山ちゃんの食べもの考

 

 

その43
 


 お腹が空いていれば何を食べても旨い。「空腹は最大のご馳走なり」と言われますが、まさに名言だと思います。たまに外孫たちと食事をするときの私の楽しみは、孫たちの満足げなその食いっぷりを見ることにある。ドッヂボールをやっている食べ盛り、育ち盛りの小学校4年生の男の子はかなりの大食漢で、最後には皿まできれいになめる始末。顔を紅潮させて「ああ、おいしかった、ごちそうさま」と満ぱいに詰め込んだお腹をさする様子を見ながら、美味しく食べること、食べたい物がいつでも食べられることの幸せを実感します。
 「お腹が空く」。人は寝ている間もエネルギーを消費し、朝になればまた空腹感を覚え、食べ続けることで生きています。空腹感は人間が生きていくためのもっとも基本的な生命維持機能の働きであって、エネルギーの補給が必要になると必然的に空腹感を覚え必要な食べものを食べる。そして時間がくるとまたお腹が空き、毎日三度三度の食事が美味しく味わえ食べられる。このことは私たちが生き続けているかぎり生命維持のため働くセンサーによるものであり、美味しく食べたあとの満腹感は、必要なエネルギー源は充分補給されたからもういいよというセンサーによるサインです。中には「別バラ」という人もあるが、大好きな「まだケーキがあるの」といっても、今はもうこれ以上もう食べられない。

 空腹感の度合いによって食欲の強弱が変わる。食べたくても満足に食べるものにありつけないなどの状況に追い込まれると、耐えられない強烈な空腹は飢餓感につながる。そうなると食欲は食べられるものなら何でも食べるように生命維持機能が働き、「食べ方、生き方」を工夫させる。人類の歴史は空腹や飢餓との戦いであったというが、そんな中で、人々は己の生命を維持し子孫を残すために食を採取し、生産し、加工し、保存し、調理し、健康を保持するため、それぞれの地域・風土・環境に合わせた、もっとも適切な食の体系、食習慣、マナーを含めた食文化を培ってきた。それは日本の伝統的な食体系や食文化だけではない。世界のあらゆる国々や地域における食体系・食文化は、その地域に住む人々によって何千年、何万年という耐えがたい空腹や飢餓のなかで「何を食べるか、どのように食べるか」、窮乏生活の歴史の中で、その人々の知恵と経験から生み出され、築き上げてきた特有のものである。いわば、それこそがその土地の人々が健康に生きていくためにもっとも適切な基本となるべき食の体系であって、他の人々によって冒されたり歪められたり、また、簡単に他のものに置き換えられたりしてはならない「身土不二」の食文化なのであります。


 人は食べることによって生命を維持できたし、人は食べなければ生きてはいけない。だが、食べられるものなら何でもいいというわけにはいかない。本来人には「食べなければならない物、食べてもいい物、食べてはいけない物」を取捨選択する大事なセンサーが機能している。適度な空腹、正常な食欲、正常な味覚は、その人の体に今必要な食べものは何なのかを選ばせるように働くセンサーである。
 空腹はエネルギー補給のために食べものを食べることを指令する。食欲はその人が何を最も食べたいと思い食欲をそそられるか、何を嫌い拒否するか、そのときの体が必要とするものの要求に応じて、もっとも適切な食べものの種類を選択させる。食欲と連動して味覚は、何を美味しいと感じるか、まずいと感じさせるか、食べものの安全性、質、バランス、量を選択させ決めさせる。人それぞれに、地域差があり、年代差、体質差、食性差、おかれた環境の違がある。生命維持機能は人それぞれにもっとも適応した食への実に巧妙な指令を出し働いている。


 地域の違い、民族の違いによって、また人によって食欲や味覚のセンサーの働きが違い、これには3つの大きな要因がある
 その一つは先天的な遺伝子による働きである。その人の命が、遠い遠い先祖以来、何を食べることでつないでくることができた命なのか、何を食べることがいちばん適切なのかを選択させる遺伝子がその人の味覚となり食性となって刷り込まれているからである。それが「ああ、お腹が空いた、あれが食べたい、これがうまい」とその人にとっての適切な食べものを選ばせている。
 もう一つは後天的な生後の食体験によって培われた食習慣と味覚体験によるものである。その人がこの世に誕生して以来何を主として食べさせられ、何をどのように食べてきたかという、食体験や味覚体験が脳に刻み込まれ、その人の年代や体質や体の状態に合わせて反射的にかつ適時適切に食を選ばせる。
 生命維持機能としての食欲や味覚は、きわめて防衛的であり、また時には保守的であったり冒険的であったりする。腐ったものや体によくないもの、食べてはいけないものに対しては、味覚のみならず視覚や嗅覚・触覚などの五感をフル動員して拒否し排除させる。まったく未経験な食べものに対しても、それは自分の体にはそぐわない異質なまずいもの、口に合わないものとして排斥しようと働く。また、たとえ大好物であっても、昨日・今日、朝・昼・晩と続いたのでは、空腹感があっても食べたいとは思わない、美味しいとは感じない。同じものばかりに偏っては体のためには良くないよと、必要な栄養を摂取できるバランスの取れた食べものや食べ方ができるように働く。そうかと思えば貪欲な食欲は、他人の旨そうに食べているのを見て、これまで食べてみた経験のない未知なものや、感覚を魅惑させるような美味・珍味食指を動かせる。果ては人類がかつて食べるものが何にもなく、時には毒物かもしれないものにまで食指を伸ばした冒険的な遺伝子が働いて、珍奇なものまで食べてみたいという好奇心を働かせる。
 このように、私たちの生体は必要に応じて空腹を覚えさせ、正常に食欲と味覚センサーが働いて、基本的には「その人の、その時に応じ、必要なものを、バランスよく、安全に、おいしく、適量を、取捨選択させ、摂取させている」。そのことによって、生涯にわたる健康な生命体が維持されていく。
 しかし私たちは、わずか50年ばかりで大きく様変わりしてしまった日本人の食生活をしていますが、この食べものや食べ方でいいのかどうか、空腹感、食欲、味覚が正しく機能しているかどうかも併せて考える必要があるようです。


 「お父さん、お兄ちゃん、ご飯ですよ」とか「久しぶりだから、飯でも食いながら話さないか」などという。この場合「ご飯」は米の飯を食べることを意味してないことは言うまでもありません。しかし私たちの先祖は、お米の飯を食べることが憧れであり、「さあ、ご飯をいただきましょう」は食事をいただくことへの代名詞でした。日本人にとっての最も恵まれた食事は、貴重なお米の飯を食べることを意味し、きょうも家族そろってお米の飯にありつけることに感謝し、最大の喜びとし、幸せとしてきた証の表現であります。
 日本の地域・風土に合致し、日本人の食性にもっとも適った米は、毎日食べても決して飽きることのない美味しく理想的な食べものでした。だから空腹・食欲・味覚という一連の生命維持機能センサーは、昨日も今日も明日も、朝も昼も晩も、365日「ああ、お米のご飯が美味しい」と働く。お米は人々の命綱であり幸せの鍵であったのです。瑞穂の国の日本人には米を作り、米を主食とし、米を食べることが何よりも健康に生きることの礎でありました。
 私たちの先祖は、家族全員が1年間を食べつないでいくために、農家もそうでない人も、決して十分ではない米を大切にし、保存し、他の雑穀や野菜や山菜、魚貝類や海藻などを巧みに取り入れ、特有の加工方法や保存方法をあみ出し、世界にも類を見ない伝統的な健康長寿の食体型、食文化が築いてきました。「お父さん、お兄ちゃん、ご飯ですよ」「さあ、ご飯をいただきましょう」は形骸化した過去の言葉になってはいけない大きな意味を持っているのです。
 繰り返しになりますが、世界には世界の国や地域それぞれに、その自然や風土や合致し、そこに住む人々の食性にもっとも適合した、壊してはいけない食体系があります。同じように私たちの食生活は、日本人にもっとも適合した、お米を主食とする日本型食生活を基本としなければならないものであり、継承していかねばならない大切なものだと思います。


 ところが私たちは、あふれるような食べものにとりに囲まれ、一見、何不自由のない食生活を送っているように思いがちですが、大切なものを失い、大きな間違いを犯してきたように思います。この満ち足りたような食生活が果たして、日本人の私たちにとって、より充実した理想的なものになっているのかというと、決してそうではなく、とても危険で退廃的な方向に進んでいると思います。私たちの住む日本の気候風土や日本人に刷り込まれている食性とは全く異質なものになってきており、根幹とすべき伝統的な日本型食生活体系と、「身土不二」「地産地消」「旬産旬消」「自給自足」の大原則がどんどん阻害されているのです。
 今、世界が注目する日本型食体系が、日本人である私たちが認識する以上に優れたものであることは、明治の初期における人力車夫の実験で有名なドイツ人医師・ベルツを初め、国内外の多くの人たちによって証明されており、米国民の健康な命を育むための食生活指針であるアメリカのマクガバン・レポートも、日本の食生活をモデルにしたものであると言われています。果たして世界のどこ国々の人々にとってもよいことなのかどうかは知らないが、日本の健康食ブームが世界中に回転すしブームを呼んでいるといいます。
 しかし、世界がモデルとする日本の食は、現在の私たちのものでは決してありません。私たちの先人が食うや食わずの窮乏生活の中で築き上げてきた、かつての伝統的な「身土不二」と「腹八分」の日本型食生活、食体系なのです。


 どうして私たちの食生活が、最大の遺産である日本の伝統的な食生活体系と、「身土不二」「地産地消」「旬産旬消」「自給自足」の大原則を放棄し、堕落し歪められたものになっていったのか。大きな原因は5つ考えられます。
 1つは、明治の開国以来、100年以上にわたる西欧栄養学への偏重した信仰で、現在にいたっても拭い切れません。2つは、戦後のアメリカを中心とする急速な欧米型食材、食物、食風習の導入。3つは、やはり戦後意図的・政策的な栄養改善運動や学校給食を通しての欧米型食生活への煽動教育でしょう。4つは、高度経済成長にともないバブルに浮かれて、労苦を伴う生産性の低い第一次産業が軽視して食糧生産を放棄しました。そして財力に物をいわせた世界の食材と美味珍品の大量輸入、料理や食べ方の大導入です。そして5つには、簡単便利の追求、食素材の生産をやめただけでなく料理作りも簡略化。食べものの工業製品化と外部化である。
 実は、真に健康的で豊かな食生活という観点から見ると、現在の私たちの食の世界はとんでもない大混乱の真っ只中にあり、世界に誇る伝統的な食体系・食文化が崩壊寸前にあるのです。秩序を失った訳のわからない日本人の食卓を作ってしまっているのです。
 経済大国日本、豊かになった私たちの食生活は、日本の土で、日本の気候風土に合わせて作られ育てられた自分の手によるものを食べているのではなく、自然条件がまったく違った世界の各地で、世界の人たちに手によって作られ育てられた食べものを買って食べる食生活です。食べものは金で買って食べる単なるモノになってしまった感覚です。そして自分の食べるものを額に汗して自分たちの手で作ることの尊さや、生命ある食べるものを手塩にかけ丹精こめて育て上げる喜びをも忘れてしまいました。
 きわめて不安定であり、労力の割には採算の合わない農業、食糧生産を軽視することは、自らの食体系を放棄し、生命そのものの軽視に他ならないと思います。


 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 


  

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

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