山ちゃんの食べもの考

 

 

その61
 

 「一束の 稲をかついでりきむ吾子の まじめな顔が 皆を笑わす」
 これは『日本農業新聞』に紹介されていた米村美津子の詩で、山田あき編・農民歌集『稲の花』(1964)に収録されているもの。紹介者の草野比佐男氏は、次ぎのように解説している。
 「昔の村の子ども達は稲を刈る家族とともに田んぼに出た。背中に雄を乗せて飛ぶイナゴを追いかけたり、鎌を振り上げるカマキリをつついてからかったり、稲架の横木に取り付いて懸垂を試みたり、結構自分の遊びで一日を過ごした。時には大人の稲束運びを手伝おうとする。しかし、一把の稲束にもよろめいて懸命に足を踏ん張る。その様子が皆を大笑いさせる」
 私はこの詩を読んで、幼少のころの田舎暮らしを思い出し懐かしさに浸った。
 この詩に出てくる子どもさんは恐らく小学校にあがる前の男の子であろうか。両親、祖父母、子ども達も含め、一家挙げての稲刈りでああろう。

 思えば昔の子供たちが家の手伝いをするのはどこの家でも当たり前で、家の中や庭の掃除はもちろんのこと、薪割り、家畜の世話、食事の準備、草刈り、田畑の作業、藁打ち、縄綯い等々。男の子は男の子、女の子は女の子、その歳の頃に応じて出来ることをする。
 中学生ともなれば一人の労働力として扱われ頼りにもされる。学校から帰ると直ぐに田畑に向かい課せられた仕事をこなす。親子兄弟祖父母と一家中で夫々が為すべき事を為して行く。
 遊びたい盛りであるが子どもは子どもなりに、家族の一員としての役割を持ちそれを果す義務をもつ、そしてそれなりに責任が問われる。だから昔の子どもはよく叱られもした。叱られたり褒められたりしながら暮らしの中で、より正しく生きることの意味と、まじめに働くことの尊さを学んでいったと言えるかもしれない。


 次に紹介するのは「日本オーガニック検査員協会」理事長・水野葉子氏が『日本農業新聞』に寄せた文章である。
 「娘の通っている中学校は、2年生の夏に“農村体験学習”として、宮城県志波姫町の農家宅に2泊3日して農作業を体験したり、農村生活を体験するということを、この11年間行っている。今回PTAとして参加し、雄大な自然、大きな家、素晴らしく包容力のある方たちに大感激した。
 農繁期に、それも難しい年ごろの子らの受け入れは大変だろうに、行きと比べて帰りは生徒たちの表情が全体的に明らかに違って素直に見え、農村体験学習の効果を目の当たりにした。


 驚いたのは、学校で反抗的な生徒たちが農家の人たちとのお別れの時、顔をぐしゃぐしゃにして農家の人たちにすがりついて号泣したシーンだ。帰りの新幹線に乗った後も、周りの視線も気にせず泣き続け、学校から渡された弁当には見向きもせずに農家の人が作ってくれたおにぎりを、いとおしそうに食べていた。
 この子たちも家庭のぬくもりや愛情に飢えていて、寂しさ故に無意識のうちに人に注目してもらいたくて、目立つファッションや行動を取って人の注意を引こうとしているのかもしれないと帰途、考えさせられた。
 また、農家との触れ合いが農業とか農作業の大変さを知るということ以上に、いかに深い意味のあることかを身にしみて感じた。
 この子たちは、こういう体験がなかったら農業とは一生無縁で“農作物=商品”としてだけとらえ、作り手の大変さや気持ちもわからずに、食べ残しなどに関しても罪悪感を感じないまま、物を粗末に扱ったかもしれない。農作業への見方が明らかに変ったのではないかと思う。
 長い目で見たとき、多感な時期にこのような体験をさせることが、いかに日本の農業の将来にとって大切かを、ひしひしと感じるのである」


 私はこの農業体験で子どもたちが「生きる意味」を学んだのだと思う。生きる意味、生きる喜び哀しみ、生きる感動といった「かけがえのない生命への実感・体感」は理屈では教えることも習得することもできるものではない。
 知識の習得はもとより大切ではあるが、自然や動植物との触れ合いや世代を超えた肌と肌の触れあう交流のない知識偏重の教育では、物を単なる物質としてしか見ることのできない無感動人間を作る。そうした子どもたちは命の温もりや響き合いを求めていながらも、深く感じ取れるほどに報いられることもなく、あきらめに似た心は冷やかに乾き切っておりとても淋しいのである。
 豊かな感性や命を思いやる優しい心を養う場は日常生活そのものの中にある。町にも村にも子供たちがのびやかに遊んだり家の仕事を手伝ったりという姿を見ることは少ない。子どもたちも社会を構成するなくてはならない一人前の人格者として、共に責任と義務を果しながら生きていく日常生活の場こそ人間教育の場なのである。
 ご飯にもパンにも刺身にも、焼肉、目玉焼き、牛乳、フライドチキン、バナナ、ミカン、さつまいも、ハンバーグにも、単にお金で買うモノとしてではなく、そこに人の心の思いや温もり、働きやご苦労、いろんな生活の営みが感じ取れること。動植物の命と共に他人の命、自分の命が感じとれる豊かな人間性を養うことこそが教育の本源であろう。
 そのためにも子ども達には、もっともっと自然や動植物との触れ合いや額に汗を流して働く体験が必要なのではないかと思う。


 子どもたちに地域の自然や農業、良い食を伝えることはとても大事なことで、全国いくつかの学校では先生たちが父兄とともにや地域の農家の協力を得て子どもたちへの「食育」に取り組んでいる。
 生徒数120人の三重県員弁郡、大安町立丹生川小学校の場合を、農文協刊『自然と人間を結ぶ』(2002年3が都合)より抜粋要約してご紹介します。
 小林由樹校長は、今年の春から導入された「総合的な学習の時間」に「地域の自然や農業、文化を徹底的に生かすこと」と「地域の人材を有効に活用すること」を打ち出しました。
 学校の周囲には田畑の残る農村地域で、史跡や祭り、郷土文化も豊富にある。小林校長はこれらを題材、教材にした体験活動を通して、子供たちがふるさとの良さを発見し、新しい自分発見、生き方発見のきっかけづくりを考えた。


 まず、第一は栽培から食べるまでの一貫した食農教育への取り組みである。学校の裏に5アールほどの「チャレンジ農園」があり、1年生から6年生までが、季節の野菜、大豆、小豆、麦、サトウキビ、コンニャク芋などを栽培する。
 また借りた田んぼで米も栽培する。収穫した食べものは自分たちで調理して食べるという一貫した食農教育である。サトウキビは茎を絞り砂糖づくりをし、それを使ってのお菓子作りまでする。こんにゃくも自分たちで作る。大豆や小麦を石臼で引き、自分たちの作ったモチ米できな粉もちを作る。手打ちうどんも作ってみんなで味わう。小林校長は「作物は、一定期間頑張らないと実らないし、食べ物を加工するにも知恵や工夫が必要で、地域の人たちの助けを借りながら学ぶことが色々ある」と。


 一年生の生活科は「自然と人々とのふれあい」がテーマ。四季折々に地域のなかに出かけて行き、季節の訪れを感じる昆虫や植物などを発見、観察する。また大豆やさつまいもを栽培する。子どもたちは野原や土手で見つけた自然の素材や農産物を使って、季節ごとに昔ながらのお菓子作りの挑戦する。
 お年寄りから、お菓子作りを教わるほか、昔の生活や健康についての考え方などについて話しを聞く。子どもたちは自分たちのおやつや食生活を見直すきっかけとなる。もうお母さん達も作らなくなった“よもぎだんご”や“いばらもち”など、昔のおやつ作りにはお婆ちゃんたちはいちばんの先生で、子どもたちは目を丸くして驚き、真剣に耳を傾ける。


 この総合学習の時間を重ねていくうちに、話す力、聞く力、あらゆる周囲の人たちとコミュニケーションする力がついてくるという。
 秋には、子供たちが吊るし柿の作り方を家の人から聞いてくる。それをみんなの前で発表する。先生がみんなの意見をまとめる。校長先生が農家に出向いてシブ柿を分けてもらってくる。シブ柿を知らない子供たちがいるから皆ちょっとなめてみてその渋さに驚く。このシブ柿が皮をむいて2週間ほど干しておくだけで甘くなっていく。子どもたちは実感としてそんな自然の不思議な力を学ぶ。


 5年生になると、バケツ稲で世界のコメや古代米を育てる。6年生になると、地域に住む外国人を招いて、各国の料理教室を開く。食を窓口にして世界に目を向け、関わりを学ぶ。
 11月の収穫祭には全校挙げて地域の人たちや保育園児を招き、自分たちで作ったお菓子やおこわを一緒に食べ、ふれあいをさらに深める。
 小林校長は「私が“食”にこだわるのは、食べるものから生かされていることを実感する、そんな人間教育ができるのではと思っているからです、丹生川小学校から来た子は、積極性がある、意欲がある、と中学校の先生から言われてうれしかった。総合教育の成果だと思う」と。












 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。


  

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

 

◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る