山ちゃんの食べもの考

 

 

その44
 

 つい最近まで日本人は、米を中心としたその地域地域に、その季節季節に、その家庭家庭に、満たされない時には満たされないなりに、それぞれに工夫がこらされ、決してモノを粗末にすることなく、いわんや廃棄することなどなく、腹八分を旨として、代々継承されてきた伝統食を基盤とした「身土不二」の食生活が営まれてきました。
 たまの「ハレの日」には、恵みを施してくれた自然や神仏に感謝し、手作りを主体とした精一杯の「ハレ食」を家族や仲間と共に楽しんでいただく。普段の「ケの日」には質素倹約を旨とし、一汁一菜にいくつかの副菜を添えて「腹八分食」。「ハレの日」の食事と「ケの日」の食事には、きちんとしたけじめがあり、それぞれに食事の作り方にもいただき方にも規律が保たれていました。そのけじめ、規律が日本人の健康に大変良かったのです。


 「自分の住む四里四方で採れるものを腹八分に食べていれば病にかかることはない」という「身土不二」の食生活を当たり前としてきました。近くで取れる穀物や野菜を中心とした新鮮なものをいただき、また余分なものを一切加えることなく加工したり貯蔵した食べもの、それにわずかの魚貝類がベース。貴重であった調味料は自然塩とそれを使って天然醸造された生きた味噌や醤油、酢も味醂も油も砂糖も今でいう本物。だしは昆布、鰹、煮干し、椎茸、それに自然な野菜や魚からも本物の旨いだしが取れる。わずかだが、ごくたまには肉や卵、遠方から運ばれてくる珍しい食べものが加わったりする。いずれも自然の生命力豊かな食べものである。こうした先人の食生活は、四季折々にリズムと変化のある、日本人にとってもっとも理想的でバランスの取れた食体系であったです。


 食事は「腹が減ったから食う」という程度のものではなく、「この命を生かすために、食べものの生命をいただく」という厳かな儀式であり、そこには「今からいただくこの食べものの生命」に、そして「食べものを育てて下さり、あるいは捕ってきて下さり、お世話下さった多くの方々の思いと労苦」に思いを馳せ、感謝して美味しくじっくり味わう「いただきます。ごちそうさまでした」のマナーがありました。
 食べものの生命を大切に思い、食への感謝と喜びの心を把持し、人々への御恩が感じられること。そして食べものの生命と人々の真心と自分の命とが直結して一体のものとして感じられることが、よい食生活を送るための出発点であると思います。
 「今からいただこうとするこの食べものの生命」が実感できるように、また「この食べものがこの食卓に供せられるまでにお世話くださった方々の心」が感じられるように、食への考え方やあり方を見直し、心身ともに健康的なけじめと規律のある正しい食生活をとり戻さねばなりません。
 「いただきます。ごちそうさまでした」の心とマナーが本物になるように。


 なぜ「いただきます。ごちそうさまでした」の心とマナーが失われたのでしょう。それには食事における躾の問題など多くの要因があるでしょう。
 最近、子どもたちには、食べものの命も人の命も見えなくなっている、感じ取れなくなっていると、この問題を重視して「生命尊重」と「食育」への取り組みが多方面で議論されています。子どもたちが農場や牧場など食べものの生産現場に触れる体験学習や、幼稚園や学校で動物の飼育や農産物の栽培をするなど、各地で多彩な試みが行われ、素晴らしい成果を上げていると聞きます。料理実習を取り入れるところも多いようです。
 食べものや生き物の命の大切さが感じ取れなくなったのは、何も子どもたちに限ったことではありません。急激に膨れ上がった経済大国、行き過ぎた合理的で利己的なものの考え方が社会全体にはびこって来ました。いつでもなんでも不自由なく食べることができる、あり余るモノ豊かさの中にありながら、節度のない欲望は拡大し、作り手も商い手も食べ手も、より楽に、簡単に、便利に、美味しく、経済的に、見栄えよく、を限りなく追及します。その結果、食べものの本質がどんどん見失われ損なわれていき、健康な生命、健全な心から遠ざかっていっているのです。作る側にも、商う側にも、食べる側にも、大切な食べものが単なる「モノ」にしか感じ取れなくなったことが、「いただきます。ごちそうさまでした」の心とマナーを失った大きな原因ではないでしょうか。


 「人は食べることによって生かされており、食べることは生きること、食べものは生命そのもの」でした。にもかかわらず、その食べものを通して、作る側にも、商う側にも、食べる側にも、共に思い合い、喜び合い、感じ合うという共有すべき生命へ共鳴や感動の響き合いがなくなったのだとすれば、それはすでに「食べものから心を失い、生命を失ってしまった」ということになりはしないか。
 わずか50年前100年前、私たちの先人が食べていた食べものは、貧しい中にも大自然の生命が脈々と生きた本物の食べものであり、人々は節度ある食べ方をしていたのです。それに比べ私たちは、有史以来の豊かさを謳歌しながらも、日頃目にする数多の食べもののほとんどが、自然の摂理を無視し、動植物の本性が歪められた作り方をしたものであったり、粗悪な原材料に体によくないといわれる化学物質を多用した工業製品であったりで、「これこそ命の食べものだ」と感動を覚えるものが少なくなってしまった。
 「食べものを作ることは生命を育むこと」「食べものを商うことはその生命をお伝えすること」「食べものをいただくことはその命をいただき生かすこと」なのだという食べものの本質が見失われて、生命の食と呼ぶにはほど遠いものになってしまったのである。人を思いやる熱い心の通い合いこそが、魂の底から感動を呼ぶ本物の食べものを生みだすのであり、本物の食べものの生命が食べる人の生命に響いて、「いただきます、ごちそうさまでした」の心と節度ある食べ方が育まれていくのだと思う。


 人々は空腹・飢餓の歴史の中にあっても、生命維持機能である「空腹・食欲・味覚」のセンサーが正常に機能し、適切な食べものを選択し、適切な食べ方をしてきました。それぞれの食性と居住するところの気候・風土・環境にもっとも適合する食体系を作り上げてきたのです。そして理に適った自然生命の食を節度のある食べ方をすることによって生命を継承してきました。
 食べものへの喜びは生命の喜びである。額に汗して自然の恵みの食をいただくことができた。共に収穫を喜びその労を讃え合い、食の美味しさを心ゆくまで味わい楽しむ。そんな食べものの生命と感謝の喜びが明日の生命活力につながっていくというものでした。
 ところが長い歴史の中には、いく度かその生命の食の原則を逸脱して大きな悲劇を生んでいる事実もあります。驕れる時の権力者や一部の裕福な支配者が美味・飽食に明け暮れ、食に対する生命維持機能である空腹・食欲・味覚のセンサーが麻痺して、美食・飽食・乱食由来の疾病を招き、身も心も活力を失う。そして食の堕落が精神の堕落を生み、国家や民族の堕落・崩落の道をたどるという豊かさゆえの悲劇が何度か記録されています。


 私たちの国は今、いつでも食べたいものがお腹いっぱい食べられるほど豊かであるにもかかわらず(しかし世界中の人々が豊かでも満たされているわけではないのに)、満たされている幸せを実感できないでいる。
 体にそぐわない食べものや不適切な食べ方が節度なく喧伝され氾濫する。あれが旨いこれがまずいと、お腹が空いてもいないのに食べる。子どもから大人まで、甘いもの、旨いもの、好きなもの、珍しいものをと食い漁り、食の本質を失った不自然な食べものと食べ方が横行する。体に備わっていた生命維持機能のセンサーも正常に機能しなくなってしまい、ますます食が乱れる。そして1億総半病人といわれる食由来の生活習慣病に病み、健康への不安に怯える。食べものが狂い、食べ方が狂い、精神が病む。
 私たちは、自然生命の旺盛な本物の食べものをとり戻し、食べものの本当の美味しさ、楽しさを味わう力、感謝していただく食の節度と心を甦らせなければならない。それはとりもなおさず、長い苦難の歴史の中で先人たちが築き上げてきてくれた、日本の伝統食に立ち返ることに他ならないと思います。


 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 


  

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

 ◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る