見性、柔軟性がないとできないことですが、私はこういうことが料理をすることの負担を軽くし、ゆとりを生むと思います。
それが自己の本来性を取り戻すことにつながると思う。
自明の事実を見直すことは、進歩の足がかりとなります。
展開料理はその具体的なかたちです。
 
台所の動線というのも、考える余地のあるものです。
台所の設計が、次の時代を随分助けると思う。
水場と火元とは台所の真ん中。
それを取り囲むようにぐるりと戸棚があって、火元の延長に食卓があって、そうすると、炉辺の感じで食べていけるんですね。
 
あんまりばたばたしないで食べていける。
朝飯なんかも、みんなでその日1日のプランを話したりして、ゆっくり過ごせる。
今の台所だと、どうしてもお母さんが後ろ向きになったり、逆に対面式だとカウンターの向こうに隔たってしまう。
「炉端」の良さを、もっと見直してもいいと思いますよ。
 
 
 
■ いのちを支えるスープ
 
料理をすることには、もうひとつの意味があります。
それは、他者の命を守り、育て、支えるということです。
人生の最初と最後に寄り添い、からだと心の両方を支えるのがスープです。
 
私のスープ暦は、勉強時代を含めると40年以上になります。
恩師である加藤正行先生は、大正末から昭和にかけて宮内庁の大膳寮で秋山徳蔵先生と一緒に仕事をなさった方。
 
スープと野菜で14年修行をなさり、スープを大変重要視されていました。
「スープというものは献立の最初に供されるものであるから、もっともゆるがせにできないものなんだ」と繰り返しおっしゃった。
それが私の中で種になって痛んだと思います。
 
その種が芽吹いたのは、スープで父の病気の相手をした、その時の手応えからです。
父は8年間半身不随の病を患い、そのうち3年はスープが支えでした。
この体験から、「人生の始めと終わりは、母乳と等しいスープで、食べる人も供する人も支えられる」と実感したのです。
 
病床の父に初めて出したのが、セロリのポタージュでした。
タンパク質の補いにヒラメを酒蒸ししたものをミキシングして加えて、パセリの汁を浮かべて。
もう一気に飲みました。
 
スープがなぜいいか。
まず吸収がいいんですね。
その人自身がほしがる以上に細胞そのものがスープをほしがるところがある。
 
肩が張っているとき、吸いものを一口いただくと、スッと体がほぐれる体験をしたことがある方も多いでしょう。
とろみのあるものは嚥下困難な方にも差し上げられます。
それに、手間と時間をかけてつくったスープは、素材の味が引き出されて本当にやさしい味になる。
 
その経験から、鎌倉にある訪問看護クリニックで「患者さんに何か召し上がれるものをお出ししたいのだけど」と相談を受けたとき、いちばんにスープを提案しました。
 
「サロンのような場所で、患者さん同士が何かを召し上がりながらおしゃべりをすることは、心のケアに実いいだろう」とお考えになっていた院長は、すぐさま賛同してくださいました。
「スープ以外は考えられない」と。
 
それがきっかけで私がいなくなってもみなさんであとをやっていただけるようにと、教室を開いておしえることにしたのです。
1995年に鎌倉の自宅で教えるようになって、今では横浜と腰越に教室があります。
関わった生徒さんは600人以上。
 
それからずっと、病院、介護施設でのスープ・サービスをすすめてきました。
でも現実には設備の問題、手間の問題、食材の問題があって、なかなか実現しなかった。
 
それを2006年の夏、高知県の近森病院という病院が実現させたのです。
680人の入院患者さん全員に、4種類のスープサービスをした。
よく踏み切ったと思いますよ。
 
もちろんたくさんの方が手伝ってくださいました。
私も真剣にスープを教えました。画期的なことでした。
でも、出来たってことは、出来る可能性を、近森病院が作り出したからなんです。
「志」が可能性を作り出した。
人間っていうのは、その気があったら作り出すんですね。
 
人間って、そういうものです。
達成できる道は自分で用意しなければならない。
学問というのは、そのためにある。
勉強というのは、そういう事態が起こったときに、達成力を高めるためのものであり、技術は手段に属します。
 
しかし、目的の達成は手段が行わしめるめるもの。
必要欠くべからざるものです。
私は近森のケースから多くのことを学びました。
 
もともとは、その病院で働いていた保健師さんが重い病気にかかられたことから始まっているんです。
乳がんが再発したときには、もう全身に広がっていて、手の施しようがなかった。
どんどん食欲はなくなっていく。
 
そうしたときに、辰巳さんのスープなら飲めるんじゃないかって、お医者さん達が気づいて。
そして、ホテルの料理長に頼んで、本を見て私のにんじんのポタージュを作ってもらった。
そうしたら、その方は大変に喜んで召し上がって、「おいしい」とにっこりされた、と。
それからその方の旦那様も家でいろいろなスープをつくられたそうです。
 
最後まで、いわゆる「人間的な喜び」を味わいながら亡くなった。
その様子を見て、副院長が他の方々にもスープをとお思いになったんですね。
 
副院長を始め、栄養士、調理し、ホテルの調理長と大勢の方が何度も鎌倉の私の家に足を運ばれて、スープの講習をお受けになりました。
病院で実際につくっては、私のところに送ってくださって。
病院の調理室には器具の面でも設備の面でも限界があります。
大量の食材の調達も難しい。
でも、それをひとつひとつ、アイデアと努力と熱意で乗り越えていかれた。
 
そんなふうにしてはじめて病院でのスープ・サービスが実現したんです。
玄米のスープ、しいたけスープ、にんじんのポルトガル風スープとポタージュ・ボン・ファム。
 
その病院ではその後、季節ごとのスープ・サービスをすることを決めて、実現させています。
これがモデル・ケースとなり、全国の介護施設や病院からも、私にスープを教えてほしいと依頼が来るようになりました。
 
スープの会を始めて10年以上。
ようやく浸透して来たその最初には、人間の「志」があるのです。
今でも病院で出されている刻み食やミキサー食は、人間が食べるものではありません。
 
最後まで、「おいしい」と思うものに養われて人生を終えることができる。
それは人間の尊厳の最たるもののひとつだと思います。
 
 
 
■ 料理は愛の表現
 
スープがすごいと思うのは、つくって差し上げる相手のいのちだけでなく、つくる人自身をも支える、ということです。
 
病気の痛み、辛さは代わってあげることはできないけれど、手間と時間をかけてスープをつくる、手足を動かすことが、つくる人自身を救う。
 
愛というものは共通の体験をしたがるものです。
見合ったものをつくって上げられるということは、苦しみを分かち合うことになる。
食べる人以上に、それをつくってあげる家族のほうが落ち着くんです。
 
私のお弟子さんですが、旦那様が胃ガンの手術をなさったあと、こうおっしゃったんですね。
「私は先生に教えていただいた野菜のコンソメで、闘ったんです。あれを持って、私は一歩もたじろがないで、病気と立ち向かうことができました」と。
もう20年位前のことですけど、お二人とも今は元気にしていらっしゃいます。
 
夫婦でも、親子でも、兄弟でも、互いを思いやっていることは、ただ思っていればいいというものじゃありません。
愛っていうものは、やっぱり表現がなければ、ね。
 
思っていればいい、感じていればいい、愛しているんだといっていれば愛が育つ、というわけにはいかない。
愛っていうものは、人と人との「間」にあるもので、「中」にあるものじゃないですから、そこの理解が浅いから、みんな油断があるんです。
 
常に薪をくべていないと、燃やし続けていないと、藍は育ちません。
一緒にいれば自然に育つと思うと大間違い。
 
だから本当いえば、結婚というものはくたびれるかもしれない。
たまには「今日は休息」って手を挙げて、薪を取りにいかなくちゃ続けて行けないくらいのものかもしれません。
そういう意味で、毎日の料理って言うのは、愛の表現そのものだと思います。
 
夜遅く帰ってきた旦那様におじやをつくって差し上げる。
塾通いの子どもには、スナック菓子ではなく消化吸収のよいスープやおじやで栄養をつける。
お三時には白玉やぶどうまめなど手作りのおやつが何よりでしょう。
 
食欲の落ちる夏場、味噌汁を嫌がる子どもには、焼きみそをつくって、ごはんに添えて出してあげる。
こうした何気ないことが、家族のよすがとなるのです。
 
自宅療養が難しくなって病院に移った父に、よくスープを届けました。
夏場は特に食欲が落ちますから、よく冷やしたトマトジュースやガスパチョなどを詰めて、夕食に間に合うよう持っていった。
 
父はひと口飲むと、大きなため息をつき、なんともいえぬ笑顔で私を見つめてくれました。
愛するものの笑顔にまさる宝はありません。
胸に宿るそうした笑顔で、人は生き続けられるのです。
 
分かち合いができるということは、とても幸せなこと。
だから、ちょっとでいいから、食べ物が作れる方にみなさんがなっていただきたいと思うのです。
愛するものに料理をつくる時間は、長いようで短いのですから。
 
 
 
■ 食材を守るということ
 
風土に即して、いのちと呼応する食材を選び、いのちと呼応しやすいよう料理して食べることが大事だと述べました。
食材のことを考えるとき、大きな問題となるのが日本の食料自給率のことです。
 
今、日本の食料自給率は、カロリーベースで39%(平成18年)。
昭和40年には73%だったものが、平成10年に40%に落ち込み、その後横ばいのままです。
ちなみに、オーストラリアは237%、フランスは122%、アメリカは128%、ドイツが84%です(平成15%)。
 
国内で100%生産しているのは米のみで、さつまいもは92%(平成18年)。
他は6割以上を他国からの輸入に頼っているのです。
これは先進国といわれる国の中では最低水準です。
人口1億人以上の国で穀物自給率(重量ベース)を比べると、27%で最下位(平成15年)。
 
経済大国だといったって、何らかの理由で輸入がストップすれば、飢える人がたくさん出てくるのです。
なんとも情けないことです。
中でも、小麦、とうもろこし、大豆は、その大半を輸入に頼っています。
 
食糧を輸入に頼る危険性は、いざというときに困るだけではありません。
BSE、鳥インフルエンザ、遺伝子組み換え、ポストハーベスト、放射能汚染、薬品汚染、その他さまざなな問題が見えにくいところにあります。
 
BSEや鳥インフルエンザはまだわかりやすいのです。
目に見えないもの、隙間から零れ落ちてしまうものほど恐ろしいのです。
けれども輸入食物は国産よりも安いので、営利を目的とした外食産業、ファーストフード、弁当・惣菜店、コンビにでは競って使われます。
 
10年も前に小豆を洗っていると、なんともいえないかゆみが背中に走りました。
調べてみると、それは輸入小豆だったのです。
ポストハーベストされた輸入大豆で作った納豆を食べるとかゆみが走るという話も聞きました。
私はこの頃から輸入食物に対して、危機感を持つようになりました。
 
自分のからだの健康は自分で守らなければなりません。
国産の食物を選ぶことは自分のみだけでなく、この国の食を守ることになるのです。
食は国の要です。
今の日本はいちばん大事な部分を他の国に抑えられているのです。
それなのに、国は米が穫れすぎると減反政策で水田を減らしてきました。
 
生産者は他国の価格競争と転換しやすい日本の農業政策に翻弄されて疲弊してしまっている。
国産の食材を守らなければならない、日本の風土に根づいた食材を守り、よい生産者を守らなければ。
そんな思いから、「よい食材を伝える会」を立ち上げました。
平成7年、70歳になった年でした。
 
「よい食材を伝える会」で行ったことで最大の社会貢献は、『日本の地域食材』という本を製作していることでしょう。
2006年度版で第4集を数えるこの本は、北海道から沖縄まで、日本全都道府県の地域食材をくまなく調査し、特徴、用途、食べ方、生産状況と将来性、価格、問い合わせ先などを分厚い1冊にまとめたものです。
国も財界も手をつけてこなかった「国家的資料」とさえいえるものだと思います。
 
眺めていると、製作した方々の大努力と志の強さ伝わるとともに、この小さな国にこれほど豊かな食材があるのかと愛惜の念がこみ上げてきます。
しかしながら、中には後継者の問題、気候風土の変化、汚染の影響で生産量が減っている食材もかなり多くあります。
 
地域の食材がなくなるということは、食文化が衰退することであり、生態系はもちろん、国のアイデンティティにも関わることです。
 
経済のグローバル化、食糧の大量輸入により、国内の2.5倍もの農地を他国に依存している日本が国として「自立」するために、私たちは国産の食材を守ることからはじめなければと思います。
 
スーパーや小売店では国産の、「旬」の食材を選ぶ。
できるだけ無農薬有機栽培のもので、近い産地のものを選ぶ。
外食をするときは食材の仕入先までわかる店を選ぶ。
よい生産者だと認めたら、流通に頼らず直接取り寄せることで生産者を守っていく。
大げさなことでなく、できることはたくさんあると思います。
 
政府には、他国の欲に負けるのではなく、はっきりとした姿勢を示して欲しい。
遺伝子組み換え食品や牛肉に対しても、はっきり「ノー」というべきです。
同時に国内の生産者を増やす政策を打ち出していくことは緊急を要することです。
砂漠化の進むオーストラリアでは小麦も牛肉も、生産量が落ち込み始めています。
とうもろこしは、バイオ燃料との取り合い、大豆は中国との取り合いがすでに始まっています。
 
さらに、食の運命の鍵を握るのは、憲法9条の改憲と原子力政策の問題です。
この2つは最大の環境問題であり、食の根幹をゆるがすものです。
 
第2次世界大戦の戦没者の数は、ソ連2000万人、中国1350万人、ドイツ730万人、ポーランド540万人、フランス60万人、イギリス50万人、アメリカ40万人、イタリア33万人、日本で210万人、全世界の合計では何と6000万人にも及びます。
その影で、泣いた人、泣きつづけている人はこの何倍でありましょうか。
 
憲法9条は、当時の若者が命を捧げた代償であるということを忘れてはならない。
あの時、死んでもよかった人は1人もいなかった。
実に皆々、死にたくなかったのです。
憲法9条は若者のいのちで贖ったもの。いのちはいのちでしか贖えない。
そのいのちを危険にさらす愚は、志を画し、力を画し、意を画して、避けなければならない。
 
食を守るためのあらゆる積み重ねも、努力も、一瞬にして突き崩す。
戦争に組した20世紀と同じ轍を、2度と踏んではならなりません。
憲法9条をしっかりと認識し直さねばなりません。
 
戦争が始まれば、まず突き当たるのが食糧不足の問題でしょう。
兵器によってではなく、食べものがないことで、小さな命、弱い命から失われていく。
「食べ方」を知らない人も、真っ先に命を落とすでしょう。
 
第2次大戦中、戦後、ヨーロッパで餓死者が出なかったのは、家庭菜園が国策として奨励されていたからだと聞きます。
今の日本ではとても無理です。
 
原子力産業が生み出す放射能汚染は、水面下でどんどん進行していきます。
見えないから危機感を持ちにくく、よけいに怖いのです。
国や企業は利益先行です。
 
経済性を優先し、環境、食の汚染を生み出してもしかたがないと思っています。
その中でも深刻なのが、青森六ヶ所村の使用済み核燃料再処理工場が出す放射性廃液の問題です。
1章でも述べたように、原子力発電所が1年間で出す量の放射能が、1日で海と空に排出される。
 
同様の施設があった英国セラフィールドの近海、アイリッシュ海には深刻な放射能汚染が広がっていて、周辺地域で小児ガンの発生率が全国平均の10倍だそうです。
現在も稼働中の沸ラ・アーク再処理工場の周辺では6倍。
 
放射能に関しては、ガンや甲状腺障害との因果関係、身体に及ぼす影響を証明しにくく、「年間被爆量が1ミリシーベルト以下なら安全」というふうに言われてきましたが、2005年には米国でもっとも権威のある米国アカデミーが「被爆にはこれ以下なら安全といえる量はない」と発表しました。
 
どんなに微量の放射能でも、細胞や遺伝子に傷つける可能性があることは近年科学的に証明されてきているのです。
それなのに、政府と事業主である企業は「人体の許容量の範囲内だから問題はない」として、強引に進めようとしています。
そこには宇宙観も世界観もありません。
 
作ってしまったものは使ってしまおう、という経済性しかない。
関係者と話したとき、「あなたはそのトンネルから出る廃液にまみれたわかめを食べますか」とたずねたら『食べます』とおっしゃいました。
 
「あなたのお子さんに食べますか」と尋ねると、「食べさせます」と。
なんと言ったらいいか、お互いつばぜり合いみたいな話し合いで、あんなに疲れた局面、場に居合わせたことはありません。
 
三陸の海はとてもよい漁場です。
良い昆布やわかめ、いか、銀鮭が獲れ、牡蠣や帆立の養殖も盛んです。
東北地方は果物、野菜、雑穀で全国でも有数の農産地です。
これまで頼ってきた海を、大地を、放射能や化学物質で汚すこと、汚染された自然を次代に残すようなことは、絶対にしてはならないと思います。
今引き返さなければ取り返しのつかないことになります。
 
経済界のある方にこのことをお話したら、「それは、各個人が、大変な努力を払って、自身の限界を超えていかなければできないこと」とおっしゃっていました。
私は落胆の先に、「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉を思い出しました。
ひとりひとりがしっかりと目を開いて、この国の行方を見据え、声をあげつづけていくことが大事です。
 
 
 
■ 大豆100粒運動とは
 
「良い食材を伝える会」を始めてから8年が経ち、もっと「実態」として変わらなければならないと「大豆100粒運動」を発案しました。
 
日本は食文化的に大豆圏であり、肉をあまり食べなかった日本人の陸のタンパク源として、大豆は食の中心を支えてきました。
豆腐や納豆はもちろん、みそ、しょうゆなど大豆の加工品なしに日本の食文化は成り立ちません。
 
ところが、その自給率を見てみると、わずか5%。
残りの95%は輸入に頼っているんですね。
輸入大豆はポストハーベストの問題もあるし、遺伝子組み換えの不安もある。
そればかりか、大豆の需要は世界的に急増していて、主要国で取り合いになっている現実もあります。
 
海の汚染で魚が、砂漠化やさまざまな病気で肉が食べられなくなったとき、頼るべきは大豆です。
「大豆立国」を目指さないかぎり、日本は近い将来、必ずや困ったことになります。
 
必ず豆に頼らなければならない時代が来る、との予想から『ことことふっくらまめ料理』農文京〉を9年がかりで書き上げ、出版したのが平成3年。
その思いは確信に変わっていったにもかかわらず、大豆の自給率は下がる一方でした。
その背景には、農協などを通すと国産大豆は高いものになる。
安い輸入大豆の押されてつくっても売れない、大豆を買わせたい国との外交問題ともからんでくる。とさまざまな問題がひかえています。
これを変えるのは容易なことではない。それならば、そういったことに左右されないところで大豆を育てることをはじめたらどうか。
その思いを「大豆100粒運動の意志」として表しました。
 
■ 大豆100粒運動に意志
 
生命は、もろいものです。
とりわけ、幼い生命は大変傷つきやすいものです。
それは、どれほど見守っても十分とはいえぬほどのものです。
このいのちを大切に致したく、手はじめに、
この国の大豆を再興することから手をつけました。
方法の第一は、学童が拳一杯、約100粒の大豆を撒き、
その生育を観察・記録し、収穫を学校で揃って食べることを
奨励拡大することです。
第二は、各風土の特質のある大豆、
即ち、在来品種とその食方法を調査・発見し、
復活・振興を促し、援助することです。
これは誰にとっても。興味尽きぬ命題で、生き甲斐にさえつながりましょう。
第三は、大豆の再興が、地域の着実な『底力』となるよう、
情報を交換し、「合力」することです。
 
そのように呼びかけた翌年から、具体的なものとなりました。
信越放送の強力で、長野県の小学校で大豆を撒いていただくことのなりました。
その成果、その後の広がりについてはさまざまな場所で話したり書いたりしていますが、そこから得たのは予想以上の手応えでした。
正直申しますと、はじめたときは、大豆をまく有効性をここまで認識していませんでした。
 
夏の暑い日も水遣りや雑草・カメムシ取りを行い、大豆の観察記録を書き続け、秋になって茶色く乾いてしまったときには「大豆は死んでしまったのか」とクラスで「いのち」について話し合い、その1年を絵や歌にし、オペレッタまでつくった小学生と先生。
大豆の撒き方、育て方から食べ方まで、丁寧に子供たちに教えることで「張り合いを見つけた」とおっしゃる地域のおじさん、おばさん。
 
「絆」という言葉がありますが、「よすが」がないと絆は育ちません。
適当なよすがは、あるようで簡単には見つけられないものです。
世の中にはさまざまな会がありますが、こんなに「具体的な」よすがを持った会はなかなかないと思います。
 
さらに、食物を育てること、観察することは、子どもたちの自発力、内発力を育てます。すなわち、自分で自分の道を切り開いていける子どもになるのです。
大豆を育てることは、子ども達が「生きる力」を育てることにもなるのです。
 
「まめに生きる」「まめまめしい」「まめに働く」。
昔から沢山の言葉にあるように、日本人の暮らしを支えてきた大豆を再興すること。
この運動を呼び水として「大豆立国」を目指すこと。
国産大豆は国を守るための一種の武器です。
大きな国際問題も、身近な場から悪くなることもあれば、改善されることもあります。
政策、外交抜きには考えられない難しい問題も、身近なところから崩れていくのです。
 
近視眼的に目先の問題だけを見ていると、視点がブレ、良い答えは出てきません。
何のために、どんな将来を描いて、今自分はこれを選んでいるのか。
「遠い視点」は志であり、理念であり、世界観、宇宙観です。
その視点を持ち、日々の暮らしひとつひとつに心を込めることが大事なのです。
 
食材を選ぶことに始まり、まな板を前に包丁を握ったとき、目の前の素材をどのように切るのが適切化を考えること。
翌日、翌々日の献立までも考えてその日の料理をつくること。
思想と祈りを持って、ものの本質と向き合い、真の合理性を生きる日々の生活に、神は宿るのだと覆います。
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
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池田 優

 

 

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