山ちゃんの食べもの考

 

 

その272
 



食は生命なり
「生命なきは食にあらず」とも云われますが、
人は多くの生命を頂く事で生かされている。
植物の生命も動物の生命も微生物の生命も、
土の生命も水の生命も空気の生命も、
すべての生命がつながって生かされている。
そんな「共生」の世界で生かされている。
「人は何を食べるのかによって決まる」とも云う。
肉体的な健康、長寿のみならず、
知性、思想、性格までをも決すると。
その食べ物の作り方、その食べ物の商いほう、
その食べ物の選び方、買い方、食べ方は、
その人の生き方、その考え方そのものであると。

                                   
(山ちゃん)
『食は生命なり』 【129】
 
『辰巳芳子 食の位置づけ』   より その7
 
 
■ 生きし生けるものとのつながり
 
伊藤
人と自然との関係性の回復にもかかわってきますね。
「人と自然とのつながり」というところでは、今世界的に地球温暖化の問題が緊急な課題です。
分子生物学者の福岡伸一先生が「食べることは単なる油差しじゃない。
燃料補給ではなく、食べものと自分との、分子レベルとの『命の交換』である」、とおっしゃっています。
それについて、先生は非常に共感されていますが。
 
辰巳
なぜ人は食べなければ生けないかっていうことを、もう15年位前から考え続けて、考えているうちに、「呼吸と等しく生命の仕組みなんだ」って気がついたんです。
でも、仕組みっていうものに対する答えだ出なかった。
福岡先生が著書の中でシューンハイマーの学説を引いて、食べなければならない理由を明らかに示されたとき、それはもう嬉しかったですね。
落ち着きました。
 
伊藤
食べているものが分子レベルでは、まさに私たちの身体になってくるわけですよね。
 
辰巳
そう、そうなんですね。
 
伊藤
それほど、深いつながりがある。
 
辰巳
そつながりっていうのは、昨日今日の関係性ではない。
非常にわかりやすい関係で言えば、お祖父さんぐらいの食べ方の影響は、簡単に私たちの中に認めることができる。
まあ、生命科学の方に言わせれば、何億年前までさかのぼって関係してくるんですけど、私たちもまた、これからの自分の食べ方が次ぎの世代にまで影響を及ぼしていく。
孫末代まで、責任は続いていくわけなんですね。
 
伊藤
自然との関係性というところで印象的なのが、「人は物より優位になる存在ではない。物と人は等しくつくられたものであり、兄弟である」という先生の言葉です。
生きとし生けるもの、在りとし在るもの、それと手をつないでいくという、その捉え方のユニークさ。
「ものたちとの関係性の回復」と言うことを繰り返しおっしゃっていますが、それはどういうところからの考えなのでしょう。
 
辰巳
それは単純ですね。
なぜかといえば、物は物自体のバランスで生きられんです。
だけど私たち人間は、物がないと生きていられない。
だから、人間は決して物より優位ではないと思う。
本当に兄弟間をもって生きなければならないと思います。
そして、神様はそれを望んでいらっしゃると思う。
 
伊藤
そこは強く心に響きます。
今世界は人間中心で、人は当然のようにものを搾取しています。
地球上に存在するあらゆるものを、思い通りに人間が使おうという。
そんな姿勢と先生の姿勢とは大変に違うわけです。
 
辰巳
聖書の「創世記」の初めに、ものに対する人間のあり方について「支配せよ」と書いてありますね。
その態度っていうのが、西欧の中には強くあるんじゃないでしょうか。
 
伊藤
そうですね。
今はもっとエコロジカルな、自然を敬う神学というのも出てきてはいますが、未だにその古い聖書理解というか、そこから起こってきた自然科学の考え方が幅を利かせているところはあります。
 
辰巳
私は子どもの頃から自然の中で暮らしてきたんですね。
東京都内にいたときも、近くに教育自然園というところがあって、森を眺めて暮らしてきた。
日がな1日そういうところにいて、自然に自分とものとは兄弟だっていう感覚、センスが育ったんだと思いますね。
それと、いろいろな食べもの、ものを扱ってくる中で、ひとつひとつのものから学んだことが大きい。
 
ものに相談しながらやっていかなければ、本当のよい味を引き出すことはできないのね。
それは「ものに手引かれる」という感じなんです。
プロの板前さんたちは、食材をこなす、という態度でやっていらっしゃる方が多いけれど、料理って、ものを征服することではないんですね。
それに従っていく、ものが手引いて、手を引っ張っていてくれるところへ、自分を添わせていく。
私のスープが他と違うと言ってもらえるのは、そのためではないかと思うんです。
 
伊藤
ものに従う。生きとし生けるものに従っていくという。
 
辰巳
そうですね。
そうすると、我が落ちていく。
それはとっても楽になることなんですね。
 
伊藤
その姿勢というのが、「神と人とのつながり」に強く結びついてくると思うんです。
我を出すとか、人間中心という姿勢ではなくて、もっと大いなるものに委ねていく。
それは多分に宗教的なものだと思いますが。
 
辰巳
宗教的というか、やっぱりつくりやすいんですね。
料理っていうのは、そうやってやるのがいちばん楽にできると思う。
生きていきやすい。
 
伊藤
先生のお料理に「霊性」があると思うのは、実はそこの点にあると思うんです。
本質を見て大いなるものにしたがっていく、委ねていく。
それは「救い」に向かっていくというか、その向かう道筋を示してくださっている、と。
 
辰巳
いちいち意識はしないけれど、時々はっきり、自分の軌道修正をしたりするときは、それを意識いたしますけどね。
 
伊藤
先生のお言葉で大好きなのが「風仕事」なんです。
素晴らしいと思うのは、風という言葉は仏教でも大変に宗教的な意味で使うそうですが、キリスト教では特に「風」というのはギリシャ語で「プネウマ」、「プネウマ」は「精霊」を意味します。
神様の愛の風であり、導きの源という意味がある。
その風仕事について、先生はこう書いていらっしゃいますよね。
「やれることはやるけれども、後はその風におまかせしていく」、というふうに・・・・・・。
 
辰巳
そうですね。
 
伊藤
それ、素晴しい。
 
辰巳
はぁ。神父様にそんなに読み込んでいただいて幸せです。
やっぱりそういうことを意識して、原稿を書いたと思いますね。
先日、農水省の主催で食育の講座と講習をしたんですけど、そこに今の日本を代表するような料理屋の板前さんが来ていたんですね。
その人が、私の話を聞いて、たいへんに感じるところがあったといって、後から感想を寄せてくれたんです。
 
25年料理に従事してきて、美味しいものをつくるっていうことだけ目指してやってきた。
それがこの間の話を聞いて、料理の向こう、おいしさの向こうにある世界っていうものに初めて開眼させてもらった、と。
やってきた人は一発でわかるんですね。
 
伊藤
その料理人の方も、何かを求めていらっしゃったのでしょうね。
 
 
 
■ スープと終末医療
 
伊藤
先生の生み出された食の霊性は、今の世の中に大変大きな復員となるものだと思います。
特にスープはそうだと思うのですが。
 
辰巳
この間、いちばん弟子の方に「私たちの周囲の人々が自然に『神よ、父よ』とおっしゃられるように、私たちは力を合わせましょうね」という手紙を書いたんです。
最近は本当にそう思っていますね。
とくにスープをつくっていると、心がこう、落ち着いて深まって、容易にその気持ちになれるんですね。
お弟子さんたちにその道を説いたことはないんだけれども、やはり皆さん自然にそうなってくださるように思います。
素直な心になって、自然の中における自分の位置づけを果たしてくださる。
そうすると、自然に「神よ、父よ」と言えるようになるはずなんですね。
 
伊藤
いままで長くいろいろなことをやってらっしゃった、求めてらっしゃったことの帰結が、この現代社会の中で、答えのようにスープという形で出てきたということなんでしょうか。
 
辰巳
そう思います。
スープは特に、終末医療に欠かせないんですね。
 
伊藤
ああ、そうですか。
 
辰巳
終末医療では、「安心立命」という言葉があるように、亡くなっていく方が神仏にご自身を委ねることができるよう、お手伝いすることが必要なんですね。
どうしても神仏との出会いを果たしていただかねばならない。
でも、科学的な、管からからだに流れ込んでくるものでいのちを支えられながら、意識を神に向けていくのは、なかなか困難であろうと思う。
だから、口から入るもので、意識を集中するものをお助けできることができればいいなあと思っているんです。
 
食道が細くなって、食欲もなく、食べものが何も喉を通らなくなった方が、私のスープだけは通るとおっしゃった。
細い針の先のようなところを、私のスープは通っていくと。
人間の尊厳のひとつは、最後まで「美味しい」と思うものに養われることだと思います。
スープにはその手助けができるんです。
 
もうひとつ、終末医療に従事する方は、食べ物だけでなく、亡くなっていく方の「時間」を支えなければならない。
単なる看護ではなく、言葉もかけていかなければなりません。
だから、それらに従事する方は、死生観というものを特に深めていかなければならないと思います。
死生観なんてそんなに急に深めようと思っても深められるものじゃない。
そのあたりのことをもう少し、教会が社会的意識を持って乗り出していらっしゃるといいと思う。
その方々の考えを深める、焦点をつくってさしあげる仕事をしてくださるといいいなと。
 
そうですね。
そのとき福岡先生のお話にある、食を通してすべての生きとし生けるものと自分の身体はつながっているという、そのことの理解もとても重要になってきますね。
 
私たちの身体はひとつの緩い結び目に過ぎない。
他の生き物も、すべてはつながっていて自然の循環の中にいる。
そんな生命科学における自然観。
 
人は自然と、そして神とのつながり支えられて、そのつながりと支えの中でずっと生きていて、死んでも単に無になるのではない。
「神に愛の中に復活する」とキリスト教では言いますけれど、他の宗教でも、無になるのではなくて「大いなるいのちに中に入る」とか、いろいろな言い方がある。
 
食というものを通して、それを深めていける。
新たな自然観、死生観というものを、食を通して示して生けたらいいと思いますね。
 
 
 
■ 食の小窓から見えてくるもの
 
辰巳
でも、面白いものですね。
私のことを見抜いている弟が言うんです。
お姉ちゃんって、お料理が好きな人じゃなかったんだけど、って。
私はそれは認めるのね。
母のように、好きで好きで仕方なくやった人とは違う。
本当はそんなに好きじゃなかった。
 
だから、そういう霊的なことを考えながらやったんだと思うんです。
そこに意味がないとやれないところがあった。
それで、いろいろ自分の中で打ち立てていったんですね。
 
伊藤
「自分のいのちは自分のものであって、自分のものではない。仕えていくいのちである」ともおっしゃっています。
すごい捉え方だと思いました。
 
辰巳
体調が悪くて何もつくる気がしない日が続いたとき、ふとまな板の前で手を合わせてみたんですね。
すると、ことりと落ちるようにわかった。
自分のいのちは自分のものではなく、仕えていく命だと。
 
年をとると、自分ひとりのために食事の用意をするのがどうしても億劫になる。
でも、自分で自分に使えていくんだ、そんなふうに思ったら、いっぺんに荷が軽くなるはずなんですね。
 
伊藤
それはもう、年配に方にとって、大変な福音であると思います。
 
辰巳
『慎みを食卓に』(NHK出版)という本の前文の中にも書いたんですけど、人はなぜ食さねばならぬか、という命題を生きると、真の意味で人はなぜ生きるのか、という根源に容易に至ると思う。
 
伊藤
そう考えると、死生観というものに関しても、食が大きな力を与えてくれるのではないかと思います。
 
辰巳
食を通してだと、シンプルに行き着けるような気がいたしますね。
 
伊藤
しかも食のすごいところは、理屈ではなく、何よりまず「味わう」ことにあるので、「体験」することができる。
 
辰巳
そう、そうなんですね。
 
伊藤
今の宗教の世界で、私はこう考えているんです。
教会に来る、あるいはお寺に行くこともそうなんでしょうけど、みんながいちばん求めているのは理屈による救いではないんですね。
みんなが求めているのは、その救いを体験することであって、言い方を変えると、救いを味わうためにきていると思うんです。
 
そうすると、味わうことを助けるために理論理屈があるわけであって、究極は体験こそが救いである、と。
食というものに秘められているその大切さというものは、本当の救いを味わえる大事な神との出会いの窓口になるんじゃないか。
そう思えるのですが。
 
辰巳
そうですね。
きっかけになればいいと思いますね。
 
伊藤
「食の窓は、一見何気ない小窓のように見えますが、広く深く、しかも明確、歴然」とお書きになっています。
もちろん色が神だというつもりはないのですが、しかし、その「食の窓」を通して、本当の救いと出会っていける、愛と出会っていけるのではないかと。
 
これまで教会では「快楽や贅沢につながる」ということで、食とは距離を置いていたと思うんですね。
でも、先ほど申し上げたように、いまの時代はそうではないと。
 
食がこれほど乱れているわけだし、やはり食は関係性の中心にあるもので、食を通して関係性を修復していくことができるのではないかと。
だから、教会もキリスト教自体も、食というものをもう一度見つめなおしていく必要があると強く思います。
 
辰巳
ねえ。逆説的なんですけれど、たとえば、放射能などでその辺の食べものが全部汚れる、そういうような事態が起こったときのことを考えてみればいいと思う。
それを食べれば必ず何らかの害が身体に生じてしまうものだけしか身近にない場合、「これをお食べ」といわざるを得ない。
 
そういう事態が生じたときに、教会は神を父だといいうるか。
いえなくなってくると思うんです。
それを考えてくださると、もっと教会も、宗教家も、食のことに関心を持っていただいていいと思う。
 
伊藤
それだけ真剣に、教会をはじめいまの宗教会全体が食といのちのつながり、私たちの生活全般とのつながりって言うものを捉えなおさなければいけない。
 
辰巳
そう。そこを根源的に考えてほしいと思います。
 
おわり
 
 
 
 

 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
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池田 優

 

 

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