山ちゃんの食べもの考

 

 

その30
 

 『日本農業新聞』(10月2日)にうれしいニュース。「コンビニエンスストアのセブンーイレブン・ジャパンは、2日から全国8800店で保存料・合成着色料を完全に排除した米飯などのオリジナル商品(150品目)を販売する。健康志向に対応し保存料・合成着色料を排除したオリジナル商品への切り替えを進めてきた。8月から新しいチルド商品(調理パン、惣菜、調理麺)、9月から米飯商品を順次発売し、2日に切り替えを完了する」。

 

 「山ちゃんの食べもの考 その26」で同じ日本農業新聞より、東京・自由ヶ丘に7月オープンした“健康コンビニエンスストア”ナチュラル・ローソンのニュースをお伝えした。“野菜と穀物こそが健康に役立つ”、健康食品やビタミン剤だけでは健康な食生活はおくれない。「コンビニが現代の生活に浸透した結果、不規則な食生活を支えているといった認識を変えたかった」と、ローソンの小坂さんが語っている。

ナチュラル・ローソンにしろセブン−イレブンにしろ、経営者や従業員が自らの商いの在り方に良心を痛めていたのであろう。“商いとは人間業、商人である前に、人間であれ!”とかって恩師の故・竹本幸之祐先生から教えられたが、今度のセブン−エレブンの決定も、私たちにはありがたい心温まる人間的英断である。

 “何が体にとっていい食べものなのか”全く選択眼を持たない食べ盛り、育ち盛りの子供たちが、朝夕のコンビニエンスストアを賑わせている。“食べものは身心を育むもの=つまり体と精神を形成するもの”。私は彼らや彼女らの危ない買い食いに大きな危惧を感じている。何はともあれ日本の1、bQのコンビニエンスストアが“良い食べもの”販売へと一歩を踏み出してくれたことは食の業界に一つの波紋となり、良い食べものを推進する力となることだろう。

 

 「山ちゃんの食べもの考その26」から前回の「その29」まで、山田博士著『危ないコンビニ食』の指摘を中心に、私たちがあまりにも安易に「簡単・便利・おいしさ・安さ・豊かさ」を追い求めてきた結果、もっとも大事なものを失ってきてしまったと記した。その失ったものは“人を思いやる心”です。

 現代の危ぶまれる数々の食べものは、作る人の心、商う人の心、食べる人の心。関わるすべての人の乱れた心の総和が現われたものなのです。よい食べものであるためには一粒の米、一滴の醤油、一枚のビスケット、一箇のリンゴに人の命や思いが感じられること。作り手には商い手や食べ手への感謝と思いやる人の心、商い手には作り手や食べ手への感謝と人の心を生かす心、食べ手には作り手と商い手への感謝と人の思いをいただく心、心と心が感動的にビンビンと伝わってくるものでないと成り立ちません。

 自分さえよければいい、儲かればいいというエゴの世界では、損得が優先して人間らしい心や思いはナンセンスなのでしょう。一見、快適・便利、モノ豊かで平和な社会のようでありながら、これまでもいくつか述べてきたように、モットモットと求めてやまない欲望を剥き出しにした餓鬼の心が渦巻く、現代版地獄世界が生み出したものとでも言いたくなる食べものが多いのです。

 

 選択眼を持たないのは子どもたちばかりではありません。スーパーやコンビニの売れ筋(=買い筋)に食べものを選ぶ大人の意識や選択眼が如実に表れています。世界に誇る伝統的な日本型食生活のための商品筋は、だんだん片隅に追いやられています。街角に立つ自動販売機の飲みものにも、まずお勧めできるものはありません。先日能登を一回りしてきましたが、能登の天然塩をはじめ何点か合点のいくもの以外は、せっかくの地場産品を殺した加工食品になっていました。それでも観光土産品店では旅行者らしき人達が平気(?)で買っています。

 改めてお断りしておきますが、私は決して化学肥料や農薬、あるいは食品添加物などの使用を全て否定するものではありません。科学的知識や技術向上とその活用のお陰で計り知れない多くの恩恵に浴していることは言うまでもないことです。大切なのは消費者も含めて食に関わる人々の良心です。食べものを作ったり商ったり食べたりする上で、“人を思いやる良心”を欠いてしまったのでは、その科学も技術も悪魔の手に剣を握らせ、食べものも命も委ねてしまっているのと同じことです。しかし、現実には悪魔はいないのです。知らずしらずの内にエゴが生み出した現代社会の歪みなのです。そしてそのことに気づいていないのです。

 一方で今日の食の乱れを憂い、人様の健康な命を思いやってよい食べもの作りに精魂込め、日夜努力される方々も多くおられるのです。しかし食べ手である消費者の一人でも多くが正しい選択眼を持って、決して経済的に報いられることの多くない、良心的な作り手や商い手を支えて行かない限り、良い食べ物は育たないのです。

 

 良い食べものの選び方については、これまで何回か述べてきました。しかし考えてみて下さい。何をどのように使いどのように作っているかは、作り手がいちばん知っているのです。というより作り手しかわかりません。私たちが普段食べているものの何一つとして明らかではありません。有名な○○会社のものだからとか、皆も食べているからとか、テレビで言っていたなど、ほとんど根拠のないものです。

 無農薬で家庭菜園などされた経験のある方ならおわかりでしょう。あなたの作った物はまともに売り物になると思われますか。スーパーで選んできたそのダイコン、そのリンゴ、そのすき焼き肉が、どこで誰がどのような思いを持って、何を使いどのようにして作られ育てられものか知る術もありません。

 まず第一に、最低限店頭の表示や加工食品の原材料表示ラベルを見ることです。かしこい消費者になるためには小さな食品添加物事典ぐらいはご用意ください。大きい有名なメーカーだからとか産地だからといって安易に安心しないで下さい。小さいからといって良いわけではありません。何度も述べているように農薬や添加物の安全性や毒性の問題だけではありません、一方で何も使わない、あるいはそんなに使われていないのに、なぜ一方ではそんなに使われるのか、その見えない部分に大きな問題があるのです。

 前々回の醤油の例、前回のハム・ソーセージの例からもおわかりでしょう。ナチュラル・ローソンやセブン・エレブンの動きからもわかるように、いけないものはいけないとわかっていながら、食べものの世界は堕落してきているのです。

 

 食べものは自然の恵みです。同じ農産物でも土地柄によって違います。北海道に次いで長崎がジャガイモの産地ですが、採れる時期も品質的にも全く違います。地域により気候風土の違いのよって、米でも野菜でも果物でも採れる時期も外観や内容も違います。人間でも北海道と沖縄、関東と関西、北陸と東海、山育ちと海育ちでは違いますよね。土地柄といいます。違うのが自然であり当たり前なのに、年がら年中どこの場所においても同じ物を求めること、何でもあることに不自然さを感じていないことが問題なのです。実は豊富で便利であるという“何でも有り”の歪な不自然さがもたらす食の世界が、多くの食源病や生活習慣病を引き起こしていると言われています。

 「身土不二」と言われますが、なんでも豊富にあればいいというものではなく、健康に暮らしていくには、日本の百歳長寿者に見るように、その土地で採れた米を主食にしっかり食べる食体系であること。ご飯をベースに穀物と豆類に、季節の野菜や果物、小魚や海草、少々の肉類のある日本型食生活をおいしく楽しむ、食べる。

 可能な限り地元で出来た季節のものがいちばん体のリズムにもあっています。いわんや自給率をドンドン下げてまで、外国の食べものを競って輸入し、何でもたくさん食べればいいというものではない。どこの誰が食べるかもわからない物を作ったり、どこの誰がどのように作ったかわからない物を食べたりしなくても、地域でお互いの心が通じ合う食べものを作り、食べるのが食の基本です。

 学校の子どもたちにも栄養の豊かな安心できる地元の食べものを味わってもらうようでないと、生きた命の教育はできないのです。その地域で作った旬のものや産物であれば、余分な費用もかからない。自分たちの身内や仲間に食べさせるのに、必要以上の農薬も添加物も必要ないでしょう。そこには食を通して“お互いを思いやる心”“命を大切に思う心”が培われ、健康な体と共に健康な精神が養われていくのである。

 地域の旬の産物を中心に生産、流通、消費の輪を創り上げていくこと。身内同士が信頼の置けないようでは話にならないでしょう。これまでは有機栽培だとか無農薬など、良い食べものづくりに取り組む人達は、“変人扱いされ、村八分扱い”にされてきましたが、これからは欲の皮の突っ張ったけしからん奴こそ“村八分”にすればいいのです。

 

 健康志向とか本物志向のブームに乗って、「有機」という言葉が一人歩きし、とんでもないニセモノが横行しました。法律によって国の認めた第三者認証機関によって認定されたもの以外は、「有機」という表示で販売してはならないことになりました。日本の気候風土の中で有機栽培の認定を受けることは想像以上に大変なことで、認定を受けた方々には心から敬意を表します。このことで日本の農産物やその加工食品が高く評価され、良い食べものづくりが大きく促進されることを期待します。有機表示も良い食べもの選びの大きな目印です。しかし、今後3〜5年を経過しても、日本の有機表示の農産物は5%にも満たないことでしょう。それほど困難なことなのです。

 一方「有機」表示されないもの(私たちが食べているもののほとんどです)にも、食べものとしてすばらしい物はたくさんあります。化学肥料や農薬、あるいは食品添加物等を少々使用してはいるが実においしくて良心的な食べものです。

 食べものの表示に使用する原材料や副材はほとんどが自己申告です。厳密な化学分析をすればともかく、法的に義務付けられたものでない限りは、一般的に都合の悪いことは表に出てきません。有機やオーガニックの表示は作られ方についての認証表示であって、食べものとしての品質保証ではありません。

 “食べものはその人柄の現われ=作品”です。実は、食べものは表示されない部分や見えない部分が大事です。私はこれまで食べものを通してたくさんの方々と出会ってきました。作る人、商う人、食べる人。良い食べものに共通するのは、良い人柄によって作られ、商われ、良い人柄によって食べられ、支えられているという人柄の見える関係でつながっています。

 食べものはお料理と同じで、作り手の心そのものですから、それ以上にはなりません。化学物質を使うとか昔ながらのやり方だとか、いわんや学歴がどうのということ以前の問題です。「食べものは人柄で選ぶこと」です。大きなメーカーであってもその食べものには必ず人柄、社柄が現われています。そういう観点でいろんな商品を見比べてください。人間と同じでどんなに着飾りどんな美辞麗句を吐こうとも、商品の表情に必ず現われているのです。

 

 “商いもまた人柄”です。感動の伝わってこない商いは本物とは言えません。店員さんの簡単な挨拶やしぐさに、商人としての優しさや温かさ、人間的な感動が味わえないようだったら、その店はよい物は集まらないし扱えないでしょう。良い食べものを扱う人には、良い作り手と良い食べ手との間に在って、つなぎ手として人間的に触れ合い通じ合う喜びがあるはずです。良い食べものは良い人柄の商い人によってしか生きてきません。

 一度食べて買い手の立場から離れて、そのお店のその商品の扱い方並べ方売り方を見てください。もしあなたが精魂込め丹念に育て上げたその作り手であったとしたら、とても嬉しくなるような取り扱い方ですか。商い手の心が見えてくるものです。だから本当に良い食べもの作りをする方々は、売れればいい、買ってくれればお客さんだという平易な発想をしていません。

 真にお客様の健康な暮らしを思うお店なら、店内に“癒されるような優しさ”が漂っているはずです。商品に対する扱いが温かく感じられるでしょう。表示の一つひとつにも心温まる親切が感じられるものです。良い食べものとは高級品ではありません。ごく普通の見慣れた普段の食材ですが、大切に作りあげられた方からのお預かり物であり、大切なお客様からのお預かりものなのです。そこにウソイツワリのない、真実の商いへの真心が込められているや否やです。大きい店、商品がたくさんある店、安い店がいいのではありません。あなたのことを本気で考えてくれる店が良い店なのです。

 

 「お客様のお陰で」と口では言いながら、「店は客によって育てられているもの」という感覚を持った商人は案外少ないものです。それはお客様を個人として見ていないからです。どんな客層を狙うとか、客筋がいいとか悪いとか、十把ひとからげ的な捉え方です。なんぼ売れたか儲かったかが大切で、あの方に喜ばれたかお役に立てたかの感性は希薄です。お店が大きくなり支店もたくさん出来て会社が大きくなると、経営者や物事を決め指示命令を出す幹部の人達は、もうお客様の顔が見えない遠い距離にいます。何千人何万人の買い物客を対象に商行為の成果を数字で判断します。お客様個々人の感情とは大きなズレが生じてきます。お客様が何を買い、いくらなら反応するか、どのような売り方ならもっとも効率がよいかなどはシビアに捉えます。だから無機質な表情や挨拶応答しかできない店員と売り方で、客も無表情で面白くもなさそうに売り場を買いまわっています。

 「お客様のお役に立ちたい、お客様あっての店だ」と考える経営者や幹部は、「店はお客様のもの、お客様からお預かりした店をご満足いただけように守る」のが自分たちの仕事という感覚を持っています。だからお客様との距離が離れることをもっとも恐れます。あなたのお役に立つためには、まずあなたのことをよく知らねばなりません。あなたの側に行ってあなたの考えを謙虚に教わり、あなたのために積極的に提案します。経営者自らがお客様に話しかけ耳を傾けるお店は、店員の方から笑顔でお客様に話しかける光景があります。何千人のお客様があろうとも、たった一人のあなたのためにすぐ行動してくれます。

 良いお店は、客から遠く離れた頭のいい経営者や幹部の考えた店ではなく、経営者からアルバイトに至るまでが「店は客のためにあり」の考えで、一人ひとりのお客様の声を聞きながら育て上げていっている生きた店です。「私の店よ」という身内感覚で、お客様がお店を大事に育てていくのです。信頼関係で良い商品も育っていきます。良い商い人の人柄、店柄を見極める心の目を持つことが、良い食べものを選ぶ大きな決め手になります。

 

 「類は類を呼ぶ」「類は友を呼ぶ」とか「類をもって集まる」といいますが、お客様に対する態度の悪いところは、仕入先への態度も悪いものです。友人から「母が松茸を買いに行ったら2本入れ3本入れのパックしかなく、1本だけ欲しいと頼んだところ無愛想に断られた、憤慨して他店から買ってきた」と。多くの方に話すに違いない。一つの間抜け(真心抜け)な行為が何人のお客様を失うことになるだろう。かなりいいお店なのだが最近良い評判は聞かない。

 案の定、あらかじめアポイントを取り、わざわざ大阪から訪ねてきた業者に「忙しくて手が離せない」と立ち話もろくにしてくれなかったという。大きい宝をドブに捨てているのと同じだ。私はその店員の態度は、「親方の心の影が現われたのだ」と言って情けなく思ったものである。仕入先に対して「買ってやる」の傲慢な態度だ。生産者や仕入先に態度の悪い店に良い物が集まるわけがない。

 物はお金で買えるものではない。良い生産者や良い仕入先、良い商品とめぐり会うことは一面、良いお客様とめぐり会うよりも難しいことなのだ。良い商品や良い情報、良い支援があって始めて良い商いができ、良いお客様に喜ばれることになる。少し売れて来たり大きくなったり名が売れてくると、わが力のように思いあがって納入業者を下に見てなめてかかる。

 「類は類を呼ぶ」商売も人柄を超えることはできない。

 昔、仕入先の大先輩から教わったことがある。「若い社員が喜んで配達に行く店は必ず良くなる、弱い立場の人間が嫌う会社は繁盛できない」と。

 

 


 

ごらんいただいたことを大変ありがたく感謝します。

 

生命の農と食を考える
L A F 健農健食研究所 ラフ
L ife A griculture F oods

FAX :076-223-2005
mail :m.ikeda@ninus.ocn.ne.jp

池田 優

 

 

 ◎ ご意見、ご教示はこちらまで    掲示板も御座います。是非ご利用下さい。→ 掲示板

最新号へ戻る