山ちゃんの食べもの考

 

 

その42
 


 「食べ過ぎていて、食べることへの感動がない」「満たされ過ぎていて、満足が得られない」「平和に慣れ過ぎていて、幸せが感じ取れない」
こんなにも平和であり、豊かであり、恵まれているのに、満足が得られない、感謝が出来ない、私的な欲求ばかりで身を投げ打ってでもという公的な目的が持てない、辛いことには意欲が湧かない、損得勘定が先に立つ。あり余る中の満腹は欲望を満たすことなく歪んだ欲望を生む。食べることの意義を見失い本質を逸脱し乱れる。こうして欲望はますます肥大化し堕落する。長い長い道のりをかけて先人が築き上げてきた大切なものを崩壊する。食うに困らないことは結構なことだが、食べ過ぎ、満たされ過ぎによる食の堕落は、肉体ばかりでなく精神構造まで蝕み破壊する。


 自給率40%で世界一の食料輸入大国。作れないわけではない、足らないわけではない。世界の人々が一人当り消費する食べものの約2倍を消費しているという。そんなに食べられるわけがない、もったいないことに、たくさんの食べものが捨てられているのだ。それでも減反減反で農家は米も作れない。
 日本の農産物は高いからといって外国から大量に輸入されている。私たちが価格の安さや便利さを求めて走る加工食品や外食などのほとんどに、外国産の農産物が大量に使われている。農産物ばかりではない、畜産物も水産物も大きく輸入に依存している。こんなに歪んでしまった不安定な食料構造の国でありながら、今日の食べるものが満ち溢れているからといって、明日の食糧事情になんら不安を抱き、なんら心配する気配もない不思議な国なのである。外国から買ってくれば安くていいじゃないか、何もわざわざ高いものを買って百姓を養うことはないということなのか。
パンや麺・菓子に使う小麦の90%以上、日本人が一年間に食べる米の量の1.6倍のトウモロコシがそのほとんどを家畜の飼料用に、われわれの食生活に欠かせない味噌や醤油・豆腐・納豆の原料である大豆のほとんど、私の大好きなそばの80%など、他の穀類も野菜も果物もどんどん輸入されている。
 日本の農家がべらぼうに儲けているとか、怠けているからそうなるということでは勿論ない。かつては工業先進国であった日本の経済至上主義がもたらした賃金格差、つまり構造的に日本人の生活水準というか贅沢レベルが桁外れに高いからだ。


 あらゆる産業に日本の空洞化が進みつつある、働き場がなくなる。いつまでも自動車や電化製品、工業製品が人を雇ってくれるわけではないし、飯を食わせてくれるわけではない。何があろうと日本人が生きるための最低限の食べものは自前で作る力を持たねばならない。しかし、為政者にも国民にも、日本の農家に日本人が安心して食べていけるだけの日本の食料を生産してもらうのだという発想や施策がないかぎり、このままでは日本の農業は確実に崩壊する。農業者のひとりの問題ではない、むしろ消費者が永続的に食べ続けていくことが保障されるや否やの問題であることが、広く認識されなければならないのである。「日本人はこれからいかに食べていくのか」ということを、国民全体で考え、解決していかなければならない重要な問題なのである。
 日本農業の崩壊は日本人の食料基盤の壊滅を意味する。捨てるほどあり余る食べものの豊かさ、美食・飽食は、何の裏づけも基盤も根拠もない瞬時の幻であって、今や危機一髪を目前にした砂上の楼閣なのである。「買ってくればいいじゃないか」という問題ではないことをもっと明らかにすべきだ。
 他の先進国にならって、崩壊寸前にある日本の食料生産基盤である農業の空洞化を埋めることは、日本人全体の命に直結する緊急課題なのである。


 「食べるために生きるのか、生きるために食べるのか」という話もあるが、これは、人は何のために生きるのか。欲しいまま、ただ食うだけの肥えた豚になってはいけないという戒めでもあり、何のために食べるのか、食べる資格があるのかと、その「生き方、食べ方」が厳しく問われているようにも思う。
 生かされているこの命は食べることで「生かされている命」である。人は食べることなしには生きていけない。食べることは、他の生き物の生命を奪い、その生命を食べることで己の命を養い、命をながらえることができている。
 「何を食べて生きているのか」がよく認識されていない。「食べものは単なるモノではない、命なのだ」という最も大切なことが子どもたちにも伝えられていない。ビニール袋や箱に詰められた加工食品、切り刻まれて美しくパックされた生鮮食品、味付けされ煮たり揚げたりした惣菜、ファーストフードやレストランでの外食。そこからは生き物の命は見えてこない。自然から遠のき、あまりにも生産現場から乖離してしまった。一切れのステーキに旨いの軟らかいのと薀蓄はたれても、牛の悲鳴もいただいた命も見えてはこない。米の味がどうの農薬がどうのと好き放題は言っても、一粒の米に込められた百姓の心も汗も米の生命も感じ取れない。
 生きることは他の生命を殺し、奪い続けることに他ならない。「生きるために食べる、食べるために他の生命をいただく」。人間として正しく生きるために、貴重な生命をいただいているのだということの認識ができないから、「いただきます」の心がわからない。食べものを粗末にする、いただいた生命を平気で廃棄する。「もったいないことをするな!」「そうですね、買えば300円はするわね」という感覚。これでは供してくれた食べものの命は浮かばれない、作った方の心も苦労も報われない。


 人類はこの世に誕生して以来すっと飢餓の歴史であったといわれるが、人々は食うや食わずで生きることさえ厳しい貧しさの中にあっても、神を敬い自然にも畏敬の念を抱いて、食料生産に勤しみ、崇高なる精神を培い、食べること、生きることへの尊厳を伝承してきた。いつでも好き放題に食べられる豊かさの中に浸っていて「食うだけのことぐらいなら……」と簡単にいう。冗談じゃない。人は碌に食べることもできない苦しみの中で多くの悲劇を繰り返し耐えてきた、そして命を繋いできた。
 日本でも、有名な『楢山節考』という話があり、その貧村の風習に70歳になった老人が自ら覚悟して口減らしのため山に捨てられていく、なきにしもあらずの悲しい話である。口減らしでは、貧しさゆえ「娘が売られていく」という、今日では想像もつかない食べることの難しさによる多くの悲劇が現にあったのだ。百姓をしていても米の飯は滅多に食べられなかったというのはそんなに遠い昔の話ではない。『おしん』のダイコンメシの類の話も珍しいことではない。それに、ほんの4、50年程前まで、たいていの子どもはいつも腹を空かせており、たまの果物1個も兄弟何人もで分け合って食べたものである。リンゴやナシの皮はおろか、芯まで食べ切ったもので、思えば栄養的にも利口な食べ方をしていたことになる。
今、たらふく食べることができるばっかりに、食べものへの不足不満はあっても、こうして、毎日たくさんの生命をいただいていながら、「食べることのできるありがたさ、幸せ」が感じ取れなくなっているとはなんと悲しいことだ。
 日本では今、美食・飽食・乱食で、かつては帝王病、皇帝病といわれた食生活由来の生活習慣病で多くの人が病み苦しんでいる。そしてやれダイエットだ、やれ栄養補助食品だ、機能性食品だと大流行り。何かおかしいではないか。

 
 厚生労働省の発表では、今年100歳以上のお年寄りは1万5000人を超えたと言う。ダイエットだの栄養補助食品だの機能性食品だの、お世話になるどころか、半生以上は食べる自体が至難な時代を過ごされてきた方々である。私たちは長寿者の食生活はもとより、その生き方や考え方から真摯に学ばなくてはならないのではないか。
 今年の6月1日に満100歳を迎えられた、東京都足立区にお住まいの金井ふみさんが、9月12日の「日本農業新聞」に紹介されていた。一見平凡にも見える中に、私たちが見失っている大切な教訓が多く読み取れる。
 「今も畑作業をするなど、元気に働いている。“今まで医者にかかったことがないのが自慢の一つ”という。金井家では、昔から農業を営んできた。戦後の都市化が進む中、息子夫婦と共に野菜を栽培し続けてきた。専業農家として最近まで市場に出荷してきたが、今年になって息子さんが亡くなり、畑の規模も縮小してしまった。今では自家消費分しか作っていないが、収穫した野菜で、手作りのお新香を作るのが楽しみ。近くに住む娘夫婦の店でも販売している自信作だ。孫が20人、ひ孫が36人、玄孫(ひしゃご)が1人おり、昨年の白寿祝は50人以上が集まってお祝いした。今は4世代同居の7人住まい。孫やひ孫たち若い世代と一緒に暮らしているのが、元気の源のようだ」
 何不自由なく食べられるようになった。便利になった。だが、より豊かな幸せを求めていながら満たされた感覚も幸せ感も実感できないとしたら、それは何故か。決して豊かではなく、困窮にも耐えねばならない中で築き上げてきた先人たちの、失ってはならない人間としての基本的なスピリット、ものの見方・考え方、生きる意味、日本人としての知恵の文化の数々が忘れ去られてしまったのではないか。


 「ありがとうございます。お陰さまで、今日もこうして美味しく食べさせていただきます」。ヒトに、モノに、コトに心を馳せ、感謝していただかねばならないことを思うとき、もったいなくもなんとバチ当りな食べ方をしているのだろうと自責の念に耐えられなくなることもあるのだが……。あたり前のようにいただいている食べものが、決してあたり前ではなく、多くの生き物の生命、お世話くださる方々の熱い思いがこめられた、ありがたきものであることを心したい。
 今朝のNHKテレビ、朝の連続ドラマ『ほんまもん』で、父親の一路が娘の木葉に、「料理は愛だ。素材への愛、それを作ってくださった方への愛食べてくださる方への愛。料理は単なる技術ではない」と。
 もっともであると感動した。私たちがなんとなくいただいている一粒の米にも、一箇のミカンにも、一本のバナナにも、お魚にも、肉にも、味噌、醤油、漬物にも、ありとあらゆる食べものの一つひとつに、長い長い命の歴史が有る、人々の歴史が有る、尊い汗が有る。涙もあろう、悲しみもあろう、苦しみ、喜びもあろう。一朝一夕にしてこの食卓に供されているものは一つもない。
 「ご飯を食べるときぐらいキチンと座って食べろ。いただいて食べろ。小言を言うな。いやなら食べるな。もったいないことするな。文句を言うとバチが当たるぞ、ゲップがでるほど食う奴があるか。残すくらいなら初めから食うな」。静座して手を合わせて、頭を下げての「いただきます」「ごちそうさまでした」は当然のこと。明治生まれの祖母や父は、年端もいかない幼少の子どもたちに、厳しい食事の躾と共に食べものの大切さ、ありがたさ、尊さを教えた。一人ひとりの引き出しつきご膳があって、食器は毎回洗うことはなかった。お湯やお茶を注いできれいにすすいで全部いただくのである。大方の家はそういうふうだった。少し意味がわかったのはずっと後のことである。


 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 



生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

 ◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

表紙へ戻る