山ちゃんの食べもの考

 

 

その41
 


9月11日のアメリカにおける同時多発テロ事件依頼、痛ましくもあり悲しく険悪なニュースが連日のテレビ、ラジオ、新聞で繰り返し伝えられてきます。このことは決して遠い他国の出来事でも他人事でもなく、現在の私たち自身の生き方や考え方について大きな問題を投げかける奥深い示唆があるように思われ、切々として心をとらえて離さないのです。
舞台はアフガニスタンに移り、世界を挙げて事件の解明と解決に当っているようですが、武力をもって人が人を攻撃する生々しい悲惨な映像は、見るに耐えないものがあります。3ヶ月を経た今、タリバン勢力はカンダハルを明け渡し武装解除に応じたということですが、交戦はまだ続いています。一日も早く平和裏に終息されることを願わない者はありません。


このまさかと思われる事件は、われわれに何を物語っているのでしょうか。私ごときに解析できることではもちろんありませんが、このことは、これまでの優勝劣敗、極端には目的や欲望達成のためには手段を選ばないという、勝者生存の原理による「競い合い、争い合う」ことを是とする、「競生(せりいき)」的な生き方や考え方に対して、新世紀を迎えて生きる私たちの心に、「共生(ともいき)」的な生き方や考え方を第一義としなければならいという、強烈な教示ではないだろうか。今、私たちの生き様に、未来に向っての大きな問いが投げかけられているようにも思われるのです。


 われわれ日本人は、第二次世界大戦の戦中戦後における混乱期に、子どもたちにも満足に食べさせることも出来ない辛酸をなめてきました。幸いにも戦後の急速な経済発展で、世界の羨望を集めるような平和でもの豊かな社会を築き上げることができました。食の世界においてもその経済力にものをいわせて、世界中の美味・珍味を買い集め、美食・飽食をほしいままにする爛熟ぎみの今日です。
 富める人と貧しき人、富める国と貧しき国、富める世界と貧しき世界があります。今日、世界では8億とも10億ともいわれる飢餓人口、生きるための最低限度の食べるものさえ保障されないという貧困を極める国々がある中で、食糧自給率が40%の日本は世界一の食糧輸入大国です。しかも、ほぼその同量の食べものが生ごみとして廃棄されているという贅沢な食生活をおくっています。そしてその自覚も十分にされていません。
 バブル崩壊からもうかなりの年月を経ていますが、民間の中小企業から、まさかと思われる国の事業、大手企業までもが経済的破綻をきたし、不況の波は拡大するばかりで、倒産やリストラ、過去最大の失業率など、先行きはますます不透明感を増しています。もう登り坂一辺倒の経済至上主義的価値観や物差しでいくはずもないことは、誰もが気づいていることではありますが。


 戦後も遠い昔となって、日本人は世界でも類を見ない自由で、平和で、豊かな社会の中で、常に右肩上がりの生活を当たり前としてきたことは事実です。それを支えてきた神話ともいえる方程式があらゆる局面で音を立てて崩れていっています。今、先の見えない不況の中で「日はまた昇る」を期待して政界、財界、民間ともに戦っていますが、旧方程式の崩壊は誰の手によっても止めようもないもののようであります。
小泉首相は、国民に「痛みに耐える」ことを訴えています。これまでの不況とは根本的に違う、社会の仕組みそのものの転換が必要なのだと。そして今日なお小泉内閣への高い支持率は、多くの国民が「痛みを訴え」ながらも「痛みに耐える」ことに共感し、同意しているようにも思われます。
新しい時代が始まるとき、これまでを支え、主流とされてきたモノの見方や考え方や価値観そして仕組みが大きく転換されます。これまでを謳歌し支配してきた思想や制度や勢力が、まわりのすべてを巻き込み大きな「痛み」を伴いながら崩壊していく、やがてまったく新しいモノの見方や考え方や価値観をもった思想や勢力によって、新しい制度や仕組みが生み出され構築されていくことになります。
これまでもっとも是とされてきた価値観が、最大多数の人々によって否定され、旧体制、旧勢力が崩壊するとき、否応なしに、余すところなくほとんど多くの人々に、耐え難い「痛みに耐える」ことを要求する。だれもが「痛みに耐え」歯を食いしばって「生みの苦しみ」を味わわねばならない。ひと口に「価値観の転換」といっても現実は厳しい。「痛みに耐え」かねて、背に腹は替えられない、これまでの方が良かったと弱音を上げかねない。


「痛みに耐えよ」とはどういうことなのか、長期的にそして具体的にイメージしていかなければならない。「痛みに耐えよ」は小泉首相の言葉ではなく、国民の自主的な意識であり、固い決意でなければ意味をなさないと思うのです。
「痛みに耐えよ」とは、しばらく辛抱しよう、そうすれば、かつての仕組みや繁栄が再来するであろうというものなのか。それとも、もう高度経済成長期のような生き方や考え方の時代ではないから、もっと別のやり方で新しい経済発展によるモノ豊かな社会を再構築しようというものなのか。
あるいは、旧来の経済至上主義とは根本的に違って、モノの豊かさが生活を潤し贅沢三昧に振舞ってきたような、自分さえ良ければいい、日本さえ平和で繁栄すればいいという独善的な社会はもうありえないものである。自然や世界の人々と「共生(ともいき)」を旨とし、これまでの贅沢・浪費の考え方や生き方を廃して、質素・堅実を旨としなければならない。見方によっては厳しい冬の時代の到来はやむをえないものであり、そのことに耐え、あたり前として、慎み深く心豊かに生きようということなのか。


予測だにしなかった不況の中で、企業経営も国民の生計も厳しさを増すばかりで、いよいよこの先の見通しも立たない不安に困惑している。当面の経営や暮らしにも、まさに「背に腹は替えられない」という状況に追い込まれる。当然のことながら小泉内閣に対する「経済対策・景気回復」の声はいよいよ高まるばかりである。にもかかわらず依然として「構造改革なくして経済成長なし」を掲げる小泉内閣の支持率は依然として高く、国民の政治に対する関心も高まっている。これは、これまでの社会の成り立ちの仕組みを大きく変えなければならないことに対して、多くの国民が基本的に支持するところだと思うが、構造改革に伴う痛みは一人ひとりの暮らしや企業経営にどのように現われてくるものなのか、なかなか具体的には想像し難い。きっと生易しいものではないであろう。殊に自らを否定せざるを得ないこれまでの権力層、権益層、勢力層にいたっては、その改変と痛みを受け入れることは容易なものではないであろうし、いわゆる抵抗勢力として改革への大きな障壁になるであろうことは想像に難くない。「総論賛成、各論反対」から、「総論否定、各論反対」の動きも出かねない感である。


経済評論家の内橋克人氏は、その著書『浪費なき成長』の中で、「今や“いかにものを買わないか”に知恵を絞り、浪費を自戒し、暮らしの改革に取り組み始めた消費者のほうが、ひと足速い改革実践者ということになるのではないか」「そのことは単に消費者の生活防衛にとどまらず、地球環境・資源問題に処する望ましいあり方である」「膨張大量生産、膨張大量消費、短サイクル、大量廃棄、そうした戦後の日本経済を支えてきた“浪費型経済構造”は行きづまり、“グローバリズム”の名のもとで進められてきた“規制緩和一辺倒論”も破綻した。消費者は本当の豊かさを求めて人格を持つ、理念ある経済行為を価値高い生き方として選択し始めた」「浪費型社会から脱却し節約と成長が両立する理念型経済社会を目指すしかない」と説いている。
子供や家族との絆を犠牲にしてでもガムシャラに働き、収入が確実に増え続けていかないと社会についていけない。掃いて捨てるほどあり余るモノに囲まれていないことには、生きることへの安心も豊かさも価値も見出せない。そして、この社会が、更なる浪費と廃棄を促進する経済成長によってしか、人々が豊かさを実感できる安定社会を見出せないとしたら、それは悲劇だ。高度経済社会に酔いしれた現代社会が抱える大きな疾病であり、一日も早く癒されければならない「社会的生活習慣病」といえよう。
21世紀の「共生(ともいき)社会」に適応出来なくなった「高度経済成長依存型症候群」の治療にはかなりの痛みを伴うかもしれない。


私たち一人ひとりが毎日の暮らしぶりを振り返り、「物を大切に生かして使いきる」「贅沢な暮らしを慎み、できるだけ質素に生きる」「浪費を抑え、不必要な物は買わない」そして、社会全体が子の時代、孫の時代、次の世紀の時代まで展望して、永続的な循環型経済社会を構築していくためにも「余分なものは、作らない、売らない、消費しない」。そんなあたり前の生き方、考え方を把持していかなければならないのではないか。
それこそ、碩学、安岡正篤先生の説かれた「本質的視点、長期的視点、多面的視点」に立って、世界の自然、世界の人々との「共生(ともいき)社会」を創造していく、心豊かな人間性尊重の良心的生き方が尊重される社会的価値観を、未来を託す子どもたちにも育んでいくというグローバルな視点での発想が必要なのではないだろうか。

● 農業こそが平和の象徴である
 12月9日の『日本農業新聞』“四季”の欄に多くの示唆に富む次の文章が記載されている。
 農民と難民が食料生産を再開し、農場に帰ることを支援するのは戦乱のアフガニスタンで12月の重要な挑戦である。――国連食糧農業機関(FAO)の直近レポートだ。まもなくFAOスタッフはカブールで活動を始め、地方の事務所も再開する。
 アフガニスタンの人口2200万人の85%が農民。長い占領と内乱が終結し、タリバン政権下で生産は回復するかに見えた。コムギ、米、果樹や畜産が基幹生産物だ。しかし昨年、大干ばつが襲い生産は半減し、深刻な食糧不足に陥った。苦境の中で戦火の追い打ちである。
 レポートは現状をこう伝えている。「コムギは干ばつと軍事行動によって危機にあり、家畜はこの冬を乗り越えられないだろう。灌漑システムは壊滅、外貨を稼ぐ果樹も」
 FAOはまず北部州向けに1500トンの小麦種子を準備する。難民には春野菜の栽培キットを提供。家畜の餌1800トンと牛1万8000頭の供給も計画した。農業生産の再開こそが、国の再興につながる。
 今回の軍事行動の鍵を握った隣国パキスタンも干ばつに苦しんでいる。米の生産は4分の1になった。同じく北隣のタジキスタンもFAOの警告対象である。農業こそが平和の象徴と思える。


今私たち日本人は、先行き不安な不況に直面しているといいながら、三度の食べものにも事欠くというわけではない。食料輸入が活発な中、東京の青果物市場で野菜の11月の月間卸売価格が、過去10年間の最安値を記録したという。数量が特別増加しているわけではなく、むしろ出荷量は前年を下回っている。野菜も果物もこれ以上の価格安を防ぐために、産地では出荷調整や廃棄処分が行われているが、安くなければ売れない時代から、安くても売れない状況になってきた。国民の安価で便利な加工食品への極度な依存化は、日本の農業の存続を危くしている。何がいつ起こるかもわからない。
私たちは現在のアフガニスタンの状況を他人事として捉えていてはいけないと思う。現代世界の歪みによる疾病、世界人口のごく一握りでしかない先進国の横暴な手段による暴飲暴食が祟って、一つの局部に耐え難い痛みとして現れているのかもしれない。私たちは一日も早く考え方を改め、平素の生き方を改めて、慢性化した独善的な「経済至上主義生活習慣病」を克服する根本的治療を行わないことには、病いは転移し、取り返しのつかないことにならないとも限らない。
私たち日本人はまことに恵まれた自然環境の中にある。自分たちの食べものぐらいは、まともに良心的に作れるまともな国にならなければならない。



 

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生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
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池田 優

 

 

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